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第一話




 顔にかかるかすかな木漏れ日で、自分が眠りに落ちていたことに気が付いた。膝の上には、開かれたままの本。どうやら、読書の途中だったらしい。なんの本を読んでいたのだっけ?確かめようと伸ばした手の先の、肘から向こう側の感覚が、全くない。

 何が起こった!?私は、無事な方の手を付いて、やっとの思いで身を起こす。辺りを見渡すと、午前中のやわらかな光が差し込む、いつもの自室。すべてが清潔に、整えられていて、平穏に包まれている。何一つ変わった様子は見当たらない。私はそっとため息をつく。目を覚ました瞬間から薄々感づいてはいたのだけれども、どうやら今の惨状は、私自身の行いによるものだ。ソファで居眠りをする時など、度々片側の腕を下敷きにしてしまう癖が、私にはある。彼が常々そのことをたしなめてきたとしても、私はその度にまた始まったよと聞き流すだけ。どちらにしても、いざ眠くなってしまった時の私は、そんなことお構いなしに眠りに落ちる。

 それにしても、今回の痺れ方は、いつもよりも一段とひどい。格別だ。まるで、見知らぬ死体の腕かなにかを、適当に継がれたかのよう。必死にさすったりなんだかして、そのうちにせき止められていた血が一気に巡り始めるのを感じる。思わず、声が漏れる。


 ところで、こんな体たらくで打ち明けるのもなんだけど、実はわたくし、お嬢様だったりする。先祖代々、貴族の家系である。深窓の令嬢と言い換えてもいい。

 父は、この辺りの大領主。生来の気前の良さと、分け隔てのない公平な裁きで知られていて、領民たちからの絶大な人気を誇る。一方で一代で宰相の地位まで登り詰めた程の野心家で、その前半生において振るった辣腕の数々は、今なお語り草になっている。

 その手腕は家庭内でも遺憾なく発揮されていて、私の兄や姉などの数人の子供を立派に育て上げ、婚姻も既につつがなく済ませていて、一族はますますもって繁栄することだろうと目されている。


 その末の娘だ。さぞかし蝶よ花よと育てられ、華やかな暮らしを送っているに違いないと思われるかもしれないが、実はそうでもなかったりする。貴族にはありがちな、複雑な家庭内の事情による理由なんかがあったりして、私は敷地内にあるこの小さな邸宅で、目立たない暮らしを送ることを余儀なくされている。私はしばらくうつむいたままで、手のひらをぐーぱーさせながら、そんなことを考えていた。


 なので、突然のノックには、文字通り飛び上がってしまった。その後に、よく響く声で「お嬢様、少しよろしいでしょうか」と続く。

 普段だったら、こんなことは絶対にない。彼の歩幅は完全に頭に刻まれているし、例えその足音がするのが廊下の端だったとしても、聞き分ける自信がある。

「構わないけれど、何かあったかしら」私は、つとめて平静を装ってそう言った。

「本日は本館に伺う予定になっておりますが、準備の方はいかがなさいましたでしょうか」

 とっさに、部屋の真ん中を振り返る。普段めったに袖を通す機会のない、上等の衣装。思い出した。というか完全に忘れていた。今日はお父様と一緒に昼食を取る日だった。どうやら、私はその準備をするために、自室に引き上げて、そのまま居眠りをしてしまったようだ。


「それなりにね!もちろん完全には終わってはないけど、出かけるまでには間に合うはずよ。ところで、時間はどれくらい残っているの?」

 私は慌ただしく化粧を台に並べながら、ドアに向かって声を張り上げた。彼がまだドア越しに会話を進めているというならば、時間的余裕はあるはず。続いて肌着類をベッドの上にぶちまけると、そのうちの一つを適当に選び取る。残りは床に払い落とす。

「あまり進んでいらっしゃらない様子ですね」

「鋭意取り掛かり中よ!」

 私は仁王立ちのままで、怒鳴り返した。作業手順は確立した。あとは手を動かすだけだ。


「かしこまりました。女中をすぐに一人寄越しますので、それの言うことをよく聞くようにしてください。よろしいですね?」

 言外に有無を言わせない雰囲気をまとわせてはいるが、以前の彼だったら、こういう時は断りもせずにドアを開けたものだった。最近はそうすることも、めっきり減った。おそらく、私の成長に合わせて色々と配慮することが増えているのだろう。別に気にすることなんてないのにな、と思ってはいるのだけど、それはそれとして時間稼ぎをしたい時なんかには、とても便利だ。ありがたく利用させてもらっている。


「あら、そう?」

 私は、可能な限り軽い口調で返した。声が裏返らないようにするのには、ほんの少しだけ努力が要った。

「別に一人でも構わないんだけど。でも、お前がそう言うということは、もう手配を済ませちゃったのよね?だったら、無下にするのも忍びないわね。仕方ない、寄越しなさい。使ってあげるから」


