傲岸不遜な伯爵令嬢に婚約破棄を求められたが、僕は断固として拒否する!
最近、この国では”婚約破棄”が流行っているらしい。
第三王子が公爵令嬢との婚約を破棄したことを皮切りに、良いことなのか悪いことなのかはわからないが、「愛のない政略結婚なんて古くさくない?」という考えが蔓延したのだ。
ある者は話し合いの末に、ある者は一方的に。
流行に乗って婚約が破棄されていった結果、国内の貴族や有力者の界隈はなかなかに盛り上がった。
まあ、この平和なご時世、政治的な対立や思惑なんてあってないようなものだ。
婚約破棄が横行して国家の枢軸が傾くなどということはなく、むしろ好きな者同士が結ばれるようになって良かったのではないだろうか。
「……僕にとっては困ったことだけどね」
「なにかおっしゃいました? ヘイゼル様」
目の前に座る、グレイテル・グリムルノ伯爵令嬢が訝しげに尋ねてきた。
グレイテルが僕を見る目つきは、婚約者に向ける類いのものとしては冷ややかに過ぎる。
その碧い瞳の端整な容姿と、まるで海の底であるかのように深く濃い青の長髪が相まって、より責め立てられていると感じるのだ。
「いや、なんでもないよ。それより、急に呼び出して、いったいどんな用件なのかな?」
グレイテルと僕が婚約したのは、五年前。
僕よりひとつだけ年下のグレイテルが、九歳だった頃だと思う。
家柄というよりも、親同士の仲が良いために決まった婚約だった。
資産がどうとか領地がどうとかの理由でなかったのは好ましいことなのかもしれない。
しかし、困ったことがひとつ。
「いきなり本題に入ろうだなんて、ヘイゼル様は社交がまずい御方ですのね。それとも、私と歓談することなどないということでしょうか?」
グレイテルは僕のことが嫌いなのだ、とっても。
月に一度の定期お食事会や、たまにある王家主催の晩餐会や舞踏会。
そういった場面で、婚約者なので当然顔を合わせるのだが、まあ嫌われている。
親の体裁のために仕方なく顔を突き合わせているのですよ、と言わんばかりに無愛想だ。
「……君からのお誘いなんて、この五年間で一度もなかったからね。なにか切迫した用件があるのかと思ったんだ」
今日、僕はグレイテルにいきなり呼び出されて、彼女のお屋敷まで出向いていた。
元々の予定が先延ばせるものだったから良かったが、初めての事態に面食らっても仕方ない。
さらに、グレイテルの豪華な私室に案内され、使用人たちも人払いされている。
二人の間で、石材の机に置かれて微かに湯気を立てている紅茶も、グレイテルが淹れたものなのだ。
ちょっと飲むのが怖くて、まだ手を付けていないが。
「そんなことを言ったら、ヘイゼル様だって私をお誘いしてくれたことなんて一度もないですわ」
ぷいと音が聞こえたと思うぐらいに、グレイテルは僕から顔を背けながら口をとがらせる。
まあ、グレイテルの言葉は事実ではある。
親を安心させるためだとはいえ、毎月のようにいっしょに食事をしているが、それぐらいだ。
しかし、嫌われているのがわかっている相手を誘うには、かなりの勇気が必要ではないか?
「……まあ、いいですわ。本題に入ります」
押し黙る僕を見て、グレイテルは呆れたように言う。
これから話される内容には……なんとなく、見当が付いていた。
ちまたで流行りの”アレ”だろう、と。
「ぇと……その、来月、私は十五歳になります」
グレイテルが言いよどむ様子を見て、予感が確信に変わっていく。
この国では十五歳になったら成人して、結婚ができるようになる。
そうなる前に、グレイテルは嫌いな僕との婚約を破棄するつもりなのだ。
いま世間では、”婚約破棄”はよくあることとして認知されてきている。
グレイテルが婚約を破棄したとしても、そこまで世間体を失うことはないだろう。
この絶好の機会を、頭の切れるグレイテルが逃すはずがない。
「十五か……君と婚約してから五年間、長いようで短かったな」
「……私は、長く、長く感じておりました」
僕が探るような言葉を投げかけると、グレイテルは珍しく、感情を乗せた言葉を返してきた。
そんなに、嫌いな僕との婚約破棄を待ち望んでいたのか。
しかし、僕は……僕の頭には、なぜだかグレイテルと過ごした日々が思い起こされていく。
「覚えているかな? 君は初めの頃、ずっと黙ったまま僕を睨みつけていたんだ。喋ってくれるようになるまで、ずいぶん時間がかかった」
「あの頃は幼かったので、感情を抑えつけるのに必死で……いまでも、そんなに余裕があるわけではありませんが……」
