28 『我らがセンザキの光をあまねく世界に!ってことですか?』
「…アルテナさま、だったんですね」
室内は、膨張したワタシの感情に満ちていた。
臨界に達していたワタシの怒気が、冒険者ギルドの応接室を隅々まで埋め尽くしていた。
その部屋の中で、ワタシはアノ人に言った。
「アルテナさまだったんですね…ワタシから、おばあちゃんの記憶を奪ったのは」
部屋は、歪なほど静謐だった。
ワタシは頭に血が上り、軽く眩暈すら感じていた。
それでも、ワタシはアノ人を…シャルカさんを、ねめつけていた。
シャルカさんが『天使』という存在であろうが、おかまいなしに。
『…そうだ』
シャルカさんの簡素な言葉に、悪びれた様子はなかった。
『花子から『邪神の魂』を抜き取ったのは、アルテナさまだ』
簡潔に、事務的に『天使』はそれだけを口にした。何の感情も加味されていない原液の事実は、ワタシの神経を丹念に逆撫でする。
「どうして、そんなこと…したんですか」
喚き散らしたい衝動を、無理矢理、抑え込んだ。そんな必要は、なかったのかもしれないけれど。
「ワタシがおばあちゃんの記憶を失くして…どれだけ辛い思いをしたか、知っていますよね」
おばあちゃんの記憶が消えたことで、ワタシの中から大切な芯となる部分が、根こそぎ抜け落ちた。
「ワタシの、短くて少ない人生経験の根幹にいた人なんですよ…おばあちゃんは」
ワタシの中からおばあちゃんがいなくなり、立って歩くことすらできなくなりそうなほど、ワタシの精神バランスは崩れた。
「ワタシは…他の人たちよりも、持っている思い出が、少ないんだよ」
同年代の子たちよりも、家族と遠出のお出かけをした記憶がワタシは少ない。
きっと、他の子供たちは山登りに行ったり、潮干狩りに行ったりと、そうした楽しい記憶を家族と共有しているはずなんだ。いや、特別なお出かけじゃなくても、新しい服を買いにショッピングに出かけたり、流行りの映画を見に行ったり、ちょっとしたご馳走を食べに外出したり、しているはずなんだ。
「…………」
ワタシは、遠出のお出かけどころか、近所の公園にすら、満足に行けなかった。
この体が、性質の悪い病魔に侵されていたからだ。
けれど、その数少ない記憶の中には、おばあちゃんがいた。
…いてくれた、はずなんだ。
近所の公園まで、子供の頃のワタシの手を引いて歩いてくれた人が、いたんだ。
お母さんでもお父さんでもない人が、ワタシの傍にいてくれた…はずなんだ。
その時の記憶は、靄がかかったように、不鮮明だった。
どれだけ手を伸ばしてもその記憶は曖昧で、ワタシの手を、嘲笑うようにすり抜ける。
その喪失感が、教えてくれる。
おばあちゃんが、ワタシという人間の主軸になっていた人だった、と。
…失くしたからこそ、その有難みが浮き彫りになっていた。
「それなのに!どうして!ワタシからおばあちゃんを奪ったんだよっ!」
何もかもをかなぐり捨てて、激昂していた。
理性的に問い詰めるはずだったのに、できなかった…。
できるわけないだろ!?
奪われたうばわれたうばわれた!
信じていたのにしんじていたのに!
ワタシのおばあちゃんだぞ!
「ワタシは、少ないんだよ…他の子たちよりも、楽しい想い出が、ずっとずっと、少ないんだよ」
みんなは、小さな頃の大きな想い出を背負って、大人になる。
大人になったら、きっと、その記憶が背中を押してくれる。辛い出来事が起こったとしても、その思い出が支えになってくれるんだ。
…だけど、ワタシには、圧倒的に、その想い出が、少ない。
「そんなワタシから、おばあちゃんを取り上げないでよお!!」
なんで!なんで!なんでみんなワタシから奪うんだよ!
ワタシはずっと奪われてきた!子供の頃からずっと、与えられずに奪われ続けてきた!
「なんで!?『転生』したら色んなモノが与えられるんじゃないの!?『転生者』って、ちやほやしてくれる仲間に囲まれて、楽して英雄になれたりするものじゃないの!?阿漕なチート能力とか使って、何の苦労もないスローライフを送れるんじゃないの!?」
いつの間にか、ワタシの声は枯れていた。
頬も、涙でとっくにぐしゃぐしゃだった。鼻水まで、垂れていた。
それでも、ワタシは叫ぶ。シャルカさんの上着を、両手で掴んだままで。
「想い出すら少ないワタシから、これ以上奪うなよ…そんなにワタシが嫌いなのかよお!?」
泣きじゃくるワタシと、口を閉ざしたままのシャルカさんが向かい合う。
「もうユニークスキルなんていらないから、返してよ…たった一人の、ワタシのおばあちゃんを返してよお!」
ワタシにとっては、スキルなんかよりもかけがえのない宝物なんだよ!
