第二話
私は庭園のうちの、比較的目立つ部分に手を入れることにしていて、残りの部分を彼が請けもっている。割合としては、そちらの方が圧倒的に大きい。どちらにせよ、私がどれほど真剣に取り組んでいるつもりでも、周囲からはお嬢様の手慰みだとしか思われていないはずだ。
私の本心をわかっているのは彼だけなのだが、その彼にしても土までいじり始めるとけしていい顔をしない。
「よそのお嬢様方は、花や葉を愛でて満足なさってますよ」なんて小言をくれたりもする。ましてや、今はよそ行きの恰好をしたままでもある。しかし、元々鉢の植え替えは近いうちにやらなければと気にかけていたところだったし、絶対に今やらなければ私の気は休まらない。私は腕まくりをすると、棚に並べていた鉢植えを地面におろし始めた。
花を植える場合、地面に直接種を蒔いてもうまく行かない。鉢で芽吹かせて、ある程度の大きさにしてから、植え替えてやる必要がある。私はさっそく苗を引き抜いてみたが、いくつか根が伸び過ぎている鉢があった。やはり、今日手を付けてよかった。絡まった部分を解し、長くなった根は切り揃え、整える。
苗と苗とは、十分に離して植えなくてはならない。そうしないと、お互いに被り合ってしまって、うまく育ちきらない。花壇を花一杯にするには、このあたりに心を配る必要がある。育ちの良くない子は、こまめに間引かねばならない。初めたばかりの頃はどうしても気が進まなくて、花壇を無駄に緑で一杯にしてしまうこともあった。
そういえば、本邸で暮らしていた、私の腹違いの姉が("本物の令嬢"というのが彼女の口癖だった)珍しく私を羨ましがったことがあったのは、あれは私が普段土いじりをしていると伝えた時ではなかったか。めったにないことに、嬉しくなった私は、今度花壇をいじらせてあげると約束までしたような気がするが、それが果たされたという記憶はない。
まあ、彼女にこんなミミズやオケラがもりもり出てくるような地面を掘らせていたら、きっと卒倒なんかして、大事になっていたに違いない。その思い出がない以上、おそらくその話は、立ち消えになったのだろう。
それにしても、ほんの子供の頃は、本邸別邸の差は意識していたにせよ、それなりに兄弟間の交わりはあったように思える。本格的に口をきかなくなったのは、何がきっかけだったろうか。そこまで考えてみて、別にとりたてて思い出す必要もないことに気が付いた。いずれにせよ、私には興味のないことに決まっている。結局私は、拳一つ分余計に空けて、苗を植えてやった。
「精が出ますね」
突然、頭の上から声が落ちてきた。首だけで見上げると、長身を曲げて覗き込んでいる彼の姿が目に入った。慌てて立ち上がり自分の姿を見直すと、とりあえず許される範囲内だろう。まあまあ、思っていたよりは、汚さずにいられた。
「まあね。結構根が回っちゃっていたけど。うまく整えられたわ。やっぱり、今日思い立って正解だったかも」
私は胸を張って伝えた。いくら汚れが目立たないとはいえ、土いじりをしたこと自体が咎められる恐れは、五分五分程度には残っている。なので、先に自らの成果を誇ることに決めたのだ。それ自体が彼の判断を左右するとは思えなかったが、少なくとも私の気は晴れる。
「どうやらご機嫌はよくなったようですね」
少しの間、私の顔をしげしげと見つめた後、彼は言った。小言が出てくる気配はなく、私の心配は取り越し苦労だったらしい。
「日も陰って、虫も多くなります。そろそろ中にお入りください。お茶を淹れて差し上げますので」
「最初から機嫌なんて損ねていないわよ。でも、お茶はいただくわ。早く用意するように」
心のうちを隠したい時なんかに、私はついつい言葉遣いが強めになってしまうことがある。
それにしても、私が彼について知っていることは、とても少ない。精々が私が産まれるよりも前からお父様に仕えていたこと。そして、なぜだか男手一つで私を育て上げたこと。別邸とその周囲を、完璧に管理していること。いつも難しい顔をして、小言ばかりくれること。そういえばどこの生まれなのかも、年齢さえも教えてもらってない。
「替えのお召し物が部屋に用意してあります。手を洗って、着替えていらっしゃいませ」
ぼうっと顔を見上げていると、かすかに微笑んで言ってくれた。
