58 『いいですか、落ち着いてよく聞いてください』
「おおぅあ…」「ええ…いぉ」「…うあぉう」
「いいうぁ…」「あぅあぅぁ………」「おあ…あぉ」
地獄の釜の蓋が、開いた。
それに酷似した光景が、広がっていた。
其処彼処で上がる呻き声は、原寸大の亡者の嘆きだ。
しかし、不快を煮詰めたその声を発していたのは、まだ生きているヒトだった。
男もいた。女もいた。子供も、お年寄りもいた。
なのに、老若男女の区別なく、それらの声は濁った音で響き、澱となる。
僅かな体温すら感じさせないそれらの声は底冷えをしていて、凡そ哺乳類の声帯から漏れ出た音では、なかった。
それらの熱のない声が秋口の爽快な涼風と綯い交ぜになり、ワタシたちの元に届けられ、露出した地肌からの侵食を試みる。
「…………」
混濁した声を発していた全員の瞳が、余すところなくくすんでいた。例外なく虚ろだった。爛漫とした瞳は、そこには一つもない。動きも緩慢で、そこに個々の意思は感じられない。動く亡骸と表現しても、差し障りはどこにもなかった。
ただ、周囲にいた全ての人間がそうなっていたわけではなかった。何の影響も受けていない人たちもそれなりにいた。比率でいえば半々くらいだっただろうか。
しかし、全員が言葉を失っていた。何の前触れもなく隣人がそんな前後不覚に陥れば、呆然となるのも当然だ。
「リリスちゃん…リリスちゃん!」
ワタシは、リリスちゃんにだけ呼びかけていた。他の人たちを気にかけられるだけの余裕なんて、なかったからだ。
「リリスちゃ…ん?」
『耳元でぎゃあぎゃあと五月蠅いですよ、先生…発情期ですかねぇ、コノヤロー』
「リリスちゃん…気がついたんだね」
『別に、気を失っていたわけではないんですけれどねぇ…ちょっと痛みで喋れなかっただけで』
満面のしかめっ面で返答しながら、今もリリスちゃんは右手で額の上の辺りを押さえていた。
「リリスちゃん…そこが痛いんだね」
ワタシも、リリスちゃんの前頭部に触れた。手当てという言葉の語源は、文字通り患部に手を当てることだ。そうすることで痛みを和らげられると、昔の人は信じていた。だから、『手当て』という言葉が生まれたのは必然だ。ワタシたち人間が獲得した、原初の治療法だ。
「気休めにも骨休めにもならないかもしれないけど…」
本当に効果があるかどうかは知らない。根拠なんてどこにもない。
それでも、ワタシは、リリスちゃんの頭に触れ続けた。
けど、これって完全に迷信ってわけでもないよね。自分だけじゃなくて、ダレカに触れてもらうことでも痛みはマシになるんだよ。
だって、ワタシのおばあちゃんは、よく、ワタシにそうしてくれていたんだ!
「…………」
…あれ?
今、ワタシ、おばあちゃんのこと、思い出した?
失くしたはずのおばあちゃんの記憶が、また、帰ってきた。
しかし、それは一瞬だけだった。
そして、思い出せたのもその場面の断片だけだ。
おばあちゃんの顔も思い出せず、記憶は泡沫のように霞んで溶けた。
それでも、分かる。顔が見えなくても、分かる。あれは、ワタシのおばあちゃんだ。
ワタシが痛みで苦しんでいた時、おばあちゃんが、ワタシの痛いところに触れてくれていた。
「だから、今度はワタシの番なんだ」
ワタシは、両手でリリスちゃんに触れる。
その両手には、たっぷりの念を込めた。
おばあちゃんが、ワタシにそうしてくれたように。
『…さっきから本当に声が大きいんですよ、先生』
リリスちゃんの声は、か細かった。普段の憎まれ口の何分の一の声量だろうか。それでも、リリスちゃんの声はワタシに届いている。だから、ワタシとリリスちゃんはつながっている。ワタシたちは途切れてなんか、いない。途切れさせたり、するものか。
「大丈夫…リリスちゃん?」
『ええ、この痛みを先生にも分けてあげたいくらいですよ…』
「…それ、割りと大丈夫じゃないってことだよね?」
でも、そんな軽口が言えるくらいの余裕は戻ってきたってことだね。ワタシは、軽く安堵の息を吐いた。
「他の人たちも、おかしなことになってるね…」
リリスちゃんに触れながら、ワタシは周囲を見渡した。地獄絵図は、先ほどとは変わっていない。寧ろ、何の影響もなかった人たちが周囲の異変に騒ぎ始め、地獄の部分がより鮮明に深掘りされている。
当然だ。そりゃ、怖いよ。
誰だって、日常を壊されることが一番、怖いんだ。
あって当たり前のものが唐突に奪われて、それらが二度と戻らない。
塗り替えられた日常は、どれだけ手を伸ばしても元通りにはならない。
それが、怖くないはずがない。
失くしたくないから、日常なんだ。
求めた先にあるのが、日常なんだ。
『多分…リリスちゃんと同じようにこの波長の影響を受けているのでしょうね』
リリスちゃんは、そこで一瞬だけ眉を顰めた。また痛みがぶり返したのかもしれないが、痛そうな表情を見せたのはそれが最後だった。
「リリスちゃんと同じ影響…その波長に操られてるってことだね」
『そうです。リリスちゃんはその波長に抵抗しているから、こんな痛みを感じてるんでしょうね。適当に体を明け渡した方が無駄な痛みも感じなくていいのかもしれませんが…顔も見せないような不躾な相手に体を乗っ取られるくらいなら、紐なしバンジーか先生の召し使いにでもなった方がマシですね』
「…それ、ワタシは喜んでもいいのかな」
紐なしのバンジーは身投げって言うんだよ?
