帰還直後編(1)~エルと、迎えに来た三人の男~
育て親である『オジサン』が亡くなって、エルは、最後の家族になった老いた黒猫のクロエを連れて旅に出た。そろそろ一ヶ月を過ぎようとしていた頃、突然『仮想空間エリス』の事件に巻き込まれ、そこで冒険を繰り広げる事になった。
その長いようで短い旅は、現実世界では数時間の事だったらしい。
闇が突然開けて、気付くとエルは、既視感を覚えるような通りに立たされていた。一瞬、何もかもが夢だったのではないかと思ったが、黒いコートや見える肌には、戦闘の名残を覚える擦り傷や汚れも残されていた。
全てを元の世界に戻すという言葉を裏付けるように、その足元には、使い古された橙色のボストンバッグも転がっていた。でも、口の開いたボストンバッグには、人工夢世界に巻き込まれる前と同じ荷物が収まっていたのに、黒猫の姿だけがなかった。
クロエは、逝ってしまったのだ。
エルの先の人生を続かせるために、「生きて」「ありがとう」の言葉を残して、黒猫は長かったその生を終わる事を選んだ。
もし戻って来られたとしても、生きられたのは残り僅かだったのかもしれないとは、なんとなく分かっていた。それでも、エルは、クロエに生きて欲しかったのだ。
「……ふっ、う……クロエ…………」
言葉よりも早く、ぼろぼろと涙が溢れた。覚悟は決めていたのに、少し早くなったその別れに、エルの胸は張り裂けんばかりに痛んだ。
見届けたのは『死』ではなく『別れ』だった。
最後までクロエは笑っていて、そこには死んだはずのオジサンや雑種犬のポタロウもいて、旅で会う事が出来たホテルマンもいた。
あれは夢でも幻でもなく、本当に起こった事なのだ。皆がエルの人生が続く事を望んで、それが最高の親孝行なのだとオジサンも言った。だから、彼はログに向かって自分を投げたのだとも分かっていて、エルは、彼らの選択に文句の一つをくれてやる事も出来なかった。
オジサンは知っていたのだろう。もうエルが一人にならないと気付いて、だから、安心しきった顔で二回目の別れを告げたのだ。幸せになれ、笑顔でいろ、と。
生きたいと思ったのは本当だ。あの三人の軍人と一緒にいるのは心地が良くて、仲良くなれたらいいなと考えた。でも、同時に悲しくて仕方がないのだ。許される限りの時間を過ごして、クロエを見届けたいと願った気持ちに嘘はなかったから。
立ち尽くして泣き崩れるエルを見て、通行人がギョッとしたように目を向けた。喧嘩にでも巻き込まれたのか、事故にあったのかと訊いてくるが、エルはこぼれる涙を拭いながら、小さな嗚咽を上げる事しか出来なくて視線も返せなかった。
悲しい、寂しい、胸が痛い。
そんな中でも思い起こされるのは、最後に自分の手を握って、迎えに来るからと言ってくれたログの姿だった。どうしてか、本当に迎えに来てくれるのだろうかと考えただけで、また涙が溢れた。
だって、こんなにも遠いのだ。
一緒に冒険をした彼らが、今どこにいるのかもエルには分からない。
彼らは軍人で、民間人であるエルにとって遠い存在であると、現実世界に戻ってそんな実感も強く湧いてしまっていた。彼らは、本当に沖縄にいるのだろうか? それこそ、現実ではない世界の話なのではないか?
