55 『慢心せずして何が教祖かぁ!』
「…………」
何度も何度も、近づいたり遠ざかったりを繰り返すのが、人と人との心の距離というものだ。
ダレカの心に近づけたと思っても、次に会った時にはそのダレカとの心の距離が元の位置にリセットされていた、なんてことも珍しくはない。
しかし、縮まったはずの心の距離が離れてしまっても、それは相手に対する何らかの失敗に起因する、とも言い切れない。
環境の変化によっても、心境の変化はあるからだ。
「…………」
元の世界で病弱だったワタシにも、学校に通えていた時期があった。
そこで出会えたクラスメイトの女の子と、仲良くなれたこともあった。その子とはやけに馬が合ったからだ。
けど、その子と仲良くなってすぐに、ワタシは病気でしばらく学校を休んでしまった。その時はそれほど深刻な事態にはならず、一週間ほどでまた学校に行けるようにはなったのだけれど、ワタシが復学できた時には、その女の子との心の距離は開いてしまっていた。
…その時に聞いた、あの子からの「…おはよう」という声は、やけにぎこちなかった。
その『おはよう』以来、ワタシたちは少しずつ少しずつ、疎遠になっていった。
「…………」
別に、あの子がワタシに意地悪をしたというわけではない。
ワタシだって、あの子の陰口を叩いたりしたわけでもない。
多分、あの子が知ってしまったんだ。
ワタシが、不治の重い病気を患っていることを。
だから、あの子はワタシとの接し方が分からなくなってしまったんだ。
あの子は、誰に対してもやさしい子だったから。
そんなあの子に、ワタシも、自分の病気を負い目のように感じてしまった。
だから、その子との最適な距離感が分からなくなった。
…じつに、幼子らしい未熟なエピソードだった。
「…………」
いや、大人になったとしても、人との距離を計るのは難しい。寧ろ、環境や状況が複雑化している分、お互いに相手に対する深い理解が必要になってくる。
そして、現在、ワタシもその距離感の計り方に四苦八苦していたところだった。
ワタシと『花子』にシャルカさん、それにアリーナさんの目の前に、『源神教』の教祖と呼ばれているタタン・ロンドさんがいた。
このロンドさんとは、以前にも何度か会っている。その時にも『花子』が傍にいて、三人で渓流釣りに出かけた。ワタシは釣り自体が初めてだったし、『花子』も同じだった。なので、二人で新鮮な感覚を楽しんだ。一匹だけだったけど、ワタシにもお魚さんが釣れたんだよ。
…ただ、提案者で太公望を気取っていたロンドさんは一匹も釣れず、『釣れるまで帰りたくない!』とか年甲斐もない駄々をこねていたけれど。
「…………」
そんな感じで奇特な親睦を深めたワタシたちだったけれど、ここにきてその潮目は変わっていた。
アリーナさんから、ロンドさんが『源神教』の教祖だと知らされたからだ。
…けど、よくよく考えればワタシ、あの人には割りと真面目に殺されかけたんだけどね、初対面の時に。
それを考えれば、あの時よりは今の距離感の方がまだマシかもしれない。親密とまでは言えないけれど、そこまで剣呑な間柄というわけでもない。
『お久しぶりですね、花子さん』
先に声をかけてきたのは、タタン・ロンドさんだ。
場所は『源神教』の事務所といった感じの建物で、コの字型の長テーブルを挟んでワタシたち全員が椅子に座っていた。そんなワタシたちの前にはティーカップが置かれていて、カップにはなみなみと紅茶が淹れられていた。この異世界にもコーヒーやら紅茶やらの嗜好品は浸透してるんだよね。どうも、ワタシたち『転生者』の先輩たちが栽培の方法なんかを伝えたらしいよ。
…ただ、ロンドさんは、指をプルプルと震わせながら危なっかしくティーカップを口元に運んでいた。
「…そんなに持ちにくいなら、カップの輪っかに指を入れて持ったらいいじゃないですか」
ワタシは、ロンドさんにそう提言した。
カップを持つ時、ハンドル(持ち手)に指を入れて持つのは無作法とされているからだろうけれど、それはワタシたちの世界でのマナーだ。力のない女性なら、穴に指を入れてカップを持てばいいと思うのだ。この異世界でそれを気にする必要があるとも思えないしね。
『いえ、私くらいの紅茶上級者になればこの程度は余裕なのですよ、花子さん。それに、こうやって親指と人差し指、そして中指という三本の指でカップを持つことで、私の指の美しさを見せることが…うわああっちゃあ!?』
…言わんこっちゃない。
ロンドさんは、そこでカップを落として紅茶でスカートを濡らしていた。
「ロンドさんって、変なところで慢心しちゃいますよね…」
思わず、溜め息交じりにワタシも言ってしまった。まあ、それもこの人との心の距離が近づいたからかもしれないけれど。
『慢心せずして何が教祖かぁ!…いや、教祖じゃないんですけどね!』
幸い、ロンドさんに火傷はなかったようだけど、何してんだろうね、この人…。相変わらず、自分の蘊蓄に置いてけ堀を喰らっているようだ。
当然、対談はちょっとした中断となった。ロンドさんのお色直しなどがあったからだ。
『さて、お久しぶりですね、花子さん』
何事もなかったように仕切り直そうとしているロンドさんだったけれど、先ほどの『ソプラノ茶会事件』が尾を引いているワタシとしてはそのテンションについていけないのだ。未公認とはいえ『源神教』の教祖さまが、アリーナさんにこっ酷く叱られてる姿を目の当たりにしちゃったしね。
…本当に、この人『不老不死』なの?
