25メートルの、その先に。
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水泳部の響也は、プールの水に首まで浸かり、壁を触りながら、天井を仰ぐ。
装着したゴーグルに光が乱反射して、照明がまるでシャンデリアみたいだ。
響也の側には、ざらざらとしたプールの壁。
うっかりすると、擦り下ろされそう。
そして、右隣のコースに、乱暴に着水する音。
響也の顔に、水しぶきが跳ねて散る。
プールの水の消毒の臭いが、鼻につく。
横を見るとそこには、この高校の水泳部で、一年生の夏に入部して以降、二年間一緒に泳ぎ続けていた、千草がいた。
千草は、黒いショートカットの髪に、日焼けした浅黒い肌の女の子。
千草は、髪をキャップの中に押し込み、ゴーグルを着ける。
「響也。負けた方がアイス奢りね」
「上等」
響也は千草と、ずっと競い合ってきた。
勝ったり、負けたり。
いいライバル関係だと思っている。
響也と千草は、プールの壁に寄り、泳ぎ始めの蹴伸びに備える。
顧問の教師が、プールサイドで笛を咥える。
構える二人。
そして、笛の音が鋭く鳴る。
響也と千草は、思いっきり壁を蹴って、25メートル先を目指す。
刃のように水を切り裂いて。
「私、今月もうお小遣い無いのに……」
「負ける方が悪い。
そもそも、お前が言い出したんじゃないか」
炎天下のコンビニの前で、響也は千草に奢ってもらったソーダ味のアイスキャンディに噛り付く。
茹で上がりそうな空気の中で、口の中だけが冷たくて痺れる。
今回は響也が勝った。
でも、明日はどうなるか分からない。
他者と競う勝負事とは、何であっても、きっとそういうものだろうと響也は思う。
千草は、悲しい目で財布の中を見ている。
その手の甲には、空手で鍛え上げた、拳ダコが少しできていた。
千草は中学までは空手をやっていて、しかも黒帯の猛者だ。
一度試しに、分厚いミットを手にはめて、千草の正拳突きを受けてみた事がある。
それはもの凄い威力の一撃で、しっかりはめていたはずのミットが壁まで吹っ飛ばされたのだ。
腕がもげるかと思った。
正拳突きを受けた響也の手のひらは、翌日まで痛みが続いた。
あんなものをミット無しで肉体に受けたらどうなるか……
想像して、夏だというのに背筋が寒くなる。
比較的華奢な千草の体格。
どこからあんなパワーが出てくるのか。
人体の不思議だ。
「響也、ひとくちだけ」
「いいよ」
千草は、響也の食べかけのアイスを齧る。
もちろん、間接キスだ。
だが、響也は気にしていなかった。
千草はよく、こうやって響也の食べかけのものを、ひとくち貰うのだ。
響也は、きっと千草は、自分に好意があるのでは、と思っていた。
ただの自惚れかもしれないが。
しかし、万が一そうだとしても、その思いには答えられない。
響也には、彼女がいるのだ。
最愛の幼馴染の彼女が。
夏の日差しの下で、響也は千草を見る。
日焼けした浅黒い肌。
プールの水で濡れた、短めの髪。
(こいつ、割とかわいいよな)
響也は、彼女の居る身でありながら、不純な思考をする。
そして、彼女の顔を思い浮かべ、自分を戒める。
(あ~、ダメダメ。俺には、雪がいるんだから)
幼馴染で、幼稚園からずっと一緒に過ごしてきた、雪。
長い黒髪に、白い肌。
高校の入学試験の勉強も、響也の部屋でずっと一緒にしてきた。
二人とも合格できた時には、抱き合って喜んだものだ。
そして、入学した少し後に、響也から告白して付き合いだした。
「あれ、響也。そういや、今日は雪は来ないの?」
「いや、そろそろ来るはず。
あ、来た」
コンクリートの地面に揺らめく陽炎の向こうから、響也の幼馴染で、今は響也の彼女の、雪が走ってきた。
雪の肩の革の鞄が、長い黒髪と一緒に揺れる。
今日は確か、友人の女子達と勉強会をしていたんだったか。
「響也、おまたせ!千草ちゃんも居たんだね!
