52 『属性の盛りすぎは個性を殺しますよ?』
「ええと…どうぞ、粗茶ですが」
ワタシは、『彼女』の前にカップに入ったコーヒーを置いた。
この言い回しは謙遜であり、本当に粗末なお茶を出したりすることはない。そんな失礼はありえない。のだけれど、この人に対しては粗茶を出しても問題ないのではないだろうかと思わなくもない。と、ワタシがないない尽くしになるのも無理はない。
「ありがとうございます」
彼女は、小さく微笑みを浮かべてワタシにお礼を言った。
「いえ、どういたし…ました」
ワタシはちょいと『噛んで』しまったけれど、それは緊張からきたものだ。というか、ワタシがここまで身を強張らせるのも当然なのだ。
今、ワタシの…ワタシたちの前にいるのは、『源神教』の『教祖代理』さまだ。
その教祖代理さまはうちのソファに軽く腰を掛け、楚々とした姿勢でコーヒーを口元に運んでいた。
「ありがとうございます、美味しいコーヒーですね」
彼女は、そんな風に褒めてくれた。それは、慎吾が豆から挽いて淹れてくれたコーヒーだった。そして、カップから口を離した彼女は小さく微笑む。その微笑みは自然体で、作り物という感じは全くしなかった。本来なら和やかな雰囲気となるところだったはずなのに、その笑みはワタシの中に深く根付いた。楔の、ように。
そこで、ワタシもソファに座った。彼女とは違い、ぎこちない笑みを浮かべて。
「…それで、話というのは何ですか?」
彼女にそう問いかけたのは、ワタシではない。ワタシの隣りでソファに座っていた、桟原慎吾だ。そこで、ワタシはほんの少しだけ慎吾の方に身を寄せた。ほんの少しだけだが、安心することができた。
現在このリビングにいるのは、ワタシと教祖代理さま、そして、慎吾と雪花さんにシャルカさんだ。あと、地母神さまであるティアちゃんも少し離れたところで壁に背をあずけて立っていた。
繭ちゃんと白ちゃん、それから『花子』には二階に行ってもらっていた。
「…………」
今、ワタシたちの目の前にいるこの人が『源神教』の教祖代理だとして、その目的がまだ分からない。
だから、『邪神の魂』が具現化した『花子』にはこの場にいて欲しくなかった。
確かに、『邪神』は邪悪な存在だ。
過去、この異世界ソプラノで幾度も再臨し、そのたびに数多の命を蹂躙してきた。
けど、『花子』はその『邪神』そのものではなく、ただのレプリカでしかない。
…というか、そんな窮屈な御託はどうでもいい。『花子』はもう、うちの子なんだ。
慎吾や繭ちゃん、それに雪花さんたちも認めているし、天使のシャルカさんだって認めてくれている。
「そうですね、お話というのは」
また、『教祖代理』さまは微笑んだ。
この人は、まだ若い。雪花さんよりは上だろうけれど、それでも世間的に見れば十分に若者というカテゴリに分類できる。にもかかわらず、その微笑みに気圧されそうになっていた。
…いや、ワタシが一方的にそう感じているだけかもしれないけれど。
その笑みのまま、教祖代理さまは続ける。
「こちらにいらっしゃる『邪神の魂』さまとお話をさせていただければ、と思いまして」
彼女の言葉は、この場を凍り付かせた。数秒ほど時が止まり、呼吸すらままならなくなる。
なぜ、ここに『邪神の魂』…『花子』がいることを知っている?
