36 『花子と『花子』で花子がダブってしまった…』
「ありがとう、『花子』。じゃあ、次はスープ皿をテーブルに並べてもらっていいか?」
『はい。慎吾サン』
慎吾と『花子』が、うちの台所で夕食の支度に勤しんでいた。たくさんの野菜を、時間をかけてことこと煮込んだスープの芳醇な香りが、キッチンの隅々にまで充満している。
「『花ちゃん』、今日の夜もゲームで遊ぼうよ。新しい双六が完成したんだ、今度のは自信作だよ」
『はい。分かりました。繭ちゃんサン』
繭ちゃんが、『花子』に自作の双六で遊ぼうと誘っていた。ゲーム(アナログ)作りは、繭ちゃんの趣味である。
「『花子殿』、今度、拙者と一緒に買い物に行かないでござるか?」
『了承です。雪花サン』
雪花さんが、『花子』とショッピングの約束を取り付けていた。そういえば、雪花さんはそろそろ画材の買い足しが必要だと言っていたか。
…けど、さあ。
「『花子』のこと『邪神』って呼ぶのやめなよおっ!?」
花子ことワタシは叫んでいた。
「いや、それは逆でござるが…」
雪花さんはそう訂正したが、ワタシはそれぐらい混乱していたのだ。
だから、ワタシはこんな風に動転して叫んだりもするのだ。
「っていうか、みんな『花子』を受け入れすぎなんじゃないかな!?」
「とりあえず落ち着けよ、花子(元)」
「(元)ってなんだよ!?花子は一人、このワタシだぁ!」
慎吾も慎吾だけど、繭ちゃんや雪花さんもおかしかった。みんな、『花子』との距離感が近いんだ。そんな『花子』は、心配そうにワタシに声をかけてくる。
『大丈夫ですか?お水でも飲みますか?花子サン(親株)』
「親株って呼ぶなぁ!ワタシはアンタを株分けした覚えなんてないんだよ!?」
里芋とかじゃないんだよ!?
「そもそも、なんで『花子』はそんなに馴染んでんの!?」
あまりのツッコミ疲れに、息が上がっていた。多分、この異世界に来てからの一日のツッコミ最多回数が更新された瞬間だった。
「だから落ち着けって、花子」
「逆に聞くけど、なんで慎吾はそんなに落ち着いてるの!?この子は『邪神』なんだよ!?」
ワタシをなだめようとする慎吾に、ワタシは言った。
そう…『花子』は、『邪神』だ。
もう少し正確に言うのなら、『花子』は『邪神の魂』だった…そのはず、だった。
「…………」
先日、あの洞窟の中で、『邪神の魂』だったはずのモノが人の形を成した。
そして、全員があっけに取られているうちに、『邪神の魂』だったモノは洞窟の壁を突き抜けるという離れ業をやってのけて、どこかへ飛び去ってしまった。
その時、ワタシは密かに覚悟をしていた。
二度と『邪神の魂』…おばあちゃんの記憶を取り戻すことはできないのではないか、と。
あの『邪神の魂』の足跡を辿ることは、不可能だと思えた。
きっと、あの子はどこか遠くへ行ってしまったのだと、そんな予感があったからだ。
…家に帰ったら、普通にこの子がいたけれど。
しかも、既にひとっ風呂浴びた後で、繭ちゃん白ちゃんと一緒にくぴくぴとぶどうジュースを飲んでいたけれど。
「いや…まあ、そこまではいいよ?」
歯噛みをするくらい譲歩して…だけど、そこまでは、まだよしとしようか。
問題は、その先だ。『邪神の魂』であるこの子は、他に行くところがなかったらしく、この家にやってきた。この子はワタシの中にいて記憶を共有していたから、この場所のことも知っていたんだ。
「けど、みんなでこの子を『花子』って呼ぶのはおかしいよね!?花子と『花子』で花子がダブってしまった…じゃないんだよ!?」
なんで花子がいるのにこの子も『花子』なの!?
いやまあ、この子のことをなんて呼ぼうかって話し合いをしている時に、この子が言ったんだけどさあ…『わたしのことは『花子』と呼んでください』って。
…だからって『花子』が定着するのおかしくない!?
