38 『そんな風に考えていた時期が、ワタシにもありました』
「いいですか、花子さん。やましさやわだかまりのない澄んだ心。それこそが明鏡止水です」
「はぁ…」
ワタシは、気の抜けた相槌を打っていた。
なぜなら、微塵も共感できなかったからだ。
「心を落ち着けるのです。凪いだ水面のように」
「…そうですね」
ワタシは今、人生で一番どうでもいい相槌を打っていた。そういう意味では心は空っぽだったので、明鏡止水と言えなくもないのではないだろうか。雲一つないこの晴天の空とワタシの心は、ある意味ではリンクして、ある意味では乖離していた。
そんなワタシに、カノジョは…タタン・ロンドさんは語りかけてくる。つらつらと澱みなく、流暢に。
「そう…釣りに必要なのは、澄んだ心なのです。この清流の流れと同じように平静を保っていれば、本来なら見えないはずの水の中の様子でさえ、手に取るように把握できるのです」
ワタシとロンドさん、それから『花子』の三人は王都にある渓流を訪れていた。
そして、ワタシとロンドさんは川べりで釣り糸を垂らしていた。
…なんでだろうね?
「花子さん、釣りの極意とは忍耐強く待つことなのです…」
ついには釣りの極意とか口にし始めたけれど、カノジョは『坊主』だった。ただの一匹も釣れていないのだ。にもかかわらず、釣りに対する蘊蓄を朗々と披露していた。とんだ太公望もあったものだ。完全な初心者であるワタシでさえ、一匹は釣れたというのに(釣れた時はテンションがMAXになったよ初めてだったからね)。ちなみに、『花子』は十五分もしないうちに十匹以上の魚を釣り上げ、『これ以上はお魚さんがかわいそうなので』と切り上げた。どちらかと言えば、一匹も釣れていないくせに得意気に釣りを語っているロンドさんの方が不憫ではある。穏便に済ませたいので、余計なことは口にしないけど。沈黙は金なのだ。
「そう…釣りとは、魚たちとの闘いではありません。内なるの自分との対話なのです!」
言葉とは裏腹に、ロンドさんは忙しなく竿を動かしている。一匹も釣れなくて落ち着きがなくなっているようだ。釣りの極意とやらはどこから来てどこへ行ってしまったんだろうね?
「ところで…そろそろ話してもらえませんか?」
ワタシはそこでロンドさんに…ローブの魔法使いである彼女に、視線を向けた。
その瞬間、川面で魚が小さく跳ねた。陽光に照らされていた水面は、小さな波紋を作る。
「え、何をですか?私は今、この川の主を釣り上げるので忙しいのですが」
「あなたが話があるって、ワタシたちをこんなところまで連れて来たんじゃないですか…」
この場所なら、誰にも邪魔されずに話ができるから、と。
あと、この川の主っぽい魚なら、さっき『花子』が釣り上げてましたからね?
「む、そう言えばそうだった気もするけど…なんでだったっけ?」
「ワタシとナナさんを殺しかけた時のあのミステリアスさはどこに行ったんですかねぇ!?」
あれですか?
味方になると急にポンコツになるタイプの人ですか?
というか、なんでワタシもこの人について来ちゃったかな…この人からは、聞かなければならないことがたくさんあったとはいえ。
「ああ、そうか…私、花子さんと『邪神』の関係について聞きたかったんだった」
ローブの魔法使い…いや、今は顔を隠してはいなかった。ローブで隠されていた素顔は、短髪の若い女性だ。細い眉が凛々しく意志の強さを感じさせていた…そんな風に考えていた時期が、ワタシにもありました。
「…ワタシだって、ロンドさんには聞きたいことが山ほどあるんですよ」
とはいえ、それで、殺されかけた相手にほいほいついて来ちゃったワタシもどうかとは思うけど。
でも、今は『花子』も一緒だったし、当然、『念話』でシャルカさんにも連絡済みだった。打てる手は、事前に打ってこそ布石となるのだ。
…それに、前にご神木の傍で『邪神の魂』を奪い合ったあの時と、この人の雰囲気が全然、違っていたんだよね。
あの時はなんかこう…オーラというか魔力というか、そういう刺々しい気配に覆われていたけど、今のこの人はワタシたちと何ら変わらない普通の人という感じしかしなかった。ワタシだって、この異世界に来てから色々と危ない目にも遭っている。だから、少しは分かるようになった。相対する相手に敵意や殺意があるかどうか、くらいは。
「花子さんが私に聞きたいこと、か。いいかい、釣りというのは魚に合わせてエサや針を変えないといけない高度な情報戦でもあるん…」
「この期に及んで釣りのことで先輩風を吹かそうとするのやめてもらっていいですか!?」
下手の横好きなのはすぐに分かりましたからね?
しかも、好きなのは釣りじゃなくてそれっぽい雰囲気を出すことですよね?