グレイテルは、僕への嫌悪を隠すためだろうか、細く小さな両手で顔を覆いながら言う。
婚約破棄をするというのなら、もう隠す必要などないだろうに。
「あと、初めて作ったんだという焼き菓子は真っ黒焦げで、岩石を食べているかのようだった」
普通に考えたら、こんな失敗をするはずがないことは明らかだった。
嫌われていることを確信した出来事だ。
「……あれは、母様が『せっかく作ったのだから渡せ』と言ったので仕方なかったのです。というか、お召し上がりになったのですね。捨ててくださいと申し上げたのに……」
顔を隠したままのグレイテルが、もごもごと口を動かして喋る。
婚約破棄をするというのなら、もう言い訳する必要もないだろうに。
「君はずっと、僕のことを……」
僕が言葉を切ると、グレイテルはおそるおそる顔から手をどけた。
現れた勝ち気そうな顔には、不安の色が見て取れる。
ちゃんと婚約破棄を受け入れてもらえるのか、心配なのだろう。
自分を嫌ってくる相手に対して抱く感情として、僕が持っているものは、おかしいのかもしれない。
「あの、ヘイゼル様……? こういうことは、殿方から申し上げるのが礼儀なのではないでしょうか……」
しばらくの沈黙を破って、グレイテルは俯きながら言葉を紡ぐ。
確かに、いくら婚約破棄が珍しくなくなったとはいえ、家のことを考えると破棄した側になるのは避けるべきだろう。
僕から、言うしかないのか。
口を開いて、閉じて……また開いて、ようやく声が出せそうな気配がする。
「グレイテル、僕は……」
「はい……!」
期待のこもった眼差しで、グレイテルは僕を見つめてくる。
そんなに……そんなに、”婚約破棄”がしたいのならば、僕は――
「……僕からは、絶対になにも言わないっ!」
気付いたら、勝手に口が駄々をこねていた。
ついでに、先ほどグレイテルがぷいと顔を背けたのと同じように、僕もグレイテルからぷいと目を逸らす。
「っぇぇえええええっ!?」
成人した男子らしからぬ言動に、グレイテルも淑女らしからぬ大声を返してきた。
もしかしたら、いままで見せたことのない女々しさで、もっと嫌われてしまうかもしれない。
しかし、僕はグレイテルとの婚約を破棄したくないのだ。
「ぇっと……それは、照れていらっしゃるのですか……?」
そっぽを向いた僕の耳に、グレイテルの慌てたような声が聞こえてくる。
照れる? 確かに、婚約破棄されるなんて男としては恥ずべきことだ。
しかし、僕が拒否するのはそんな理由からではない。
グレイテルに視線を戻して、その澄んだ碧眼をしっかりと見据えて告げる。
「……照れているのではない。僕が、君のことを好きだからだ!」
「っ!」
奇跡的に気持ちが伝わって考えを変えてくれるのではないか、という考えは、一蹴される。
グレイテルは、僕の言葉を聞きたくないとでも言うかのように両手で顔を覆い、机に伏せたのだ。
手のすき間から見えた頬などは、僕への怒りからか、いつもの白さからは考えられないくらいに赤らんでいた。
完全な拒否の態度に、心が折れかける……だが、僕が諦めてしまったら本当に終わりだ。
グレイテルが手放した二人の関係は、まだ僕の手の中にあると信じて。
「僕は、君と初めて会ったときから君のことしか考えられなくなった。綺麗な海も澄みわたる大空も、君の美しさの前では霞のごとく色褪せてしまう――」
「わ、わわわっ、わかりましたから! それに、大して上手くもないです! 止めてくださいっ」
僕が思いつくままに愛の言葉を紡いでいると、グレイテルは伏せたまま悲痛な声で遮ってきた。
机の下から、パタパタと足を打ちつける音も聞こえる。
僕からの愛の言葉なんて聞くに堪えない、そういうことだろうか。
確かに、言い慣れていなさすぎて意味不明だったかもしれない。
でも、僕のグレイテルへの愛は、この世の理解を超えている。
あながち間違っているわけではないのだ。
「ヘイゼル様が私のことを、すっ……好きでいてくださっているのは、わかりました」
「好きどころではない、愛してる」
もごもごと喋るごとに揺れる、グレイテルの青い頭に向かって言い改めた。
もっと怒らせてしまったのか、足もとからのパタパタ音が大きくなる。
「ぁう、ぇと……で、でしたら、なおさらヘイゼル様から言っていただきたいものです……」
グレイテルは伏せた状態から顔だけ上げて、僕を上目遣いで見てくる。
なるほど、君のことを想うのならば、潔く手を引けということか。
しかも、可愛い上目遣いで籠絡させようともしてくるなんて。
僕は、グレイテルの言うとおりに、婚約破棄をするほかないのだろうか……?