「…何を、言っているのですか」
辛うじて、ワタシはその言葉を絞り出した。
それですっとぼけられるほど、教祖代理さまの耳目は節穴ではないのだろうけれど。
「あらあら、こちらにおられることは先刻承知ですよ。今さら隠し立てなんてイジワルをしないでくださいな」
彼女の声は丸みを帯びていた。どこにも棘はない。けれど、刺すような鋭利さに感じ、ワタシは戸惑っていた。『花子』を匿っている負い目があるからかもしれないが。
そんなワタシに、『教祖代理』さまは言った。
「大体、そちらのお嬢さまは私共のお祀りに乱入してきて『邪神の魂』さまを攫って行ってしまったではないですか」
「え…それ、は」
ワタシは、お手本のようにもごもごと口籠もる。これは、あまりに粗忽な反応だった。こんな露骨な態度では、自白をしているのも同じだ。
「何のことか、分からない…のですが」
「花子さんには腹芸は無理ですよ。私もあの場にいたのですから」
悪足掻きを試みたワタシを、教祖代理さまは一言で一蹴した。先ほどからの微笑みを、欠片も崩さないままで。
「それに、街中では何度も花子お嬢さまと『邪神の魂』さまが一緒にいるところを目撃されていますよ。うちの信徒さんたちに」
そこまで言われれば、もはや弁明の余地もなかった。それでも足掻こうと、ワタシは口を開いた。小さく震える声のままで。
「あの、教祖さま…」
「私はただの教祖代理ですよ。それから、私のことはアリーナとお呼びください。もしくは、親しみを込めてモレナでもいいですよ」
この教祖(代理)さまから受け取った名刺には、モレナ・アリーナという名が記されていた。そんなアリーナさんは、ずっと端正な微笑みを崩さない。
「それに、そんなに緊張なさらないでください。花子お嬢さま」
「お嬢さまなんて呼ばれる方が緊張するのですが…」
ワタシはVIPなどではないし、代理とはいえ『源神教』の教祖さまからそんな風に呼ばれてそれを鵜呑みにできるほどワタシは『おめでたく』もないのだ。
「先ほども言いましたけれど、私はただ、『邪神の魂』さまとお話をさせていただきたいだけなのです。あ、よろしければ花子お嬢さまともこれからは仲良くさせていただきたいところですけれど」
「…そう、ですか」
さて、どうするべきか。
どうやら、この人はこちらの事情などもある程度は調べ上げているようだ。というか、ワタシが迂闊だっただけか。
「先ず誤解をしないでいただきたいのですが、私共は花子お嬢さまのことを恨んだりはしておりませんし、憎んだりもしておりません。私共と仲良くしていただきたいというのは本当なのです」
「なぜ…ですか?」
ワタシは、緊張したままの声で問いかける。
この人たちからすれば、ワタシとディーズ・カルガはあの『お祀り』に忍び込んだ挙句、『邪神』さまの魂を持ち去った(?)悪党のはずだ。それなのに、ワタシに対して悪い感情はないと言う…それは、本当の言葉だろうか。
…けど、アリーナさんは、たった一人でワタシたちのところに来ている。しかも、代理とはいえ教祖さま自身が、だ。
「それは、花子お嬢さまが『邪神』さまに選ばれたからです」
「ワタシが…選ばれた?」
「はい」
曇りのない瞳で、アリーナさんは頷く。
…ああ、そうか。
この人たちは、ワタシと『花子』の関係性を知らない。
あの『花子』は、元々はワタシの中にいた『邪神の魂』のレプリカのようなもので、本当は、『邪神の魂』そのものではないことも。
そして、本物の『邪神の魂』は、ワタシのおばあちゃんの体の中に封じられたまま、別の世界に飛んでしまったことも。
だからこそ、ワタシは迷ってしまう。
このアリーナさんに、どのような言葉で『花子』とワタシの関係を伝えればいいのか、と。
現在、アリーナさんはワタシたちに対して悪感情は抱いていないと言っていた。
けれど、ここで最適解ではない言葉を選べば、その薄氷の均衡は簡単に瓦解してしまいそうだった。
そうなれば最悪、『源神教』そのものとの衝突もありえるのかも、しれない。
「…………」
今ここで、ワタシは沈黙するべきではない。
この場での沈黙は、敵対行為にも捉えられかねない。適切な言葉を選択し、ワタシたちは『源神教』にも『邪神の魂』にも敵意はないと伝えなければならないはずだった。
…それでも、言葉が出てこない。
異様に喉が渇き、ワタシから言葉を奪っていた。
『その前に一つ、聞かせてもらいたいんだが』
そこで口を開いたのは、ワタシでも慎吾でもなくシャルカさんだ。『天使』にして冒険者ギルドのマスターである、シャルカさんだった。
「なんでしょうか、ギルドマスターさん」
またも、アリーナさんは微笑んでいた。
けど、シャルカさんはまだ言っていなかった。自分が、冒険者ギルドのマスターだ、とは。
…つまり、ワタシ以外のみんなのことも調査済み、というわけだ。