『花子…』
シャルカさんが、重い口を開く。
そして、正論らしき言葉を吐く。
ワタシにとって、それは毒でしかなかったけれど。
『アルテナさまが花子から『邪神の魂』を奪ったのは、お前を守るためだ』
「そんなお為ごかしはどうでもいいよ!ワタシはおばあちゃんを返してって言ってるんだよ!」
『一時的な処置のはずだったんだ…花子には、後でちゃんと『邪神の魂』を戻すはずだった』
「おばあちゃんの記憶は、ワタシの目の前で、連れて行かれちゃったんだよ…きっと、もう、帰ってこないんだよぉ」
そこで、ワタシは膝から崩れて座り込んだ。
涙も鼻水も垂れ流したままで。
もう、どうでも、よくなってきた。
…もう、ワタシ、立てないよ。
「帰りたい、よ…おばあちゃんたちのいるあの家に、帰りたいよぉ」
想い出なんて呼べる楽しい記憶は、あの家には殆んどなかった。
楽しい思い出よりも、辛い記憶の方が深く刻まれているから。
それでも、今、ワタシが帰りたいと願ったのは、あの家だった…。
この異世界に来てから、最も強く『帰りたい』と願った瞬間だった。
「花子…」
いつの間にか、そこにいたのは、桟原慎吾だ。
その呼びかけに、ワタシは何も返せなかった。
ただ、顔を伏せただけだ。
もう、どうでもよかったけれど。
…この泣き顔だけは、見られたくなかったのかもしれない。
「アルテナさまは、花子の中の『邪神の魂』が狙われてることを知っていたんだ。だから…」
そんなワタシに慎吾は語りかけてきたけれど、ワタシは、慎吾が口にした言葉に反応していた。
「慎吾も…知ってたの?」
「花子…」
「慎吾も、アルテナさまがワタシから『邪神の魂』を奪ったこと…知っていたんだね」
慎吾の口振りから、それは察することができた。
「…ああ、後になってからだけど、アルテナさまがオレにも話してくれたんだ」
「さぞや滑稽だったよね…ワタシが、おばあちゃんの記憶を失くして、おろおろしてる姿は」
「そんなことあるわけな…」
「みんなして騙してたんでしょ、ワタシのこと…っていうか、おばあちゃんの記憶を失くした時に、すぐに気付かないといけなかったんだよね」
そう、あの特異な状況下そのものが、答えだった。
「おばあちゃんの記憶が奪われた時、ワタシの傍にいたのはアルテナさまにリリスちゃんとそのフィアンセだけだった…いくらあの時が真っ暗闇だったからって、そんな状況でワタシからおばあちゃんの記憶を奪うことなんて、そう簡単にできるわけがない」
真っ暗闇の中、足音も立てずに近づけるはずもない。
「それができたのは…アルテナさまくらいのものだったのに」
そして、それだけじゃない。
「そもそも、ワタシの中に『邪神の魂』があることを知っている人は限られていたのに…『邪神の魂』を奪えるような芸当ができる人も、限られていたのに」
ワタシは、結論を口にした。
涙の所為で、咳き込みそうになりながら。
「最初から、アルテナさまがやったって、気付かないといけなかったんだよ、ワタシは…」
ワタシは、うつむいた。
そこには、何もなかった。
…今のワタシと、同じだった。
「ホントに、滑稽だよね…まあ、ワタシみたいなお間抜けさんは、ピエロとして生きるのが関の山だよね。せっかく、『転生』までしたのにね」
「花子は、間抜けなんかじゃないだろ…」
慎吾が、ワタシの前に屈み込む。
ワタシと視線を合わせようとするが、ワタシは、視線を逸らした。
「オレだって、その話をアルテナさまから聞いた時は、怒ったよ…けど、アルテナさまも花子を守るためには、それしかないって、言っていた」
「ワタシだって自分の身ぐらい守れ…」
「死にかけ、たんだろ」
慎吾は、ワタシの手をそっと握った。
力を込めていたはずなのに、ごつごつしていたはずの慎吾の手は、やわらかかった。
ワタシの手を潰さないように、慎吾が優しく包んでくれていたからだ。
「花子を…というか、『邪神の魂』を狙ってるヤツは、とても危険なヤツかもしれないって、アルテナさまも分かっていたんだ」
「それ、は…」
ワタシも、身をもって知った。
先ほど、ワタシとナナさんの命を、もののついでみたいな手軽さで消し去ろうとした、あのローブの人影を。
「だから、アルテナさまは、『邪神の魂』を一時的に隠していたんだよ…コトが終われば、おばあちゃんの記憶は花子にちゃんと返すつもりだったんだ」
慎吾は、懇切にワタシに話してくれた。
それはきっと、ワタシのためだ。
…ワタシが、アルテナさまを恨まなくて済むように、慎吾が緩衝材になってくれているんだ。
「だから…なに?」
なのに、ワタシはいやな子になっていた。
慎吾の意図が、分かっていたのに。
「それでも…おばあちゃんの記憶は、帰ってこないんだよ」
慎吾には、何の落ち度もない。
慎吾は、ただ、ワタシにやさしくしくれているだけなのに。
けど、ワタシは恨み言が、とまらなかった。
いやなのに。いやな子には、なりたくないのに。
…おばあちゃんだって、きっと、そんなワタシは見たくないはずなのに。
「なくなっちゃったんだ…おばあちゃんとの想い出は、もう、取り返せないんだ」
「できる限りのことは…オレも、やるよ」
「じゃあ、慎吾がワタシに何をしてくれるの!?慎吾にだって、大したことはできないよね!?」
言ってから、後悔した。
言葉というのは、ダレカを傷つけるためにあるものじゃ、ないのに。
ワタシは、酷い言葉を、慎吾に投げつけてしまった。
なのに、慎吾は、ワタシを嫌いには、ならなかった。
「花子のために、できることか…なら、オレはお前のために生きるよ。これ以上、花子が悲しい想いをしなくて済むように」
「…え?」
慎吾は、今、何と言ったのだろうか?