しかし、これだけ自分の想いを伝えても受け入れてもらえなかったのだから、望みは潰えているのかもしれない。
「君は、どうしても僕と、その……したいのか……?」
”婚約破棄”という言葉が忌々しすぎて、口にできない。
グレイテルは、ゆっくりと身体を起こす。
そして、意志の強さが光る瞳をふたつ、僕にまっすぐ向けて。
小さく花弁のような口を開き、僕に告げる。
「私は……自分が可愛くないひねくれ者だと、理解しております。わかっていながら直せないのですから、本当に強情で困ったものです。でも、今日、初めて素直に……」
空と見まごうばかりに澄んだ碧の瞳から、つうと雫が落ちて頬を撫でていく。
父様がかつて語っていた、「女の涙には騙されておけ」という言葉が頭を過ぎった。
「私は、どうしてもヘイゼル様と……したい、でございます……」
グレイテルは涙に頬を濡らしながら、にこりと微笑み、僕との婚約を破棄することを望む。
初めて見る笑顔は僕の心を掴んで、ぐちゃぐちゃぽいっとそこら辺に捨てたのだった。
「……そうか、わかった。君が望むのならば……そう、しよう……」
気を抜くと、みっともなく泣いて喚いたりしてしまいそうだ。
真っ白になりかける頭の中で、僕は必死に理性的な自分を描き続けていた。
しかし、そんな僕の葛藤を知ってか知らずか、グレイテルが晴れ晴れとした顔で口をとがらせて言う。
「もっとはっきり言っていただきたいのですが……だって、一生に一回のことですし」
「勘弁してほしい……もう、限界なんだ」
僕は、僕との婚約を破棄できて上機嫌なグレイテルを見ていられずに、顔を背けて言った。
このような身体が捻じ切れそうになるほどの悲しみは、一生に一度だって御免だ。
いっそ、この場を去ってしまうのがいいことはわかっている。
だが、僕の震えて力の入らない足は、立とうとしてもへなへなと崩れ落ちてしまうだろう。
「勇ましいのか恥ずかしがりなのか、わからない御方ですわね。まあ、いいでしょう」
小さなため息とともに、グレイテルは立ち上がったようだ。
その気配を感じて、僕はぼんやりと視線を向ける。
グレイテルは、しとやかな令嬢らしい所作で、てこてこと机を回ってこちらに歩いてきた。
「グレイテル……?」
座る僕の隣に立って、その冷ややかな瞳で見下ろしてくるグレイテル。
碧い瞳と紅い頬の芸術的な対比が、どこかに捨てられていたはずの僕の心を拍動させる。
「わ、私は、由緒正しいグリムルノ家の娘です。貴族としての習わしで仕方なくするのですから――あっ、あんまり見ないでくださいませっ」
グレイテルは怒っているのか、僕を睨みながら早口で言葉を紡いだ。
見るな、ということなので、グレイテルの顔から視線を逸らす。
それにしても、貴族の習わしとはなんだ?
僕が知らないうちに、婚約破棄に際した風習でもできていたのだろうか。
「立ったら……届かないわよね。座ったままでいいのかな……? というか、どうして女からしなきゃいけないの? ぅう、死にそう……」
ぐるぐると疑念が渦巻く脳内に、グレイテルがぶつぶつと呟く声が入ってくる。
その意味を判別しようとしても、混ざり合った想いと声は不可分で不可能だった。
「ヘイゼル様っ」
「は、はいっ!?」
不意に名前を呼ばれて、貴族らしく姿勢の良かった僕の背筋がさらにピンと張りつめる。
グレイテルは僕の肩をぎゅっと掴んだまま、少し屈むようにして僕の顔を覗きこんできた。
なんだ……? まさか、”婚約”を破棄するだけでは飽き足らず、”婚約者”の破棄を目論んでいるのではないだろうか?
いままでの恨みつらみを、僕をぼこぼこに殴り散らかすことで精算しようとしているのか?
「あの……目を、つぶっていただけますか……?」
グレイテルから宣告される、無慈悲な申し出。
いまにも破棄されそうな危機的状況で、視界を遮るなんて愚かな真似をするわけがない。
そんな僕の思いとは裏腹に、瞼がぎゅっと閉じられた。
耳から侵入したグレイテルの声と吐息が、意志を介さずに直接作用したのだ。
さらに、柔らかくて甘い香りが鼻孔をくすぐり、僕と外界の境を曖昧にしていく。
頬に感じる熱が、僕の持つものなのかグレイテルの持つものなのか、わからない。
すぅと吸った息が、僕が吸ったものなのかグレイテルが吸ったものなのか、わからない。
「我らが精霊の加護に報いて、真心を尽くし寄り添うことを……誓います――」
ん? この口上って……?