普通は却下するよね!?
『でも、お主らほぼ顔が一緒じゃないか』
地母神さまのティアちゃんは、まんまるお目めでワタシと『花子』を見比べていた。
当然、ワタシは反論だ。朝までだって生で討論をやってやるよ!?
「ちょっと似てるだけですー!ちゃんと、花子ちゃんと『花子』は違いますー!」
そう、厄介なことに、この子の顔はワタシによく似ていたのだ。それも、この子が『花子』と呼ばれている一因でもある…のだろうか?
とりあえず、今日は引き下がるわけにはいかない。今までなあなあにしていたから、『花子』が『花子』になったんだ。
「今まで一緒にいた慎吾ならワタシとこの子の違いなんてすぐ分かるでしょ!?はい、慎吾!」
ワタシは、そこで慎吾に振った。慎吾は、この中では一番、ワタシとの付き合いが長いんだ。バシッと言ってくれるに違いない。
「違いか、そうだな。『花子』は花子よりはやせ、いや、スリム…ううん、身軽だな」
…デリカシーのない慎吾に聞いたのは間違いだったかもしれない。
なので、ワタシは繭ちゃんに矛先を向けた。
「じゃあ…繭ちゃん!ワタシと『花子』の違いを答えなさい!」
「ええとね…『花ちゃん』は花ちゃんよりお尻が小さいよ」
…この子は、慎吾よりも容赦がなかった。
「…雪花さん!」
「ええと…『花子殿』の方が花子殿より胸が大きいでござるな」
「ガッッッッデム!」
揃いも揃ってワタシの味方はいなかった。
『別に、花子と『花子』が区別できとらんわけじゃないし、それほど困っておらんじゃろ?』
ティアちゃんまで後ろからワタシを刺してきた。
確かに、慎吾も繭ちゃんも雪花さんも、『花子』を呼ぶ時には微妙にイントネーションを変えてるんだよね。だから、ワタシも『花子』もそこまで不便はしてないというか…いや、そういう問題じゃないよね!?これ、ワタシのアイデンティティの問題だよね!?
「だって、このままじゃ『花子』に花子の座を奪われちゃうよ!?」
…そうなのだ。
なんだか、『花子』がみんなと打ち解けていくたびにワタシの居場所がなくなっていく気がするのだ。
「花子は花子で、『花子』は『花子』だろ。誰も花子のことを蔑ろにしたりしないよ」
「…慎吾」
「オレたちはただ、花子と似た顔の『花子』だから、困ってるのを放っておけないだけだよ」
「…………うん」
そんなやさしい口調で言われたら、ワタシとしても強くは言えなくなるじゃないか。
そして、『花子』もワタシに声をかけてきた。
『あの、花子サン…『花子』は花子サンが好きです。なので、花子サンと仲良くしたいです』
「『花子』…」
捨てられた子犬のような『花子』の視線に、ワタシは既に陥落していた。
「まあ…『花子』がみんなに危害を加えたりしないのは、知ってるけど」
そう、この子は『邪神』でありながら、これっぽっちも瘴気を発したりしないんだ。だから、周囲のワタシたちにも健康被害が出たりもしていない。それに、あの『邪神』のように無差別にダレカを傷つけたりもしない。『花子』は、完全に人畜無害だった。そして、最初にいきなり飛び去ったあの時以来、『花子』は一切、不思議な力を発動したりはしなかった。発動しなかったというか、何の『力』も持っていなかったんだ。
『では、『花子』は、ここにいてもいいですか?出て行かなくて、いいですか?』
そう言って、『花子』はワタシの手を軽く握った。その手は、ただの女の子の手だった。
…いや、この子の手、ワタシよりちょっとやわらかかったかもしれない。
「ああ、うん…いいよ」
…結局、最後にはワタシが陥落した。
この子が『邪神』でありながら『邪神』ではないのなら、追い出すことはワタシにはできない。
『ありがとうございます、『花子』サン。わたし、とても嬉しいです』
「うん…それは、よかったよ」
ワタシは、『花子』に抱きしめられていた。
…というか、なんだかんだで一番この子に懐かれてるのって、ワタシだったりするんだよね。
繭ちゃんも、「花ちゃんばっかり『花ちゃん』と仲良くしてズルい!」って唇を尖らせたりしてるしね。
