私の方が狂っている
「君は美しい」
彼はそう言っていつも私の頬を撫でる。
ひんやりと冷たい彼の細く長い指に頬を撫でられる度、私は夢の中にいるような心地良さを感じる。
目を閉じてその心地良さを味わいながら、彼の少し掠れた低い声を聞く。
「本当に、本当に美しい…」
頬を撫でていた彼の指が私の唇へと移り、そっとその輪郭をなぞっていく。
ぞくりとした快感が唇から全身へと広がって、私の全てを支配していく。
「美しい…君はなんて美しいんだろう…」
唇に冷たく柔らかなものが押しつけられる。
彼からの触れるだけのささやかな口づけ。
それだけで私の唇は燃えるような熱を持って、彼の唇の冷たさを包んでいく。
啄ばむような口づけを繰り返し、唇に灯る熱がどちらのものか分からなくなった頃、彼が不意に口づけを止めた。
ゆっくりと目を開けると、切れ長の黒い瞳が印象的な彼の端正な顔がすぐ側にあった。
人形のように美しいその顔には何の表情も浮かんでいなかったが、切れ長の黒い瞳は爛々とした強い光を放っていた。
私はその瞳の光が何なのかを知っている。
初めて彼と出会った瞬間から知っている。
知っているからこそそれを美しいと感じていた。
「君は本当に美しい。けれどその美しさは永遠じゃない」
そう言うと、彼は私に背を向け窓辺へと歩いて行く。
開け放たれた窓から月の淡い光が漏れこんできている。
その光を浴びる彼は何とも儚げに見えた。
「永遠じゃないんだ…」
ひらり、と蝶が窓から舞い込んできた。
月の光に浮かび上がったその蝶は艶やかな黒い羽をもった美しい蝶だった。
彼がおもむろに差し出した掌に、何の躊躇いもなくその蝶はとまった。
「美しさを永遠にするためには…」
掌を握りぐしゃりと蝶を握り潰す。
指と指の間から、月の光を浴びた艶やかな黒い羽がはみ出している。
蝶は死んだにも関わらず、その羽の美しさは変わらなかった。
「死を与えるしかないんだ」
羽だけ取り出して、その他の部分を彼は窓の外に捨てた。
彼が興味があるのは美しいものだけ。
永遠に残したいのは美しさだけ。
その他のものなんて彼にとって何の意味もないのだ。
羽を眺めながら、彼は私の方へと歩いてくる。
そして椅子に腰かけている私を通り越し、さらに進んでいく。
部屋の奥に取り付けられたカーテンを開ける音と電気を点ける音がして、次いで彼が私の名を呼ぶ声が聞こえた。
「見てごらんよ。死を与えて永遠となった美しさを」
振り向いた私の目に映ったのは美しいものを愛する彼のコレクション。
彼が死を与えて永遠の美しさを宿らせた様々なものたち。
綺麗に陳列された虫たちの標本。
色とりどりの押し潰された花々。
そして、そして…
ホルマリン漬けにされた人間の目玉や指、臓器や足。
その持ち主達の死体となった写真。
無残に切り刻まれ、彼が美しいと感じた部分をとられた人々の写真。
彼はさっきの蝶のように人の命を奪った。
美しい部分だけを残して、いらない部分は捨てたのだった。
「どうだい?美しいだろう?」
ああ、狂っている。
あなたは狂っているわ。
とんでもなく狂っている。
「…ええ、そうね」
でも私も狂っているの。
初めてあなたと出会った時。
私を見つめるあなたの瞳の中にあった爛々とした強い光り。
それが「狂気」だと分かっていた。
目の前に立つあなたが危険な存在だと分かっていた。
けれど私はその瞳が秘めたあなたの「狂気」を美しいと思ってしまった。
魅せられてしまった。
惹かれてしまった。
そして側にいるうちにあなたを愛してしまった。
愛してはいけない人だったのに…。
「僕は君を愛している」
いつの間にか彼は私の前に立っていた。
ただでさえ背の高い彼の顔を、椅子に座っている私が見つめるためにはのけ反るようにして見上げなければならなかった。
「君はすべてが美しい」
月の光が逆光となって、彼の姿は黒い影のように私の目の前にある。
けれどそうなっていても尚、彼の瞳は狂気で爛々と光り輝いていた。
「髪も、瞳も、鼻も、唇も、首も、胸も…」
その言葉通りに彼の冷たい指先が、私に触れる。
髪を優しく撫で、目の横をなぞり、鼻をすべり、唇を押し、首筋を辿り、胸をかすめていく。
そして膝まづき、私の顔を見つめる。
ずいぶんと低くなった彼の顔を私も見つめ返す。
相変わらず美しい、と思った。
「だから、時がきたら君に永遠の美しさを与えてあげるね」
彼が薄く微笑む。
めったに人に見せない彼の笑顔。
美しく儚げな笑顔。
彼には命を奪うことに罪の意識などこれっぽちもないのだ。
ただ、純粋に美しさを求めている。
子供のように無垢で無邪気な心で求めているだけなのだ。
そんな無垢で無邪気な心というものが、本当は何よりも恐ろしいものだと気が付いていないだけ。
だから彼はこんなにも美しく微笑んでいる。
「君を愛しているよ」
腕を引っ張られ、椅子から落ち、彼の胸の中に抱きとめられる。
細身なのに広くしっかりとした彼の胸に顔を埋める。
冷たい指や唇とは違い、胸の中は優しく温かい。
何とはなしに安堵する。
「愛してるんだ…」
ああ、これは罠。
甘い甘い罠。
捕まったら、逃げられやしない。
そんなこと初めから知っていた。
知っていて、私は罠に自ら捕らわれたのだ。
「私も愛してるわ…お義兄さま…」
あなたは確かに狂っている。
けれど私のほうが狂っているのよ。
いつかあなたに殺されると知りながら、あなたを愛しているのだから。
義理とはいえ、兄であるあなたを…。
「お義兄さまに死を与えられるなら、私嬉しいもの」
やっぱり、私の方が狂っているわね。
この話は『狂った世界』という名前で連載することにしました。
よかったらそちらもご覧ください。