『いや、簡単な疑問だよ。取るに足らない、素朴で些末な疑問なんだが…どうして『源神教』の信徒たちは『邪神』なんぞを崇拝しているんだ?』
シャルカさんの声には、やや険があった。そして、シャルカさんはそれを隠す気がない。
ワタシは、シャルカさんにも話していた。なぜ、『源神教』の人たちが『邪神』を祭神としているのか。
現在は『邪神』と化しているが、『邪神』は元々は善神だ。世界から争いを失くそうと、人々から負の感情を汲み取ってくれていた。しかし、神とはいえど人間たちから注がれる底なしの負の感情には耐えられず、最後には『邪神』へと堕ちてしまった。しかも、最後には人間たちから裏切られるような形で延々と人々の憎悪を注がれ続けた。
そんな神さまが『邪神』へと変貌してしまうのも、この世界を滅ぼそうとするのも無理からぬところかもしれない。
そして、そうした事情をシャルカさんにも話していたはずだった。
なのに、シャルカさんの声には棘があった。
「…………」
…そうか。
シャルカさんたちは、何度か『邪神』と戦っていると話していた。その時に、たくさんの仲間たちの命を奪われたと、その中には、シャルカさんにとっての『親しい人』もいた、と。
そう簡単に割り切れるものではないんだ。
そりゃそうだよね。親しい人たちとの別れが簡単に割り切れないから、人は、人でいられるんだ。
「確かに、『邪神』となられてからのあのお方は、この世界に消えない爪痕を残されています。それも、何度も。ですが、あのお方も最初から『邪神』だったわけではありません」
そこで、『源神教』の教祖代理であるアリーナさんの、声のトーンが変わった。先ほどまでは凪いだ水面のように平静だったのに、少しだけとはいえ、そこに揺れが生じていた。
初めて、この人から人間らしい感情を感じた瞬間だった。そして、アリーナさんはそのまま続ける。
「あのお方は元々は善なる神で、世界を救おうとその身に人々の呪詛や憎悪を受け続けたのです。しかし、神とはいえど人間たちの無尽蔵な悪意の前では、理性を保つので精一杯だったそうです」
「…ん?」
ワタシは、そこで違和感を覚えた。
理性を保つので精一杯?
それは、すんでのところで踏み止まっていた、ということか?
ワタシは、浮かんだ疑問をそのまま投げかけた。
「あの、『邪神』が元々は善い神さまだったとして…どこで悪神に変わったんですか?」
「『邪神』さまは、人々の悪意の浄化にかなりの力を費やしていたそうなのですが、最後の力は残されていました。けれど、その最後の力を使わなければならない事態に陥ってしまったのです」
アリーナさんの語る『邪神』の過去は、ワタシの知らないものだった。
だから、ワタシはアリーナさんに問いかけた。一層の喉の渇きを、感じながら。
「その事態というのは…なんだったのですか?」
「ええ、『邪神』さまは、一人の少女を救うために残されていた御力を…いえ、残さなければならなかった最後の力を使ってしまったのです」
「それが、『邪神』が『邪神』に身を窶した顛末…ですか」
ワタシが知っていた『邪神』の物語とは、少し違っていた。
だから、ワタシは続きを促した。ややはしたないとは、思いつつも。
「あの、『邪神』に救われたというその少女は…」
「その少女は、現在も生きています」
アリーナさんの言葉に狼狽したのは、ワタシだけではなかった。
慎吾も雪花さんも、天使であるシャルカさんや地母神さまのティアちゃんまでもが一様に動揺していた。その空気が、音もなく伝播してくる。
…『邪神』に救われた少女が、今も、生きて、いる?
本来なら、一山いくらの与太話だと耳を貸さないところだ。
しかし、この人の語る言葉には、重みがあった。
しかし、重みがあったとしても、それが真実とは限らない。
アリーナさんがそう信じているだけの、真実の皮を被った四方山話という可能性はある。
「今も生き続けているその少女とは…ナニモノなのですか?」
ワタシは、尚も問いかけた。
それは、虚実が入り混じる境界の物語の頁を開く行為だ。
「その方は、本物の『源神教』の教祖さまですよ」
「『源神教』の教祖が…大昔から死なない少女?」
教祖で?少女で?不死?
属性の盛りすぎは個性を殺しますよ?
「あの方は、ご自身を『教祖さま』だとは認めてくださらないのですけれどね」
アリーナさんは困ったような微笑みを浮かべていたが、ワタシにはその笑みに応えられるだけの余裕はない。
なんとか次の言葉を模索していたワタシだったけれど、そこで気が付いた。
アリーナさんの視線が、ワタシの後ろに向かっていたことに。
いや、アリーナさんだけじゃなかった。慎吾や雪花さんたちも、そちらに視線を向けていた。
「あ…」
当然、ワタシも釣られてそちらに視線を向けた。
『その少女のことを、教えていただけませんか?』
そう言ったのは、『邪神の魂』が人の形を成した、『花子』だった。