56 『この肉巻きおにぎりを作ったのは誰だあっ!?』
『調和こそが、世界の安寧に必要な土台なのです』
彼女が口を開いた。濃密に凝縮された空気が張りつめる中で。
貞淑なその声は、室内を淡く清める。
沈黙を余儀なくされていた。彼女以外のワタシたち全員が。
今、この空間の手綱を握っていたのは、タタン・ロンドさんだ。
『崩壊とは、調和を保てなくなった先に起こる必然の終焉です』
終わりを語りながら、ロンドさんは平穏を絵に描いたような微笑みを浮かべていた。
おそらく、この人は何度もその終焉とやらを越えてきた。
だから、終焉程度では今さら物怖じなんてしない。
ワタシのような怖がりからすれば、それは、感覚の麻痺と紙一重に思えてしまうのだけれど。
「…調和さえ保っていれば、崩壊は起こらない、ということですか」
ワタシは、そこで口を挟んだ。
この重くるしい雰囲気に耐え切れなくなったから、だったけれど。
『そうですね。私の経験上、なんとかしようと変に悪足掻きをすれば余計な深みに嵌まることが多いのですよ』
「…悪足掻きをすれば、ですか」
しかも、何世紀も跨いで生きているこの人の経験上、ときた。
しかし、誰だって、終わりなんて迎えたくはない。
今この瞬間に死んでもいいと思える人は、きっと、ほんの一握りだ。
心残りなんて、あって当然だ。いや、あって必然だ。
二度目の人生をもらった『転生者』のワタシでさえ、心残りなんて山ほど抱えている。
まだまだ美味しいものを食べたい。
みんなで海にも行ってみたい。
…ワタシだって、いつかは、お嫁さんになってみたい。
「…………」
きっと、それはみんな同じで、『転生者』でも普通の人でも変らない。
だから、最後の最後まで、人は悪足掻きをする。それが、ただの空騒ぎにしかならないと分かっていても。
そうやって、人の歴史はここまで継続してきた。終焉に対して物わかりのいいお利口さんばかりだったら、ここまで複雑で粗雑な文明が発展することもなかったはずだ。
『ええ、調和に必要なのは、シンプルさです。奇を衒ったアイデアではバランスの崩壊を引き起こし、結果的に寿命を縮めることになるのですよ』
「でも、ロンドさん…」
『憶えておいてください、花子さん。肉巻きおにぎりの中にパイナップルを入れても、味のバランス崩壊を引き起こすだけなのです』
「…………ん?」
…んん??
『びっくりするくらい理不尽に怒られましたよ。『この肉巻きおにぎりを作ったのは誰だあっ!?』って』
「…至高の食通にでも食べさせたんですか?」
理不尽というのなら、そんなパイナップル入りの肉巻きおにぎりを食べさせられた方が理不尽なのでは?
『ですが、パイナップルはお肉をやわらかくしてくれると聞きましたので…』
「パイナップルをおにぎりの具にしてもお肉はやわらかくならないんですよ!?」
あくまでも『肉巻き』なんですから!
『…そこに気付くとは、やはり天才ですね』
「凡才どころか盆栽だって知ってますよ。料理下手は迂闊にアレンジしちゃいけないって…というか、何の話なんですか、これ!?」
真剣に聞いていたワタシたちの時間を返せ!
「さっきの『崩壊』について話をする流れでしたよね!?」
なんで肉巻きおにぎりの話題に挿げ替わってるんですか。
…というか、この調子だと他にも余計なアレンジして失敗してるんだろうな、この人。
『え、花子さんたちは『崩壊』の話が聞きたかったのですか?』
「どう考えてもそっちの話をする流れでしたよね!?」
その話をするために呼んだんですよね、ワタシたちを!
とりあえず肉巻きおにぎりの話は後で聞くのだ!
『ええと、どこまで話しましたっけ?』
「ロンドさんを引き金にして、さっきも起こったあの『世界の崩壊』が引き起こされそうになっていた、というところまでですよ…」
なんで、本題に入るまでにここまで無駄に疲弊しないといけないんだ。
けど、なんていうか…世界の崩壊の話をしている時に肉巻きおにぎりが出てくるのなんて、ウチくらいのものだよ?
『ああ、そうでしたね。あの崩壊は、ずっと昔から繰り返し起こっていることなのですが…』
ようやく、ロンドさんは『崩壊』についての話を始めてくれた。
…けど、そんなに何度も起こっていたのか、アレは。
『本来なら、取るに足りないありふれた事象でしかありません』
「取るに…足りない?」
だって、あれだけの異変だよ?