瘴気の問題もない、『邪神』でありながら人を傷つけたりもしない。
となると、正直なんの問題もないんだよね、この子がここにいても。
…いや、気がかりなことは、あるといえばあるんだよね。
「ねえ、『花子』…『花子』はまだ思い出せない?」
ワタシは、『花子』に問いかける。
根がかりのように『花子』に喰い込む、その気がかりを。
『すみません…まだ、思い出せません』
「いや、謝らなくていいよ。それに、思い出せなくても焦る必要はないからね」
しょんぼりした『花子』に、ワタシはそう言った。
こうして『花子』が人の形を成したのには、理由があった。
心残りがあるそうなのだ、『花子』には。
この『花子』は、正確には『邪神』そのものではない。世界を何度も滅ぼしかけた『邪神』は、その魂をワタシのおばあちゃんの中に封じられた。
そして、ワタシもおばあちゃんから『邪神の魂』を受け継いていたけれど、それはレプリカのようなもので、本来の『邪神の魂』ではない。なので、そのワタシから派生した『花子』も、この世界で猛威を振るっていたあの『邪神』とは別物と言って何の差し障りもない。
「…………」
けれど、それはそれとして、『邪神』の記憶というか…その名残りのようなものは残っているらしく、それが、『花子』の中で心残りになっているのだそうだ。
なので、『花子』はその心残りを消し去るために人の形を成した…そうだ。
ただ、本人もその辺りの仕組みはよく理解しておらず、自分がどうやって人の形になれたのかもよく分かっていなかった。
一つだけ分かっているのは、『花子』がその心残りを解消するために人の形をとったことと、その心残りが何なのか、『花子』自身も分かっていない、ということだけだった。
おそらくは『邪神』に関わることなんだろうけど…こればっかりは本人に思い出してもらわなければワタシたちには手の貸しようがない。貸しようはないけれど、ワタシは『花子』に言った。
「ねえ、『花子』…『花子』の心残り、ワタシも探してあげるよ」
『いいの…ですか?』
何度か、驚いたように『花子』は瞳を瞬かせていた。
「まあ、これも縁っていうか奇縁っていうか…そんな感じだしね」
普段はあまりそうした素振りは見せないが、この子は時折り、寂しそうな表情を見せることがあった。それはおそらく、その心残りのことを考えている時だ。
…ワタシとしても、自分に似た顔のこの子がそんな顔をしているのはあまり見たくない。
そんなワタシに、『花子』はまた抱き着いてきた。
ああ、そうだ。
ワタシと『花子』は似ているけれど、決定的に違うところがあった。
この子とワタシは、匂いが違っていたんだ。自分の匂いというのはあまり分からないけれど、ワタシと『花子』の匂いはきっと、違っていた。
そして、ワタシは『花子』の匂いが好きだった。
なんだか妙に落ち着くんだよね、この匂い。
『ありがとうございます、『花子』さん…やっぱり大好きです』
「ああ、うん…どうしたしまして」
こうして、またワタシはトラブルを一つ抱え込むことになった。
まあ、この子のトラブルはワタシのトラブルと言えなくもない。
元々、『花子』はワタシの中にいた『邪神の魂』だ。
いつか、ワタシの中に戻る時が来るという予感はあった。
ただ、今現在、『花子』はワタシの中には戻れないらしい。まあ、人の姿になった時も『花子』は無意識だったそうだし、自分の意志で出たり入ったりはできないようだ。
けど、その心残りを消すことができれば、『花子』はまた、ワタシの中に戻る時が来るはずだ。
そして、その時、おばあちゃんの記憶も、ワタシの中に戻ってくるのではないだろうか、
だから、ワタシは『花子』にそんな約束をした。
けれど、いつものことと言うか何と言うか…ワタシの想定外の事態が、ワタシの知らないところで引き起こされていた。
「…………」
この翌日、ワタシは『花子』と共に街中を歩いていたのだけれど、そこで、ワタシも『花子』も目撃してしまった。
…この世界の空に、亀裂が入る瞬間を。