26 『油断は大敵だって、古事記にも書いてあるからね』
「アルテナさまが、張った結界…」
小さく呟きながら、ワタシは『邪神』のご神木と呼ばれる古木と対峙する。
正確に言うのなら、そのご神木に開いた洞に、視線を向けていた。その洞は半透明の膜に覆われていた。その膜が、アルテナさまの張ったという結界か。けれど、その洞からは高濃度の怨嗟が滾々と溢れていた。
…ワタシは、その洞から溢れてくる怨嗟に、覚えがあった。
「あー、この穴から悪いモノが溢れ出てこないように結界を張ったのかな、アルテナさまは。それでも完全には塞げてないみたいだけど」
過去にアルテナさまの結界を見たことがあると口にしていたナナさんは、この怨嗟の渦中でも妙に落ち着いている。対して、ワタシは心がざわついていた。そのざわつきは、欠片となってワタシの喉元から零れ落ちた。
「どうして、アルテナさまは…この結界のことを、ワタシに教えてくれなかったんだろ」
女神として張った結界なら、きっと重要な防壁だ。
しかも、『邪神』絡みだ。
それなら、些細なことでも、ワタシに教えていて欲しかった。
ワタシと『邪神』の根深い因縁を、アルテナさまは知っているのだから。
「まあ、おっちょこちょいのアルテナさまことだから、お花ちゃんに言うのを忘れてたとかじゃないの?」
ナナさんは軽く笑っていた。
そんなナナさんに、ワタシは平然とした表情で相槌を打つ。ワタシの心は、まださざめいていたけれど。
「…そう、ですよね」
「もしくは、お花ちゃんには言えないことだった、とかかな?」
「それ、は…」
あまり、考えたくない、帰結だった。
確かに、ワタシはただの『転生者』だ。女神であるアルテナさまからすれば、転生者とはいえ、ワタシはその他大勢の中の一人でしかない。
しかも、ワタシは冒険者のように勇敢でも、世界を開拓しているわけでもない。ナナさんのように、騎士団に入団してこの世界の治安に貢献をしているわけでもない。ただの、しがないギルド職員でしかない。
…だから、アルテナさまは、ワタシには教えてもらえなかったのだろうか。
「…………」
急激に、アルテナさまとの距離が開いていくのを感じた。
アルテナさまとは、たくさん話をした。必要なことも、不必要なことも。いや、割合で言えば、不必要なことが大半だった。でも、その不必要な言葉こそが、ワタシとアルテナさまをつないでくれていると感じていた。
だから、どれだけ離れた世界にいても、ワタシの心はあの女神さまの傍にいるのだと思っていた。
それは、ワタシの独りよがりな錯覚だったということだろうか。
もっと、ワタシは身のほどを知るべ…!?
「危ない、お花ちゃん!」
火急を告げる、ナナさんの声が響いた。
それと同時に、ワタシの世界が真横にスライドしていく。
ナナさんに突き飛ばされたと気付いたのは、ワタシが地面に尻もちをついた後だった。
「いきなり何をするんですか、ナナさ…」
分けもわからず理不尽な扱いを受けたと、ワタシはナナさんに抗議をしようとしたのだけれど、それは途中で止まった。
ワタシの視界に映ったからだ。『邪神』の古木に刺さった、鈍い光を宿したナイフの姿が。
…え、ない、ふ?
先刻まで、そんな物騒なモノは存在していなかった。
それなのに、今は、『邪神』のご神木にナイフが突き立てらえていた。
注連縄も何もない、名ばかりのご神木かもしれないが、刃物なんぞを刺されるいわれはない。尻もちをついたままの姿勢で、ワタシは茫洋とそんなことを考えていた。
「お花ちゃん、早く立って」
ナナさんの声は深く静かだった。普段の声とはまるで違う、硬質な声質だ。
その声は、非常事態の始まりを告げる警鐘だった。
ワタシは、その声に吊り上げられるように立ち上がった。その膝が笑っていることにも、気が付かないまま。
「…………」
ワタシは、突き立てられたナイフの柄に視線を向けた。
それから、ナイフの柄の先に視線を動かした。
その延長線上に、人の形があった。
微動だにせず、ソイツはワタシたちを眺めていた。
ひどく伽藍洞な、瞳で。
それは、この古木に開いた洞と同種のものだった。
「とりあえず、挨拶くらいはあってもいいと思うんだけどね」
ナナさんは、臆せずその人の形に声をかける。騎士団長でもあるナナさんは、この手の修羅場でも慌てたりはしない。
対して、ワタシは完全に気後れしていた。
だから、ワタシたちの眼前にいるこの人の形がナニモノなのか、すぐには理解できなかった。
ただ一つ分かったことは、その人の形が、男だということだけだ。
「初めまして…では、ないな」
男の声は、底冷えするほど冷淡なものだった。そこに熱はなく、何の感情も抱いていない。ワタシたちに、刃物などを投げつけておいて、だ。
いや、待て…今、この男は何と言った?