そういえば、彼について知っていることが、もう一つだけあった。お茶を淹れるのが、とても上手なのだ。茶葉も機材もそれに関してだけは本邸も比べ物にならない種類を揃え、季節や天気に合わせて、いろいろな組み合わせ方をしているという。その話をする時、彼は珍しく饒舌になって色々教えてくれるのだが、私はいつも聞き流してしまっている。
「あっ、いけない!」
上の空でいたせいだろうか、着替えの裾を椅子の足でひいてしまった。すぐに替えを用意させないと。そうはわかっているのだけど。
「なんだか面倒くさいなあ……」
引っかけた部分を手に取って確かめてみる。注意して見ないと気付かない程度のほつれだ。大したことない。ような気がする。それに、彼も私の着替えが終わる頃に合わせてお茶の準備を整えているだろう。だったら、このままなかったことにした方が、全てにおいてつつがないのではないか。私は納得すると、着替えの続きに戻った。
彼が運んできたお茶は、淡い黄金色をしていた。たっぷりとお日様を浴びたように、素朴で香ばしい。上り立つ湯気を楽しみ、カップに口をつける。思わずため息とともに、美味しい。と呟いてしまう。はっとして彼の方を見ると、どうやら彼の耳にも届くほどの声だったらしく、得意げな顔をしている。彼はお茶の味を褒められると、臆面もなくそれを誇る。滅多に表情を崩すことがないだけに、それが目立つ。ちょっとだけ、悔しい。
しばらくそのようにして、一日疲れた体をいたわってやっていたのだが、彼がふと何かに気付いた様子で、顔を近づけてくる。一瞬、何を打ち明けられるのだろうかとなど身構える。彼の視線がスカートの裾を捉えていることには、しばらく気付かなかった。
「お嬢様、失礼ですが、その、お裾が」
別段彼にそれを咎めるつもりがあったわけではないのだろう。ただ、私の方には多少後ろめたい気持ちがあり、それで若干言葉を急いでしまった。「ああ、それね。さっき着替えている時に引っかけてしまったの。明日にでも繕ってもらわなきゃ」
「引っかけてた。着替えている時に、ですか?では、お気付きになっていたと。なのにそのままにしておいたと」
しまった。そういうことに、なるな。
「そのようなことでは困ります。淑女たるもの、身だしなみには人一倍気を付けねばならぬと再三申し上げているはずです。それが、気付いているにも関わらず、そのままにいらっしゃるとは……」
「あーもうわかったわよ!以降気を付けます。部屋に戻って着替えてきます!これでいい?そうよね!私がよそで粗相なんてしてみせたら、お前の評判にも傷がつくものね!離れで男手一つで育てたりするもんだから、あんな作法のなっていない娘になってしまった。ってね!」
「そのようなことは申し上げていないのですが……」
彼は難しい顔をして黙ってしまった。どうしてこうなってしまうのだろう。私だって好きで彼を困らせたいわけではない。二人だけの茶室に、気まずい沈黙が流れる。
それを破ったのは、彼の方だった。
「それではこう致しましょうか。少しの間、ソファに腰かけておいでなさい。見たところ、酷く破れているわけでもありません。今から手早く縫ってしまいましょう」
「……、くれぐれも妙な真似はしないことよ?」
ご冗談を。と鼻で笑われてしまった。
ソファに並んで腰を掛ける。彼素早く動く手元に目を落としたまま、なおもぶつぶつと小言を繰り返している。幼い頃は、いつもこのようにして過ごしていた。並んで腰かけたまま、本を読んでくれたり、小言を聞かされたり。幼い私は大抵途中で眠くなってしまって、彼の膝に上りこんで、そのまま眠りに落ちるのが常だった。今となってはもう叶わないことだろうか。もう一度だけ、同じことをして欲しいと頼んだら、彼はどんな顔をするだろうか。
驚くかな。
怒りはしないだろう。
……困った顔をされるのは、ちょっと嫌だな。
そんなことを考えていると、だんだん私の瞼が重みを増してくる。
このままでいると、眠りに落ちてしまうだろうな。そうなる前に、自室に引き上げた方がいいかもしれない。今日は色々あって疲れた。夕食は取らずに、寝てしまおうか。でも、もう少しだけ、このままで。
私の名前を呼ぶ声が、遠ざかっていくのを感じながら。