45 『聖女ですが、なにか?』
「…………」
世界というのは、驚いたり呆れたりするほどに、だだっ広い。
ワタシのような、こじんまりとした狭い世界しか知らなかった小娘だからこそ、尚更そう感じられるのかもしれないが。
そして、その広い世界には、なぜ、こんな場所にこの生物がいるのだろうか、と疑問に思うことが稀によくある。
たとえば、イソギンチャクの触手の中に隠れ住むクマノミという魚だ。イソギンチャクの触手には毒があるため、他の魚はイソギンチャクにはよりつかない。しかし、クマノミにはその毒が効かない。
なので、クマノミはイソギンチャクの触手の中にいる間は、身の安全が保証されている。対して、イソギンチャクはクマノミの食べこぼしをおこぼれとしていただいている。平たく言わずともウィンウィンという関係だ。
このように、互いが互いに利益をもたらしながら同じ場所で生きることを共生と呼ぶのだそうだ。他人からはそれがどれだけ歪な関係に見えたとしても、当人たちにとってはそれが当たり前の姿だ。クマノミとイソギンチャクが、お互いを許容し合い利用し合って生きているように。
「…………」
ただし、共生は野生の世界にだけ見られる希少な現象というわけではない。
寧ろ、人の世界でこそ共生は必要とされている。共生とは、お互いに足りない部分を補い合うための松葉杖でもあるからだ。
…けれど、『コレ』を共生と呼んでもいいものだろうか。
「ご無事でしたか、ジンさん」
病室に入ってきた青年は、心配そうにジン・センザキさんの身を案じていた。
「なあに、心配はいらないよ。ちょっと三途の川のクルージングを楽しんできただけだから」
不謹慎なジョークでそう返したジンさんは、センザキグループと呼ばれる企業の代表だ。
「さすがに洒落になりませんよ、それは…」
軽く眉を顰めながら安堵した様子を見せていた青年は、『源神教』と呼ばれる教団の一員だった。
…本来、この『源神教』とセンザキグループは相容れない存在のはずだった。
センザキグループは魔石を組み込んだ魔法商品…魔石機の開発、販売を行う一大企業だ。
一方、『源神教』は『邪神』と呼ばれる存在を崇拝し、魔石機を否定する集団だった。
なのに、なぜ、ジンさんとこの青年は親し気に会話をしている?
いや、ジンさんが、ではなく、この青年が怨敵ともいえるセンザキグループの代表と親し気に話していることが不自然なのか。
「おや、花子さんは私がハッシュと仲良くしていることが不思議かな?」
「いえ、不思議というか…」
不自然だと感じていたワタシだったけれど、それを目敏く勘繰るこの人の洞察力も何なのだ。そんなジンさんは、ワタシに説明を始めた。別に、そんなことは頼んでいないのだけれど。
「確かに、私とハッシュの年は離れているし、ハッシュは源神教徒でもある。他の人たちから見れば水と油だろうね」
「源神…教徒」
小さく呟きながら、ワタシはハッシュと呼ばれた青年をちらりと見た。
けれど、この青年が源神教徒ということは、実はワタシも知っていた。以前、街中で見かけた時に『源神教』の信徒たちが着る黄色い装束に、この人が身を包んでいたからだ。さすがに今日は見舞いのためか、あの黄色い装束ではなかったけど。
「そうですね…僕は『源神教』の人間ですが、ジンさんにはお世話になっております。あまり、大っぴらにできることでもないですけれど」
ハッシュさんは、苦笑いにも似た笑みを浮かべていた。しかし、そこから柔和な微笑みへとシームレスにつないで話し始めた。
「ただ、源信教といっても、全ての信徒が魔石を忌避しているわけではないのですよ」
「そうなんですか…?」
街中で大々的にデモなどをしていたので、教団全体で魔石の排斥運動をしていると思っていた。
「魔石が最初に使用されたのは、兵器として、でした」
「魔石が…兵器?」
驚くワタシに、ハッシュさんは魔石の歴史についての講義を始めてくれた。
「この世界には魔法もありますし、スキルもあります。けれど、そのどちらも持たない人たちも数多くいたのですよ…そして、彼らはこの世界の弱者でした」
…異世界だろうとそうでなかろうと、世界には弱者がいる、ということか。
「でも、魔石を活用すれば、『大砲』と呼ばれる兵器も作ることができました。魔法やスキルがなくても、弱者が強者と渡り合えたのです。一方的に搾取されることが、なくなったんですよ。
「強者と、弱者…」
搾取する者と搾取される者、その構図は、この異世界ソプラノにもあったのか。しかし、その一方的な構図を、魔石が塗り変えた。
「しかし、兵器が奪う命はある意味では平等でした…強者だけでなく、弱者の命も奪ったのですから」
ハッシュさんが語る歴史に、ワタシは息を呑んだ。
…そうか、武器が奪うのは強者の命だけではない。分け隔てなく弱者からも奪うんだ。
「源神教徒の中にも、魔石兵器によって娘の命を奪われました母親がいました。その母親を中心にして、源神教の一派が『魔石の排斥運動』を始めたのです。ただ、その排斥運動により魔石の推奨派と排斥派の争いが起こり、その母親もその渦中で命を落としたそうです」
「魔石って、ただ便利な道具というわけでもなかったんですね…」
ワタシたちがこの異世界ソプラノにやってきても快適に過ごせていたのは、間違いなく魔石があったからだ。
「ですが、人々もそこまで愚かというわけではありませんでした。その争いの最中に多くの命は失われましたけれど、最後には和解もできたのです。その決め手は、炊き出しだったそうですよ」
「たき…だし?」
たきだしって、あの炊き出しだよね?
