第七話
放たれた矢のように、夜を切り裂いて、馬車は走っていた。満月に背後から照らされて、道は銀色に輝いている。ふと振り返った時に、思いがけず低いところにあったので、まるで一つ目の巨人に追いかけられているような錯覚を覚えた。そして、そんな呑気な空想をしてしまった自分自身に対して、軽くいらだちを覚える。
馬車を引く二頭の馬は、既に口元からは白い泡が吹きこぼれ、全身汗もしとどに濡れている。私としてはもっと速く駆けて欲しいところなのだが、これ以上は望めないだろう。ならば、代わりに彼に頑張ってもらわなければならない。どうか、私が到着するまで、彼が旅立ってしまいませんように。
馬車がようやく街に辿り着き、屋敷の門に滑り込んだ瞬間だった。様々な思い出が突風のように、押し寄せてきた。ここで日々を送っていた頃の、様々な私が、そこかしこからこちらを覗いているようにすら思えて、立ちすくんでしまった。様々な感情がないまぜになり、こらえ切れない。知らないうちに両の目からは涙がほとばしり、押し殺そうとしても、嗚咽が漏れる。それが許されるのであれば、いつまでも泣き続けていたかった。しかし、私はもう、かつての私ではない。私は袖で顔をぬぐうと、視界のにじんだままで、歩き始めた。
私と入れ替わるようにして、別邸に住まうようになった女中の案内で、勝手知ったる家の中を進む。久しぶりに訪れる、かつての我が家は、記憶にあるよりも、ずっと縮んでしまったように感じた。その扉もまた、こんなに小さかったのかと驚くばかりだった。とある場面が思い出される。夜中にふと目が覚めて、怖くて、どうしても一人で眠れなくなってしまった夜に、おずおずとノックしたことが、何度かあった。真夜中だったにも関わらず、彼はいつでも目を覚ましていて、ランプの灯りで読書をしていた。彼は暖かく私を迎え入れてくれて、暖かいミルクを持ってきてくれた。そして私が眠りに落ちるまで、ゆっくりと話しかけてくれたものだった。
扉に手をかけたまま、呼吸が落ち着くのを待った。それにはしばらくの時間が必要だった。ようやく人心地ついてから、それを開けるつもりになれた。全力で抗う必要があった。
その先に、彼がいた。
思わず、泣き崩れそうになってしまい、必死に膝に力を込めた。
それまで定期的に手紙のやり取りはしていたとはいえ、実際に顔を見るのは、いつ以来になるだろう。父の葬儀の時が、最後だったかもしれない。あの時もだいぶ老けたなという印象は持ったけれど、それでもまだかくしゃくとしていたし、彼自身も老いを冗談にできるほどには余裕があった。しかし、今こうして眠っている彼の姿は、あの時感じた活力というものが、抜け落ちてしまっている。どんなにそこから目をそらそうとしてみても、その時がすぐそこまで近づいているのだということを、否応なしに思い知らされる。
胸が苦しい。うまく息が吸い込めない。しばらく彼の顔を見下ろしていると、時折り荒波のように、より一層強い何かが胸にこみ上げてくる。それを幾度も耐えているうちに、私はひどく消耗してしまった。いつの間にか、床に座り込んでいて、シーツに突っ伏していた。とうとう嗚咽もこらえきれなくなっていて、襟元を涙で濡らしてしまっていた。
どれほどの間そのようにしていたかはわからないが、布団の上で突っ張っていた右手が何かに包まれていた。彼はいつの間にか目を覚ましていて、息も絶え絶えに半身を起こすのですら力を使い果たさんばかりで、それでも眼差しだけは記憶にある、あの時のままだった。
「無理をしないで!」
どれだけ辛いだろうに、彼は挨拶をするためだけに、身を起こそうとしていた。慌てて止めに入ったのだったが、どうしても起きたいらしい。長い時間をかけてどうにか起き上がるのを、私は手伝った。肩には毛布をかけてやった。
「どうしてここにお嬢様が」
それを口にするだけでも、かなりの時間が要った。かすれた呼吸音に混じって、かすれた呼吸音に混じって、弱々しい声で途切れ途切れに続ける。
「絶対に伝えないでくださいとお願いしたはずなのですが」
「虫の知らせよ。お兄様に手紙を出したの。何か隠していることがあるなら、洗いざらい教えてくださいって。何度も、何度もね」
私は水を注いでやりながら、彼の質問に答えた。
「とんでもない話よ。私に知らせないまま、勝手に死のうだなんて」
