堕天使とすることに(4)挿絵とすることで
窓から流れ込むように陽の光が漏れる。部屋の壁や扉の色が分かるほどに。
一日が始まる合図。それを意味するように、外から鳥の鳴き声が響き渡る。
ベッドから上体を起こし、脳活動の回転率を確かめる。
ちょっとした事件に巻き込まれ、シリアが危害を受けてから三日ほど経った。
あれから不用意に外に出る気にもならず、ベラやシリアとも顔を合わせていない。こうして、腑抜けた生活ができていたのは、大男が散らばしたコインをしっかりとかき集めていたため。それをあるだけセルビアに渡し、宿の部屋とほぼ一体化していた。部屋を出たのは、空腹を満たすためと風呂やトイレを済ませる時ぐらいだろう。
頭の回転速度が程良くなったせいで、自分に嫌気が差してしまった。
――――――寝よう。
潜り込もうと上体を毛布に吸い込ませた時だった。
「クロ! この美少女天使がわざわざ起こしに来てあげたわよ!」
乱暴に扉を開けて、入ってきた声の主はベラ。毛布を取り上げられ、ベッドの上に乗ってくる。その動きにワンピースの裾がなびいた。堂々とした仁王立ちスタイルと大きく艶やかな黒い瞳は自信に満ち溢れていた。
上手く気持ちを切り替えて、明るくなれたんだろうか。
「な、何よその心配そうな眼差しは……。ま、まぁ確かにあれは威圧に負けてつい油断しちゃったけど! 次はそうはいかないわ。対策を考え付いたの! まずは冷静にこの私がいったい誰であるかということを知らしめる必要があるわ。それには『綿雲』を使って、カクカクシカジカなことをするのよ。カクカクシカジカが人々に恐怖を植え付けることで恐れられた存在として君臨することになるの! ふへへ完っ璧よ! あーはっはっはぁぁぁ!」
よっぽど悔しかったのか、あるいは見栄を張っているのか、早い言い回しで聞き取れない。
すると、呆れたようなため息がベラの後方からした。
「目的が変わってるよ……大体、この三日間、恐怖を植え付けられて、部屋から出てこなかったのは天使ベラルーシ、君じゃないか……」
部屋の前に立ち、ベラに冷ややかな視線を送るのはシリアだった。
「な、なな、何でシリアがそれを知ってるのよ!?」
「セルビアから聞いていたんだよ」
シリアは話す声も立ち振舞いも、顔にあった小さなアザも綺麗に無くなり、すっかり良くなっていた。
しばらくシリアの様子を眺めていると、視線に気づいたシリアと目が合う。
「だ、堕天使クロアチア……今は、あんまり、見ないでくれるかな……」
そう言って、シリアは目を反らす。背を向けたと思えば、パタパタと小走りでどこかへ行ってしまう。
すると、顔を覗かせたお姉さん。セルビアが目を大きくして、部屋に入ってくる。
「あの、今シリアさんがものすごい真っ赤なのと笑顔で出て行かれたのですが……何かあったのですか?」
なんだろう、あれはシリアのいわゆる照れ隠し?