いくら、ロンドさんが人知を超えた存在だとしても、だ。
『あの『亀裂』が起こっても、世界の修正力も働くからですよ。なので、世界そのものが本当に引き裂かれるということはありません。あれはただの自然現象です。通り雨みたいなものですよ』
「…あれが、狐の嫁入り程度の自然現象?」
ただ、と小さく言ってからロンドさんは続けた。
『あの崩壊を人為的に引き起こすとなれば、話は別ですけれど』
「…人の意志で、あの『亀裂』を起こせるのですか?」
そんなことが、可能なのか?
いや、そんなことを考える人間が、いるのか?
『引き起こすというよりは、利用する…と言った方が正しいのかもしれませんが、過去にいました。あの『亀裂』を利用して、この世界を崩壊に導こうとした不届き者が』
「本当に…それが可能なんですか?」
だって、世界の崩壊だよ?
それが叶えば、自分だって巻き込まれるよね?
世界の終わりにたじろいでいたワタシに、ロンドさんは事も無げに告げた。
『可能だったのでしょうね』
「…でも、そんなの、どうやって?」
『私も理屈などは詳しく知らないのですが、どうやら、私を生け贄にして『崩壊』を起こそうとしていたようですね』
「ロンド…さんを?」
…そうか。
それが、さっき言っていたトリガーか。
「ロンドさんのような特別な人を生け贄にすれば、完全なる『崩壊』を引き起こすことができる…ということですか」
『私は特別な人間などではありませんよ。いえ、少なくとも、当時の私は普通の人間でした』
「当時はって…それは、どういうことなんですか?」
ロンドさんが、普通の人?
ここまで破天荒な人は、中々いないのですが。
だって、『不老不死』だよ?
『今の私の体は、元の私の体ではないのです。何と言えばいいのでしょうか。その件を境にとある事情で生まれ変わった、という感じですかね』
「…ロンドさんも、『転生者』だったんですか?」
ワタシたちと、同様に?
しかし、ワタシはそこで気が付いた。ロンドさんが『転生』を果たしていたとしても、その場合はこの世界にはいられないはずだ、と。
ワタシたちの世界で『転生』を果たせばこのソプラノに送られて、こちらの世界で『転生』をした場合はワタシたちの世界で生まれ変わることになる。
それが、『転生』のルールだ。
それなのに、話を聞いている限りではその事件の前も後も、この人はこの世界にいたことになる。
『いえ、私は『転生者』ではありません。生まれ変わりと言ったのがややこしかったかもしれませんね。しかし、この体は本来の私の体ではないのです』
「本来の自分の体…じゃない?」
ワタシの混乱に拍車がかかる。緊張が加速し、異様な咽の渇きを覚えた。
そんなワタシに、ロンドさんは続ける。
『救われたと同時に呪われたのですよ、『邪神』という存在に。ああ、あの頃はあの人も『邪神』ではなく普通の神さまでしたね。しかし、私を救い、呪ったことで最後の力を使い果たしてしまい、人々の悪意に呑み込まれて『邪神』となったのです』
「『邪神』に…呪われた?」
いや、救われたとも、ロンドさんは語っていた。
けど、救いと呪いは、対極に存在しているのではないだろうか。そこをイコールとして結びつけたモノは、何だ?
『その当時、『亀裂』によりこの世界は危機を迎えていました。私を引き金にすることで、完全なる『崩壊』を引き起こそうとしていたのです』
「…ロンドさんを、生け贄に」
『先ほどは私は普通の人間だったと言いましたけれど、もしかすると何かしらの特別な力なり格別な血筋なりはあったのかもしれませんね。ただ、私は自分のことを普通の人間だとしか思っていませんでしたし、実際、特筆すべき力なんて何もありませんでした』
あっさりと、ロンドさんは苛烈な過去を語る。
事が事だけに、本来なら歴史書などに記されるべき最果ての真実を。
『そして、生け贄にされる寸前だった私を救ったのが、『邪神』でした。いえ、あの人が救ったのは私というよりは世界だったのでしょうけれど。そして、その時の私は気を失っていたので、何が起こったのかは知りません。いえ、失っていたのは気ではなくて命だったのかもしれませんね。意識を取り戻した私は、別人の体になっていたのですから』
「別人の…体?」
だから、生まれ変わり?
先ほどのロンドさんの言葉は、これを先回りした言葉だったのか。
…けど、そんなことって、あるの?
