帰還直後編(2)~二度目まして煙男、そしてログが変なんですが~
自分よりもずっと高い体温が心地良くて、エルは、それがオジサンだと思って無意識にぎゅっと頭を押し付けた。
くっついていない方の身体に何かが掛けられて、そちらまでポカポカと温かくなる。しばらくすると、なんだか周りが少し煩くなったような気もしたが、聞き慣れたもう一人の男の声で、本当に同じ人物なのかと思えるほど物騒な感じの台詞が吐かれたのを聞いた――気もする。
「躾がなっていないようだね。肉体の疲労もあるんだから、少し寝かせておこうと僕は言ったよね? 『騒がしくするな』『大きな声を出すな』とも言ったけど、お前、僕に殺されたいの」
直後、騒がしさがさざ波のように引いていった。
そんな物騒な台詞が聞こえるだなんて、多分、気のせいだろう。まだ現実世界で会えていないスウェンが、笑顔で脅迫するような台詞を吐くなんて想像がつかない。
恐らく色々な事が在り過ぎて、自分が珍しく『夢』というものの一部でも見ているのかもしれない。エルはそう考え直して、また浅い眠りへと落ちていった。
もっと彼らと一緒にいられたらと、小さな願いを覚えた時の事を思い出した。
オジサンやポタロウ、ホテルマン、そしてクロエも、まるで魔法のようにエルの心を全て正確に知っていたのかもしれない。未来を願われて、助けられて、だから幸せになってくれと笑顔で別れを告げられた――
確かにエルは、彼らとも離れ難く感じて、一緒にいられたらいいのになぁと願った。初めての仲間で、『エル』となってから初めての友達でもあったから。
知りたいから話を聞かせてと言われて、仲良くしたいと言われて、そばにいてもいいのだとも教えられた。巻き込んでも構わないから手を取って、そして握り締めたらもう離さないでもいいのだと、あの三人は、言葉と態度で伝えてくれた。
けれど望む事を諦めて、エルは、迷った。
エルは『お姉さん』との約束のために、二度目の生を受け入れたから。
そんなエルを、クロエ達は当初から後押しする事を決めていたのだろう。泣かないで笑う姿を見せてくれという別れの言葉は、まるで、これからもずっと見えない場所から応援しているからと、そう言っているようでもあった。
クロエも、オジサンやポタロウと同じ所にいけるのだろうか。
もしかしたら、エルが思っていたよりも早くに、ホテルマンがクロエをオジサン達のもとへ送り届けてくれるのかもしれない。彼もまた、とても優しい人だから。
家族がくれた『未来』が今なのだ。だから、きっと何も無駄にしてはいけない。この世界で、これまで通り悔いなく生きるために、自分らしく真っ直ぐ歩き続けよう。
先の未来は何も決まっていなくて、ゼロからのスタートだけれど、幸せを望まれて今を生きているのだから、諦めなくても良いのだという希望を持っていたい。この身には、オジサン達と過ごした中で受けた愛が刻まれていて、悔いなく生きるための強さだって教えてもらったのだから。
だから寂しくない。一人でも、きっと大丈夫。
エルは自分に言い聞かせて、震えるそうになった手を伸ばして、温もりに向かってぎゅっと頭を押し付けた。知らず唇を動かせている事にも気付かないで、勇気を奮い立たせる呪文のように、口の中でひっそりと唱えていた。
――安心しろ、『寂しい』なんてないから。ずっとそばにいて俺はお前を離さないし、一人になんてさせない。……お前がいないと『寂しい』のは、俺の方なんだ。
他人だって、男と女なら家族になる事は出来るだろう?
痛くない力加減で、安心するくらいぎゅっと抱きしめられて、そう深い声色で優しく囁かれたような気がした。まるで宥め慰めるように、寝る前にオジサンがやってくれたのと同じ、頭に優しいキスを一つ落として。
珍しい声色をしたログ幻聴を聞いたような気がして、エルは、奴らしくない台詞に思わずパチリと目を開けた。途端に脳がカチリと覚醒して、慣れない匂いと、聞き慣れない異国の言葉が耳に飛び込んできた。
あれ? 知らない場所の匂いがする……というか、ここ、どこ?
