気持ちだけでいい
テーブルに置かれたチキンカレーへ、俺は深くスプーンを刺した。
「前から思っていたんだけど」
わざとらしいくらいなんでもなさそうに、あいつは言う。
「お前さ、淡々としてるよねえ。普通もっとこう、泣いたりわめいたりして荒れるもんじゃないの?」
俺は手を止め、色素の薄いあいつの瞳を見返す。あいつは少しうろたえたようにうつむき、目をそらした。
「なんだ、荒れて欲しいのかよ?」
カレーを食べながら俺は訊く。
適度にスパイシーな、いつもあいつが作ってくれる通りのカレー。
俺たちが子供の頃、近所に住んでいたインド人から教わった結構本格的な、骨付きチキンのカレーだ。
本来は自分で好みのスパイスを調合するのだそうだが、そこは市販の缶入りのカレー粉と鷹の爪なんかを使っている。
形もわからなくなるまで煮込んだ玉ねぎが、独特のとろみを作るルウ。骨から肉をはずし、飯と一緒にほおばる。
鼻に抜ける辛みと、その後ろにある酸味。そしてほのかに舌に残る、あるかないかの甘み。一緒に煮込んでいるプレーンヨーグルトやトマトジュースなんかが、ルウの味を複雑にしているのだろう。
旨い。本当に旨い。
これが最後かと思うと、さすがにちょっとうるっとくる。
俺が、『花嫁』に決まった者の定番通り、無茶苦茶に荒れるのを見た方があいつが安心すると言うのなら。
別に今からでも暴れてやってかまわない。暴れる理由ならあり過ぎるほどある。
たとえ俺が馬鹿みたいに荒れて暴れても、自殺以外は目こぼしされる筈だ。
ただ、やけくそになる前に俺は、状況が理不尽すぎて脱力するしかなかった。虚しさが先に立って、正直、暴れまわる気にすらなれなかったのだ。
理不尽も極まると、人は案外、冷静になれてしまうものらしい。
というより、荒れていられるのはまだしも余裕がある状態なのかもしれないな、と俺は思った。
そういう奴は親に反抗したり生意気な口を利いたりする子供みたいに、運命やらなんやらに甘えているのだ、きっと。
時間の無駄だったと気付く頃には、すでに親はこの世にいない。つまりはそういうことなのだろう。
俺は『その日』まで、きょうだい同然に育ってきたあいつと今まで通り、淡々と暮らし続けることにした。
強いて言えば、ちょっといい食材や日用品を買う程度の贅沢はする。
あいつとのんびり一泊くらいの小旅行へ出かけ、きれいな景色を見たり温泉につかったり、旨いものを食べたりする。
たまに、家で昼酒を楽しむ程度の自堕落もする。
所謂それが俺の『最後の一ヶ月の望み』という訳だ。
仕事なんかしなくても十分以上に暮らせる金はある。
規定通り『花嫁の支度金』として、年収の十倍ちょいの金が国から出た。今更あくせく働く必要もない。
かなり残るだろうが、残りはあいつに全部やるつもりだから、散財するなりどこかに寄付するなり、好きなようにしてくれればいいと俺は思っている。
周りの者たちの、腫れ物に触れるような気を遣った目にはうんざりしたが、中途半端な慰めを言われるより遠巻きに放っておいてくれた方が気楽だったから、特に文句はなかった。
一ヶ月前のことだ。
俺は突然、『花嫁』に選ばれた。
【お前が『必要』だ】
全人類の頭に響いた声。
声が指し示す『お前』が誰なのか、全人類が理屈抜きでわかった。
声と同時に俺の額に、さながらビンディのような赤い丸が浮かび上がった。『花嫁』の印、という訳だ。
この印が現れてきっちり一ヶ月後、俺は消えるだろう。
『U』の針に触れた者のように、跡形もなく。
今までの『花嫁』がそうだったように。
花嫁に選ばれた理由は、いつも通りわからない。
『花嫁』にされる者に老若男女は問わないし、頭や心根の良し悪しも関係ない。少なくとも人間の目から見て、『花嫁』に求められる条件は何なのか、まったく予測がつかないしわからない。
【お前が『必要』だ】
『U』はそれしか伝えてこない。伝える必要がないのだろう。
『U』のすることや考えなど、今までもこれからも、どうせ我々『人類』にわかりはしないだろうから、考えるのも無駄と言うものだ。
否も応もない。
俺の未来は唐突に断ち切られ、『U』の『花嫁』以外、道はなくなった。
