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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

25メートルの、その先に。

作者: 平野十一郎

閲覧ありがとうございます!

 水泳部の響也(きょうや)は、プールの水に首まで浸かり、壁を触りながら、天井を仰ぐ。

 装着したゴーグルに光が乱反射して、照明がまるでシャンデリアみたいだ。

 響也(きょうや)の側には、ざらざらとしたプールの壁。

 うっかりすると、()(おろ)ろされそう。


 そして、右隣のコースに、乱暴に着水する音。

 響也(きょうや)の顔に、水しぶきが跳ねて散る。

 プールの水の消毒の臭いが、鼻につく。

 横を見るとそこには、この高校の水泳部で、一年生の夏に入部して以降、二年間一緒に泳ぎ続けていた、千草(ちぐさ)がいた。


 千草は、黒いショートカットの髪に、日焼けした浅黒い肌の女の子。

 千草は、髪をキャップの中に押し込み、ゴーグルを着ける。


 「響也。負けた方がアイス(おご)りね」

 「上等」


 響也は千草と、ずっと競い合ってきた。

 勝ったり、負けたり。

 いいライバル関係だと思っている。

 響也と千草は、プールの壁に寄り、泳ぎ始めの蹴伸(けの)びに備える。

 顧問の教師が、プールサイドで笛を(くわ)える。


 構える二人。


 そして、笛の音が鋭く鳴る。


 響也と千草は、思いっきり壁を蹴って、25メートル先を目指す。

 刃のように水を切り裂いて。







 「私、今月もうお小遣い無いのに……」

 「負ける方が悪い。

  そもそも、お前が言い出したんじゃないか」


 炎天下のコンビニの前で、響也は千草に奢ってもらったソーダ味のアイスキャンディに噛り付く。

 茹で上がりそうな空気の中で、口の中だけが冷たくて痺れる。

 今回は響也が勝った。

 でも、明日はどうなるか分からない。

 他者と競う勝負事とは、何であっても、きっとそういうものだろうと響也は思う。


 千草は、悲しい目で財布の中を見ている。

 その手の甲には、空手で鍛え上げた、(けん)ダコが少しできていた。

 千草は中学までは空手をやっていて、しかも黒帯の猛者だ。

 一度試しに、分厚いミットを手にはめて、千草の正拳突きを受けてみた事がある。

 それはもの凄い威力の一撃で、しっかりはめていたはずのミットが壁まで吹っ飛ばされたのだ。

 腕がもげるかと思った。

 正拳突きを受けた響也の手のひらは、翌日まで痛みが続いた。

 あんなものをミット無しで肉体に受けたらどうなるか……

 想像して、夏だというのに背筋が寒くなる。

 比較的華奢(きゃしゃ)な千草の体格。

 どこからあんなパワーが出てくるのか。

 人体の不思議だ。


 「響也、ひとくちだけ」

 「いいよ」


 千草は、響也の食べかけのアイスを齧る。

 もちろん、間接キスだ。

 だが、響也は気にしていなかった。

 千草はよく、こうやって響也の食べかけのものを、ひとくち貰うのだ。


 響也は、きっと千草は、自分に好意があるのでは、と思っていた。

 ただの自惚れかもしれないが。

 しかし、万が一そうだとしても、その思いには答えられない。

 響也には、彼女がいるのだ。

 最愛の幼馴染の彼女が。


 夏の日差しの下で、響也は千草を見る。

 日焼けした浅黒い肌。

 プールの水で濡れた、短めの髪。


 (こいつ、割とかわいいよな)


 響也は、彼女の居る身でありながら、不純な思考をする。

 そして、彼女の顔を思い浮かべ、自分を戒める。


 (あ~、ダメダメ。俺には、(ゆき)がいるんだから)


 幼馴染で、幼稚園からずっと一緒に過ごしてきた、(ゆき)