「クロがセクハラしたのよ」
「不健全です」
……不憫すぎる。
「――――――というわけで、私たちの使命をついに果たすときよ!」
宿の外に出た瞬間、声を上げるベラ。
ベラとシリアと僕の三人でようやく人々に手を差し伸べる時がやってきた。残念ながら、セルビアは宿の仕事があって、一緒に行動できないようだ。
照りつける太陽は眩しい。人々は元気に会話をしている。仕事に向かうであろう人も見受けられる。
「でも、ただ歩いてもね……」
シリアが周囲を見渡し、何かを探している。
「そこら辺にいるおじいさんやおばあさんに話しかけてみましょ。悩みごとの一つはあるんじゃない?」
ベラはそう言うと近くで、杖を突き、歩いていた白髪のおじいさんに近づき、声を掛ける。
「ごきげんよう! ねぇ、おじいさん! 何かお困りの悩みはないかしら?」
「ありゃあ! ワシが若い女性に話しかけられたぞい。散歩はするもんだするもんだ」
陽気なおじいさんの反応に対し、ベラは手応えがあったようなニヤつきをこちらに向ける。
「あら~おじいさんやだぁ~! 若くて美少女で可愛いだなんて~」
「ええわいええわい。それで用件は悩みと言っておったか」
ベラは軽くあしらわれる。
「ワシが思うに、お前さんみたいな女性は、恋をするのが一番だと思うんだなぁ」
「あれ? 私がおじいさんの悩みを訊いたのよ?」
白髪のおじいさんは話を止めようとしない。
「ワシも当然、恋をしたことはあるぞい。まぁ後悔もあったがなぁ。初恋はワシがまだ十七か十八の時だったぁ」
「うんうん、大変だったのよね! それはともかく、おじいさんの悩みを訊くのは私よ?」
ベラの様子は焦り始めていた。
「見惚れてしまう女性はいっぱいおった、ワシなりにたくさんのアプローチもしたんだったかなぁ」
「す、素敵な話ね! それよりもおじいさん自身の悩みはあるのかしら?」
おじいさんは依然として聞く耳を持とうとしない。
「女性と付き合って、子供が産まれ、父親になって、子供は独り立ちして、ワシたちは二人で老いて、いずれ旅立ってしまう。そう、ワシの婆さんは立派な女性だった」
「シリア! クロ! どうすればいいのよ!?」
おじいさんは人生の出来事を片方の手の指で数えながら、しんみりとした表情で一滴の涙を流した。
なぜか、ベラも涙目だった。なるほど、ベラもおじいさんの涙にもらい泣き――――――しているわけではなさそうだ。
「仕方ないね……私が代わりに行こうかな――――――」
シリアがベラとおじいさんの方へ歩み寄ろうとする。
「おぉ、まさにこっちを見ているあの男女の恋仲は、互いを信じ、愛し合っているに違いないぞい。若いというのはいいもんだいいもんだ」
おじいさんは杖をブンブンと空中で回し、こちらを指し示す。
「――――――え」
シリアがその場で固まる。
「お、おじいさん? 確認だけど、男女の恋仲ってもしかして、クロとシリアのことを言ってるのかしら?」
ベラが戸惑い気味におじいさんに尋ねる。
「ありゃ、お前さんの知り合いだったかぁ。ワシの長年の勘からしてあの雰囲気はてっきり恋仲同士かと思ったが、もう夫婦だったかぁ」
シリアがプルプルと震え、髪から小さく出ている耳がかすかに赤くなっているのが見える。
「い、言われてみれば、クロとシリア、立ち位置の距離感が近いわね……」
ベラが訝しげに位置間隔を分析する。確かに、決して密着しているわけではないが、シリアとの距離は、手を伸ばせば抱き寄せられる位置だ。毛嫌いしているのなら、まだ離れててもいいと思うが、警戒心でも薄くなったんだろうか。
「面白いことを言うね……私は堕天使クロアチアを全然何とも思ってないし、夫婦? ましてや、こここ、恋仲なんて、心外で吐き気がするよ」
そう言い、距離を大幅に取り離れていくシリア。
「ねぇ、シリア。まさか、クロに背負ってもらっただけで?」
「違うよ! そこじゃなくてもっと――――――」
何かを言いかけたシリアが息づまる。
「うっうぅぅ……堕天使、クロアチアぁ、君があの時、私を助けなければ――――――」
辱めを受けたように身体を縮こませる。そして顔を上げ、その目はこちらを睨みつける。
「こんな風には、ならなかった!」
その刹那――――――シリアの身体の周りから黒煙のようなものが舞い上がった。それはつい最近、見たことのある現象。彼女の両肩から発せられる黒光りの――――――羽。大きさは尋常ではない。禍々しく、この世の地獄なるもの、怨念、怨恨そのものを感じさせる。
黒いシリアは普段の彼女が見せないであろう不敵な笑みを浮かべる。