ここ十年ばかり、『花嫁』の選定は行われなかったのに。
何故今、そして何故俺なのだ。
思うと未だに、怒りで胸が燃え上がる。
が、あいつの泣きそうな瞳を見ると、水をぶっかけられた焚火のように怒りは消え、あとには寒々とした虚しさややるせなさだけが残る。
ひとりとり残されるあいつの孤独や寂しさを思うと、我が身の理不尽を怒るより、ひたすら哀しく、切なくなる。
連中が現れたのはいつなのか、正確な記録はないらしい。
ただ学校で教わった話では、俺たちの親世代が生まれた頃に世界の五つの大陸にひとつないしふたつ、砂漠の真ん中に忽然と連中は現れた……のだそうだ。
その当時は全世界で十個、大きさもドラム缶ほどだったそうだ。
地面に落ちた饅頭の表面にびっしり銀色の針を刺したような形状で、色を別にすれば海にいるウニに似ていた。
針を蠢かせて辺りを探っている様子もウニそっくりで、発見されてすぐそれらは『desert urchin(砂漠のウニ)』という仮称で呼ばれるようになった。
desert urchinが生物なのか無生物なのかもわからなかったし、そもそも何故唐突に現れたのかもまるでわからなかった。
ある日突然、まるで千年も二千年も前からそこにあった(或いはいた)ように、それらもしくは彼らは鎮座ましましていたのだそうだ。
もちろん当時の人も、この奇妙な物体もしくは生物を調べようとした。が、出来なかったのだそうだ。
調査の為に機械を近付けても、はたまた防護服に身を固めた研究者が近付いても。desert urchinの針に触れた瞬間、機材も人も白く発光して跡形もなく消えてしまったから。
あまりに簡単に、それも一瞬のうちに一切の痕跡を残さず消えたので、機械類にせよ研究者にせよ、本当に消えた或いはいなくなったと、なかなか公式に認められなかったらしい。
そのうち、どうやら人や物が針に触れて消える度にdesert urchinが成長もしくは拡張しているらしい、ことを、人々は気付いた。
パニックに陥った。
人類の理解が及ばない、人類や人類の文明が生み出したものを捕食して成長するらしい、存在。
様々な憶測が無秩序に流れ、様々な者たちが声高に危機を叫んだ。
ついに『終末』が来たのだ。desert urchinは神の御使いだ。
とうとう宇宙人の地球侵略が始まった。彼等はその先兵だ。
desert urchinは人類の傲慢に怒った地球自身からの報復だ。あの銀の針は、人間の愚かな物質文明と傲慢な科学の使徒どもを屠る為に現れたのだ。
まるで大昔のSFかファンタジーの設定のようだが、その当時はかなり真面目に語られていたそうだ。
混乱の最中、どこかの国がdesert urchinへ核爆弾を落としたことで、事態は取り返しのつかない域へと達した。
核のすさまじいエネルギーを取り込んだdesert urchinは急激に巨大化し、さながらウニの産卵のように、すさまじい数の棘の短い幼生を噴き出した。
幼生だろうと何だろうとdesert urchinだ。
雨のように各地に降ったdesert urchinのせいで、その棘がふれたあらゆる町や村、草原や森があっという間に消え去った。
幼生たちは人を町を動植物を平らげて小山のように大きくなり、摩天楼ひしめく街も豊かな大森林も、瞬くうちに林立するdesert urchinがゆらゆらと棘をゆらしているだけの、無機質で荒涼たる死の世界へと変貌した。
人類は急激に数を減らし、文明も停滞した。
どうにか生き残り、茫然としていた人々の頭の中へ、ある日、こんな声が響き渡った。
【『小さきもの』よ】
荘厳で静かな印象の声だ。
【我々は君たちから、もらうべきものはもらった。後は新たに必要な分を、必要なだけこちらから取りに行く。君たちの中から必要な『情報』(ここは、遺伝子とか感情とか魂とか、受け取り手によって違う名称だったそうだ)を差し出してくれるのなら、我々は君たちに干渉しない。これ以上我々が増えることで、君たちの住む場所を奪いもしない。警告しておくが、君たちに反撃は不可能だ。それは今回のことでよくわかっただろう。我らと君たちは、必要以上に干渉しあわなければ共存は可能だ。知性ある生き物としての、君たちの賢明な判断を期待する】