悲しくて寂しくて、普段の冷静さも保てず頭の中がぐしゃぐしゃになっていた。
そんな中、騒がしさと共に黒服の男達が現れて、集まっていた通行人たちをどかしてエルを取り囲んだ。彼らは片言の日本語で何事か話し掛けてきたが、ふと手を取られそうになって、エルは混乱しつつも反撃に出た。
どこかに連れていかれるなんて、まっぴらごめんだ。
だって、彼は『迎えにくるから待っていろ』と言ったのだ。
絶対に動くもんか、とエルは混乱のまま男達を叩きのめした。共に旅をして、信頼して、だから嘘をつかないのだとも知っていて、スウェンとセイジとログと、もっと一緒にいたいと思った気持ちも本物で――
なら今すぐ迎えに来いよバカ、とエルはログを思い浮かべ、自分でもよく分からない事を口にしながら、異国人である黒服の男達を蹴り飛ばした。混乱していたから、彼らが何者であるのか推測するような余裕もなかった。
「お願いだから、俺に構わないでよ……どっか行けよバカヤロー」
一通り全員の黒服が地面に転がったところで、エルは、震える泣き声のまま告げた。思わず、オジサン仕込みの強がった台詞も口をついて出たが、彼女の顔は、弱り切った迷子の子供のようにくしゃりと歪んでいた。
黒服の男達は身体の痛みを覚えながら、まったく隙もない子供を見据えて、ゴクリと唾を呑み込んだ。小動物のような可愛らしい表情と台詞なのに、容赦なく返り討ちにしてくる凶暴性が実に恐ろしい。とんでもない事実だが、体術戦では敵わないとも痛感していた。
班のリーダーである一人が、車に戻って本部と連絡を取り始めた。気のせいか、この子供の体術は大佐のものと似ている部分があるのだが、本当にただの民間人だよね? と口から飛び出そうになる疑問を抑え、男は慎重に上に指示を仰いだ。
周りがようやく静かになってくれたところで、エルはボストンバッグを引き寄せ、ビルの壁に背をもたれて座りこんで膝頭を引き寄せた。
ちらりとボストンバッグを見て、本当に、クロエだけがこの世界から消えてしまったのだと喪失感に胸が貫かれ、余計に悲しくなって大粒の涙が溢れた。寂しさで呼吸も苦しくて、エルは膝頭に頭を押し付けて、「クロエ」と大事な家族の名前を口にして泣いた。
※※※
どれぐらいそうしていたのか分からない。
一際乱暴な車の走行音と、続いて下手な急ブレーキ音が聞こえて、エルは「なんだろうか」と涙の止まらない目をゆっくりと起こした。
「エル」
聞き覚えてしまった野太い声に名を呼ばれて、ハッと視線を向けてエルは目を見開いた。そこには、こちらに向かって駆けてくる異国人の大男の姿があった。
暗いブラウン頭と明るい瞳に、仮想空間で初めて見た時と変わらない、腕まで捲くられたジーンズ・ジャケット。袖から覗くのは筋肉質の屈強な腕で、太い首の上には、相変わらず愛嬌のない顰め面がある。
それは、最後に仮想空間で別れた相手であるログだった。彼の後ろには、迷彩柄の服を着用した日本人風の大男であるセイジもいて、その明るい鳶色の瞳がこちらを見て大きく開かれて、どこか安堵したように輝き「エル君!」と呼んだ。
ログのセイジの姿を見て、張りつめていたエルの最後の緊張が解けて、またしても、ぶわりと涙が溢れた。
「ログ、セイジさん……」
言葉にした途端、最後の砦が決壊したように、どうしようもなく涙が止まらなくなってしまった。分かり切っていたはずなのに、本当に彼らはいたのだという安堵感と、迎えに来てくれたんだという言葉にならない不思議な想いが胸に溢れて、エルは泣いた。
ログが慌てたようにそばに来て、流暢な日本語で「どっか痛いところでもあるのか」と膝を突いた。
「まぁ、さすがにあの冒険のあとじゃ身体も結構きつかっただろうし――」
「なんでもっと早く迎えに来ないんだよばかぁぁあああ!」
「は……?」
「遅いよバカッ、すぐに迎えに来るって言ってたから、俺、ずっとお前を待ってたんだからなッ」
しゃがんでもなお、座っている自分よりも高い位置にあるログの顔を見上げ、エルは泣きながら訴えた。触れられる距離に彼がいる事になんだか安心してしまって、そんな自分にも困惑して、更に涙腺が緩んで目を擦った。
「うぅ、一秒でも早く会いに来いッ、すぐに来いぃッ、とっとと迎えに来いってんだよぉぉおおッ」