 長い黒髪に、白い肌。

 高校の入学試験の勉強も、響也の部屋でずっと一緒にしてきた。

 二人とも合格できた時には、抱き合って喜んだものだ。

 そして、入学した少し後に、響也から告白して付き合いだした。


 「あれ、響也。そういや、今日は雪は来ないの?」

 「いや、そろそろ来るはず。

  あ、来た」


 コンクリートの地面に揺らめく陽炎(かげろう)の向こうから、響也の幼馴染で、今は響也の彼女の、雪が走ってきた。

 雪の肩の革の鞄が、長い黒髪と一緒に揺れる。

 今日は確か、友人の女子達と勉強会をしていたんだったか。


 「響也、おまたせ!千草ちゃんも居たんだね!

  あ、アイスちょうだい!」


 雪は、響也のアイスを勝手に一齧り。

 もちろん響也はそんなことぐらい、一切気にしていない。


 「じゃあ、私はもう行くよ。

  ラブラブカップルの邪魔しちゃいかんし」


 千草は、ふたりを冷やかしながら歩き出す。


 「おう、じゃあ、また明日」

 「千草ちゃん、またね!」


 ふたりは、千草に声をかけ、千草とは別方向に歩いて行く。

 食べ終えたアイスの棒は、ゴミ箱に投げ捨てて。


 「雪、期末テストどうだった」

 「そこそこいい感じかなぁ。

  勉強会、やっぱりやると違うね」


 雪は、響也とはクラスが別である。

 だが、中学から仲の良かった、響也と同じクラスの女子と、結構な頻度で勉強会を行っている。

 その成果もちゃんと出ている様だ。

 響也は最近、泳いでばかりいるせいか、ほんの少しだけ成績が落ちている。


 「あ~、俺も勉強会、しなきゃヤバいな~」

 「それがいいよ。響也、勉強サボり気味だし。

  ウチの勉強会は女子会だから、響也は参加できないけど、男子達でやってみたら?」

 「うーん。そうすると雪と遊ぶ時間が無くなるんだよなぁ」

 「もう」


 響也の頭に、雪が軽くチョップする。

 水泳にデートに勉強。男子高校生は忙しいのだ。


 すると、風が吹き、雪の髪がふわりと持ち上がる。

 雪の耳には、見知らぬ銀の輪のピアスがあった。

 いつの間にピアスの穴なんて空けたのか。

 いつもお互いに、くだらない事でも喋り合っていたふたり。

 生まれて初めてピアスを空けたなんて、本当ならば絶対報告があるはずなのに。


 「雪、ピアス空けたの?」

 「え?あ、う、うん。

  この前ね。そういえば言ってなかったっけ。あはは」


 笑う雪。

 その笑いは、なんだか乾いていて。

 これ以上は踏み込むな、と言われているようで。

 響也はもう、何も聞くことはできなかった。




 そうこうしている内に、響也と雪の家の前に着く。

 響也と雪は、家が隣同士だ。


 「雪、ウチ寄ってく?」

 「う~ん、今日は止めとく。

  授業の復習しなきゃだし。

  ごめんね」

 「いいよ。じゃあ、また明日」

 「うん、また明日」


 そうして、響也と雪はそれぞれの家に帰って行った。


 その夜、シャワーを浴び、部屋着になった響也は、自分の部屋に入った。

 響也の部屋の窓の向こうは、雪の部屋の窓だ。

 幼い頃から、この窓越しに、雪とよくお喋りをしたものだ。


 響也は、最近成績が落ち気味の数学の教科書と、にらめっこをする。

 やはり、勉強会が必要か、と響也は思う。

 すると、窓越しに、雪の部屋から楽しそうな笑い声。

 どうやら、女子の誰かと電話しているようだ。

 優等生はお気楽だな、と響也は心の中で呟いた。


 響也と雪は、高校一年の頃から付き合いだした。

 それまでも、家族ぐるみで仲が良かった両家。

 響也は、雪と付き合うのは必然と思っていた。

 雪も、そう言ってくれた。

 まだ身体の関係は無く、時折キスを交わす程度。