あ、アイスちょうだい!」
雪は、響也のアイスを勝手に一齧り。
もちろん響也はそんなことぐらい、一切気にしていない。
「じゃあ、私はもう行くよ。
ラブラブカップルの邪魔しちゃいかんし」
千草は、ふたりを冷やかしながら歩き出す。
「おう、じゃあ、また明日」
「千草ちゃん、またね!」
ふたりは、千草に声をかけ、千草とは別方向に歩いて行く。
食べ終えたアイスの棒は、ゴミ箱に投げ捨てて。
「雪、期末テストどうだった」
「そこそこいい感じかなぁ。
勉強会、やっぱりやると違うね」
雪は、響也とはクラスが別である。
だが、中学から仲の良かった、響也と同じクラスの女子と、結構な頻度で勉強会を行っている。
その成果もちゃんと出ている様だ。
響也は最近、泳いでばかりいるせいか、ほんの少しだけ成績が落ちている。
「あ~、俺も勉強会、しなきゃヤバいな~」
「それがいいよ。響也、勉強サボり気味だし。
ウチの勉強会は女子会だから、響也は参加できないけど、男子達でやってみたら?」
「うーん。そうすると雪と遊ぶ時間が無くなるんだよなぁ」
「もう」
響也の頭に、雪が軽くチョップする。
水泳にデートに勉強。男子高校生は忙しいのだ。
すると、風が吹き、雪の髪がふわりと持ち上がる。
雪の耳には、見知らぬ銀の輪のピアスがあった。
いつの間にピアスの穴なんて空けたのか。
いつもお互いに、くだらない事でも喋り合っていたふたり。
生まれて初めてピアスを空けたなんて、本当ならば絶対報告があるはずなのに。
「雪、ピアス空けたの?」
「え?あ、う、うん。
この前ね。そういえば言ってなかったっけ。あはは」
笑う雪。
その笑いは、なんだか乾いていて。
これ以上は踏み込むな、と言われているようで。
響也はもう、何も聞くことはできなかった。
そうこうしている内に、響也と雪の家の前に着く。
響也と雪は、家が隣同士だ。
「雪、ウチ寄ってく?」
「う~ん、今日は止めとく。
授業の復習しなきゃだし。
ごめんね」
「いいよ。じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
そうして、響也と雪はそれぞれの家に帰って行った。
その夜、シャワーを浴び、部屋着になった響也は、自分の部屋に入った。
響也の部屋の窓の向こうは、雪の部屋の窓だ。
幼い頃から、この窓越しに、雪とよくお喋りをしたものだ。
響也は、最近成績が落ち気味の数学の教科書と、にらめっこをする。
やはり、勉強会が必要か、と響也は思う。
すると、窓越しに、雪の部屋から楽しそうな笑い声。
どうやら、女子の誰かと電話しているようだ。
優等生はお気楽だな、と響也は心の中で呟いた。
響也と雪は、高校一年の頃から付き合いだした。
それまでも、家族ぐるみで仲が良かった両家。
響也は、雪と付き合うのは必然と思っていた。
雪も、そう言ってくれた。
まだ身体の関係は無く、時折キスを交わす程度。
でも、響也は雪が、物心をついた時から、ずっと好きだった。
雪とも付き合えて、大好きな水泳もできて、響也は幸せの真っ最中であった。
翌日。
いつものように、雪と一緒に登校する。
雪とは、クラスが違うため、教室の前で別れた。
自席に向かう途中、同じクラスの千草にも手を上げ挨拶をする。
席に座り、鞄を下ろすと、目の前にクラスの女子が二人、何やら怪訝そうな顔で立っていた。
「……ねぇ、響也君」
「ん?なんだ?」
女子二人は、互いに顔を見合わせ、不安そうな表情。
そして、向かって左側の女子が、意を決して響也に言う。
「響也君。雪のことなんだけど……」
「雪がどうした?」
「昨日、響也君が部活中、雪、何してたの?」
「え?お前らと勉強会じゃなかったの?」
女子達は、横目で何かを合図しているようだ。
そして今度は、右側の女子が告げる。
「昨日は、勉強会してない」
「……ん?」
混乱する響也。
昨日、響也が泳いでいた頃、雪は目の前の女子達と一緒だったはず。
女子達は嘘をついている様子は無い。
じゃあ、雪が……?