白一色の部屋には、窮屈そうに大小様々の電子機器が押し込められていて、机には沢山のパソコンやモニター画面や資料が散乱していた。まるで一騒動でもあったような散らかり具合だ。
そこには、白衣を着た五人の人間が腰かけて、ようやく一息つけたと言わんばかりのぐったりとした様子で、キーボードに手を走らせつつも私語を口にしていた。軍服の男達が二人、軍靴の足音を響かせながら部屋の外へ出ていくが、周りから聞こえてくるのは全て異国の言葉だ。
というか、これ、英語だ。え、どうなってんの?
白衣の男達のうち、一人は日本人のようだが、他は見慣れない西洋人そのものだった。エルは状況が掴めず、場違いな場所に放り込まれたような緊張を覚えたが、身を竦めた拍子に腹に回っていた腕にぎゅっと抱きしめられて、ハッとした。
顔を上げると、こちらを見下ろすログの仏頂面があった。
「よぉ。起きたかよ」
「……あれ……なんでログ……?」
改めて自分の身体を見下ろしたところで、エルはようやく、ログの膝の上に座っている事に気付いた。身体には大きな軍服のジャケットが掛けられていて、それは、西洋映画で見たような勲章や装飾品が多く付いていて重かった。
今いち、状況がよく分からないんだけど……。
この軍服の上着は誰の物で、なんで自分はログに抱えられていて、ここは一体どこで、というかログが話しているのは日本語なのだが、それは自分の耳が変になった訳ではないのか?
エルは少し前の記憶を辿ったところで、セイジと共に迎えに来てくれたログが「ラボに戻る」と言っていた言葉を思い出した。
という事は、やはりログは日本語を話していて、ここはもしかしたら『仮想空間エリス』の研究室なのではないだろうか。つまり、スウェン達と合流するために、ログは自分をここに連れて来た……のかもしれない。
混乱しつつも半ばそう推測したところで、エルは、入口の開閉音を聞いて目を向けた。仮想空間と変わらない見事な金髪に、若々しい整った顔立ちをした鮮やかな青い瞳をしたアメリカ人を見て、スウェンだと気付いて目を丸くした。
こちらを見たスウェンが、「あ」と楽しげな声を上げて、鮮やかな碧眼を輝かせた。
「おはようエル君、気分はどう?」
「えっと、おはよう……? あの、これは一体どういう状きょ――」
「あはは、疑問が全部顔に出てるよ、エル君」
どこか吹っ切れたような朗らかさで、スウェンが実に爽やかな笑みを浮かべた。気のせいか、その笑みは二割増しで、仮想空間で見た以上に美貌と華やかさが胡散臭いほどに強化されている気さえした。
すると、続いて部屋に入って来たセイジが「エル君、起きたのか」とこちらも日本語で言い、ほっとしたように微笑んだ。
その時、白衣の男の一人がこちらを振り返った。西洋人にしては背丈が低く、少々丸いイメージがある小太りの男だった。運動派ではないのか色白で、軽くハネ癖のある栗色の髪には僅かに白髪が覗いている。銀縁の丸い眼鏡を掛けていて、瞳は丸くて青かった。
小太りの男が何事か話し掛けてきたが、エルは英語が分からず、知らずこちらを支えるログの捲くられた袖をきゅっと握った。すると、その男の隣にいた白衣の日本人が笑って、彼に何事か流暢な英語で話しかけた。
『ははは、駄目っすよハイソンさん。エル君は英語が分からないんですから、そこんとこは配慮してやらなきゃ。ほら、緊張しちゃって、可哀そうっすよ? というか、初コンタクトだからって気を張りすぎっしょ、ハイソンさん』
『ッうっかりしていただけなんだ! というか、お前俺に対して失礼すぎないか? 語尾に笑いマークがつく感じの言い方だっただろうッ』
『え~、それはハイソンさんの被害妄想っすよ。俺、ハイソンさんを一番に尊敬しているんですから』
彼らが何を語り合っているのか、エルは全く分からなかった。日本人の若い男が笑い、小太りのアメリカ人が怒ったように顔を赤くしたかと思えば、続いて「ぐぅッ」と腹を抱えてしまう。
エルは、ますます強くログのジャケットの袖を握り締めた。思わず、それを少し揺らして彼を呼んだ。
「ねぇ、あの眼鏡の人、大丈夫なの? 具合が悪そうなんだけど……」
「持ち前の胃痛だから、気にすんな」
胃痛って、もしかしてあれが『ハイソンさん』?