 でも、響也は雪が、物心をついた時から、ずっと好きだった。

 雪とも付き合えて、大好きな水泳もできて、響也は幸せの真っ最中であった。







 翌日。

 いつものように、雪と一緒に登校する。

 雪とは、クラスが違うため、教室の前で別れた。

 自席に向かう途中、同じクラスの千草にも手を上げ挨拶をする。

 席に座り、鞄を下ろすと、目の前にクラスの女子が二人、何やら怪訝そうな顔で立っていた。


 「……ねぇ、響也君」

 「ん?なんだ?」


 女子二人は、互いに顔を見合わせ、不安そうな表情。

 そして、向かって左側の女子が、意を決して響也に言う。


 「響也君。雪のことなんだけど……」

 「雪がどうした?」

 「昨日、響也君が部活中、雪、何してたの?」

 「え?お前らと勉強会じゃなかったの?」


 女子達は、横目で何かを合図しているようだ。

 そして今度は、右側の女子が告げる。


 「昨日は、勉強会してない」

 「……ん?」


 混乱する響也。

 昨日、響也が泳いでいた頃、雪は目の前の女子達と一緒だったはず。

 女子達は嘘をついている様子は無い。

 じゃあ、雪が……?

 なんのために?

 左側の女子が、重い口を開く。


 「あ、あのね。響也君。

  雪、最近、仲のいいOBの先輩がいて……。

  その、男の人の。

  ちょっと前、その人が学校に遊びに来た時に知り合ったって……」


 「私たち、やっぱり知らない振りとかできないから。

  ……響也君にはちゃんと伝えておこうって思って」


 先輩?仲のいい?


 男の?


 響也は、初耳だった。

 雪は、学校であったことは大体何でも響也に話す。

 目の前の女子達が知っていて、響也が知らないことなど、無いはずだった。


 響也の脳裏には、雪の耳のピアスが浮かぶ。

 知らないうちに空いていた、銀の輪のピアス。


 もし雪が嘘をついているならば。

 きっとそれは、響也には決して言えない事。


 響也は、頭の中に自動的に生成される、悪いイメージを消し去るように、髪を掻く。

 それを心配そうに見ている女子二人。


 その時。いつの間にか千草が隣に立っていた。

 千草は女子二人に問いただす。


 「二人とも、それ本当?」

 「うん、本当だよ」

 「次の勉強会、いつ?」

 「えっと、来週の水曜」

 「響也。雪は、勉強会、次いつって言ってた?」


 響也は、青い顔で答える。


 「……来週の月曜、って言ってた」


 その場にいる全員が、言葉を発せなかった。


 雪。お前は、まさか……

 頭の中に、ぐるぐる回る、当たって欲しくない予測。


 「響也。来週の月曜、確かめよう」


 千草は、(けん)ダコのできた(こぶし)を握りしめた。







 そして、次週の月曜日。

 放課後、雪とは一旦別れた響也達は、雪に内緒で集合していた。

 響也と千草と、勉強会の女子二人。

 響也と千草は、いつも通り部活に行っていることになっている。


 機嫌の良さそうに歩く雪を、少し離れて尾行する。

 響也の顔に垂れてきた汗は、真夏の気温のせいなのか。

 千草と女子二人は、スマートフォンをムービーモードにセットし、いつでも動画が撮影できるようにスタンバイしている。


 (……思い過ごしであってくれ)


 たとえば、響也に内緒のプレゼントを買うために、一緒に出掛けているとか。

 響也は、無理矢理に都合のいい方向に思考を持っていく。

 そして。


 「……来たよ」


 右側の女子が、ひっそりと教えてくれた。

 雪の方を向くと。

 そこには、背の高い、端正な顔立ちの男がひとり。

 雪は、その男を見つけると、嬉しそうに駆け寄っていった。

 動画の撮影を始める、千草と女子達。


 (頼む。雪。どうか……)