聞き取れたはずなのに、分からなかった。
「オレは、花子のために、生きる」
「それ、は…そんなことは」
「だから、もうこれ以上は泣くなよ…オレたちまで、悲しくなるんだから」
慎吾は、そっとワタシを、抱きしめた…というか、包み込んだ。
慎吾の体と接していると、そこから、慎吾の体温が染み込んできた。
その体温が、ワタシに教えてくれた。
慎吾が、ワタシの味方だということを。
ワタシが、空っぽなんかじゃなかった、ということを。
「慎吾…ごめんなさい」
ワタシの感情は、そこで決壊した。
もう、おばあちゃんには会えないと絶望していた。
記憶の中のおばあちゃんにすら会えないと、絶望していた。
それでも、そんなからっぽのワタシに、慎吾はやさしくしてくれた。甘えさせてくれた。
最初から、ワタシはからっぽなんかじゃなかった。
「ごめんなさい、嫌なこといっぱい言って…ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
ワタシは、泣きながら謝ることしか、できなかった。
さっきもたくさん泣いたのに、涙はまだ、枯れていなかった。
…けど、ちょっとだけ、心地のいい涙だった。
それからは、ワタシがすすり泣くだけの時間が過ぎた。
「少しは落ち着いたか、花子…」
「…うん」
といいつつ、ワタシはまだ慎吾の胸に顔を埋めていた。
というか、顔を上げることが、できなかった。
…きっと、酷い顔をしているはずだ、今のワタシは。
「オレも、手伝うからさ…取り戻そうぜ、花子のおばあちゃん」
「ありが、とうね…慎吾」
その言葉だけでワタシは満たされていた。
…たとえ、おばあちゃんとの想い出を取り戻せなかったとしても、ワタシは、慎吾となら生きていける気が、した。
「…………」
…恥ずかしすぎて言えないけどね!?
『お取込みのところすまないんだが…そろそろ、人が来ることになっているんだ』
申し訳なさそうに、シャルカさんがそんなことを言い出した。
「え…じゃあ、ワタシたちお邪魔かな?」
慎吾たちならまだしも、ギルドの来客にこんな顔は見せられない。
『ああ、ええと…できれば、花子もいてくれると助かるかもしれないんだが』
珍しく、奥歯に物が挟まったようなシャルカさんの物言いだった。
「え…一体、誰が来るんですか、シャルカさん?」
『ジン・センザキの秘書をしていた人物だ』
「センザキさんの…?」
リリスちゃんのフィアンセを名乗ったあのディーズ・カルガに刺され、今も重体のジン・センザキさん…あの人の秘書ということは、センザキグループに関係する話か。
『センザキグループが内紛状態にあるってことは、花子も知ってるんだよな?』
シャルカさんの問いかけに、ワタシは頷いた。
現在の代表はそのジン・センザキさんだけれど、あの人も『転生者』であり、センザキグループの遠縁にあたる人物の養子になったという話を聞いた。血縁的には遠いはずのその人がセンザキグループの代表となってしまったのだから、グループ内にはあの人に反発する人も多いのだそうだ。
けれど、次に語られたシャルカさんの言葉は、ワタシの予想の斜め上をいくものだった。
『その秘書が言うには、センザキグループは、『世界征服』を目論んでいるかもしれない…とのことなんだ』
「世界…征服?」
うっそ、でしょ?
ここが異世界とはいえ…うっそ、でしょ?
もしかして、『我らがセンザキの光をあまねく世界に!』ってことですか?