「あなたのような粗野な人に、私は婚姻届を渡した記憶はないのだけれど」
冗談のような言葉を、ナナさんは本気で口にしていた。
しかし、男の方も、冗談のような言葉を口にした。
「鎧の君ではないよ。そっちの女の子の方だ」
その言葉は、冗談のはず…いや、そこで、ワタシはようやく気付いた。
ワタシたちの前に現れたその男が、ワタシも見知った相手だったということに。
「ディーズ…カルガ?」
ワタシの口から、その名が自然と零れ落ちた。
「お花ちゃんの知り合いなの?それにしては手癖が悪いみたいだけど」
ナナさんは、ディーズ・カルガから視線を外さずにそう言った。
「ワタシの知り合いというか…友達のフィアンセです」
「そのお友達には言った方がいいよ。婚約者はちゃんと選びなさいって」
無駄口を叩きながらも、ナナさんは完全に臨戦態勢だ。ほんの少しだけ体を縮め、いつでも飛び出せる姿勢を保つ。
「どうして、あの人が…」
ワタシは、そこでアルテナさまの結界をちらりと眺める。
リリスちゃんは語っていた。ディーズ・カルガの目的は、『悪魔』リリスちゃんの復活だ、と。
ならば、そのためにあの人物もこの場所に現れたということか。
「…いや、でも」
そこで、考え直した。
あの結界が、リリスちゃんの復活に必要とは、思えない。
ディーズ・カルガの目的がリリスちゃんの復活だとしても、あの子の復活とこの場の結界は馴染まない。どう考えても、ちぐはぐだ。
…なら、あの人はなぜ、このタイミングでこの場に現れた?
「お花ちゃん、とりあえず考えるのは後にしようか」
「ナナ…さん」
「ほら、今は目の前の相手に集中だよ。油断は大敵だって、古事記にも書いてあるからね」
「…いや、そんなこと書いませんからね、古事記を過信するのやめましょうね」
古事記だっていい迷惑なのだ。
けど、ナナさんとのじゃれ合いで、少しだがリラックスができた。いつも通りのテンポって、本当に大事だね。
「ディーズ・カルガ…さんですよね」
ワタシは、駄目元の覚悟でリリスちゃんのフィアンセに声をかけた。
「なんだい」
意外にも、ディーズ・カルガは普通に応答した。
「…どうして、リリスちゃんのフィアンセを名乗るあなたがこの場所にいるんですか?」
何を欲して、そこに立っている?
「花子くんだったね。君の姿が見えたので、後をつけさせてもらったんだ」
「ワタシだと認識したのはついさっきですよね?」
つまりは、さっきの言葉はダウトだということだ。この人は、ワタシの後などつけてはいない。
「それに、ワタシ、ストーカーならもう間に合ってるんですよ」
「え、それって私のことじゃないよね!?」
ナナさんが、話の腰を折る言葉で割り込んできた。いや、ワタシがあの人に対して意味のない減らず口を叩いたりしたからですけれど。
「そもそも、ワタシはあなたがリリスちゃんのフィアンセだとは、認めていませんけどね」
とりあえず、ワタシはこの得体の知れない男に対して断固として言ってのける。これは、宣戦布告とほぼ同義だ。
「リリスのフィアンセを名乗るのに、花子くんの許可が必要なのかい?」
「いりますよ…古事記にもそう書いてありますから」
意味不明な啖呵を、ワタシは叩き付けた。
…それぐらいやらなければ、立っていられないほど足が震えていたからだ。
「君がリリスの友達だというのなら、花子くんはリリスから距離を取るべきだ」
「え…?」
ディーズ・カルガから返って来たのは、想定外の言葉だった。
ワタシが、リリスちゃんと距離を取るべき?
…リリスちゃんと、友達ならば?