 顔に脂汗(あぶらあせ)を浮かべ、必死に祈る響也。

 お前は俺を裏切ったりしていないよな。




 だが、次の瞬間。




 雪と男は、抱き合ってキスをした。




 それを見て、全員がそれぞれの思いを、心の中で叫ぶ。

 響也は咄嗟(とっさ)に、自分の右腕に噛み付き、声を出さないように我慢した。

 悔しさで、右腕の肉を噛み千切りそうだった。

 涙を浮かべた目で響也は、雪と男を睨みつけた。

 あの男が、雪にピアスを空けたのか。

 俺の雪に、勝手に。

 今すぐに突撃していって、抱き合っている二人を引きはがしたかった。

 千草は、右手で動画を撮影しながら、もう片方の左手で、響也の腕を掴む。


 「響也。まだ駄目だよ。もしこれ以上の関係なら、それも証拠を残しておかないと」


 これ以上。

 これ以上って何だよ。

 頭ではわかっている。でも……


 そして、雪と男は、手を繋いで歩き出す。

 歓楽街のある方向へ。

 ラブホテルが乱立する区域へ。


 嫌が応でも、次の展開が読める。

 予測は、していたのだ。

 悪い予感は、していたのだ。

 それを撮影しながら、無言で後を付ける響也達。

 響也は、千草に腕を掴まれたまま、なんとか皆と行動を共にする。

 気分が悪かった。

 眩暈(めまい)がする。

 これ以上は、見たくない。

 それが、ただの現実逃避とは分かっていても。


 尾行する響也達と、雪達の間は、およそ25メートル。

 プールの中なら、すぐにでも到達できるはずの距離。

 今は、その25メートルが、まるで永遠のよう。

 いくら手を伸ばしても届かない。

 25メートルの、その先が。




 そして。

 とあるラブホテルの前に来て。

 その中に、手を繋いで入っていく雪と男。




 響也は。


 その場で嘔吐した。


 絶望の涙を流しながら。


 「響也!だいじょうぶ!?」


 だいじょうぶな訳が無い。

 響也はその場で吐きながらしゃがみこんだ。

 背中をさする千草。

 ペットボトルのミネラルウォーターを飲ませてくれる女子達。

 それでも、吐き気は止まらずに。

 涙と共に。




 それから、少しの時間が経った。

 みんなはまだ、無言のまま、ラブホテルの出入り口前の、植え込みのブロックに座っていた。

 響也は、ペットボトルの水で口をゆすぎ、多少は冷静になれていた。

 いや、何も考えられなかっただけだ。

 そして、見ることができなかった。

 未だ現実味のない現実を。


 「来たよ」


 千草が響也にそっと(ささや)く。

 ホテルの出入り口から出てきたのは。

 背の高い端正な顔立ちの男と、その男の腕に絡みつく雪の姿。


 響也は、立ち上がる。


 雪と目が合う。


 喜びの表情だった雪は、響也の姿を見つけ、一拍の後、一気に青くなっていた。


 片手を上げて声をかける響也。

 笑顔を作ったつもりだった。

 うまく、笑えていただろうか。


 「よう」


 絡みついていた男の腕から、咄嗟(とっさ)に離れる雪。

 でも、響也の隣には、植え込みのブロックに座る千草と女子達。

 全ては、見られていた。




 「ちがうの!」




 叫ぶ雪。

 何がどう違うのか、と(わら)う事しかできない響也。

 その横で座る千草からは、途轍もない怒りの空気が発されていた。


 雪の隣の男は、爽やかな笑顔を響也に向けていた。


 「ああ、君が雪の幼馴染ってやつか。

  名前、何だっけ?

  ま、それはどうでもいいや。

  雪とは、こういう事だから。

  そろそろ諦めてくれると助かるよ」


 男は、雪の腕を掴み、自分の元に引き寄せる。

 雪は抵抗しなかった。


 「ごめんね、幼馴染君。

  雪の初めて、貰っちゃって。

  でも、君もいけないんだよ。

  さっさと手を出さないから。

  雪はもうとっくに、僕無しじゃ生きていけない身体になっちゃったからね」


 その笑みは、あくまで爽やかで。

 悪魔というものが存在するならば、きっとこんな風に爽やかに笑うのだろうと、響也は思う。


 笑顔の男と、青ざめる雪。


 雪の初めて。という単語に、またも響也の目に涙が流れる。


 「あれ?泣いちゃった?