なんのために?
左側の女子が、重い口を開く。
「あ、あのね。響也君。
雪、最近、仲のいいOBの先輩がいて……。
その、男の人の。
ちょっと前、その人が学校に遊びに来た時に知り合ったって……」
「私たち、やっぱり知らない振りとかできないから。
……響也君にはちゃんと伝えておこうって思って」
先輩?仲のいい?
男の?
響也は、初耳だった。
雪は、学校であったことは大体何でも響也に話す。
目の前の女子達が知っていて、響也が知らないことなど、無いはずだった。
響也の脳裏には、雪の耳のピアスが浮かぶ。
知らないうちに空いていた、銀の輪のピアス。
もし雪が嘘をついているならば。
きっとそれは、響也には決して言えない事。
響也は、頭の中に自動的に生成される、悪いイメージを消し去るように、髪を掻く。
それを心配そうに見ている女子二人。
その時。いつの間にか千草が隣に立っていた。
千草は女子二人に問いただす。
「二人とも、それ本当?」
「うん、本当だよ」
「次の勉強会、いつ?」
「えっと、来週の水曜」
「響也。雪は、勉強会、次いつって言ってた?」
響也は、青い顔で答える。
「……来週の月曜、って言ってた」
その場にいる全員が、言葉を発せなかった。
雪。お前は、まさか……
頭の中に、ぐるぐる回る、当たって欲しくない予測。
「響也。来週の月曜、確かめよう」
千草は、拳ダコのできた拳を握りしめた。
そして、次週の月曜日。
放課後、雪とは一旦別れた響也達は、雪に内緒で集合していた。
響也と千草と、勉強会の女子二人。
響也と千草は、いつも通り部活に行っていることになっている。
機嫌の良さそうに歩く雪を、少し離れて尾行する。
響也の顔に垂れてきた汗は、真夏の気温のせいなのか。
千草と女子二人は、スマートフォンをムービーモードにセットし、いつでも動画が撮影できるようにスタンバイしている。
(……思い過ごしであってくれ)
たとえば、響也に内緒のプレゼントを買うために、一緒に出掛けているとか。
響也は、無理矢理に都合のいい方向に思考を持っていく。
そして。
「……来たよ」
右側の女子が、ひっそりと教えてくれた。
雪の方を向くと。
そこには、背の高い、端正な顔立ちの男がひとり。
雪は、その男を見つけると、嬉しそうに駆け寄っていった。
動画の撮影を始める、千草と女子達。
(頼む。雪。どうか……)
顔に脂汗を浮かべ、必死に祈る響也。
お前は俺を裏切ったりしていないよな。
だが、次の瞬間。
雪と男は、抱き合ってキスをした。
それを見て、全員がそれぞれの思いを、心の中で叫ぶ。
響也は咄嗟に、自分の右腕に噛み付き、声を出さないように我慢した。
悔しさで、右腕の肉を噛み千切りそうだった。
涙を浮かべた目で響也は、雪と男を睨みつけた。
あの男が、雪にピアスを空けたのか。
俺の雪に、勝手に。
今すぐに突撃していって、抱き合っている二人を引きはがしたかった。
千草は、右手で動画を撮影しながら、もう片方の左手で、響也の腕を掴む。
「響也。まだ駄目だよ。もしこれ以上の関係なら、それも証拠を残しておかないと」
これ以上。
これ以上って何だよ。
頭ではわかっている。でも……
そして、雪と男は、手を繋いで歩き出す。
歓楽街のある方向へ。
ラブホテルが乱立する区域へ。
嫌が応でも、次の展開が読める。
予測は、していたのだ。
悪い予感は、していたのだ。
それを撮影しながら、無言で後を付ける響也達。
響也は、千草に腕を掴まれたまま、なんとか皆と行動を共にする。
気分が悪かった。
眩暈がする。
これ以上は、見たくない。
それが、ただの現実逃避とは分かっていても。
尾行する響也達と、雪達の間は、およそ25メートル。
プールの中なら、すぐにでも到達できるはずの距離。
今は、その25メートルが、まるで永遠のよう。
いくら手を伸ばしても届かない。
25メートルの、その先が。
そして。
とあるラブホテルの前に来て。
その中に、手を繋いで入っていく雪と男。
響也は。
その場で嘔吐した。
絶望の涙を流しながら。
「響也!だいじょうぶ!?」
だいじょうぶな訳が無い。
響也はその場で吐きながらしゃがみこんだ。
背中をさする千草。
ペットボトルのミネラルウォーターを飲ませてくれる女子達。
それでも、吐き気は止まらずに。
涙と共に。
それから、少しの時間が経った。
みんなはまだ、無言のまま、ラブホテルの出入り口前の、植え込みのブロックに座っていた。
響也は、ペットボトルの水で口をゆすぎ、多少は冷静になれていた。
