47 『嫌ですわ、早くすり潰さないと』
「…………」
ワタシが生まれた国には、判官贔屓という言葉があった。
これは、弱い者、幸の薄い者に対して強い思い入れを持ち、肩入れをしたくなる感情のことだ。そして、ワタシたち日本人は特にその判官贔屓の傾向が強いという話を聞いたことがある。だからこそ、こんな言葉が生まれたんだね。
ちなみに、判官とは昔の官職の名で、判官贔屓という言葉の由来は、かの悲劇の英雄、源義経がその役職についていたことからきているそうだ。
ただ、日本人だからといって全員が判官贔屓かと言われればその答えは勿論『ノー』と言わざるを得ない。
いや、かわいそうな人が、かわいそうとは限らないだけのことなのだけれど。
「…………」
現在、ワタシの目の前ではディーズ・カルガがリリスちゃん(大)に絶賛シバかれ中だった。だが、あの変人に対して憐憫の念は微塵も沸いてこない。
仕方ないね。
あの人、リリスちゃん(大)を誘拐とかしたからね。他にも、陳列棚に並べ切らないくらいの新鮮な余罪が幾つもあるからね。同情の余地はないよね。
「…でも」
リリスちゃんの様子も、少し妙だった。
ワタシが知っているリリスちゃんは、あんなに武闘派ではなかったはずだ。
その表情は殆んど見えなかったが、リリスちゃんは音もなくディーズ・カルガの懐に滑り込んでいた。かと思えば、至近距離にまで接近したリリスちゃんは、強い踏み込みから重い拳を叩き込んでいる。軽量級のはずのリリスちゃんではありえないはずの、肉を叩く重く鈍い音が、離れた場所にいるワタシにも聞こえてきた。
「あのさ…リリスちゃん、そろそろいいんじゃないかな、気持ちは分かるけどさ」
ワタシは、軽く息を吸い込んでからリリスちゃんに大きな声で呼びかけた。ワタシの声が届いた瞬間、リリスちゃんはぴくりと微動してから動きを止めた。けど、こっちを振り向いては、くれなかった。
…だから、その表情は、見えなかった。
「…あの、助けてくれるならもう少し早く声をかけてくれてもよかったんじゃないかな」
リリスちゃんに撃ち込まれた下腹部が痛むのか、臍の辺りを擦りながらディーズ・カルガは不服そうな顔をしていた。
だが、ワタシにはこの人から不平を言われる筋合いもないのでキッパリと言っておく。
「あなたには地獄すら生ぬるいんですから、それくらいの鉄拳制裁は仕方ないですよ」
「…さすがに、そこまで言うのは酷というモノじゃないかな?」
「嫌ですわ、早くすり潰さないと」
「毛虫とかと同じレベルで毛嫌いされてるのかな、私は!?」
珍しく、焦った表情を見せるディーズ・カルガだ。それだけ追い詰められていたということか。あの、リリスちゃん(格闘モード)に。
「やれやれ、花子くんはどっちの味方なんだい…?」
「自分の胸に手を当てて聞いてみたらどうですか?」
少なくとも、ワタシがあなたの肩を持つ理由はないんですよ。
「花子くんとは、一緒に『源神教』の祀りに潜り込んだ仲じゃないか」
「リリスちゃーん、もう二、三発いっちゃってー」
思い返せば、あの時だって、ワタシは何も知らされずに連れていかれたのだ。
なので、ワタシが「座布団もっていっちゃってー」みたいなノリになっちゃっても仕方がないのだ。
まあ、あれがあったから『邪神の魂』を取り戻せ…てはいないけれど、『花子』と出会うことができたのは確かだけれど。
「いやいや、アレを見てくれよ、花子くん」
ディーズ・カルガは、リリスちゃん(大)を指差した。その声は普段通りの声調だったけれど、指先は微かに揺れていた。どうやら、思った以上にこの人のダメージは深刻なようだ。
「リリス…ちゃん」
ワタシは、軽く息を吸い込んでからリリスちゃんに視線を向けた。それまでは、リリスちゃんから目を離してしまっていた。おそらくは、無意識に。いや、なんとなくの予感はあったのかもしれない。
『…………』
リリスちゃんは、透明感のある無表情を浮かべていた。その表情は、陶器でできたお人形めいている。当然、生気も感じさせなかった。
「…リリスちゃん」
ワタシは、ワタシの知らないリリスちゃんに呼びかける。
『…………』
