プロローグ 『過度な期待はしないでくださいね』
『あなたは神を信じますか?』
今ではないいつか、此処ではないどこかで、こんな寝惚けたフレーズを聞いたことがある。
以前のワタシなら、こんな言葉を聞かされても苦笑いを浮かべて適当な言葉でお茶を濁していた。
こんな質問をしてくる相手とはお近づきにはなりたくないし、そもそも、この世に神も仏もいないことを、ワタシは知っていたからだ。
骨の髄まで、思い知らされていたから。
「…………」
ワタシは、難病を患っていた。
ワタシに巣食った病魔は症例もほとんどなく、現代医学の手に負えるものではなかった。
だから、ワタシは、病魔に蝕まれるだけの日々を過ごしていた。愚直にリハビリに務めても体力は衰える一方で、それらは悪足掻きにすらならなかった。
そして、ワタシは若くしてこの世を去った。
何も獲得できない人生だった。
勉強も運動も。旅行も行楽も。貯蓄も散財も。勤労も怠惰も。後悔も韜晦も。恋愛も失恋も。挫折も成功も。出産も育児も。
人生を彩るための一切合切を、何一つ経験できなかった。
ワタシが最後に見たのは、泣きながらワタシに謝罪を繰り返す母と父の姿だった。
ワタシの人生は、そこで無為に幕を引いた。
「…………」
それで全てが終わりだと思った矢先、ワタシは神さまに出くわした。
顎が外れるかと思うほど、驚いた。
本当に神さまがいるのなら、ワタシは、なけなしの語彙を総動員して罵詈雑言を浴びせるつもりだった。
どうして、ワタシの人生だけが、ここまで惨めなんだ、と。
だが、それはできなかった。
『助けてあげられなくて、ごめんなさい』
ワタシが出会った女神さまは、深々とワタシに頭を下げた。大粒の涙を、流していた。
そして、美しかった。
その姿だけではなく、その声音と心根が。
そこで、ワタシは完全に毒気を抜かれた。
それに、本当は分かっていた。
ワタシが病死をしたのは、ダレカの所為ではない。
ワタシを生んだ母や父の所為ではないし、ワタシを治療したお医者さんが悪いわけでもない。
そして多分、神さまの不手際というわけでもなかった。
ワタシという存在が、運悪く、熟す前に枝から落ちた果実だったというだけのことだ。
「…………」
けれど、運が悪かっただけのワタシに、女神さまは奇跡を与えてくれた。
元の世界でまともに生きられなかったワタシに、新しい世界で人生をやり直せる権利を、女神さまはくれたんだ。
無為に終わるだけだと思っていた世界が、不意に広がった。
カーテンコールどころか、プロローグから世界をやり直せるという稀有な機会が与えられたんだ。
その世界の名は、『ソプラノ』といった。
平たく言えば、異世界というやつだ。
そこは、絵に描いたような絵空事の世界だった。
小説や映画で胸を熱くしたあの空想の世界が、惜し気もなくワタシの眼前に広がっていた。
びっくりするような魔法があった。美人さんのエルフがいた。恐ろしいモンスターがいた。空に浮かぶ大地があった。
ワタシは、この異世界ソプラノで生きていこうと、決意した。
元の世界ではできなかったことを、この世界では好きなだけ貪ってやろうと鼻息を荒くしたんだ。
「さあ、今日も看板娘を始めますか」
そんなワタシが、文字通りの第二の人生で選んだ仕事は、冒険者のためのギルドの職員だった。
町の冒険者たちに警護の仕事を依頼したり、探検家たちが集めてきてくれた情報を書き記したり、商人たちの仕入れの情報交換を手伝ったりと、その仕事内容は多岐に渡る。なので、中々にハードな仕事と言えた。
けど、元の世界では、ワタシは誰の役にも立てなかった。
なのに、この世界でのワタシは、ダレカの役に立つことができたんだ。
なら、この細腕を腕捲りをして奮闘するだけだよね。
「え…お前は冒険者をやらないのかって?」
誰かに問われたわけでもないのに、なんとなく、ワタシは呟く。
確かに、冒険者は異世界転生の醍醐味といえるのかもしれない。モンスターとの戦闘やダンジョンの踏破などは、冒険者だけの専売特許といえるのかもしれない。
しかし、ワタシに冒険者は無理だ。
無骨な荒事などは苦手だし、未開の地に足を踏み入れる気骨もない。
けど、一人でいるのはいやだった。
一人になると、病床に伏せっていた自分を思い出すから。
「…………」
だから、ギルドの職員だ。
ギルドにいれば冒険者たちの冒険譚がすぐに聞けるし、新しく発見された魔法のアイテムなどにもお目にかかることができた。
役得役得。
ワタシは英雄になりたいわけではないが、英雄譚の片隅くらいにはいたかった。まあ、それくらいの貢献はしているはずだ。
「…といっても、英雄なんてそうそういないけど」
この町の近隣はわりと平和で、大した事件も起きていない。モンスターなども出ることは出るが、彼らの縄張りに足を踏み入れたりしなければ大した問題はない。たまに小型の魔獣の討伐依頼などはあるが、ドラゴンなんぞは遠い異国にしかいないそうだ。
と、そんなことを考えながら歩いていたワタシだったが、職場であるギルドに到着した。
これからは、楽しい楽しい看板娘の時間だ。
…いや、それなりに人気はあるんだよ、ワタシ。
たぶん、思い上がりでは、ないはずだ…と、思いたい今日この頃。
そこで、ふと思い出した。
「そういえば…今日だったね」
今日は、女神さまが新たな転生者を送ってくる日だった。
ワタシと同じように元の世界で不慮の死を迎えた若者たちを、ワタシと同じように女神さまはこの世界に派遣してくる。
それ自体は悪いことではない。若くして死ぬ、その無念はワタシが一番よく理解しているし、人生をやり直したい願望は誰にだってあるはずだ。
「けど…けどぉ」
そろそろ、あの女神さまにはっきりと言わなければならない。
命の恩人の三乗くらいの命の恩人ではあるあの女神様だが、言わなければ現状の惨状が加速することにもなりかねない。だから、心を鬼にしてでも言わなければならないのだ。
「もう少しまともな転生者を送ってくれ!」と。
ここから、このお話は少し遡る。
ワタシがこの世界へと転生し、初めての転生者を迎え入れた時間軸へと。
そして、これはワタシと転生者たちと女神さまの平凡な日常を淡々と描く物語です。
過度な期待はしないでくださいね。