「それまでは兵器として使用されていた魔石を、釜の火力に転用したそうです。そして、そこで炊き出した食事を、みんなに振舞いました。敵味方関係なく、全員に」
そう語るハッシュさんは、少しだけ、誇らしげだった。
そうか、この人は魔石の全てを否定しているわけではなくて、それを悪用する人間を否定しているんだ。
「それが、この世界における魔石の歴史だったんですね」
「その名残りで、未だに魔石の排斥運動をしている源神教徒もいますけれど…」
ややバツが悪そうなハッシュさんに、ワタシは問いかけた。
「あの…どうやって、ハッシュさんはジンさんと交流を持ったんですか?」
ジンさんとハッシュさんの様子から察するに、二人の関係性を聞いてもそれほど問題はなさそうだった。ワタシが不用意に他言したりしなければ、だけれど。
ワタシの問いかけには、ジンさんが答えてくれた。
「いや、大したことはないよ。ちょっと私が、『源神教』の信者たちに火炙りにされかけていたところを助けてもらったんだ」
「火炙りはちょっとで済むことじゃないんですけれども!?」
何をしたらそんなことになるんですか。
…っていうか怖いな、源神教徒。
と思っていたら源神教徒のハッシュさんが言った。
「いえ、実際は『源神教』の火祭りを見物に来ていたジンさんが、「危ないって」言われてたのに炎に近づきすぎて軽い火傷をしただけですよ」
「なんで盛らなくていいところで話を盛ったんですか…」
しかも自業自得じゃないか。
「いやあ、私ことジン・センザキはお祭りが大好きでね。気が付いたら「パンツァー・フオー!」って前進していたんだ」
「いい年した大人がはしゃぎすぎて人に迷惑をかけるとかやめてもらえます?」
秘書のスージィさんが、日頃から(無駄に)苦労しているのが透けて見えるエピソードだった。
「人にどれだけのことをしてあげられるかがビジネスで成功するコツだって、カーネギーが言っていたんだよ」
「今のジンさんのお話のどこに気遣いとかあったんですかね?」
寧ろ、助けられたのはジンさんの方なのですが。
「で、その時に助けられて、私はハッシュと知り合ったんだけど、ちょうどいいと思ったんだよ」
「…何がですか?」
ジト目で問いかけたワタシに、ジンさんは答えた。
「源神教徒たちのことを知る、絶好の機会だって」
「『源神教』のことを知るチャンスって…でも、源神教徒の人たちはセンザキグループのことをよく思っていませんよね?」
街中で、デモのようなことをしていた教徒たちの姿を何度か見かけたことがあった。教徒たちが主張していたのは『魔石機を使うな』という要求だった。しかし、魔石を組み込んだ製品は、この王都の人たちの生活に強く根付いている。魔石を利用した洗濯機や掃除機もあるし、それどころか炊飯器だって存在している。ワタシたちのいた元の世界の家電製品とほぼ同じ役割をしてくれているんだ。今更、それらの魔石機を捨ててそれ以前の生活に戻ることはできないはずだ。
そして、ジンさんはその魔石機を販売している大企業の代表だ。
そんなジンさんとハッシュさんの二人が、こうして膝を突き合わせる距離で話をしていることが、ワタシには不思議でならなかった。人間には、どうしても相容れない存在がいる、と思っていたからだ。
…ワタシも、何度かそういった人たちと出くわしている。
「確かに花子さんの言う通りだ。けど、どうしてよく思われていないのか、それを知るためにも先ずは相手に近づかないと何も始まらないだろ?」
「でも、知りたいと思って近づいても、拒絶されるだけなんじゃあ…」