嫌な雰囲気だった。ベラは立ち尽くし、周りにいた人やおじいさんは驚愕している。逃げ出す者や腰を抜かしている者と様々に混乱を招いていた。
「シ、リア!? 何よ、その姿!」
ベラは目の前の光景に動揺しつつ、シリアに向かって叫ぶ。
「んふ~そんなに変な顔しないでよ~。私は私、でも、いつもより、高揚してる気はするかなぁ! ふふ、興奮しちゃってる、みたいなっ?」
そこに天使シリアの姿はない。口調も軽く、閉じていたものが解き放たれたように彼女は生き生きとしている。生気が満ち溢れているような姿は本来の彼女が目覚めたことを表しているのだろうか。
「天使は……堕ちると、そうなるの?」
ベラがボソッと言葉をつぶやくように吐く。
「私に訊かないでよー! 詳しいことはクロアチアが知ってるんじゃない? ねっ、そうだよね?」
知らないです。
「ねぇ、冗談はやめなさ――――――」
ベラはシリアに近づき、肩を掴んだ。
「触るな!!」
シリアの色の失った瞳。投げつけるかのような罵倒。大型なまでの黒い羽がベラの身体をバンッと薙ぎ払う。ベラは飛ばされ、レンガの壁に叩きつけられる。
「……痛ったぁ~」
ベラの背中には二つの『綿あめ』が大きくクッションのように付いている。強く身体を打ちつけずに済んだみたいだ。
「あはっ、お邪魔なベラルーシはいなくなったよ? これでクロアチアは、私と―――」
シリアがゆっくりとこちらに、近付いて……? あぁ……わかった。冷静に見分している場合じゃなかった。
自分もあの黒い羽で薙ぎ払われ、飛ばされるのだろう。そんな覚悟をした時だった。
『ヤットシャベレール』
ブツブツとしたノイズ交じりの音声、黒い煙と光。黒い羽がヒラヒラと自分の周りに舞い、囲む。
「――――――貴方が、静めないと、いけないわ」
以前にも聞いた声が響く。
「――――――不本意……だけど、その天使を、抱きしめなさい」
声は女の子のようだが、どこか意に沿わない感じの言い方をしてくる。
「あ! クロアチア、私と同じだ! 嬉しい!」
黒いシリアがそう言うと、一気に駆けて、間を詰めてきた。
テンションおかしいし、言ってることが理解できないし、てか早。え、飛ばされる。
「――――――今だよ、旦那様!」
その呼びかけに体が勝手に反応する。正面に、両手を伸ばして突進してきたシリアを受け止め、そのまま抱き寄せる。その身体は小さく、温かい。
「ッッッふわぁ!? えっ、え、何で私、だ、抱っこされてるの!? 恥ずかしいよっ!」
モゾモゾと腕を動かし、必死に抜けようとシリアは動く。その都度、巨大な黒い羽が顔にバッサバサと当たる。
「んんんっ、離、せっ! くぅぅぅ……にゃぁ―――――――」
シリアの力が弱まるのを感じ、抱き締めたまま、ゆっくりと地面に向かって座り込ませる。彼女の黒い羽は消えていき、雰囲気も穏やかになっていく。
「――――――流石、旦那様。でももっと、コントロールできるようにならないと」
どこからか現れた女の子。姿を目の前にし、瞬きを繰り返して、瞳に映る情報が正常か、確かめる。
「――――――あれ? 聞こえてるー?」
その子はシリアよりも若く見え、ベラよりもあどけない顔立ちだった。すみれ色の瞳に明るい茶色のショートヘア。耳より上の位置に髪を左右に結い、束を垂らしている。服は肩や下腹部の肌が目立つ奇抜なもので、妖精を連想させる。
「……ん」
確認するように自分の身体を見つめているシリア。
「シリア……元に戻ったの、かしら?」
ベラがゆっくりと近寄ってきた。そして、しゃがみ込み、シリアの顔を覗こうとする。
「ごめん……天使ベラルーシ、私は取り返しのつかない迷惑を」
「いいのよ、それよりもどうしていきなり……」
シリアはだんまりして、ベラもそれ以上は口にしようとしない。
「――――――旦那様の影響を受けたから、堕天使化したんだよ」
固まった雰囲気の中、女の子が穏やかに口を開く。そして、いきなり腕に抱きつかれる。女の子の身体全体が腕をギュッと包み込む。
ベラとシリアは混乱の表情でこちらを見るばかり。僕と同じで状況の理解が追いつかないのかもしれない。
「――――――あっ、わたしは天使 Sardinia。うーんっと、クロアチア? の妻です。よろしくぅ」
サルデーニャと名乗る天使は、そう言い、二人にデヘヘと幸せそうに笑う。
対しての二人の顔を見れば、蔑んだ目で引いたように見るベラと口を開いて動揺を隠せていないシリアがいた。
どちらも何かを言いたいような顔をしている。
いや、知らないよ? 何も。
「「……ロ〇コン」」
マテマテマテェェェェェェェェェェ!?