  ダメだなあ。

  雪、こんなやつ、手放して正解だよ」


 雪の耳元で(ささや)く男。だが、明らかにこちらに聞こえるように言っている。

 そして、男に近づいていく響也。

 せめて、せめて一発だけでも殴らせてくれと、拳を握る響也。


 「ああ、なんだい?

  殴るつもりか?

  いいよ、受けて立つ。

  僕、これでもそこそこ強い方でね」


 少しずつ、少しずつ、近づいていく響也。

 ファイティングポーズを構える男。

 響也に格闘技の経験は全く無い。

 たぶん、戦えばボロボロにやられるだろう。

 だが、それでも、これだけはやらなくてはいけなかった。


 せめて、一発。

 近づく男。

 さっきは、永遠とも思えた25メートルの、その先で。

 今は、男との距離は2・5メートル程に。

 あと一歩で、互いの拳が届く距離。




 そして、そこに。




 突風のような速さで、響也の横を千草が駆け抜ける。


 その男に向かって。


 男は、咄嗟(とっさ)に千草にワンツーのパンチを繰り出すも、千草はそれを(かわ)し、男の肉体のど真ん中に、凄まじい威力の正拳中段突きを食らわせた。


 「ぐぼっ……」


 変な声を出し、ホテルの塀まで吹き飛び、地面に転がる男。

 あの正拳突きが刺さった場所。

 胴体のど真ん中。

 確か、鳩尾(みぞおち)の『水月(すいげつ)』と呼ばれる急所のはず。

 あそこは、指一本で(つつ)かれるだけで、悶絶するほどの、人体の弱い場所。

 前に千草にやられたことがあるからわかる。


 あんな場所に、あんな威力のパンチを突き刺すなんて、正気の沙汰ではない。

 男は胃液を撒き散らし、地面に倒れて痙攣(けいれん)していた。


 千草は、雪を(にら)む。

 (おび)える雪。

 千草は雪に近づき……




 その脚に、ローキックを食らわせた。


 「痛ぁいっ!!」


 それを受け、崩れ落ちる雪。

 普通、こういう場面では平手打ちとかではないのか、と響也は思う。

 ちなみに、千草のローキックは、角材を蹴り折るほど強力だ。

 明らかに手加減をしているはずだが、それでも、数時間は痛みで立つことはできないだろう。

 

 千草は、響也の方へ振り替えり、宣告する。


 「響也。あとは響也が決めて。どうするのか」


 響也は頷き、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。

 先ほどまで撮影していた全ては、既に響也のスマートフォンに転送済みだ。

 響也は、学校のグループチャットに、書き込んだ。


 『こういうことだから、雪とは別れる』


 その一言を入力した後、撮影していた動画を貼り付ける。

 雪と男が、キスをし、ホテルに入るまでの一部始終を。


 響也が送信ボタンを押すと、周りから通知音が聞こえる。

 千草と、女子二人と、雪のスマートフォンから。


 女子二人は、自分のスマートフォンを見て、やるせない表情をしていた。


 それを見ていた雪も、脚の痛みに耐えながら、自分のスマートフォンを何とか確認する。

 雪は画面をタッチし、グループチャットを開き、動画を流し、それを見て突然声を上げる。


 「響也!ちがうの!