確か仮想空間で『煙男』がそんな事を口にして覚えがあるので、その可能性が高いなと推測したところで、エルは少し落ち着いた。遅れてログを見上げてみると、彼はどこか機嫌が良さそうだった。
任務が終わってくれたからだろうか、と訝しげに思ってエルが首を傾げる中、ログは、今すぐ降ろせという拒絶を示さない彼女に満足していた。知らない場所で心細い状況の中、ここに座っていれば安心だと無意識にでも思っていてくれているのかもしれない。
ハイソンが部下兼後輩にいじられる様子を、全く別の事を考えながらニヤリと眺めているログを見て、スウェンが全てを察して顔を引き攣らせた。
「……ログ、君ってやつは」
しかし、彼は諦めたように言葉を切った。実のところ、僅かな間の『別れ』の反動で、この部下は少々面倒な事になっているのだ。しかも、そちらについては無自覚なようで、余計に性質が悪い。戻って来てからずっと、ログは片時もエルを離したがらないのである。
ログが腰かけていたのは、急きょ用意された簡易ベンチの一つだった。セイジが隣に腰かけたところで、スウェンは、面倒になっている状況をエルに知られて悪化させないよう、彼女がログの上から降りてしまうタイミングを奪うように手早く説明を始めた。
「えぇと、エル君。ここは米軍基地にある研究所の一つで、『仮想空間エリス』の機材が運び込まれている部屋だよ。そのジャケットは、さっき顔を見せた大佐のもので、僕らはきちんと日本語を話している。だから、ひとまずは落ち着いてね?」
つまりラボだという事は理解した。多分、ここにいる研究員達は、『仮想空間エリス』の件で動いてくれていた人達なのだろう。
エルはそう頭の中で整理しながら、コクリと肯いて見せた。スウェンが「よし」と相槌を打ち、「呑み込みが早くて何よりだよ」と一度呼吸を整えた。
「話がまとまるまでは動けないから、ひとまずログやセイジにも待機してもらっていて、だからエル君も連れてきたわけだけれど、――何か質問はある?」
途中で問われて、エルは、彼の説明の中で気になって仕方がない点について尋ねる事にした。
「あの、『大佐』って……? なんでそんな人のジャケットがあるの?」
「ああ、さっき顔を見に来てね。紹介したら『ついでだから自分の目で顔を見たい』って言うから、ちらっと連れて来たんだよ。彼は多忙だから、これは僕の方で返しておくね」
緊張しなくても大丈夫だよ、ただの気さくなおっさんだと思えばいい、と言ってスウェンがにっこりと笑った。
「僕の方は、まだ少し『話し合い』が残っているから、君はもうしばらくログ達とここにいてね。詳しい事は後で話すから、良い子にしているんだよ?」
「……ぇと、じゃあ、後で色々と聞こう、かな…………?」
「うん、後ならたっぷり時間があるから、安心して待っておいで」
スウェンは爽やかに微笑んだが、エルは、何故だが有無を言わさない圧力を感じた。
なんというか、とっとと相手側を完璧に納得させて自分の思い通りに運ばせるから、不安に感じて勝手に『迷惑をかけるかも』と勘繰って逃げ出したりしないように、とも言われているような気がする。
「それから、寝ているところ申し訳ないとは思ったんだけど、見える位置にある擦り傷を治療するために、一通り汚れは拭わせてもらったよ。ほんの少しの掠り傷だったから薄らと確認出来る程度だし、痕は残らないだろうと軍医も言っていたけど、――鏡で確認するかい?」
そう言いながら、スウェンが頬を指差した。エルは、そこに自分の手で触れて、ほとんど気にならない掠り傷だと理解し、首を小さく左右に振った。
「痛みもないし、別に平気」
「……まぁ、君なら、そう言うだろうとは思ったよ」
スウェンが困ったように眉尻を下げ、笑うような息をこぼした。いちおう顔なんだから、少しは気にした方がいいと思うけどなぁ、と言いつつ彼は姿勢を起こした。