いや、何も考えられなかっただけだ。
そして、見ることができなかった。
未だ現実味のない現実を。
「来たよ」
千草が響也にそっと囁く。
ホテルの出入り口から出てきたのは。
背の高い端正な顔立ちの男と、その男の腕に絡みつく雪の姿。
響也は、立ち上がる。
雪と目が合う。
喜びの表情だった雪は、響也の姿を見つけ、一拍の後、一気に青くなっていた。
片手を上げて声をかける響也。
笑顔を作ったつもりだった。
うまく、笑えていただろうか。
「よう」
絡みついていた男の腕から、咄嗟に離れる雪。
でも、響也の隣には、植え込みのブロックに座る千草と女子達。
全ては、見られていた。
「ちがうの!」
叫ぶ雪。
何がどう違うのか、と嗤う事しかできない響也。
その横で座る千草からは、途轍もない怒りの空気が発されていた。
雪の隣の男は、爽やかな笑顔を響也に向けていた。
「ああ、君が雪の幼馴染ってやつか。
名前、何だっけ?
ま、それはどうでもいいや。
雪とは、こういう事だから。
そろそろ諦めてくれると助かるよ」
男は、雪の腕を掴み、自分の元に引き寄せる。
雪は抵抗しなかった。
「ごめんね、幼馴染君。
雪の初めて、貰っちゃって。
でも、君もいけないんだよ。
さっさと手を出さないから。
雪はもうとっくに、僕無しじゃ生きていけない身体になっちゃったからね」
その笑みは、あくまで爽やかで。
悪魔というものが存在するならば、きっとこんな風に爽やかに笑うのだろうと、響也は思う。
笑顔の男と、青ざめる雪。
雪の初めて。という単語に、またも響也の目に涙が流れる。
「あれ?泣いちゃった?
ダメだなあ。
雪、こんなやつ、手放して正解だよ」
雪の耳元で囁く男。だが、明らかにこちらに聞こえるように言っている。
そして、男に近づいていく響也。
せめて、せめて一発だけでも殴らせてくれと、拳を握る響也。
「ああ、なんだい?
殴るつもりか?
いいよ、受けて立つ。
僕、これでもそこそこ強い方でね」
少しずつ、少しずつ、近づいていく響也。
ファイティングポーズを構える男。
響也に格闘技の経験は全く無い。
たぶん、戦えばボロボロにやられるだろう。
だが、それでも、これだけはやらなくてはいけなかった。
せめて、一発。
近づく男。
さっきは、永遠とも思えた25メートルの、その先で。
今は、男との距離は2・5メートル程に。
あと一歩で、互いの拳が届く距離。
そして、そこに。
突風のような速さで、響也の横を千草が駆け抜ける。
その男に向かって。
男は、咄嗟に千草にワンツーのパンチを繰り出すも、千草はそれを躱し、男の肉体のど真ん中に、凄まじい威力の正拳中段突きを食らわせた。
「ぐぼっ……」
変な声を出し、ホテルの塀まで吹き飛び、地面に転がる男。
あの正拳突きが刺さった場所。
胴体のど真ん中。
確か、鳩尾の『水月』と呼ばれる急所のはず。
あそこは、指一本で突かれるだけで、悶絶するほどの、人体の弱い場所。
前に千草にやられたことがあるからわかる。
あんな場所に、あんな威力のパンチを突き刺すなんて、正気の沙汰ではない。
男は胃液を撒き散らし、地面に倒れて痙攣していた。
千草は、雪を睨む。
怯える雪。
千草は雪に近づき……
その脚に、ローキックを食らわせた。
「痛ぁいっ!!」
それを受け、崩れ落ちる雪。
普通、こういう場面では平手打ちとかではないのか、と響也は思う。
ちなみに、千草のローキックは、角材を蹴り折るほど強力だ。
明らかに手加減をしているはずだが、それでも、数時間は痛みで立つことはできないだろう。
千草は、響也の方へ振り替えり、宣告する。
「響也。あとは響也が決めて。どうするのか」
響也は頷き、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。
先ほどまで撮影していた全ては、既に響也のスマートフォンに転送済みだ。
響也は、学校のグループチャットに、書き込んだ。
『こういうことだから、雪とは別れる』
その一言を入力した後、撮影していた動画を貼り付ける。
雪と男が、キスをし、ホテルに入るまでの一部始終を。
響也が送信ボタンを押すと、周りから通知音が聞こえる。
千草と、女子二人と、雪のスマートフォンから。
女子二人は、自分のスマートフォンを見て、やるせない表情をしていた。
それを見ていた雪も、脚の痛みに耐えながら、自分のスマートフォンを何とか確認する。
雪は画面をタッチし、グループチャットを開き、動画を流し、それを見て突然声を上げる。
「響也!ちがうの!