どれだけ近づきたいと思っても、クマノミ以外のお魚は、イソギンチャクからは拒絶されてしまうんだ。
「確かに、殆んどの信徒たちからは拒絶されたよ。けどね、その集団の全員に嫌われることって、実は少ないんだよ」
ジンさんは、やや得意気にも見える笑みを浮かべていた。そして、さらにやや得意気に続ける。
「どれだけ一枚岩に見える集団でも、その中の人間たち全ての思想を一色に染めることはできない。必ず、はみ出し者というのは出てくるんだ」
「そのはみ出し者が、僕ということですか」
ハッシュさんは、小さくため息をついていた。
「いや、それは悪いことじゃないよ、ハッシュ。集団にははみ出し者も必要なんだ。新しい発想っていうのは、はみ出し者が産み出すことが多いからね。というか、統一された完全な集団なんて、それこそ健全じゃない。それは、裏を返せば個々の性質を完全に殺しているということだからね。横暴もいいところだ」
ジンさんは、そこで一瞬だけ、苦虫を嚙み潰したような表情を見せた。だが、それは本当に一瞬だけで、すぐに次の言葉につなげた。
「まあ、かく言う私もセンザキグループにおいては、はみ出し者の部類に入るんだけどね…いや、はみ出し者どころか鼻つまみ者か。グループの代表なのにね」
自嘲気味に、誇るように、ジンさんは笑っていた。ワタシもハッシュさんも、どう答えればいいのか分からずに困ってしまう。なので、ジンさんがさらに話を続けた。昏睡状態から目覚めたばかりだというのに、よく舌の回る人だ。
「ところで、私を刺した相手なんだけど…あの後、どうなったのかな」
「ええと、それは…」
ジンさんからそのことを聞かれるとは想定外だった。いや、この人の性格なら、自分が襲われた時の状況にすら興味を抱きそうだ。
「ジンさんを襲ったのは…ディーズ・カルガという人物です」
少し逡巡した後、ワタシはバカ正直に答えた。ここで下手に誤魔化したりしても、この人ならすぐに犯人の情報を得るだろうと判断したからだ。
「ディーズ・カルガ…センザキグループにはいない人間だな。なら、グループのダレカが雇った『仕事人』ってところか」
ジンさんは無精髭の伸びた顎を右手でさする。ゆっくりと、何度も。
「あ、ええと…」
ワタシは、ここで何を言うべきか迷っていた。ワタシとディーズ・カルガには面識があるし接点もある。だが、あの人をここで庇う義理も道理もありはしない。あの人には、何度か危険な目にも遭わされているからだ。
そして、戸惑っていたワタシの代わりに口を開いたのは、ハッシュさんだった。
「そのディーズ・カルガという不審人物ですが、まだ捕まってはいません…でも、『源神教』の信徒たちが何度か目撃しています」
ハッシュさんの言葉は、ワタシも揺さ振った。
源神教徒たちは、ディーズ・カルガの足取りを掴んでいたのか?騎士団や憲兵さんたちも、その消息は掴めていないのに?
そして、以前、ディーズ・カルガと一緒にワタシも『邪神』を崇める『源神教』の『祀り』に潜り込んだことがある。
いや、その時、ワタシが『邪神の魂』に触れたことで『邪神の魂』は『花子』の姿になったんだ…改めて考えると何を言っているのか分からなくなりそうだけど、源神教徒たちからすればワタシは、自分たちの崇拝する『邪神』をかすめ取った泥棒猫のようなものではないだろうか。
元々、あの『花子』はワタシの中にいた『邪神の魂』なんだけど、そんなこと他の人たちは知らないしね。
ただ、そうなると、『源神教』の信徒であるハッシュさんからも、(筋違いとはいえ)ワタシが恨まれている可能性はある。
…あれ?
これって、けっこうヤバイ状況なのでは?
