7 『オレのおじいちゃんが言っていた…』
「慎吾、お皿の用意できてる?」
「ああ…人数分もう並べてあるよ」
「オッケー、じゃあそっち持っていくね」
私は、出来たて熱々のニラレバ炒めをお皿に乗せていく。不平が出ないように、できる限り均等に。シャルカさんなんかは、『私のだけ肉が少ない』とか言い出すからね。勿論、ワタシも言うけれど。
「次は、お味噌汁かな。慎吾、お椀は?」
「持ってきた」
ちょうど、慎吾が人数分の味噌汁茶碗を運んできてくれたところだった。
今日は、私と慎吾で夕飯の準備をしていた。本当なら私一人だったんだけど、慎吾が「手伝うよ」って言ってくれたんだ。
…なんでだろうね?
ありがたいけどね。
「ありがと、慎吾」
とりあえず、慎吾にお礼を言ってから、私はお味噌汁をお椀に注いでいく。自家製味噌特有の馥郁たる香りが、私の鼻孔をくすぐった。うん、これがホントの手前みそだけど、今日のお味噌汁も満点だね。その満点のお味噌汁は慎吾が手際よく食卓に並べてくれた。
「卵焼きとほうれん草も慎吾が運んでくれたから…あとは、ご飯をよそうだけだね」
「そう…だな」
「慎吾はもう座っててくれていいよ。ありがとね」
「ああ…」
と、返事をした慎吾だったけれど、私の傍を離れなかった。なので、私は慎吾に尋ねる。
「どうかした、慎吾?」
「ああ、いや…大丈夫か、花子?」
慎吾の瞳は、私を見ていた。
真っ直ぐに。けれど、どこか不安そうに。
「大丈夫って、何が?」
「ほら、三日前か…花子が倒れたって、アルテナさまから聞いたから」
「倒れたって、大袈裟だなぁ」
私は、軽く手を振って笑った。少しおばちゃんくさい仕草だったかもしれない。これはちょっと気をつけねば、だね!
「でも、花子…アルテナさまが」
「大丈夫だよ、慎吾。停電…電気じゃないから停電じゃないね。急に照明が消えてビックリしただけだよ。それで座り込んだだけ。だから、そもそも倒れてなんていないんだよ」
そう、アルテナさまと行ったセンザキグループの新商品発表会で、ちょっとしたアクシデントがあった。
…それ、だけだ。
それだけの、はずだ。
「けど、花子は…その」
「何が?絶好調だよ、花子ちゃんは」
珍しく言い淀む慎吾に、私は軽く、力こぶを作って見せた。乙女だから、力こぶなんかできないけどね!
「今日のお夕飯だって、私、完璧だったでしょ?」
「ああ、花子にしては完璧だったよ…いつもなら、味噌汁を吹きこぼしたりするのに」
「してないんだからいいじゃない」
「それに、花子が作った今日の夕飯…全然にんにくを入れなかったじゃないか」
「…そういう日だって、あるんじゃない?」
そこで、私と慎吾の会話は途切れた。慎吾の口が、閉じたからだ。
時が粘り気を帯びたように、柱時計の針の進みが鈍くなる。
このまま、世界が止まるのではないかと思われたほど。
「よし、慎吾。ごはんだよ、ごはんー」
けれど、時は止まらない。
止まってなどくれない。当然、遡ってもくれない。
時間の中を揺蕩う私たちは、ただただ背中を押され、前に押し出されるだけだ。
だから、私は茶碗にごはんをよそっていく。
…ごはんは、湯気が出ている間に食べ始めないとね。
そして、食卓にいつものメンバーにアルテナさまを加えた面々で『いただきます』をして、みんなで食べ始めた。