ワタシの召し使いはそれと同列なの?
『いいですか、落ち着いてよく聞いてください。先生はリリスちゃんになめられているのです』
「落ち着いてから聞かせる話じゃないよね!?」
というか、リリスちゃんから敬意なんて感じたことないからね?
寧ろ気付かれてないと思ってたのかな?
けど、そんな無駄口を叩けるくらいにはリリスちゃんも余裕が戻ってきたということだ。
そして、周囲の人たちも元に戻り始めていた。それまでは亡者のような曇った瞳で呻き声を上げていたが、その瞳にも光が戻る。戻った本人よりも、その隣りにいた人たちの方が狐につままれたような表情をしていたけれど。
「とりあえず、一過性のものだったみたいだね」
前に見たあの母親もゾンビのように虚ろになっていたけれど、しばらくすれば元に戻っていた。
…けど、本当になんだろうか、この『現象』は。
『あの波長…少しずつ強くなっているんですよね』
そう言ったリリスちゃんの声は、低音だった。さっきまで中身のない戯言を口にしていた声とは、まるで違っていた。
「どういうことなの…リリスちゃん?」
だから、ワタシもスイッチを切り替える。
『あの波長はこれまでにも何度かありましたけど、最初はそこまで強くなかったんですよ。以前この体が乗っ取られた時は、この体がリリスちゃんの元を離れていたから簡単に操れられてしまったんですけれど、それ以外の時はこの体の主導権は一度も渡しませんでした…だけど、少しずつ少しずつ、その波長が強くなってきてるんです。今は、少し危なかったですよ』
「…波長の規模が、大きくなってるってこと?」
『もしくは、波長のコントロールの練度が上がっている…ということでしょうか』
リリスちゃんは、俯き加減で呟く。
「そんな…一体、誰が、そんなことを?」
ワタシのリリスちゃんに、何の恨みがあるんだ?
…これ以上の無粋な狼藉は、ワタシだって許さないよ。
『分かりません…人間のやることなんて、リリスちゃんには分かりませんよ』
リリスちゃんは、吐き捨てるように言った。
それは、人間を見限ったと言っているようにも聞こえた。
だから、ワタシはリリスちゃんの手を握る。
リリスちゃんとのつながりは、途切れさせない。
このつながりは、ワタシとリリスちゃん二人のものだ。
誰にも、穢させたりするものか。
『なんですか、先生?』
無言で手をつなぐワタシに、リリスちゃんは不思議そうな表情を浮かべていた。
「リリスちゃん…リリスちゃんは、ワタシの友達なんだ」
『…そうですか』
「だから、リリスちゃんのことは、ワタシが守るんだ」
『弱いじゃないですか、先生は…』
「弱いよ、弱虫だよ…しかも泣き虫なんだ」
『胸を張って言うことじゃないですけどね』
「けどね、弱虫を言い訳にして友達を見捨てたりしたら…ワタシはこの先、ずっと泣き続けることになるんだ」
ワタシは、ほんのりと力を入れてりりすちゃんの手を握る。
そして、伝える。思いの丈を有りっ丈。
「泣き虫にだって、泣き虫のプライドがあるんだ…本気で後悔する泣き方だけは、したくないんだよ」
『泣き虫にプライドなんてあるんですかねぇ…』
リリスちゃんは小さく肩を揺すり、笑っていた。とりあえず、ワタシの想いは伝わった。
『まあ、先生の言いたいことは分かりましたよ。だけど、とりあえず今日は戻ります。ちょっと今のリリスちゃんは絶不調ですのでねぇ』
「あ、それならワタシが送っていくよ」
リリスちゃんが不調なのは本当だ。軽口も憎まれ口も叩いてるけど、その表情にはそこまで余裕があるわけでもない。しかし、リリスちゃんはワタシの申し出を断った。
『そうですねぇ…でも、けっこうですよ』
「え…なんで?」
本当に、なんで?
さっきまで本気で苦しんでたよね?
『あの人も先生に用事があるようですよ』
驚くワタシに、リリスちゃんはそう言った。そして、その視線でワタシを誘導する。ワタシは、その誘導に素直に従った。
そして、その誘導された先にいた人物を見て、ワタシは小さく呟いた。
「ジン…さん?」
センザキグループの代表である、ジン・センザキさんだった。
けど、なぜここに?