怒られてる姿が、繭ちゃんに説教をされてるシャルカさんや雪花さんとそっくりだったんだけど。
「そうですね、ロンドさん」
ワタシも定型的な挨拶を返し、そこで呼気を整えた。
ここからは、ちょっと本気で褌を締めなおさないとね。
「けど、ロンドさんも人が悪いですよ。ちゃんと教えてくれてもよかったじゃないですか、自分が『源神教』の教祖だって」
ワタシは、先制パンチを打ち込んだ。ロンドさんの出方を探るために。
正直、この人のスタンスが見えないところはある。教祖さまじゃないとは言っているけれど、それを鵜呑みにしていいのかどうかの判断に迷っていた。おそらく、ロンドさんがワタシと『花子』を呼び出したのは、『邪神』に関わる話をするためだ。
…けど、ここまで話をしていて思ったのだけれど、この人、そんなに『花子』に関心を持ってなさそうなんだよね。
『いえ、私は教祖なんてヤクザな存在ではないですよ』
ロンドさんは、不敵に笑っていた。しかし、先ほどまでの雰囲気とは、まるで違う。ローブの魔法使いの姿の時ほどの圧は感じないけれど、それとは別ベクトルのプレッシャーを纏っていた。
それでも、ワタシはさらに踏み込んだ。
「でも、アリーナさんたちはみんな、ロンドさんが教祖さまだって言ってますよ」
『まあ、ある意味では私が教祖と言えなくもないですけどね…『邪神』は悪い神さまではないと、『邪神』も被害者なのだと屋台をやりながら言い続けていたら、いつの間にか『源神教』なんてものが出来上がっていて、しかも、私が教祖に祀り上げられていたんですから』
「…それは、本当なんですか?」
ワタシは、言葉につまりかけながらも問いかける。
さらっと言ったけど、この人…本当に『邪神』が『邪神』に身を窶した頃から生きているのだろうか?
…本物の、『不老不死』なのか?
そんなワタシに、ロンドさんは答えた。
「ええ、本当ですよ。肉巻きおにぎりの屋台をずっとやっていたのです」
『ワタシが疑ってるのは肉巻きおにぎりの方じゃないんですよ!?』
そこ疑っても仕方ないですからね!
『屋台はずっとやっていましたからね、美味しいですよ、私の肉巻きおにぎりは。特に、秘伝のタレは何百年もずっと継ぎ足し継ぎ足ししてますから』
「何百年もの…継ぎ足し、だと?」
そんな大昔からタレを継ぎ足し継ぎ足し!?
とりあえずそっちの話は後で詳しく聞かせてもらいますので!
「けど…じゃあ、ロンドさんは『邪神』になる前の『邪神』に会ったことがあるんですか?」
下手をすると肉巻きおにぎりに後ろ髪を引かれるので、ワタシは会話の軌道修正を施した。
『ありますよ』
勿体ぶることもなく、ロンドさんはあっさりと認めた。その真偽は分からないはずなのに、ワタシは簡単にその言葉を信じてしまっていた。それだけの説得力や貫録を、今のロンドさんからは感じたからだ。いつの間にか、ロンドさんから漂う気配が全く別物になっていた。豹変と言ってもいいくらいだ。
…ああ、ロンドさんのこの鋭利で怜悧な雰囲気。
ワタシとナナさんが殺されかけたあの時と、ほぼ同じだった。
余計な思考を振り払うように、ワタシは質問を続けた。
「…『邪神』って、どんな人だったんですか?」
『底抜けのお人好しです』
「お人好し…ですか」
人間たちに利用されるだけ利用された挙句、『邪神』という存在に堕ちてしまったという顛末から考えれば、そう言い切れるのかもしれない。
…ただ、そう言い切れるのは、この人だけだろうけれど。
『そうですね。ある程度の結末は花子さんも知っているようですので、簡潔にお話しますか。当時、あの人は人間たち…エルフや他の亜人たちも含めた全ての人々の争いを止めるために、その身を犠牲にしていました』
「…人々の怨嗟をその身で肩代わりすることで、戦争を止めたんですよね」
ワタシは、そう合いの手を入れた。
『そもそも、戦争なんてものは人為的な底なし沼です。続ければ続けただけ深みに嵌まり、抜け出せなくなるものです。その沼の底に沈んでいるのは、凝り固まった憎悪だけだというのに。偉い人たちにはそれが分からないのでしょうね』
語り終えたロンドさんは、そこで大きなため息をついていた。
この人がホンモノの『不老不死』だとすれば、ロンドさんが見てきた人の歴史というのは、人間の愚かさの見本市だったはずだ。
…さぞかし、見応えがあっただろうね。
『そして、花子さんが言ったように、『邪神』はその人類全てとも言える憎悪を肩代わりしたことで、それらの悪意も漂白され、ようやく、あの愚かしい戦争をやめることができました』