「ええと、その…あなたは、ワタシたちと『邪神の魂』を奪い合ったあの人ですよね?」
この人に任せていては日が暮れるので、ワタシが主導権を握ることにした。先ずは、そこの確認が必要となる。あの時と同じローブに身を包んでいたとはいえ、雰囲気が違い過ぎるんだよね、この人。
「ああ、そうだよ」
ロンドさんは、拍子抜けするほどあっさりと認めた。少しも悪びれなかった。
…ワタシやナナさんを、あの火球で焼き払おうとしていたにもかかわらず。
「どうして…ワタシたちを殺そうとしたんですか?」
ワタシの声に、緊張が混じる。
今のこの人からは殺意や悪意は感じられなかったけれど、それでも、不意に不安がワタシにまとわりついて来た。
「ああ、あの時は花子さんたちが『邪神の魂』を狙う悪党だと思ったのですよ」
「悪党…ですか」
少しだけショックだった。一度もなかったからね、悪党呼ばわりをされたことなんて。甘党だと言われことは何度もあるけれど。
「でも、あの時、花子さんたちはお互いを庇い合うような言葉を交わしていましたし…『邪神の魂』を狙う悪人ではないと分かったのですよ」
「…だから、ワタシたちを見逃してくれたというわけですか」
けど、この人の匙加減一つで、ワタシもナナさんも命を奪われていた…ということではある。そして、いつでもそれができる人なんだ、この人は。だから、この人はワタシの命に頓着をしなかった。
…いや、今もしていない。
「じゃあ…どうして、ロンドさんは『邪神の魂』を奪ったんですか?」
ワタシは次の質問を口にした。
薄氷を歩くように、慎重に言葉を選んで。
けど、この質問だけは、譲れない。
「そう…だね」
そこで、ロンドさんは虚空を見上げた。
ワタシたちの間を、青空から降りて来た風が通り抜けていく。
それで、何かが変わるとも思えなかったけれど。
「時に花子さん」
「…なんですか」
いや、変わっていた。
ロンドさんの気配に、変化があった。
その瞳に意思が宿り、細めの眉が凛々しくなる。
…ワタシは、思わず身構えていた。
「花子さん。私と一緒に、世界を救わないか?」
「…………はい?」
数秒ものタイムロスの後にワタシの口から出たのは、困惑だった。深刻な表情からこんな言葉が出てくれば、ワタシだって戸惑うに決まっている。
「世界を…救わないか?」
ワタシも、その言葉を口に出してみた。
本来なら、リアルでこんな言葉を口にすればこっ恥ずかしさに身悶えするところかもしれない。どれだけ中二病を拗らせればこんな青臭い台詞が出てくるのだろうか。
ただ、あまりにピントのずれた言葉だからか、ワタシが口にしても羞恥に身悶えることはなかった。
「花子さんなら、私と一緒に世界を救えると思えるんだ」
「…真顔で世迷言を言うのやめてもらっていいですか?」
世迷言には慣れたつもりだけれど、雪花さんたちとはまたカテゴリの違う世迷言だった。
そもそも、よしんばワタシが世界一位だったとしても、世界なんか救えないよ?
「世迷言なんかじゃないよ。是非とも、花子さんには力を貸してもらいたいんだ」
「いや、なんというか…そもそも、世界を救うってどういうことなんですか?」
「ああ、この世界は滅びかけているんだよ」
ロンドさんは、誇張も膨張もない声で、そう言った。聞き捨てのならないセリフを、あっさりと。だからこそ、その言葉は真実味を帯びていた。余計な装飾が、一切なかったからだ。
「どういう…ことなんですか?」
シンプルな言葉で、ワタシは問いかける。
「あー、ちょっとだけだけど、さっき感じなかったかな?なんていうか、こう…『世界が終わる』感覚みたいなのを」
「もしかして…空に亀裂が入ったあれですか?」
「お、ちょうどいいや。花子さんもあれが見えていたんだね。なら、分かるはずだ。私が嘘を言っていないってことは」
ロンドさんは、それまでのダメ人間ぶりを清算するほどの精悍な表情を浮かべていた。
「もしかして…さっきみたいなことが、また起こるんですか?」
ワタシは、声を震わせながら問いかけた。先ほどは、確かに世界が終わる感覚というのをワタシも感じた。けど、『花子』が言っていた。世界はそう簡単には終わらない、と。世界を壊そうとする概念があったとしても、それ以上に屈強な概念でこの世界は補強されている、と。
だから、ワタシは向けを撫で下ろしていた…のに。
「起こるよ。確実にね」
ロンドさんは言い切った。凛々しい面持ちを保ったままで。
「なぜ…ですか?」
「まあ、本来ならさっきみたいな『亀裂』は世界のバグみたいなものでしかない。ああいうことも稀にあるけど、そう簡単に世界は終わったりしない。けど、その世界のバグを後押しするヤツがいるんだ」
「それ、は…世界を滅ぼそうとしているダレカがこの世界にいる、ということですか?」
本来なら世界を崩壊させるほどの力はないはずのあの『亀裂』に、力を与えている人間がいる…?
誰だ、そんな馬鹿げたことをしている大馬鹿者は。
そして、ロンドさんはその名を口にした。
「残念なことにいるんだよ…そして、そいつは『魔女』と呼ばれている」
「…『魔女』?」
ここは異世界で、ワタシがいた元の世界とは違い、魔法が存在している。
だとすれば、『魔女』と呼ばれる人間がいても、何ら不思議はない。
…不思議は、ない?
「…いや」
ワタシは、聞いたことがなかった。
この世界に、『魔女』がいるという話を。
魔法があるのなら、この世界に『魔女』がいても矛盾はない。ないはずなのに、『魔女』という言葉がこの異世界ソプラノでは普遍的ではなかった。冒険者ギルドで働いているこのワタシが聞いたことがないというのは、あまりに不可解だ。
「…いや」
ワタシは、聞いたことが、あった。
今の今まで失念していただけで、確かに『魔女』という言葉を耳にしていた。
…『魔女』。
それは、世界を滅亡寸前まで追い詰めた脅威の名だ。
けど、女神であるアルテナさまたちでさえ、その存在を詳細に把握しているわけではない。
それだけ古い存在だからだ。
そして、その古いはずの存在の名が、ここで浮上してきた。
世界を終わらせるモノの名として。