「何者なんだい、そのディーズ・カルガというのは」
ジンさんは、割りと平然とディーズ・カルガについて尋ねていた。自分を刺した相手だというのに。
「何者なのかは分かりません…しかし、そのディーズ・カルガという人物は、僕たち『源神教』の『儀式』にも潜入してきたのです」
「私を襲った人間が、『源神教』にもちょっかいをかけていたのか?」
さすがのジンさんも、表情が変わった。まさか、自分を刺した相手が『源神教』にも手出しをしていたとは思わなかったようだ。いや、そうだよね。よくよく考えれば意味が分からないよ。それ以外にも、あの人はリリスちゃんのフィアンセを自称していて…というかリリスちゃん(大)の誘拐という大罪にも手を染めている。重犯罪のランチボックスかよ。
「そうですね…僕たちの儀式に潜り込んできたのは、そちらの花子さんもなのですが」
ハッシュさんは、困ったような表情でワタシを見つめていた。
…え?
もしかして、ハッシュさんもあの場にいたの?
というか、これ…ワタシ、あの人の共犯者だと誤解されてるのでは?
いや、『花子』の件に関してはそう思われても仕方ないんだけどさ!?
「ち、違いますよ!?あの人には、ワタシも騙されてたっていうか…あの儀式には無理矢理、連れて行かれましたし、ジンさんを襲ったこととはワタシ、ホントに無関係ですからね!?」
やや舌足らずになりながら、ワタシは弁明した。冗談ではない。あんな怪しいヤツの仲間だと思われたくはない。はっきり言って、ワタシもアイツには迷惑をかけられているし、どちらかと言えば敵対者なのだ。
「そうか、花子さんは無関係か。それを聞いて安心したよ」
「信じて、くれるんですか、ジンさん…?」
今のワタシでは、自分の身の潔白を証明することができないというのに、ジンさんはワタシの言葉を咀嚼もせずに鵜呑みにしていた。
「初対面でも分かるよ。花子さんは腹芸ができるタイプじゃない。これでも、海千山千の大嘘つきたちが屯する伏魔殿で代表をやっているんだ。人を見る目には自信があるよ」
ジンさんは、年不相応な少年のような若々しい笑みを浮かべていた。
「そうですね。僕たち『源神教』の信徒たちの間でも、花子さんは『聖女』と呼ばれていますしね」
何やら耳慣れぬ言葉が聞こえてきた。発したのはハッシュさんだったけれど。
…聖女?
「え、聖女…?ワタシ、が?」
思わず、変な声が出てしまった。
「ええ、僕もあの儀式の時に拝見いたしましたしね。花子さんが『邪神』さまの魂に触れた時、『邪神』さまが人の形をなしたのです。あれを、奇跡以外に何と呼べばいいのか、僕には分かりません」
ハッシュさんは、両手を組み合わせ、祈るような仕草をしていた。
…けど、確かにアレはちょっとした奇跡だったよね。自分で言うのもなんだけどさ。
ワタシは、すぐ『花子』に慣れちゃったからあんまり気にしてなかったけど。
「そうか…花子さんは『聖女』さまだったのか」
そう言ったジンさんは、笑いをこらえていた。いや、こらえきれていなかったけど。この人の観察眼からすれば、ワタシが聖女という柄ではないことくらいすぐに分かるんだろうね。だけど、それを認めるのも癪なので「聖女ですが、なにか?」と、言っておいた。
「ふうむ…聖女である花子さんをダシにすれば、センザキグループとしても、もう少し『源神教』とお近づきになれるかもしれないな」
やはり、ジンさんは抜け目がない。こういうところが、浮き沈みの激しい経済界で生き残ってきた秘訣なのだろうか。
「けど、そもそもなんで『源神教』は魔石機を目の敵にしてるんですか?」
ワタシのような途中乗車の『転生者』では、歴史の細部は知りようがないのだ。
「そうですね…それに関しては、僕も詳しくは知りません。もっと上の人たちなら知っているかもしれませんが」
ハッシュさんは、少し申し訳なさそうにしていた。ハッシュさんが気にすることなど何もないのだけれど、この人の生真面目さがそうさせたのか。
「ただ、『邪神』さまが今の『邪神』さまのようになってしまった原因に、魔石が関わっている…という話を、聞いたことがあります」
「『邪神』に…魔石が?」
元々、『邪神』というのは善神だった。
人々の邪気をその身に吸収し、人々の争いを止めたという話を、ワタシも聞いていた。
しかし、あまりに多量の邪気を浴びてしまったため、『邪神』は今のような破壊の『邪神』へと変貌してしまった。
…けど、その原因に、魔石が関わって、いた?
それは、寝耳に水の初耳だった。