 喋りすぎだったかもしれない。少し不安になって、ドアに耳を当てる。息詰まる数瞬の後、几帳面な足音が遠ざかっていくのが聞こえた。

 私は胸をなでおろす。手伝いが来ることにも安堵した。これできっと時間にも大幅な余裕ができるに違いない。とりあえず、ベットの端に腰を掛けると、凝り固まっていた肩をぐりぐりともみ込んでやった。





 飛び石を踏んで、生け垣に切られた木戸をくぐると、そこから先は本邸の領域になる。特に取り決めがあったわけではないが、何かの事情がない限りは、お嬢様がそちらに足を踏み入れることはない。彼女が実の父親を訪ねるのは、そのひとつにあたる。

 お嬢様は生まれてこの方、その生け垣を境界線として暮らしてきた。元々聡明な性質の方だ。自ずと察するところがあったに違いなく。物心つく頃には、自然とそちらを避けるようになっていた。お世話を続けてきた俺としては、歯がゆい思いがしないでもない。


 そこから一歩踏み出すと、不意に足元に硬さを感じる。前庭はいっぱいに日干し煉瓦が敷きつめられていて、本邸の使用人たちの、自慢の種だ。咲き乱れる草花の数々も、俺たちの庭と比べると段違いだ。最近ではお嬢様も庭の手入れに随分とご執心で、生け垣越しに、熱い視線を送っている様子も、度々見られた。今も、花壇を食い入るように見つめておられる。可能であれば、この機会に心ゆくまで堪能していただくのも悪くはないのだが、生憎と時間の問題がある。軽く咳ばらいをして先を促すと、たちまちのうちに我に返られた。


 本邸の玄関に到着すると、見知った老執事が我々を出迎えた。引き継ぎを済ませ、後のことは彼に任せる。そのまま待合室に入り、彼女が戻るまでの間、時間を潰す。大勢の使用人達が、引くきりもなく行き交う。お嬢様のお世話を仰せつかる以前は、俺もあの中の一人だったな、などと昔を懐かしむ。


 彼女が会食の間、領主様とどのような会話を繰り広げているのか、俺には想像することしかできない。しかし、不機嫌な表情を浮かべたまま戻ってくることの方が多い。


 領主様は、慈悲深く、寛大なお方であり、彼女に対しても手を尽くしていることは明らかなのだが、そこに至るまでの経緯がいささか複雑で、若干の醜聞にも塗れている。何をするにしてもおおっぴらに、というわけにはいかなくて、それがお嬢様の立場をより微妙なものにしている向きがなくもない。

 本邸に住まう人間のうちでも、すべてを理解している者は、ほんの一握りにも満たないだろう。ほとんどの者は中途半端の伝聞か、全くの噂話を耳にしただけに過ぎない。いずれにしても、興味本位の目を向けてくる者ばかり多い。腹立たしくはあるが、いかんともしがたい。絡まった親子の関係も、周囲の誤解も、いずれ自然にほぐれる日が来るに違いないと信じながら、誠心誠意お仕えするだけだ。


 一人密かに決意を固めたりしているところに、お嬢様が戻ってきた。大体想像していた程度には、不機嫌なお顔をしておられる。そのような時には、足音すら違って聞こえる。軽くたしなめたいところだったが、気持ちはわかる。まあ、他の者が気付くことはあるまい。あえては申し上げないことにする。


 別邸に戻ってきた彼女は、直接庭の方へ足を向ける。庭いじりをして、ささくれた心を癒やしたいのだろうが、よそ行きの恰好のまま作業をされても困る。慌てて回りこもうとしたところ、彼女は手早くエプロンを纏った。

 何か一言申し上げるべきか。しばしの間迷いはしたのだが、つんと上げられたあご先を眺めているうちに、その気も失せた。せめて本格的に泥をいじり始める前に、気が済んでくださいますように。


 俺は一足先に、家の中に入る。上着を椅子にかけ、襟元を軽く緩める。部屋の空気が肺の中に満ちると同時に、肩がこわばっていることに気付いた。自覚はなかったが、今日は一日気が張り詰め過ぎていたかもしれない。考えてみると、いつの間にか、本邸よりもこちらで過ごした期間の方が長くなっている。一応こっちは身内気分のままでいるが、それでもあちらの人間と話をする時、今までになかった微妙な気遣いが必要になってきているように感じる。


 俺たちは、互いに寄り添うようにして、生きている。この、世界の果てに打ち捨てられたような庭園で、忘れ去られたままで。そのような扱いを受けるのが、俺一人ならばなんの問題もない。俺はただの使用人に過ぎないし、領主様からこの身に受けた恩もある。しかし、それでもお嬢様には華やかな人生に戻って欲しいとの思いは、いつでもある。そのために、俺に何ができるだろうか。常に自問し続けてはいるのだが、未だ答えは出ない。


 ふと、何十年かぶりに、タバコを吸いたい気分だった。もちろん、そんなものが手元にあるわけもない。俺はひとつ首を強めに回し、立ち上がった。せめて、お嬢様が気が済んだ時に、いつでもお茶をお出しできるように、準備を整えておこう。

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