「…『邪神』という存在を犠牲にして得た、薄氷の平和だったんですね」
『『邪神』をぞんざいに扱って得た薄情な平和とも言えますけれどね』
ロンドさんは、言葉の端々に皮肉を込めていた。それだけ胸糞の悪い光景をいくつも目の当たりにしてきたんだ、この人は。
『しかし、そんな『邪神』をもっとも穢したのが、私だったとも言えますけどね』
ロンドさんは、さらにシニカルな表情を浮かべていた。他のどんな人間よりも、自分のことを軽蔑しているようでもあった。
「…『邪神』は、最後にロンドさんを助けたから、『邪神』になってしまったんですよね」
聞きかじった程度の知識しかないワタシが口を挟むことすら躊躇われたけれど、ワタシはさらに踏み込む。
『そうですね…本当に、バカな人ですよ』
「…………」
この人だけだ。『邪神』をバカな人呼ばわりができるのは。けれど、ロンドさんは、けっして『邪神』を馬鹿にしているわけではない。それぐらいは、声で分かった。
その声のまま、ロンドさんは続ける。
『自分だって限界だったのに、私を助けるために…いえ、まあ、世界を救うために最後の力を使い果たして、自分は『邪神』なんて存在になってしまったのですから』
「…え?」
ロンドさんの言葉に違和感を覚えたワタシは、疑問の表情を浮かべる。
ロンドさんもそんなワタシに気が付き、言葉を続けた。
『あの人が私を助けたのは、勿論、私に対する同情もあったのでしょうけれど、この世界を救うためでもあったのですよ…というか、私を助けることなんてオマケでしかなかったのでしょうね』
「ロンドさんを助けることが…オマケ?」
最後の力を使い、『邪神』がロンドさんを救った…とは聞いたけれど、ロンドさんをどんな危機から救ったのかは聞いていなかった。
いや、教祖代理のアリーナさんも知らないと言っていたんだ。その辺りの事情を、この人が語りたがらないから、と。
でも、今、ロンドさんはその『事情』を語ろうと、している。
…そこで、ワタシの胸は、ざわついた。
きっと、これから語られる言葉は愉快なものではないはずだ。
『あの人は、底なしのお人好しでしたから…いえ、お人好しでしたけれど、合理的な人でもありました。自分が助けられる人間の数を把握していたのです。なので、助けられない人たちは助けられないと、割り切ることもできていました』
「『邪神』が…合理的?」
善にしろ悪にしろ、あの『邪神』に見境はないと思っていた。しかし、ロンドさんから語られた『邪神』は、理知的な姿だったという。
『意外とそういうリアリストなところがあったのですよ、仮にも神さまだったようですからね。多くを助けるためには少数を放置するしかないと、感情ではなく机上で判断していたのです。だから、戦争を止めた後もギリギリで力を残すことができていました…そういう意味では、確かに『花子』さんはあの人とは別人のようですね』
そこで、ロンドさんは『花子』に視線を向けた。
それは、初めてのことだったかもしれない。
ここに来た時、自己紹介の代わりにワタシがロンドさんに説明をした。
確かに、『花子』には『邪神の魂』としての特性はあるけれど、『邪神』とは別の存在だ、と。
ロンドさんは、「そうですか」と呟いただけだった。素っ気ないとも言える態度だったので、ワタシも『花子』も肩すかしを喰らった感じだった。
『しかし、そこで不測の事態が起こりました。いえ、不測の事態なんてものは、いつも最悪のタイミングを見計らって顔を出すものですよね』
ロンドさんは、薄く笑っていた。どことなく、自嘲気味に。
ワタシは、そんなロンドさんに「何が起こったんですか?」という問いを投げかけることしか出来なかった。
『ええ、いつものやつですよ。『世界の危機』というヤツです』
「いつものヤツ…ですか」
本物の『不老不死』ともなると、『世界の危機』ですらいつものことなのだろうか。
『けれど、忌々しいことに、その時の『世界の危機』は私を引き金にしたものでした』
「ロンドさんを引き金にした『世界の危機』…?」
…なぜ、そうなる?
言葉を失いかけていたワタシに、ロンドさんは事も無げに続けた。
『ああ、先ほどもちょっと起こっていたでしょう?空が壊れそうになるアレが。私をトリガーにして引き起こそうとしていたのは、あの『世界の危機』です』
タタン・ロンドさんは、ぷるぷると震える指先で、性懲りもなく危なっかしい所作でティーカップを口元に運んでいた。