その時、欠伸をこぼしたログが思い出したように片腕を持ち上げて、腹を抱える眼鏡の小太りの男を指差した。
「あれがハイソンだ。仮想空間で俺らがメインで連絡を取り合っていた男で、この施設では上から三番目の役職にいる」
「ふうん、そうなんだ? あのさ、俺、その隣にいる日本人の声、どっかで聞いたような気がするんだけど……」
エルは首を捻った。自身の記憶を辿ったところで、再び『仮想空間エリス』で唐突に声を発した『煙男』の存在を思い出した。米軍の研究員なのに、日本人名である『クロシマ』を名乗られていたので印象も強く残っている。
すると、隣で様子を窺っていたセイジが「ふうむ」と首を傾げた。
「私とログも先程聞いたんだが、彼は『仮想空間エリス』で、君に会った事があるそうだ」
「あ、やっぱり?」
「ちょっと待って、セイジ、エル君。僕、それ聞いてないんだけど?」
スウェンは、どういう事だい、という眼差しをハイソンへ投げた。
こちらを気にしてチラチラと盗み見ている若い研究員達の応援を受け、ハイソンは、クロシマから胃薬を受け取ったタイミングで、げんなりとした視線をスウェンに返し、エルの存在を意識して日本語で答えた。
「……とても言い辛いんですが、いえ、非常に忌々しい事に、先程あなたと大佐と所長にだけ報告した『研究所内の異常現象』の真っ只中、このクロシマは居眠りしてしまいまして」
「……それって確か、眠ると仮想空間に意識が引っ張られる、とかいうものじゃなかったかい? ――ちょっと君、一体何をしているのさ」
スウェンは思わず、クロシマへ視線を向けた。生まれと育ちがアメリカである日本人のクロシマが、反省もない様子で「あははは」と笑った。
「俺、実は極度の不眠症でして」
「それ、ちっとも的を射てない回答だよ。不眠症でどうして居眠りするんだい?」
「こいつは、人が騒いでいる場所でしか眠れないとか抜かすんですよ。全く、とんでもないやつです」
あまり駆使する事がない日本語で愚痴り、ハイソンは慣れたように胃薬を口に放り込んで、ペットボトルの水で流しこんだ。よく分からない理屈をこねるクソみたいな悪戯野郎なんだ、と本当は言いたかったのだが、日本語でどう表現すればいいのか分からなかった。
エルは、その光景を呆気に取られて眺めながら、みんな日本語が上手だなと場違いな感想を抱いた。この研究所で起こっていた事の詳細は不明だが、ホテルマンも『煙男』である彼の事は「阿呆ですね」と評していたから、相当のうっかりをやらかしたとは理解した。
とはいえ、結果的に『クロシマ』という男はメッセンジャーとなり、そのおかげで、こちら側での作業の進行が早まったと考えれば、悪くは無かったとも言えるのかもしれない。
そんな事を考えていると、白衣の日本人がこちらをくるりと振り返った。
エルは、活気に満ちた悪戯好きそうな黒い目とぶつかった。『仮想空間エリス』では顔を見る事が叶わなかった『煙男』だと思うと、なんだか感慨深くもあって、正面からまじまじと見つめてしまった。
容姿は二十代ほどだが、眼差しの奥には歳相応の冷静さも宿しているようなので、恐らく三十は越えているのかもしれない。何かしら運動はやっているのか、体躯は細くしっかりとしていた。
「再会出来て何よりですよ。二度目まして、と言うところっすかね? 俺がクロシマで、隣にいるのがハイソンさんっす。ハイソンさん共々、改めてどうぞよろしく~」
「はぁ。あの、エルです。よろしく……?」
なんで『よろしく』なのだろうか、とエルは疑問を覚えて小首を傾げた。しかし、クロシマが先に口を開いてこう続けた。
「チョコのお菓子があるんですけど、食べます? それとも生身で『仮想空間エリス』を冒険しているし、やっぱりちゃんとした栄養補給って事で、食事の方が先っすかね?」