堪え切れず、エルは座り込んだままわんわん泣いた。
車内でログとスウェンの電話のやりとりを聞き、事のあらましについてだいたいを知ったセイジは、ボストンバッグを拾い上げて、戸惑ったようにそわそわとした。大事な黒猫であるクロエを失った彼女に、なんと言葉を掛ければ良いのか分からない。
セイジは「どうしようログ」と問い掛けるため視線を向けたところで、ピタリと固まった。大人びた様子も殴り捨てて泣く幼いエルを、ログが口許に手を当ててガン見していたのだ。
その表情に大きな変化はないが、不意打ちの嬉しさを覚えているのは確かで、セイジは、ログが『一人の女として気になっている』というよりは、もはや完全に異性間の『好き』であり、それを彼自身が自覚もしているらしいと遅れて察した。
長い付き合いだが、ログのこんな顔を見るのも初めてで、その相手がエルだと想像すると悩ましいところがある。ログは信頼出来る男だが、セイジとしては、やはりエルは子供にしか見えなくて心配でもあった。
「…………ログ。ひとまずエル君を車に乗せよう」
「――分かってる」
エルを怯えさせない配慮か、セイジが日本語で言ってきたので、ログも慣れた日本語で返したのだが、ふと、ログの中にチラリと一つの期待が過ぎった。
試してみたい気持ちが込み上げて「エル、おいで」と腕を広げてみると、エルが遠慮もせず胸に飛び込んできて、迎えに来てくれないんじゃないかって不安になった、ログをずっと待ってたんだよ、我儘だって分かってるけどもっと早く来て欲しくて仕方がなくて……と泣きながら服をぎゅっと掴んできた。
多分、彼女は混乱して、自分がどんな事を口にしているのか分かっていない可能性はある。その台詞がどんなに嬉しいものであるのか、きっと知らないに違いない。
泣いているエルには悪いが、ログは、クソ可愛いなと思ってしまった。泣き顔が可愛い、強がりつつも言ってくる台詞の一つ一つが猛烈に可愛いくて困る。ぎゅっとしがみついてくる感じとか、理性に結構クるんだが。
とはいえ、彼女はそういった事に免疫はないようなので、そう思っている事を知られたら反撃されそうな気もして、ログは黙っていた。
もしかしたら、今は下手に刺激しなければイケるかもしれないと考えて抱き上げてみると、華奢な彼女が抵抗もなく腕の中に収まって、エルが抱き上げ慣れている事に気付いた。
思い返せば、エルはよくクロエを抱きしめていた。飛び上がった際に、ログも服の裾を掴まれた事もある。どれもこれも無意識の癖のようにも思えるし、エルから聞いた『オジサン』との暮らしについても、やけに幼い感じだなぁとは思っていたのだが。
天国というところから一時的に戻ってきたらしい『オジサン』とやらも、エルの事を可愛い娘だと口にしていたが、もしや、怖がりで寂しがり屋なところがあるエルには、抱き付き癖も、甘え癖もあるという事ではないだろうか?
なんだそれ。可愛すぎるだろう。
もっと慣れてくれれば、それを遠慮せずこちらにも許してくれる可能性はあるのだろうか。セイジよりも自分を頼ってくれているという優越感も悪くないな、とログは思った。
「行くぞ。一度研究所の方に戻る」
エルは片腕で軽々と抱え直され、肩を抱く手で、宥めるようにぽんぽんと叩かれた。
かなり長いこと泣いていたせいか、大きなログの体温と、心音と同じリズムであやされる心地良さに、エルは瞼が重くなってきた。泣き顔を見られたくなくて彼の胸に顔を押し付けると、余計に暖かさが身に沁みた。
オジサンの温もりと、とても似ている。
それでも、クロエとの事も思い出されて、じわりと涙が浮かんだ。
エルは思わず、彼のシャツを握り締めた。すると吐息交じりに「まぁ、すぐに落ち着けってのも無理だろう」とログが言い、胸板に頭を押し付けるように後頭部を撫でられた。黒服の男達に合図を送ったセイジが、ログの隣に並ぶ。
「……子供扱いするな」
「子供扱いはしてねぇ。言ったろ、そばにいるし、一人にしないって」
今は、この腕の中に居るのだと、触れている全てで感じられるだけで十分だ。