もう退院したの?
ちょっと前まで危篤状態だったよね?
…やったのはあのディーズ・カルガだけど。
しかも、動機は神のお告げなんだよね。
「おや、花子さんか…どうしてここに君がいるんだい?」
向こうも、ワタシとこの場所で鉢合わせるとは思っていなかったようだ。驚きがそのまま声に出ていた。
しかし、今日のジンさんはスポーティなジーンズのようなパンツ姿で、上も薄手のシャツ一枚という模範的な軽装だった。とても、大企業の代表といった出で立ちではない。
そんなジンさんに、ワタシは言った。
「ワタシは…ただの偶然ですけれど」
他に言いようがなかったので、素直にそう説明した。
「そうか…まあ、私も似たようなものだけれど」
ジンもワタシと同様だと口にしたけれど、どこか奥歯に物が挟まった物言いだった。そこで、全員が口を閉ざした。時はそこで止まり、何も起こらない。その沈黙を破ったのは、リリスちゃんだった。
『じゃあ、先生…リリスちゃんはこれで行きますねぇ』
「え、行くって…ワタシも一緒に行くよ?」
一人で帰ろうとしていたリリスちゃんに、ワタシは見送りを申し出た。さっきまで朦朧としていたリリスちゃんを、ここで一人にできるわけがないのだ。
『いえ、一人で大丈夫ですねぇ。それより、そっちの人が先生に話があるようですよ?』
リリスちゃんは、そこで意味深な瞳をジンさんに向けていた。
ジン・センザキさんも、その瞳を真っ向から受け止めていた。
お互いに何か言いたいことがあったようにも思えるが、その瞳が代わりに物語っていた。そして、両者の間で何らかの取り決めがなされたように感じられた。
だからといって、ワタシにリリスちゃんをほったらかしにできるはずもないのだけれど。
「でも、リリスちゃん…」
『今は、リリスちゃんのことよりもそっちの人の話を聞いてあげてください。結果的には、それがリリスちゃんのためにもなりそうですしねぇ』
リリスちゃんは突っぱねるようでもあり、ワタシに何かを託すようでもあった。
…確かに、リリスちゃんのためには、なりそうな気はする。
ここで、センザキグループの代表であるジンさんと出くわしたことは。
「リリスちゃん…本当に、いいの?」
一人で、さみしくないの?
ワタシは、一人だとさみしいよ?
『平気ですよ。先生のように耄碌しているわけではありませんからねぇ』
「ワタシだってしてないよ!?」
最後に、リリスちゃんは辛辣な言葉を残して去っていったけれど、あれはリリスちゃんなりの激励だ。
…激励、だよね?
「お友達はいいのかい、花子さん」
ジンさんは、リリスちゃんの背中が小さくなってからそう言った。
「ええ…いえ、本当はあんまりよくないんですけれど」
でも、リリスちゃんはこっちに集中して欲しいようだった。
ジンさんが出張ってきたということは、この件はリリスちゃんと無関係とも思えない。
だから、ジンさんと出会ったのは、偶然であり僥倖…かもしれない。
「それで、ジンさんはワタシに話があるんですか?」
確信を持ちながら、ワタシは問いかける。
「そうだね…できることなら、花子さんにも力を貸して欲しいってところかな」
「ワタシの力…ですか」
「ほら、よく言うだろ。猫の手も借りたいって」
「…言いますけど、それを本人に言うのは配慮が足りないと思います」
言っちゃってるからね、戦力外だけどって。
…というか、ワタシの周りってワタシのことなめてるヤツばっかりだね!?
ワタシは、小さく息を吸ってからジンさんに話しかけた。
「でも、そうなるとやっぱりさっきのアレは…」
「ああ、花子さんも見たんだね。ということは、花子さんは影響されなかったってことか…けど、さっきのお友達は影響を受けちゃったんだね」
ジンさんは、ワタシの返答やさっきのリリスちゃんとのやり取りを見ただけで事情を察していた。
「じゃあ、アレが…」
ワタシは、その先の言葉を口にするのを躊躇ってしまった。
だから、ジンさんが代わりに口にする。
「そう、あれがセンザキグループの『世界征服』だ」
ワタシとジンさんの間を、やけに爽やかな風が吹き抜けていった。
人間たちのいざこざなんてものには、素知らぬ顔をしたままで。
そして、ワタシはそこで気付いた。
いや、遅蒔きながらに気がついた。
…いつの間にか、ディーズ・カルガが、いなくなっていたということに。
ディーズ・カルガは、こう言っていた。『リリスちゃんを復活させれば、リリスちゃんが死ぬ』と。
…真っ向から矛盾するこの言葉の意味を、聞きそびれてしまった。
なら、リリスちゃん本人に聞けばいいだけなのだが。
そのリリスちゃんも、いなくなってしまっていた。
「…………」
そして。
この日を境に、ワタシは、リリスちゃんと会えなくなった。