「うん、美味しいよ、花ちゃん」
卵焼きを口に運んだ繭ちゃんが、嬉しそうに笑みを浮かべていた。
…いつもの繭ちゃんの微笑みとは、少しだけ違って見えた、けれど。
「そう、よかったよ」
私も、卵焼きを一切れ、口に入れた。
美味しかった。上手にできていた。
なのに。なんだか、さびしかった。
「ふむ。確かに、いつもより美味しいでござるな…けど、いつもより物足りない気がするでござるよ」
雪花さんが、そんなことを言い出した。
「…いつもより美味しいなら、それでいいじゃないですか」
一生懸命、私は夕飯を作った。
文句を言われる筋合いはない。どこにも、だ。
それでも、雪花さんは尚も言った。
「いや、ただ拙者は、いつもの花子殿が作るご飯が好きなのでござるよ」
「だから、いつもより美味しいんだから何の問題もないでしょ!?」
私は、ごく自然に声を荒げていた。温かい食卓を、冷えた空気が包み込む。私たちの団欒に、亀裂が入る。
その亀裂を入れたのは、私だ。
「お邪魔…します」
そこに、場違いな闖入者が現れた。
「ナナ…さん?」
私たちの現れたのは、深紅の鎧をまとったナナさんだった。
全員の視線がそこに集まり、私の毒気も少し薄まる。
「あー、お腹空いた…花子ちゃん、ご飯ください」
深紅の鎧を着こんだ騎士団長殿は、おずおずと入って来たくせに図々しく夕飯を所望した。
「まったく…エサを強請る野良猫だってもう少し遠慮しますよ」
私は、ナナさん用の茶碗にご飯をよそった。日本昔話のように、山盛りにして。
「だって…お花ちゃんちのご飯は、美味しいから」
最近、ナナさんは一人暮らしを始めたそうなのだが、「おうちで一人で食べるの寂しいんだよ…」と泣きついてきて、時折りうちで夕飯を食べるようになった。
「そへに…きょふはれんはくもあったかりゃ」
「口に食べ物を入れたまま喋るんじゃありません」
私はナナさんを窘めた。何を言ってるか分からないよ。ただでさえ、この人は普段から何を言ってるのか分からないことが多いのに。
「それに、今日はお花ちゃんに連絡もあったんだよ」
口いっぱいに頬張っていたごはんを嚥下してから、ナナさんは言った。
「…連絡ってなんですか?」
「この間、お花ちゃん何とかグループの何とか発表会に行ったんでしょ?」
ナナさんの言葉が、この場に加重をかけた。
全員のお箸が止まる。
「そう…ですね」
必然、私の声も重くなる。
ナナさんの声は、これっぽっちも変わらなかったけれど。
「その時、魔石の照明の明かりが消えて、停電みたいなことになったんでしょ?」
「…そうですね」
思い出したくも、ないけれど。
けれど、ナナさんは続ける。何も、知らないから。
「お花ちゃん…ソレ、事故じゃなかったみたい」
「事故じゃ…ない?」
「ダレカが故意に、明かりを消したらしいよ」
私とアルテナさまが出席したセンザキグループの新商品発表会で、全ての照明が同時に消えるというアクシデントが起こった。
…いや、ナニモノかが起こしたのなら、それはアクシデントでは、ない。
「ダレが…そんなことを?」
何の、目的で?
ただの悪戯にしては、アレは、あまりに性質が悪すぎた。
「さあ、そこまでは分からないけど、照明の魔石をコントロールしていた装置が壊されてたって聞いたよ」
「そう…なんですか」
あの『暗闇』が、故意に引き起こされた?