いや、『転生者』のワタシが言えたことじゃないかもしれないけどさ。
ワタシは、そこでシャルカさんに視線を向けた。『天使』のシャルカさんなら、その現象(?)についても何か知っているのではないか、と。
『…………』
シャルカさんは無言だった。その表情からでは、感情も読み取れない。
けど、何かを知っているという表情ではなかった。
『あの時は本当に焦りましたよ。目が覚めたら完全に別人でしたからね、私。しかも、この体になってからはずっとこの外見のままなのですよね。助けてもらっておいてなんですけど、ほぼ呪いですよ、これ?』
「…その割りには、ロンドさんはやけにのんびりと語ってますよね」
けっこう衝撃の告白のはずなのだが、ロンドさんからはそこそこ余裕が感じられた。ワタシがいきなり他人の体になっていたら、狼狽では済まないはずだ。
多分、なんだかんだと言いながらも、ワタシはワタシのことを気に入っているんだ。
ただ、それは、慎吾や繭ちゃんたちが私の周りにいてくれるからだろうけれど。
『まあ、もう何百年も前に話ですからね。あれ、もう何千年でしょうか?』
「…そんな、『昨日の晩御飯なんだったっけ?』みたいな感覚なんですか?」
たしかに、それほど永い時間を生きているのなら100年や200年が誤差になったりするのかもしれないが。
『私の場合は、昨日の晩御飯じゃなくて元の自分の顔も思い出せないんですけどね』
「…ホントに余裕ありますね、ロンドさん」
自分の本当の顔が思い出せないと口にしながら、ロンドさんは朗らかに笑っていた。
『けど、肝心なところで気を失っていた私ですからね。結局のところ、最後にあの人がどんな顔をしていたのかすら、分かっていないんですよ。多分、あの人が助けてくれたとは思うのですけれど』
他の人は、私のことなんて見て見ぬふりしかしていませんでしたから。
ロンドさんは、そう付け加えた。その声は、やけに乾燥していた。
『なので、『邪神』についても、私は他の人たちと同じようなことしか知らないのです』
お間抜けですよねえ、などとロンドさんは笑っていたが、そう言った瞬間だけは、どこか寂しそうにしていた。
どれだけ手を伸ばしても届かない深淵の果てにある記憶。
もう手繰り寄せることができないその記憶の底に、この人は何を見ているのだろうか。
「あの、『邪神』…さんとは、仲がよかったんですか?」
ワタシは、ロンドさんにそう問いかけた。
この人の『邪神』に対する言葉は、上辺だけのものではない。そこには、余人には分からないものが、確かに存在している。
この世界でただ一人、この人だけが『邪神』に対して等身大の想いを抱いている。
『仲がいい、ですか…それは難しい質問ですね』
大体の質問には即答していたロンドさんが、そこで考え込んだ。
『あの人は神さまでしたけれど、話ができる距離にはいましたね、私は…でも、喧嘩ばっかりしていましたよ』
「神さまと喧嘩できるだけですごいことですけどね…」
ワタシはロンドさんと『邪神』の距離感に驚いたけれど、アルテナさまにツッコミを入れているワタシも、傍から見れば似たようなものかもしれない。
『だってあの人、人間たちの争いを止めるために背負わなくてもいい人間たちの憎悪を受け続けたんですよ。そんなことしてもろくなことにならないと、口が酸っぱくなるくらい言ったのに』
ロンドさんが言うように、実際『邪神』は人間たちに利用され尽くした。最期は、『邪神』に成り果ててしまった。
『けど、今思えばあの人も覚悟していた節があったんですよね。ここで自分は終わるだろうって』
「…そう、なんですか?」
『寧ろ、どこかでそれを望んでいたのかも、しれません』
「終わりを、望んで…?」
自らの終わりを望む人が、いるというのか?
いや、人ではないけれど、それでも、ワタシには理解できなかった。
…だって、そんなの、悲しいよ?
『そこにきてあの『崩壊』でしたからね。あの人にとっては、渡りに船だったのかもしれません。どこか自暴自棄に見えるところもありましたしね…けど、バカですよ、そんなの』
ロンドさんは『邪神』をバカ呼ばわりしていたけれど、その表情はどこか儚げだった。
このまま、この人も消えてしまうのではないかと、思えた。
だから、ワタシは口を開いた。
ロンドさんを、独りにさせないために。
「あ、あの…その『崩壊』を引き起こそうとしたのは、誰なんですか?」
元凶と言えば、その人物こそが大元ではないだろうか。
『ああ、それは『魔女』ですよ』
ロンドさんは、あっさりと教えてくれた。いや、興味がなさそうに、か。
「…『魔女』?」
呟きながら、ワタシは記憶を反芻していた。
その言葉には聞き覚えがあったからだ。
けど、それは元の世界で聞いた魔女ではない。
この異世界に来てから聞いた言葉だ。
「『魔女』…ですか」
そこで、記憶の箍が嵌まった。
この異世界における『魔女』とは、世界を滅ぼそうとしていた存在だ。