圧倒的上位者の存在に、人類は萎えた。
以来、『人類』は、desert urchin……略して『U』が求める時に求める『情報』……後に『花嫁』と呼ばれようになる生贄を、捧げることになった。
極東の島国である俺の国も、もちろん多大な被害を受けた。
が、大陸と海を隔てていたせいか、壊滅的と言えるまでの被害は受けなかったらしい。
アジア各国の生き残った人々が、難民としてこちらへ押し寄せてきたのは言うまでもない。
俺たちにカレーを教えてくれたインド人も、そうした難民のひとりだったそうだ。
もっとも『……人』と呼んで区別する風潮なんかは俺の親世代までで、俺たちにとって大した意味はなくなっている。
同じ土地に住んで同じ言葉を話す者は、同じ国の人間だ。
あいつが親にはぐれて行き倒れていたコーカソイドの子供だったとしても、俺の親が面倒を見て育てたのだから俺の家族だ。
混乱した時代を生き抜き、必死に俺たちを育ててくれた両親が早死にした今、あいつだけが俺の家族だ。
俺の向かいに座り、あいつもカレーを食いながら言う。
「……そう言えば、このカレーを教えてくれたクリシュナが、よく話していたっけ?」
私の名前は元々は神様の名前なんだ、と、彼がちょっと自慢げに言っていたのを俺はふと思い出す。
「英雄アルジュナの息子アラヴァンは長く続く戦で勝利するため、戦の女神カーリーの生贄になることになった。だけど彼は生贄になるのにひとつだけ条件を出した。たとえ一夜限りであっても、結婚して花嫁と一夜を過ごしたいって。でも一夜で未亡人になるのがわかっているので、誰もアラヴァンと結婚したがらなかった。それを見かねた神様のひとりであるクリシュナが、美しい乙女に化身してアラヴァンと結婚し、一夜を共にした……」
「ああ。アッチに伝わってた神話の一節だよな」
俺はあえて軽く答える。
「なんか、その神話を再現した祭りがあったとかいう話だよな。ヒジュラという第三の性別の……」
「ねえ」
話をそらそうと努めている俺へ、じれたようにあいつは呼びかける。
「俺も今夜、クリシュナの真似をするから」
俺は思わず手を止めた。
「おまっ……馬鹿かお前。何言ってやがる」
「本気だよ」
震えるあいつの声。目に涙がいっぱいにたまっていた。
「お前、ホントに俺の事、家族……血のつながったきょうだいみたいに思っていたの?……本当に?」
思わず絶句する。それが答えになってしまったことに、俺は次の瞬間、うろたえた。
「お前は明日の朝、日の出と共に『U』に連れて行かれる」
憎む口調であいつは言う。
「『花嫁』なんて言い方は嘘っぱちだよ、要するに生贄じゃないか。みんなが無事に過ごす為に、お前は『U』に捧げられるんじゃないか!」
「やめろ」
「なんでだよ、なんでこんなことになるんだよ。俺たちは……」
「やめろって言ってんだろ!」
いつになく声を荒げる俺に、あいつは怯えたみたいにすくむ。怒鳴った途端、俺は後悔した。
こいつは幼児の頃から、大声で怒鳴られるのが何より嫌いだった。というより、はっきり怯えていた。実の親と一緒にいる時、怒号の飛び交う中で怖い目に合ってきたのだろうと、俺の親は言っていた。
俺が十一の時だ。
学校から帰って来た俺は、玄関先にボロ布の塊が転がっているのを見つけた。人の家の前にゴミを置いていきやがってと腹が立った。
腹立ちまぎれに蹴飛ばそうとし……俺は目をむく。ボロ布の塊だと思っていたものが、よく見るとぎすぎすに痩せこけた、目を閉じてぐったりしている幼児だったからだ。
「どうしたの?」
硬直して突っ立っている俺へ声をかけてきたのはクリシュナだった。いつも通り彼は、彫の深い浅黒い顔の中で大きな目玉をぐりぐりさせていた。
俺はちょっとホッとして、無言でボロ布のような幼児を指差した。
それから目まぐるしく色々あった。
医者へ連れていったり警察に届けたり、主にうちの親とクリシュナが尽力してくれたが、俺も慣れない子守りをがんばった。