尋ねられて、エルは、少しの空腹を覚えている事に気付いた。どうやら、一眠りした事で冷静さが戻ってもきているらしい。戸惑いや悲しみがあっても、生きていれば腹も減るんだなと思ってしまった。
いつもクロエと食べていたのに、それは、もう叶わない。
エルは涙腺が緩むのを感じて、慌てて目を擦った。泣いちゃダメだ、彼女たちに幸せを望まれたのに悲観してはいけないと思った。深呼吸をして自分を落ちつけてから、のんびりとした笑顔を浮かべて返答を待つ、何も知らないクロシマへと視線を戻した。
「――うん。その、ちょっと小腹はすいてるかも……。ここって売店とかあるの?」
「食堂がありますよ。なんなら案内しますけど、どうです? 夕刻前ですし、俺も腹が減ってるんですよねぇ」
ポーカーフェイスで、クロシマは呑気な口調でさりげなく提案してみた。こちらには、スウェンや所長から個人回線でこまめに連絡が届いており、『エル君』が大事にしていた黒猫が、最後は彼女を救ったとは知らされてもいた。
クロシマの台詞を聞いたスウェンは、話し合いの間の待たせる時間を考えて「それはいいね」と賛同の声を上げた。エルの上に被せてあった軍服の上着をそっと手に取って腕に掛け、二人の部下を順に見る。
「セイジとログも、軽く何か食べておいた方がいいかもしれないね。その間に、僕は大佐たちと残りの話を済ませてくるよ。――クロシマ君、食事代については、後で大佐の方にまとめて請求するといい。彼には僕の方で伝えておくから」
「マジっすか。じゃあ俺、今のうちに夕飯分までがっつり食べちまおうと思います。――ハイソンさんはどうします?」
「こんなクソ忙しい中で、席を外せるのはお前くらいだよチクショー!」
思い出して肩越しに振り返ったクロシマは、間髪入れない咄嗟の突っ込みを日本語でやってのけたハイソンに感心して、思わず「さすがっすね、ハイソンさん」と呟いた。
スウェンは、立ち上がったセイジと目を合わせたところで、互いに苦笑を浮かべた。
「すぐに帰せなくてごめんね、セイジ」
「大丈夫だ。キャシーには電話を入れて、夕食までには戻ると伝えてある」
「うん、本当にごめん。君の奥さんには申し訳ないけれど、ちょっとログが心配というか――」
スウェンとセイジがそんな言葉を交わす中、しばし場の様子を見守っていたログが、もういいだろうと言わんばかりに肯いた。
「スウェン隊長からの許可も出たし、決まりだな」
唐突にログがそう言うので、エルは、ちらりと彼を見上げて「まぁ、食堂に行ってもいいのは確かなんだろうけど」と相槌を打ちつつ、今になって気付いた疑問を口にした。
「あのさ、今気付いたんだけど腕、解いてくれないかな。腹がぎゅっとされているせいで、俺、降りられな――」
「よし。食堂に連れていってやる」
「は……?」
立ち上がりざま、ぐいっと持ち上げられて脇腹に抱え直され、エルは「ぐえっ」と吐息をこぼした。どこか既視感を覚える運ばれ方に唖然としている間にも、ログは軽い足取りで歩き出してしまう。
「ちょ、おい待てコラッ。自分で歩けるからッ」
「泣いてふらふらになってたやつが、何を言ってんだ」
「ふらふらにはなってねぇよ! お前こそ、体力とかやばいんじゃないの?」
先程ログが欠伸をしていた光景を思い出し、遅れて『破壊の力』とやらの負担が脳裏に蘇り、エルはそう指摘した。すると、ログはこちらに顔も向けないまま「お前一人ぐらい抱えんのは平気だ」と言った。
「小さぇし、軽いしな」
「小さいって言うなよッ、ほんと一言多い!」
もがくと余計にガッチリと彼の脇腹に押し付けられて、エルは、荷物のように抱えられているしかないらしいと察して、「一体なんなの、もう……」と項垂れた。
白い廊下を行き来している異国人たちの視線が、珍しい光景だと言わんばかりにチラチラと向けられていて、ものすごく気になる。一体、これはどういう状況なのだろうか?