ログはそう思いながら、慰めるように彼女の背中を叩いた。しばらくもしないうちにエルの身体から力が抜けて、小さな寝息が聞こえてきた。彼女を抱えたままシートベルトをするわけにもいかず、ログは、ハマーの後部座席に乗り込んだ。
エルを抱えたままシートに背を持たれて、自然と緊張が解けるような息を吐いたところで、仮想空間でエルに別れを告げられた時から、自分がずっと緊張していたらしいとログは察した。ようやく『取り戻せた』のだという安堵に、全身が弛緩するのを感じる。
ログは、片腕でエルを抱きかかえたまま、片手で髪をかき上げた。続いてセイジが助手席に乗り込んだタイミングで、運転席で待機していたクロシマが、ようやく後部座席を振り返った。
「お~、本当に『エル君』っすねぇ」
エルを目に留めたクロシマが、英語のまま「無事で何よりですよ。起きたら再会の挨拶を交わして喜ばなきゃならないっすね」と上機嫌に言う。
セイジが、不思議そうにクロシマを見た。ログもその言葉に疑問を覚えて、訝しげに視線を持ち上げ、エルが寝ている事を確認してから「おい」と、クロシマに英語で返した。
「お前、こいつを見るのは初めてだろう」
「実は俺、居眠りをこいちまった時に『仮想空間エリス』に中途半端に入っちまいまして、その折りに会ったんですよ。皆さんが最後のセキュリティー・エリアを突破して、バラバラの地点に到着したぐらいの時っすかね」
まるで死にに行くみたいな言い方をするもんだから、足掻けばいいじゃないっすかって言いましたっけ、とクロシマが笑った。その目尻に浮かんだ薄い疲労皺には、どこか清々しい安堵感も滲んでいた。
というか、こいつ、あの騒動の中で居眠りしたのか?
ログとセイジは、同時に同じことを思って沈黙した。なんとも呆れるくらいに自由な、不真面目な研究員だと思う。
クロシマの語る『エルとの出会い』についての詳細は分からないものの、エルにも覚悟があっての事だったのだろうとも察して、セイジは「そうか」と相槌を打ち、続けてクロシマの横顔に声を掛けた。
「ラボでは、君だけがエル君に会っていた訳か」
「まぁ、それもこれも偶然なんすけどねぇ。ハイソンさんには、痛い拳骨を落とされましたよ。まっ、そのおかげで上手く動けたってのも事実ですが。――それにしても」
そこで、クロシマが一度言葉を切り、ログが片腕で抱えている小さなエルへ視線を戻した。
「あの時は気付きませんでしたけど、『エル君』って女の子だったんすねぇ」
クロシマが言った途端、シートベルトをやったばかりのセイジが妙な咳をして、勢い良く隣の彼を振り返った。ログは、セイジの驚きぶりに「どう頑張っても男には見えねぇだろが」と呆れたように呟いたが、セイジは聞こえていなかった。
「……驚いた、よく分かったな。私もスウェンも、未だに時々エル君の性別を忘れてしまうというのに…………」
「あははは、戦ってる時はそうは見えなかったんですけどねぇ。安心して寝てる表情とか、よくよく見れば彼女、日本人にしてもなかなか美人だし、将来が楽しみなくらいに可愛――」
その時、クロシマは後部座席から強烈な睨みを向けられて、笑顔のままピキリと固まった。
クロシマは車内に漂う殺気に気付き、そろりと首を回して、セイジと共に後部座席へと目を向けた。そこには、殺されてぇのか、お前は俺の敵かどっちだ、場合によっては叩きのめす、と凶悪な面に青筋を浮かべたログがいた。
「…………えぇ、マジっすか」
賢いクロシマは腑に落ちて、思わず、確認するべくセイジへ視線を寄越した。彼の眼差しは、結構な歳の差のうえ仮想空間で一体何があってどうなったらそういう風になるんすか、と器用に物語っていた。
断言出来るような言葉がなくて、セイジは困ってしまった。すると、沈黙を聞いていたクロシマが、唐突に思い至ったように「あ」と声を上げた。
「もしかしてアレっすか、『ドストライク』ってやつ?」
それ以外に思い当たる節はない。
初コンタクトでログがエルをじっと睨み付けていたのも、純粋に気になっていたからと考えれば辻褄も合うし、やたらとホテルマンと対立していたのも、そのせいだと言われれば成程なと頷けてしまう。
そう思い返したセイジは、悩ましげに肩を落として「……まぁ、そのようだな」とどうにか答え、ログが彼女に恋をしているらしい事を認めた。