風呂に入って身ぎれいになると、ボロ布ちゃんが金の髪に薄青い瞳、抜けるような白い肌の綺麗な子供だとわかった。
日本語を知らないらしく、ろくに言葉も通じなかったが、ボロ布ちゃんはどういう訳か俺に懐いた。一番身近で面倒を見ていたのが俺だったからだろう。
初めて見た動くものを親と思い込む鳥の雛か何かのように、ボロ布ちゃんは俺の後ろをついて歩き、何でも俺の真似をしたがった。自分のことを、回り切らない舌で『俺』と言い出したのもこの頃だ。
ある日。
役所だか裁判所だかから帰って来た親がやや憤然と、今日からこの子はうちの子だと宣言した。
俺は単純に嬉しかった。
子供の数自体が少ない昨今だ、自分より小さい子がそもそも珍しいし、薄青い綺麗な瞳を見ているだけで、嬉しくてこそばゆくて、胸がドキドキしてくるような気がした。
そんな子が俺に懐き、慕ってくれているのだ。離れるのは嫌だなと、口に出しては言わなかったが、俺はずっと思っていた。
でも、これから俺たちは家族として一緒に暮らせるんだと知り、嬉しくてわくわくした。
「大きな声を出して悪かったよ」
俺が謝ると、涙もぬぐわずあいつは首を振った。
「ううん。こんな直前になってこんなこと言って、ごめん。でも俺……」
「『俺』はもうやめろ。お前は……女だ。綺麗な女の子だ」
情けない笑顔を作り、俺は言った。
「クリシュナの真似なんかしなくても、お前は美しい乙女だよ。俺のことなんかさっさと思い出のひとつにして……いい男と、幸せになれよ」
自分を『俺』と呼ぶ綺麗な幼児が綺麗な少女になり、綺麗な娘になり始めた頃から、俺はそわそわと落ち着かなくなった。
主張し始めた胸やくびれ始めた腰に、やたら目がいってしょうがなかった。
出来るだけあいつから目をそらし、わざと俺はぶっきらぼうに接した。
あいつは怒りもせず、そして俺の望み通り『弟』として接してくれた。あいつが幼児の頃と同じように自分のことを『俺』といい、男っぽい立ち居振る舞いを変えないでいてくれたお陰で、なんとか俺はあいつの『兄貴』であり続けることが出来ていたのだ。
だけど、今年で俺とあいつは出会って20年になる。
いつまでも『兄貴』と『弟』に逃げていちゃいけない、と、思うようになっていた。
あいつを『弟』の枷から外したい。
年齢に相応しい女性として生き、女性として幸せに……俺が、したい。
あいつの瞳と同じ色の、アクアマリンの指輪を密かに用意し、プロポーズしようとしたその日。
俺は、『U』の『花嫁』として、呼ばれた……。
深いため息をつき、俺は、泣いているあいつを改めて見た。
「別に、結婚して一夜を共にするだけが最後の過ごし方じゃないだろ?俺は最後の日まで、お前と過ごしたいと思ったんだよ……今まで通りに」
「自分は無理矢理『花嫁』にされるのに。俺はお前の、『花嫁』にしてくれないんだ?」
「『花嫁』は無理矢理にされるのでも、切羽詰まってから慌ててなるもんでもねえよ」
「……意気地なし」
「否定はできないな」
情けなく笑う俺に、つられたみたいにあいつも笑った。
日の出前に外へ出た。
直前まであいつは、お茶やコーヒーを飲んで起きていた。が、まるで電池が切れたみたいにさっき、テーブルに突っ伏して眠り込んでしまった。
『花嫁』の身近な者は時に、『U』が花嫁を連れ去る直前、眠らされる場合があるという都市伝説めいた話を聞いたことがある。
錯乱したり暴れたりしないように、という、『U』なりの配慮だろうと言われているが、確かなことはわからない。かえって残酷かもしれない『配慮』だと、正直思わなくもない。
俺は立ち上がり、そっとあいつの近くまで行く。
子供の頃から見慣れてきたはずの寝顔が、今日は妙に色っぽくてドキッとする。
「……さよなら」
愛している、とは言わない。
そんな言葉でこの思いは表せられない。
名前を呼び、俺はあいつの白い額へ、軽くくちびるを落とした。
地平線から今日初めての、太陽の光が現れた。
ああ、綺麗だ。
まるで光に透ける、あいつの髪の毛みたいな朝日だな。
俺が俺として思った、最後の言葉がそれだった。
雨音AKIRA様よりFAをいただきました。ありがとうございます。