後ろからセイジとスウェンが慌てて続き、最後にクロシマが「ハイソンさん、行ってきまーす」と告げて部屋から出た。
諦めて身体から力を抜いたところで、エルは、ログのあいている方の手で頭をわしゃわしゃと撫でられ、まるで言う事をきいた猫を褒めるような扱いだと思って、げんなりとした。髪を乱すという嫌がらせだろうかと勘繰ったが、すぐに武骨な指で梳いて整えられてしまい、ログがよく分からなくなった。
彼なりに慰めてくれている、というやつなのだろうか……?
エルが悩ましげに考えている中、ログが「ん?」と顰め面を横に向けて、追ってきたスウェンに遅れて気付いた。
「お前、反対の道だろ。食堂までついてくるのか?」
「まぁそうなんだけど……あまりの露骨っぷりに、非常にそわそわして落ち着かないというか、少しだけ様子を見てから行こうかな、と考えているというか……」
「ふうん? ハッキリしねぇのも珍しいな?」
エル君が寝ている間の苦労を思えば当然じゃないか、とスウェンは心の中で不安をこぼした。ログからは「大事にしたいから『待つ』」と約束はもらっているものの、本当に彼は、誰にもエルを渡したがらなかったのだ。
スウェンは、どうか取り越し苦労でありますように、と願った。
しかし、食堂に到着して、スウェンは予想が的中してしまった事に頭を抱えた。あろう事か、いや、やはりというべきか、ログはエルを自分の上に座らせたまま注文し始めたのだ。
ログの左腕に腹を抱えられたエルは、「残したら俺が食べてやるから、俺のお勧めを注文するぜ」とよく分からない事を主張してきたログの行動に、困惑を通りこして苛々し始めていた。
エルとしては、この姿勢に意味があるのか分からなかった。隣に椅子があるだろ、お前が食べづらくなるからと言い聞かせても、ログはちっとも腕を解いてくれないでいる。
向かいにはセイジとクロシマが腰かけていて、周りのアメリカ人たちは、セイジと同じ戸惑いの視線をこちらに向けていた。まるで、そんな空気など知らないとばかりにクロシマが平気な顔で、ログと共に流暢な英語でアメリカ人女性に料理を注文している。
少しでも身じろぎすると、腹に回っている彼の腕がぎゅっとしてくる。エルは、そばに立って項垂れているスウェンを、むっつりと横目に睨み上げた。
「……スウェン、こいつ何なの? マジでそろそろ切れそうなんだけど」
「……あの、今は勘弁してくれると助かるかな。ちょっと反動がきているというか、少しすれば落ち着いてくれると思うから、ね?」
一体なんの反動だ。いちいち密着具合が暑苦しい。
しかも、ちょいちょい頭を押さえつけるように撫でてくるのも、完全に子供扱いされているようでやめて頂きたい。ぐしゃぐしゃにしたかと思えば整えてくるし、俺は猫でも人形でもないんだけど?
ログが妙に構ってくるせいもあって、エルはラボを出てから、涙腺が緩む暇もなかった。
スウェンが出ていった後、大きな肉料理が運ばれて来たのだが、食べ始めるとログが堂々と真横からガン見してきて、エルは、その視線が非常に気になった。腹が減っているのかと思って尋ねてみると、何故か、彼の仏頂面が更に顰められた。
「見ているだけだ。気にするな」
「…………」
気にするわ。その位置だと、嫌でもその真顔が視界に入ってくるんだけど。
めちゃくちゃ視線が邪魔だし、一体何がしたいのさ?
頭突きでも食らわせてやろうかとも思ったが、彼の膝の上に座っていてもエルの頭は彼の顎にも届かなくて、腹に回っている腕が邪魔で、その行動を起こせそうにもなかった。