リリスちゃんは、眉すら動かさない。
ワタシの声なんて、聞こえていない。
…今、あのリリスちゃんの世界に、ワタシはいない。
「あなた…リリスちゃんに何をしたんですか」
ワタシは、ディーズ・カルガに詰め寄った。
この人が、リリスちゃんをあんな風に変えてしまったんだ。
沸々と、怒りがワタシの中で湧いてくる。
「いや、誤解だ。私は何もしていない」
「そんなはずは、ないですよね…あなたが、リリスちゃんを誘拐なんてするからですよね!?」
ワタシは、さらに詰め寄る。意図して抑えていないと、殴りかかってしまいそうだった。
「私が攫う前から、あんな風だったじゃないか」
「それ、は…」
そこで、ワタシは思い返していた。
今、ワタシの目の前にいるのはりりすちゃん(小)の『端末』だというリリスちゃんだ。
人として生まれ変わったりりすちゃんが、本来の悪魔として復活するための魔力を集めるために、なけなしの魔力で生み落とした存在だ。
そして、りりすちゃん(小)に魔力のリソースを集めている間は、リリスちゃん(大)は抜け殻に近い状態になるのだそうだ。
「だから、あれがリリスちゃんのデフォルト状態といえるのかもしれな…」
言いながら、途中でワタシは気付いた。
「でも、それならあのリリスちゃんがあんなに激しく動ける理由はないはずじゃないですか…やっぱり、あなたが何かをしたんですよね」
ワタシは、そう指摘した。
多分、どこまでいってもワタシがこの人の味方をすることはない。
「いや、本当に私は何もしていない。急にリリスが暴れ始めた…というか、私に襲いかかってきたんだ」
「それは…あなたがリリスちゃんを誘拐したりするからじゃないですか?」
「けど、それであんな操られたみたいな状態になったりはしないだろう?」
「でも、ワタシにはあなたがそんなことをしていないという判断ができな…」
そこで、ふと記憶の片隅から零れてきた。
…それは、『洗脳』という胡乱な言葉だった。
とある企業による、『世界征服』などという大それた野望。
その手段は、『洗脳』だった。
「…まさか」
いや、でも、本当にそんなことが、可能なのだろうか。
センザキグループは、本気で『洗脳』による『世界征服』などという荒唐無稽な絵空事を目論んでいるのか?
…もしかして、その答えが、目の前のリリスちゃんなのか?
『…………』
リリスちゃんが、再び、動き始める。ゆっくりと体をこちらに向けて、つま先をディーズ・カルガに合わせていた。と、思った瞬間には、動き始めていた。
「リリスちゃ…」
ワタシの声を追い越して、リリスちゃんはディーズ・カルガに肉薄していた。
「ほら、私のせいじゃないだろ?」
ディーズ・カルガはこの状況下でも無実を叫んでいたが、そんな弁明は今のリリスちゃんには通じない。リリスちゃんは左足を軸にしてその場で回転し、旋風となる。そして、リリスちゃんの伸ばした右足は、ディーズ・カルガの胴体に撃ち込まれていた。いや、ディーズ・カルガは辛うじて左腕でリリスちゃんの蹴りを防いでいたようだけれど、あの人はそのまま弾き飛ばされていた。リリスちゃんのおみ足は、決して軽くもやさしくもなかったからだ。
「大丈…夫、ですか?」
暴走する車にでもはねられたように、ディーズ・カルガは弾き飛ばされていた。そんなこの人に、ワタシは恐る恐る声をかけた。
「いやあ…さすがにそろそろヤバいかもしれないね。まだ昼間だというのに、目の前に星がちらついているよ」
ディーズ・カルガは映画スターのような軽口を叩いていたけれど、画面越しに見るのとは違い、そこには痛々しさしか感じられない。
「リリスちゃん…もう、そろそろいいんじゃないかな」
ワタシは、リリスちゃんに語りかける。おそらく、リリスちゃんにかけた声の中で、今が一番、怯えていた。
ワタシは、これまでにたくさんリリスちゃんの顔を見てきた。怒った顔も笑った顔も、あますところなく。それだけたくさんの時間、リリスちゃんと共にいた。その自負はある。
それなのに、今のリリスちゃんは、今までに見たどのリリスちゃんとも違う表情だった。その表情には、一切の感情がなかった。