そして、私は、その時に…。
『確かに、あの時は大変でしたねえ』
大変というわりには剣呑ではない声を発していたのは、アルテナさまだ。
『あの後、結局、新商品発表会もできませんでしたからねえ』
できなかったというか、『テレプス』と呼ばれた新商品…魔石を搭載した携帯電話のような魔石機なのだが、それがうまく動作しなかった。当然、センザキグループとしても何度もテストをしただろうし、準備を万端にしていたはずだ。
それなのに、あの『暗闇』の後、『テレプス』はきちんと動作しなかった。
センザキグループの技術者たちが大慌てで確認していたが、『テレプス』に故障した個所などはなかった。だけでなく、予備で用意していた他の『テレプス』も動かなかった。そして、結局その動作不良の原因も分からなかった。
センザキグループとしては、面目が丸つぶれとなってしまった新作発表会だった。
壇上のジン・センザキ氏は苦笑いを浮かべて冗談交じりに謝罪をしていたが、内心は穏やかではなかったのではないだろうか。
「あ、そ…そう、ですね」
極度の人見知りであるナナさんは、見慣れないアルテナさまの言葉に必死にうなずこうとしていた。
それでも、私にごはんのおかわりを要求していたけれど。そして、実はこれが三杯目のおかわりだったりするのだけれど。三杯目にはそっと出すべきなんですけれど…なぜかそこは堂々としてたんだよね、この人。
「…………」
そして、みんな、食べ終わった。
あの後は、大した会話もないままに。
私は、一人で食器を洗っていた。何も考えず、お椀を洗いお皿を洗い、ただただ洗っていた。
「手伝うよ、花子」
慎吾が、そっと私の横に立っていた。
「一人で大丈夫だよ」
素っ気なく、拒絶した。
「じゃあ、オレはこっちの皿を洗っていくから」
慎吾は、私の言葉を無視してスポンジを手に取ってお皿を洗い始めた。
「一人で大丈夫って、言ったんだけど」
「オレが手伝いたいんだよ」
「…だから、慎吾はいらないんだって」
私の心が、毛羽立つのが、分かった。
「オレの方が、花子を必要としてるんだよ」
「な、に…を?」
言って…いるの?
「だから、花子の力になりたい」
「必要ない…よ」
慎吾は、親切心だった。
それを、私は拒否してしまった。
「だから、花子が辛いなら辛いって言って欲しいんだ」
「辛くなんかない…必要なんかない!」
声を、荒げてしまった。
そんな私なのに、慎吾の声は、ただただやわらかかった。
「おばあちゃんの記憶、消えたんだろ」
慎吾は、そう、口にした。
私が、一番、聞きたくない言葉を。
「慎吾には…関係ない、よ」
私は、慎吾から目を逸らした。
あの夜。
アルテナさまと出かけた新作発表会のあの夜。
世界から灯りが消えたあの夜。あの瞬間。
私の中から、おばあちゃんの記憶が、消えていた。
「関係なら、あるよ」
「そうだよね…私の中から、『邪神の魂』が消えたんだからね」
私の中にあった『邪神の魂』…それは、ホンモノと比べれば劣化版のレプリカのようなものだった。
けれど、それは元々、私がおばあちゃんから引き継いだものでもあった。おばあちゃんが生きてきた証の一つとして、私に付随されたモノだった。
だから、私は、叫んだ。悪態を、つくように。ひどくみっともなく。
「もし、あの魂と『邪神の亡骸』が揃っちゃったら、『邪神』が復活しちゃうかもしれないもんね!世界の危機だよね!ごめんね、『邪神の魂』を奪われるようなお間抜けさんでさあ!」
あの夜、あの暗闇の時間、私の中にあった『邪神の魂』が消えた。アルテナさまがそう言っていたのだから、間違いないはずだ。
それと同時に、私の中に会ったおばあちゃんの記憶も、全て消えてしまった。『邪神の魂』は私とおばあちゃんの因果に紐付けられたものだった。
私の中から『邪神の魂』が消えるということは、そこに紐付けられた全てのモノが消えるということだった。
「…………」