実際に耳にしたことはなくとも、この国の人間だったら誰もが知っている言葉。
霧が晴れるように、僕は自我を取り戻す。
そして、閉じていた目を開く――その前に。
「んっ……!」
「っ!」
グレイテルの思い切るような声とともに、僕の唇になにか柔らかく温かいものが触れた。
それは、残る温もりがなければ夢幻だと感じただろうほどに、一瞬だけ押し当てられてスッと離れていく。
驚いて目を開けると、グレイテルの潤んだ瞳が視界に飛び込んできた。
不意に目と目が合ったためか、碧い瞳も驚くように揺れている。
「……ヘイゼル様?」
グレイテルは身体を起こして、小首を傾げながら僕の名前を呼んだ。
平静を装おうとしているみたいだが、真っ赤な顔で台無しだ。
「……グレイテル、いまのは、なんだ……?」
可愛い顔が遠ざかってくれたことで、僕は正常な意識を取り戻した。
とりあえず、犯人への尋問から始めなければならないだろう。
「なにって、その……」
のこのこと犯行現場に居座ったままだった犯人は、可愛くもじもじと口をもにょらせる。
しかし、その様子から、僕は事の真相への糸口を掴むことができた。
「もしかして、僕はめちゃくちゃ勘違いしていたのか……?」
思わず呟いた言葉の意味がわからなかったのか、グレイテルはきょとんとした顔を向けてくる。
僕が、なんでもないと言うかのように手を振ると、ますます不思議そうな顔になって可愛すぎる。
「グレイテル、君は、僕のことを嫌っていない?」
そんな可愛いグレイテルに、僕は尋問を続けた。
「なにを言っているのかがわかりませんが、嫌うわけありませんわ。そもそも、私がお父様にお願いして婚約者にしてもらったのですし……」
ごにょごにょと、少し怒ったような口調でグレイテルは返してくる。
グレイテルが僕との婚約をねだっただなんて、グリムルノ伯爵からも聞いたことはなかった。
もしかしたら、グレイテルが口止めをしていたのかもしれない。
「君は、僕と結婚するのか?」
「ヘイゼル様が言い入れてくださったことでしょう? それに、契約の印を結んでしまったので、もう取り消すことはできませんからね!」
僕からの問いに、グレイテルは腰に手を当ててぷんぷんと怒りながら返してくる。
いや、照れ隠しで怒っているのだと、いまの僕にはなんとなく見当が付いた。
この国の貴族社会では、結婚が決まった際に女性から男性に口づけをするという風習がある。
それによって、それぞれを守護する精霊に対して、共になることを誓うのだ。
「契約の印か……よくわからなかったから、もう一回やってくれないかな?」
ちなみに、実際に精霊様がいらっしゃるのかどうかは定かでない。
世間一般はともかく、貴族の中には比較的信じている者が多いけれども。
「なななっ、なにをおっしゃるのですか!? だ、だめですよっ! 精霊様は見ていらっしゃるのですからっ」
グレイテルは、信仰心の厚い人間のようだった。
何度も誓い合ったりしたら精霊様が困惑してしまう、という理由で婚前の口づけは一度きりと決まっている。あいにくなことに。
「そうか……いや、当たり前だよね」
落胆の気持ちを隠すことができずに、僕はがっくりと肩を落としてさらに項垂れもする。
貴族らしくあれ、と教育されてきたから、信仰への理解を十分に持っているはずだ。
しかし、男の本能ともいうべき濁った感情が、僕の未練がましさを露呈させる。
「ふふっ、そんな悲しそうな顔をしないでくださいませ」
すると、グレイテルが両手で、そっと僕の手を包んだ。
ドキリとして手を引きそうになったが、グレイテルの意外な力強さに留められる。
手を取り合うことで近づいたお互いの顔は、もう一度”契約の印”を結べそうなほどで。
自然と、僕の目線はグレイテルの口元に動いた。
「えっと、グレイテル……?」
僕が名前を呼んだからか、小さな花びらは角度を変えて、妖しさを秘めた微笑みを見せる。
もしかして、グレイテルは僕のために敬虔であることを辞めようとしているのか?
もしそうだとすれば、僕は止めなければならない……はずなのに。
それこそ魔法にでも掛けられたかのように、僕の口は開かなかった。
代わりに、永遠に感じるぐらいの時間をかけて、グレイテルが口を開く。
「――続きは、結婚してからにしましょうね?」
グレイテルは、やっぱり僕のことが嫌いなのかもしれないな。
家柄のことを考えると、ちゃんと結婚するまでに数か月が掛かることは避けられない。
天上の笑みで小悪魔のように僕を誘いながら、おあずけを食らわせてくるなんて。
僕は、本当に嫌われてしまわないように、本能が赴きそうになるのを必死に抑えるのだった。