私が好きなのは響也だけなの!」
「じゃあ雪は、好きでもない人とヤれるんだね」
「誤解なの!あの人とは何もしてない!」
「そいつ、雪の初めてを貰ったって言ってなかったっけ。
まあ、男女がラブホテルに入って何もないなんて、誰も思わないよ」
「だから、それは誤解で!」
益体も無いことを叫び続ける雪。
響也はもう、雪の言う事を聞くつもりはなかった。
響也は、自分の家族と、雪の家族にも、全く同じ内容のチャットを送った。
もちろん、動画付きで。
雪は、今はもう、ただ泣くばかり。
響也は千草達に声をかける。
「もう行こう。みんな、協力してくれてありがとう
今度何かお礼でもするよ」
その言葉に、座っていた女子二人は立ち上がる。
千草は、響也の腕を掴み、支えていた。
千草は言う。
「響也、あの女、別れて正解だよ」
響也はただ頷いていた。
涙の跡が残る顔で。
そして去り行く響也達。
その場所に残されたのは、ただ雪が泣く声と、男が呻く声だけだった。
あの事件から一週間が経ち。
雪の両親からも、響也の一家に謝罪があった。
響也は、その謝罪をただ受け止め、しかし、雪との別れは覆すつもりはないことを告げた。
どうやらあの男と雪の馴れ初めは、OBのあの男が学校に遊びに来ていた時に、雪に声をかけ始まったらしい。
そして、雪は男から、ひたすらちやほやされて。
身を捧げるほどにまで、男に依存してしまったようだった。
雪はあの後、自室に籠って出てこなくなったそうだ。
相手の男からの連絡も、一切来なくなったらしい。
男からしてみれば、ただの遊び相手だったのだろう。
今ではもう、響也の部屋の窓の外から、雪のすすり泣く声がたまに聞こえる程度の話であった。
「それで、雪のことは吹っ切れたの?」
プールの水に浮かび、響也と千草は、その後のことを話していた。
今日は水泳部は休みで、他の部員も顧問も居なく、響也と千草は教員の許可を取り、二人だけでプールで泳いでいるのだ。
「いんや。さすがにまだ引きずってる」
「もう雪の事は忘れなよ」
「そう簡単にはいかねえよ」
ゆらゆらとプールの水に揺蕩い、壁際までゆっくり泳ぐ二人。
壁まで到達すると、響也の右側のコースの、千草が提案する。
「響也、勝負しよ」
「あん?まあいいけど。何懸けるんだよ」
「響也が勝ったら、私にキスしていいよ」
ほんのり赤くなった、日焼けした千草の横顔。
響也は前々から、千草の好意には薄々気づいてはいた。
雪の存在があったから、その気持ちを振り払っていただけだ。
響也の心の中には、まだ雪の存在が残っている。
しかし、今はもう雪の存在は日に日に薄れ、その場所には代わりに、千草が居るようになっていた。
雪との恋は、ひどい結末だった。
恋は当分こりごりだとも思った。
でも、千草の事を想うと、また恋をしてもいいんじゃないかと。
響也の心は、プールに浮かぶように揺れていた。
「千草。じゃあ、それで。
俺が勝ったらキスな」
「ふふ。負けてなんかあげないから」
ここから見える、向かい側の壁。
25メートルの、その先に。
俺の未来はあるのだろうか。
二人は位置に着き。
千草が号令をかける
「スタート!」
二人は壁を蹴り、自らを射出する。
25メートルの勝負。
二人とも、泳ぎ方はクロールだ。
響也は右呼吸。千草は左呼吸。
息継ぎで顔を上げた瞬間の度に、右側で泳ぐ千草と目が合う。
千草の目は潤んでいるようにも見える。
ゴールまで、あと10メートル。
響也は、息継ぎの頻度を少なくし、顔を水に浸けっぱなしにして、スピードを上げる。
水中で横目で千草を見ると、同じく顔を浸けている千草と目が合った。
(負けてたまるか!)
