慕ってくれている後輩君に犬耳を幻視した
私の勤める会社では、新型ウイルスの影響によって出勤人数を減らし、オフィスの人影は疎らとなっている。
そして、定時を大幅に過ぎた今、オフィスには私以外の人影はない。孤独に慣れ始めた三十二歳独身彼氏なしには、あまり関係のない話か。
「あれ? 詩織先輩?」
明かりが落とされたオフィスでデスクライトを頼りに作業をしていると、不意に私の名前を呼ぶ声がした。
「拓真君?」
暗闇に視線を向けると、スマホの明かりに顔を照らされた、私より七歳も若い後輩の佐藤拓真君が、呆けた表情でこちらを見ていた。
「忘れ物?」
「あっ、はい。……先輩は残業ですか?」
私の声で起動したみたいに拓真君は動きだし、自身のデスクをスマホで照らしながら、質問してきた。
「うん、まぁ大した量じゃないけどね」
拓真君の動きを見ていた私は、そう答えつつ、視線を目の前の画面に戻す。
「…………」
「…………」
デスクを漁る音が消え、キーボードを叩く音だけが響くなか、拓真君が動く気配がせず疑問に思った私は、視線をそのままに、口を開いた。
「どうかした?」
「……いえ。俺に何か手伝える事はありますか?」
「んー……ううん、大丈夫」
手伝ってもらえれば早く帰れるとは思ったけど、私は拓真君の申し出を断った。
「……そうですか」
「うん」
「それじゃ」
「お疲れ様ー」
暗闇の中を早足で歩いていった拓真君の背に、そう声をかけて、私は作業に戻った。
******
「先輩」
「わっ。びっくりしたぁ」
頭上の照明が着いた事と、不意に声を掛けられた事で、驚きつつも、声の聞こえた方を見る。
「あははっ、すみません。これ、差し入れです」
照明に照らされて、はっきりと表情の分かる距離まで近づきながら、拓真君は楽しそうに笑い、側まで来ると、私がよく飲んでいる小さな缶を、デスクに置いた。
「……ありがとう。……帰ったんじゃないの?」
「俺に出来る事はこれくらいかな、と思いまして」
「そう、ありがとう」
うれしい気配りに、お礼を言うと、拓真君は、照れた様子で口を開いた。
「本当は、もっと頼ってもらいたいんですけどね」
「うーん、今日はもう終わるとこだったし、それに、ソーシャルディスタンスってやつよ」
「……ソーシャルディスタンス」
私の言葉を復唱して、拓真君は黙り込んでしまった。
「どうかしたの?」
「詩織先輩」
「はいっ」
あまりにも真剣な表情をした拓真君が、先程より一歩近くに来たため仰け反るように背筋を伸ばしながら、慌てて返事をした。
「俺はこんなにも先輩に近づきたいのに」
「え?」
「ソーシャルディスタンスって……」
「あ、ああ。早く昇進したい――」
「って意味じゃなくです」
なおも真剣な表情を崩さない拓真君の意図を掴みきれず、その目を見つめる。
「……っ」
すると、拓真君は顔を真っ赤にして、視線をそらした。そして、何となく意図を察する事が出来た私は、視線をそらすように俯いた。きっと私の顔も赤くなっている。
「明かりを着けたのは、失敗でしたかね」
拓真君の質問に答えられなかったのは、これが初めてかもしれないと思いつつも、私は黙り続けて顔をあげない。
「いや、そうでもないか……」
頭上から落ちた声に反応できずにいると、拓真君は言葉を続けた。
「先輩のかわいい反応が見れたので」
うれしそうな声がして、顔をあげてみると、犬耳と尻尾を幻視出来るような笑顔がそこにあった。
「今度、デートに行きませんか?」
…………。
拓真君は、犬じゃなくて、狼かもしれない……。