  私が好きなのは響也だけなの!」


 「じゃあ雪は、好きでもない人とヤれるんだね」


 「誤解なの!あの人とは何もしてない!」


 「そいつ、雪の初めてを貰ったって言ってなかったっけ。

  まあ、男女がラブホテルに入って何もないなんて、誰も思わないよ」


 「だから、それは誤解で!」


 益体(やくたい)も無いことを叫び続ける雪。

 響也はもう、雪の言う事を聞くつもりはなかった。

 響也は、自分の家族と、雪の家族にも、全く同じ内容のチャットを送った。

 もちろん、動画付きで。


 雪は、今はもう、ただ泣くばかり。


 響也は千草達に声をかける。


 「もう行こう。みんな、協力してくれてありがとう

  今度何かお礼でもするよ」


 その言葉に、座っていた女子二人は立ち上がる。

 千草は、響也の腕を掴み、支えていた。

 千草は言う。


 「響也、あの女、別れて正解だよ」


 響也はただ頷いていた。

 涙の跡が残る顔で。

 そして去り行く響也達。

 その場所に残されたのは、ただ雪が泣く声と、男が(うめ)く声だけだった。







 あの事件から一週間が経ち。

 雪の両親からも、響也の一家に謝罪があった。

 響也は、その謝罪をただ受け止め、しかし、雪との別れは覆すつもりはないことを告げた。


 どうやらあの男と雪の馴れ初めは、OBのあの男が学校に遊びに来ていた時に、雪に声をかけ始まったらしい。

 そして、雪は男から、ひたすらちやほやされて。

 身を捧げるほどにまで、男に依存してしまったようだった。


 雪はあの後、自室に籠って出てこなくなったそうだ。

 相手の男からの連絡も、一切来なくなったらしい。

 男からしてみれば、ただの遊び相手だったのだろう。

 今ではもう、響也の部屋の窓の外から、雪のすすり泣く声がたまに聞こえる程度の話であった。







 「それで、雪のことは吹っ切れたの?」


 プールの水に浮かび、響也と千草は、その後のことを話していた。

 今日は水泳部は休みで、他の部員も顧問も居なく、響也と千草は教員の許可を取り、二人だけでプールで泳いでいるのだ。


 「いんや。さすがにまだ引きずってる」

 「もう雪の事は忘れなよ」

 「そう簡単にはいかねえよ」


 ゆらゆらとプールの水に揺蕩(たゆた)い、壁際までゆっくり泳ぐ二人。

 壁まで到達すると、響也の右側のコースの、千草が提案する。


 「響也、勝負しよ」


 「あん?まあいいけど。何()けるんだよ」


 「響也が勝ったら、私にキスしていいよ」


 ほんのり赤くなった、日焼けした千草の横顔。


 響也は前々から、千草の好意には薄々気づいてはいた。

 雪の存在があったから、その気持ちを振り払っていただけだ。

 響也の心の中には、まだ雪の存在が残っている。

 しかし、今はもう雪の存在は日に日に薄れ、その場所には代わりに、千草が居るようになっていた。


 雪との恋は、ひどい結末だった。

 恋は当分こりごりだとも思った。

 でも、千草の事を想うと、また恋をしてもいいんじゃないかと。

 響也の心は、プールに浮かぶように揺れていた。


 「千草。じゃあ、それで。

  俺が勝ったらキスな」


 「ふふ。負けてなんかあげないから」


 ここから見える、向かい側の壁。

 25メートルの、その先に。

 俺の未来はあるのだろうか。


 二人は位置に着き。

 千草が号令をかける




 「スタート!」




 二人は壁を蹴り、自らを射出する。


 25メートルの勝負。


 二人とも、泳ぎ方はクロールだ。


 響也は右呼吸。千草は左呼吸。


 息継ぎで顔を上げた瞬間の度に、右側で泳ぐ千草と目が合う。

 千草の目は潤んでいるようにも見える。


 ゴールまで、あと10メートル。


 響也は、息継ぎの頻度を少なくし、顔を水に浸けっぱなしにして、スピードを上げる。


 水中で横目で千草を見ると、同じく顔を浸けている千草と目が合った。


 (負けてたまるか!)


 あと5メートル。


 ラストスパートをかける響也。

 すぐ横には、千草が。


 (絶対キスしてやる!)