私の一番上の兄は、今では父の跡を継いで領主になっている。目の前にいる彼は、あくまで私の父に仕える家臣とであるという立場を崩したがらなかったので、私の兄の家臣扱いはされなかった。それでも、長年の功績は誰の目にも疑いはなかったので、長年使い続けた別邸を退職金がわりに与えられ、馴染みの女中の一人と家庭を持つことすら許されたのだった。
直接の主君として仕えることはなくなったにしても、生真面目な彼は兄に対して忠義の念は持っているに違いなく、結果的に無理な約束をさせてしまっていたことに、引け目を感じているようだった。
「お子様が生まれたと聞きました。男の子が、二人だと」気を取り直して、彼は話題を変えた。
「いつの話をしているの。もう、とっくに大きくなってるわよ。何度も手紙で知らせているでしょう」
苦笑い混じりに私が返答すると、そうでした。と、彼は表情だけで頷いてみせた。
「あの子たちも、あなたに会うことをずっと楽しみにしていたのに、あなたときたら、いつまで待っても顔を見にも来やしない」
「申し訳ございません。何かとお役目が途切れなくて、うかつに留守にすることもできませんで」
「そんな、言い訳ばかり。その気になりさえすれば、どうとでも都合を付けられたでしょうに」
私はぷいと横を向いた。
「まぁ、仕方ないわね。そのうちに、機会に恵まれるでしょう。だから、早く良くなるのよ」
「そういたします」
久しぶりの二人きりの夜は、とても暖かで居心地がよく、かなうのならばいつまでもこのままで居たかった。お互いにとりとめもないことを、訪れることのない朝までの間、語り合っていたかった。一方で私は、それまでに経験したことのない恐怖も感じていた。今この瞬間が穏やかであればあるほど、終わりは唐突にやって来る。
私は子供の頃、自分が臆病だと感じたことはなかった。臆病なのはいつだって周りの大人たちだった。彼らは常にどこか及び腰で私に接していて、特に、私が母の思い出かなにかを聞こうとすると、慌てて取り繕おうとするばかりだった。彼だけが、私に対してなにも斟酌しようとしなかった。母の最期について尋ねた時も、「知りたいならば教えて差し上げますが、本当に今でよろしいですか」と無頓着に返された。なんとなく気後れしてしまった。結局彼と話し合って、年頃になった時にでも改めて教えてもらうことになった。その後結局話されることはなかった。
彼だけが、私を、私を通して目に映る過去の事件を、恐れる素振りも見せなかった。もしかしたら、彼は知らないんじゃないか。改まって伝えることなんて、何もないのかもしれない。と考えていたこともあったのだが、この手で子供を育て上げた今、わかったことがある。彼は、私を恐れている暇なんて、持つ余裕がなかったのだ。必死だったに違いない。いくら豊かな領主の館の片隅だとは言え、誰の助けも得られず男手一つで主君の子を育て上げるのには、全身全霊を傾けなければいけなかったに違いない。私が無事に嫁ぐことができたのは、まるで、奇跡みたいなものだったのだ。
その彼が、今まさになにか伝えようとしている。私にはそれが痛いほどわかっている。なのに、彼の言葉を受け止めるつもりになれない。私の本心を、彼は見透かしてしまっているだろうか。多分、わかっている。だって彼はあんなに優しく微笑んでいるし、私は涙をとめられないでいる。
「お伝えしなければならないことが、一つだけあります」
「いやよ。聞きたくないわ」
「そこを、どうか。今回だけ。私にはあまり時間が残されていません」
「そんなことを言わないで。お前は私の唯一の家族なのよ」
「お嬢様、困らせないでください。これだけはどうしても、お伝えしなければ、私は死ぬに死ねません」
彼は今まさに最後の命の炎を燃やし尽くそうとしているところだった。穏やかな口調と、裏腹に鬼気迫る表情がは、同じ人間が同時に見せるのには妥当ではないように思えた。握る手に力が入る。彼の口元に耳を寄せる。
「実は、俺は現代からの転生者で、知識チートしていただけなのです」
それだけを言い終えると、彼は枕に頭を落とした。握っていた手から力が抜ける。まるで何か透明な膜が一枚、彼の中から引き抜かれるところが見えるようだった。先ほどまでの苦しげな呼吸は収まり、長年の重荷を降ろせたかのように、その顔からはすべてのこわばりが除かれていた。
「なんなのよ、一体」
「現代からの転生者って、知識チートって、なんのことなのよ!!」
私の叫び声に答えてくれる者は、もはや誰も残っていなかった。ただ、いつの間にか中天にまで昇っていた満月が、何も言わずに庭園を銀色に照らすだけだった。