私の中にあったおばあちゃんの記憶は、全て失われた。
もう、私の中に、おばあちゃんは、いない。
顔も思い出せない。
体温も、思い出せない。
その声も、思い出せない。
…もう、おばあちゃんとは、絶対に会えないのに。
「よく分からない世界の危機より、花子の方が大事だろ」
「…寝惚けたこと言わないでよ」
私は声を荒げる。
八つ当たりも、いいところだった。
「慎吾は私が邪神を復活させかけたところを見てないからそんなことが言えるんだよ!」
私の所為で、邪神が蘇りそうになったことがあった。その時は、運よくその窮地を抜け出すことができた。けど、あの『邪神』の力が暴走すれば、真っ先に命を落とすのは、私のすぐそばにいるダレカなんだ。
「確かに、オレはその場面を見ていない」
「だったら…」
「けど、花子が泣いてるところは、見た」
慎吾は、私にきゅっと抱きしめてくれた。
いや、それはきっと、私を受け止めてくれていたんだ。
…弱い私が、どこかへ行ってしまわないように。
弱いワタシを、繋ぎとめてくれていた。
「…慎吾」
「花子が辛いと、オレだって辛いんだよ…おばあちゃんのことが思い出せなくて花子が泣いてたら、オレだって辛い」
慎吾は、ワタシを抱き留める腕に、少しだけ力を入れた。
「でも、私の所為で、『邪神の魂』が奪われちゃったんだ…そんな私には、おばあちゃんのことで泣く資格も、ないんだ」
これは、本音だった。あの『邪神の魂』の危険性は、私が一番、知っていたからだ。
でも、やっぱり。これも。本音だった。
「でも、ね。やっぱり、心が辛いんだ…胸が痛いんだ」
私は、慎吾の胸に、顔を埋めた。
その資格が、私にあるかどうか、分からないのに。
「私ね、おばあちゃんのこと、何にも憶えてないの…何も、思い出せないの」
瞳を閉じた。
それでも、涙が溢れてきたことは、分かった。
「おばあちゃんのこと…私の中から、空っぽになっちゃったの」
声にも、嗚咽が混じり始める。
「それなのに、何もないはずなのに…ただ痛いの」
静かなキッチンの中、私がすすり泣く声だけが小さく響く。
「でも、痛いはずなのに、何が痛いのか、分からないくて…それが、痛いんだよお!」
私の中で、感情が決壊した。
慎吾は、ただただ、それを受け止めてくれていた。
「おばあちゃん、おばあちゃん…おばあちゃんが、私の中からいなくなっちゃったよお!」
ワタシは、幼子のように慎吾の胸で泣きじゃくる。
「おばあちゃんの顔も、思い出せないの…でも、分かる。おばあちゃんが大切なおばあちゃんだってことだけは、痛いくらい分かるの!その痛みが教えてくれるの!」
そこで、私は顔を上げた。
涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。
「慎吾…私、いやだよ」
涙で歪む視界の中、慎吾の顔が見えた。
だから、私は言えた。
全部の虚飾を取り払った、ワタシの言葉が。
「いやだよ、ワタシ…このまま、おばあちゃんを失くしたくないよお!」
ワタシの声は室内で反響し、何度も何度も、ワタシと慎吾にぶつかった。
「ああ、失くしたら駄目だよな…花子は絶対に、おばあちゃんを失くしちゃダメだ」
「…慎吾」
「だって、おばあちゃんとの思い出がなかったら、花子は花子じゃないだろ」
「慎吾…」
ワタシは、またそこで慎吾の胸に顔を埋めた。
恥ずかしかった。いい年をして、ここまで泣きじゃくることが。
でも、恥ずかしかったけれど、嫌では、なかった。
…そこにいたのが、慎吾だから、だろうか。
「だから、花子のおばあちゃんは、オレが見つけてやるよ」
「慎吾…が?」
ワタシはまた、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「ああ、オレのおじいちゃんが言っていた…「泣いてる女の子を放って置くようなヤツに、美味い野菜は作れない」って」
涙で歪むワタシの視界の先で、慎吾が力強く笑っていた。