あと5メートル。
ラストスパートをかける響也。
すぐ横には、千草が。
(絶対キスしてやる!)
響也にとって、それは半分は恋で、半分は意地だった。
目の前には、ゴールの壁。
もう息が続かない。
そして響也は、壁にタッチする。
勝者は……
「ぷはぁっ!はぁ、はぁ……
やったぁ!私の勝ちぃ!」
「ぶはっ!はぁ、はぁ……
くそっ!負けた!」
響也の負けだった。
酸素不足で息も荒く、悔しがる響也。
その横で、勝ち誇る千草
「残念でしたっ!
響也が私にキスする権利は無くなりました~!」
「あー!もう!
負けたんだからしょうがねえ。
で、千草は俺に勝って、何が欲しいんだ?」
響也は一介の高校生。あまり高価なものは勘弁してくれと、プールに浮かびながら、思う。
「え~?そんなの、決まってるじゃん!
私が、響也にキスする権利」
千草はそう言うと水に潜り、響也の身体を掴んで水中に引きずり込む。
響也は、水に入る瞬間、慌てて息を吸い込んだ。
潜った勢いで、ふたりとも水泳キャップとゴーグルが外れて、両者の髪の毛が海藻のように舞う。
水の中で、お互い目が合った。
光が揺れる水面。
そしてそのまま水中で、千草は響也の唇にキスをした。
響也も、千草を抱き寄せる。
千草も、腕を響也の背中に回す。
水の中で、抱き合い、キスをする二人。
それはほんの数秒のようで、でも数時間にも感じられて。
プールの底で、ふたりの時間は口付けたまま、止まったようだった。
やがて、息が続かなくなった二人は、水面から顔を出す。
「ぷはっ」
「ぶはぁっ!」
響也は、千草を睨む。
「お前、俺を溺れさせる気か」
「へへへ」
河童か、こいつは。
千草は、日に焼けた顔を、ほんの少し赤くして笑っている。
「千草、おしおき」
そう言って、プールに浮かんだまま、今度は響也の方から千草の唇にキスをする。
黙って受け入れる千草。
ふたりはキスをしたまま、ゆらゆらと水に揺蕩う。
ふたりの外れた水泳キャップとゴーグルは、足元に沈んでいた。
唇を離すと、千草は文句を言った。
「ずるい。負けたくせに」
「これはおしおきだから」
そして今度は、どちらからともなく、ふたりでキスをする。
ゆらゆらと。水に揺れて。
響也は思う。
(今度の勝負、勝ったら何してもらおうかな)
もしかしたらそれは、勝っても負けても、結果は変わらないかもしれない。
なにせ、ふたりの未来は、ひとつになってしまったのだから。
25メートルを超えた、その先で。
「響也、今、えっちなこと考えてたでしょ」
「い、いや。そんなことはない」
「嘘。いやらしい顔してた」
「……ほんとは、考えてた」
「えっち」
そう言って、響也の胸にくっつく千草の頬。
きっと、激しく鳴る心臓の音は、バレバレだ。
千草の肩を抱きしめる響也。
ふたりの距離は、0メートル。
響也は、それすらも超えたいと願った。
この0メートルの、その先に。
一体、どんな恋が待っているのだろうか。
それを知るのは、響也と千草と。
そして、日の光に輝き揺れる、25メートルのプールの水だけだった。
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