 響也にとって、それは半分は恋で、半分は意地だった。


 目の前には、ゴールの壁。


 もう息が続かない。







 そして響也は、壁にタッチする。


 勝者は……







 「ぷはぁっ!はぁ、はぁ……

  やったぁ!私の勝ちぃ!」


 「ぶはっ!はぁ、はぁ……

  くそっ!負けた!」


 響也の負けだった。

 酸素不足で息も荒く、悔しがる響也。

 その横で、勝ち誇る千草


 「残念でしたっ!

  響也が私にキスする権利は無くなりました~!」


 「あー!もう!

  負けたんだからしょうがねえ。

  で、千草は俺に勝って、何が欲しいんだ?」


 響也は一介の高校生。あまり高価なものは勘弁してくれと、プールに浮かびながら、思う。


 「え~?そんなの、決まってるじゃん!







  私が、響也にキスする権利」


 千草はそう言うと水に潜り、響也の身体を(つか)んで水中に引きずり込む。

 響也は、水に入る瞬間、慌てて息を吸い込んだ。


 潜った勢いで、ふたりとも水泳キャップとゴーグルが外れて、両者の髪の毛が海藻のように舞う。

 水の中で、お互い目が合った。

 光が揺れる水面(みなも)


 そしてそのまま水中で、千草は響也の唇にキスをした。


 響也も、千草を抱き寄せる。

 千草も、腕を響也の背中に回す。

 水の中で、抱き合い、キスをする二人。


 それはほんの数秒のようで、でも数時間にも感じられて。


 プールの底で、ふたりの時間は口付けたまま、止まったようだった。




 やがて、息が続かなくなった二人は、水面から顔を出す。


 「ぷはっ」

 「ぶはぁっ!」


 響也は、千草を(にら)む。


 「お前、俺を溺れさせる気か」


 「へへへ」


 河童(かっぱ)か、こいつは。

 千草は、日に焼けた顔を、ほんの少し赤くして笑っている。


 「千草、おしおき」


 そう言って、プールに浮かんだまま、今度は響也の方から千草の唇にキスをする。

 黙って受け入れる千草。

 ふたりはキスをしたまま、ゆらゆらと水に揺蕩(たゆた)う。

 ふたりの外れた水泳キャップとゴーグルは、足元に沈んでいた。


 唇を離すと、千草は文句を言った。


 「ずるい。負けたくせに」

 「これはおしおきだから」


 そして今度は、どちらからともなく、ふたりでキスをする。

 ゆらゆらと。水に揺れて。


 響也は思う。


 (今度の勝負、勝ったら何してもらおうかな)


 もしかしたらそれは、勝っても負けても、結果は変わらないかもしれない。

 なにせ、ふたりの未来は、ひとつになってしまったのだから。

 25メートルを超えた、その先で。


 「響也、今、えっちなこと考えてたでしょ」

 「い、いや。そんなことはない」

 「嘘。いやらしい顔してた」

 「……ほんとは、考えてた」

 「えっち」


 そう言って、響也の胸にくっつく千草の頬。

 きっと、激しく鳴る心臓の音は、バレバレだ。

 千草の肩を抱きしめる響也。


 ふたりの距離は、0メートル。


 響也は、それすらも超えたいと願った。


 この0メートルの、その先に。


 一体、どんな恋が待っているのだろうか。





 それを知るのは、響也と千草と。

 そして、日の光に輝き揺れる、25メートルのプールの水だけだった。







お読み頂きありがとうございました!


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― 新着の感想 ―
ショートムービーとか映画とかにできそうな表現でイイですね!! 某「秒速5センチメートル」みたいに。 間男の制裁で賛否ありますが、結局主人公の知らない他人が声かけただけの存在なのでまぁこれ以上はやり…
[一言] 甘酸っぱ〜い 途中のテンプレ部分はテンポよく進んで、最後の部活でタイトル回収して。 甘酸っぱい〜
[一言] 響也自信が手を下してないやん 間男は金玉蹴り潰して歯ぁ全部と四肢の骨折って雪は顔の形変わるまで殴らな
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