そして、一切の感情がないまま、リリスちゃんはディーズ・カルガに危害を加えていた。リリスちゃんは弾き飛ばされたあの人に向かって、また歩を進める。
「リリス…ちゃん」
また、呼びかけた。けど、ワタシの声は、届かなくなっていた。さっきは小さくとも反応してくれていたのに、今はもう、リリスちゃんの視界にワタシは入っていない。
「リリスちゃん!」
だから、ワタシは、ディーズ・カルガとリリスちゃんの間に割って入った。
…下手をすると、死ぬかもしれない。
あのディーズ・カルガでさえ防戦一方で、手も足も出ていない。ワタシのようなど素人が割り込んだところで、防波堤になれるはずもない。
それでも、ワタシは両手を広げてリリスちゃんに叫ぶ。
「お願い…リリスちゃん!」
このリリスちゃんは、『端末』だ。だから、些末なことなのかもしれない。ここで、この子を止めなかったとしても。仮にこのリリスちゃんがどうにかなってしまったとしても、ちゃんと本体のりりちゃんがいる。こっちのリリスちゃんは、あっちのりりすちゃんの代替品なんだ。
…それでも、ワタシはリリスちゃんに呼びかけていた。
この大きなリリスちゃんと過ごしたあの時間は、代替品なんかじゃあ、なかったからだ。
『…………』
リリスちゃんは、歩みを止めた。
「リリス…ちゃん」
ワタシの声、ちゃんと届いていた?
…いや、それは幻想だった?
リリスちゃんが足を止めたのは、一瞬だけだった。
すぐにまた、歩き始める。標的である、ディーズ・カルガに向かって。
「リリスちゃん!」
そう叫んだワタシを、リリスちゃんは横に押し退けた。
何の感情も感傷もなく、ただ、大きな荷物でも端に寄せるように。
「リリス…ちゃん」
ワタシの横を素通りしようとするリリスちゃんに、背後から抱き着いた。そのまま、しがみ付く。
「離れろ、花子くん。今のリリスは濁流と同じだ…下手に近づけば怪我じゃすまない!」
ディーズ・カルガも、珍しく大声を上げる。
けど、ワタシはそんな声には耳を貸さない。「リリスちゃん、リリスちゃん」と呼びかけながらしがみ付く腕に力を入れた。それでも、リリスちゃんは意に介さず歩き続ける。かと、思っていたが。
「…リリスちゃん?」
リリスちゃんが足を止め、ワタシは軽く安堵した。リリスちゃんに、ワタシの声が届いたのだ、と。
…けど、そうでは、なかった。
現実というのは、大体が無慈悲なものだ。
「リリスちゃん、いた…いよ?」
リリスちゃんは、しがみ付くワタシの両腕を引き剥がしにかかった。しかも、万力のような力で。
それでも、ワタシはその手を離さなかったけれど。
「あはは、リリスちゃん…お友達にそんなことしちゃいけないんだよ?」
痛みで涙目になりながら、ワタシはリリスちゃんに呼びかける。それでも、ワタシはさらに腕に力を入れた。リリスちゃんを、止めるために。
いやだ。
ここでリリスちゃんから手を離したら、ワタシはリリスちゃんの友達ではなくなってしまうからだ。
…けど、リリスちゃんの手にも、さらに力が入った。腕の骨が折れたかと思うほど、ワタシの手に熱い痛みが走る。
「リリス…ちゃん」
ワタシの瞳からは、痛みで涙がこぼれおちる。痛みで、脳が焼き切れそうになるほどの負荷がかかっていた。
…それでも、この手は離せなかった。
そんなワタシに、背後から声がかけられた。
ディーズ・カルガでも、リリスちゃんでもない声が。
「そんなことしたって、骨折り損にしかなりませんよ」
その声には、聞き覚えがあった。
かもしれないが、今のワタシに、その声の主を判別するだけの余裕はなかった。
…はずだったけれど。
不意に、腕の痛みが消えた。いつの間にか、ワタシはリリスちゃんから手を離してしまっていたけれど。
しかし、リリスちゃんの動きも静止していた。
「なに…が?」
起こった?
ワタシもリリスちゃんも、二人して棒立ちだった。狐にでも抓まれたように。
そして、ワタシとリリスちゃん以外の、三人目の女の子がそこにいた。
「ドロシー…さん?」
ワタシの視線の先にいたのは、前に街中で出会った、あのドロシーさんだった。
…けど、この人は今、何をしたの?