欲しいものにつられて
――誰か助けてください…。
俺は今、とてもピンチです。
とてもやばいです…貞操が。
男なのに、何でこんなところの心配をしなきゃならないんだろう。
水城は泣きたいのをこらえて眼前に迫る忌々しい男の顔を強気にも睨み返した。
てゆーか、何で本を借りに来ただけなのにこんなことになってるのだろうか。
時はさかのぼること約三十分前――…。
この日は待ちに待ったある作家のベストセラー本の続編の発売日で、一秒でも早く手に入れたかった水城はほこほこと期待に胸を躍らせながら学校が終わるなりすばやく帰り支度を済ませ、家の近くに在る書店に直行した。
そこまではよかった。
まだ何も知らなかったから。
売り切れてないといいなぁという一抹の不安を抱えながらも、水城の足取りは軽やかだった。
そして、にこにこと笑顔で店内に入った水城は小説のコーナーへ、はやる気持ちを抑えながら足早に向かった。
「あー…だる…店長、だるいです。帰らせて下さい。帰りたいです。家が恋しいです。このままだと鬱になるかも」
ぼりぼりと頭をかきながら、あからさまなやる気のない態度を取る雅貴に店長と呼ばれた叔父はこめかみに青筋を深々と刻みこむと怒りに肩を震わせ、客の目も気にせずに甥を怒鳴りつけた。
「お前がだるそうなのはいつものことだろうがっ!!今日に限ったことではないわ、戯けぇ!大体それくらいで鬱になぞなるか、お前みたいな図々しい神経の奴が!」
「えー…ひどいです、冬樹叔父さん。僕は本当にしんどいのに気遣ってもくれないなんて、冷たい…!」
「そんな良い子ぶってもお前の本性を知ってる者からすれば小賢しいだけだ!お前、本屋で働きたかったんだろ?ならそれなりの姿勢を見せろ、態度も行動も!!」
「俺は客として本屋にいるのが好きなんです、店員としているんじゃなくて。ボケーと本を眺めてるのが好きなんですよ、本を抱えて仕事するんじゃなくて。」
ブチッと冬樹の中でなにかの線が切れた音がした――多分、それは堪忍袋の緒が切れた音。
冬樹は据わった目で不吉に口角をにぃと吊り上げて雅貴に迫った。
「じゃあなんでお前はここで働いてんだ、この馬鹿野郎!!」
「あー…そういや…――いや、でもまぁ、俺ここで働きたいかr」
「黙れッ!!!」
言いかけた言葉を皆まで言う前に一喝され、言われたとおりに口にチャックをしてやる。
このまま説教に突入されそうな勢いだ。
「大体お前はなんでそういつもだるそうなんだ!?瞼が半分しか開いとらんのは何故だっ?!せっかくのいい男も台無しだ!!勿体無い…もっと真面目に働けよ!!」
「ちょっと!いい男と働けって一体どういう関係が…!!冬樹さん、貴方まさか…――やる気のない俺をそれでも雇ってるのって叔父だからではなく、客寄せにしてたんですねっ?接客態度は悪いけど、見た目のいい俺を商売道具として利用してたんですね?!有り得n」
「黙れ、黙れ黙れー!!だって叔父さんだって商売人だもん!儲かるなら甥っ子だって利用するもん!仕方ないだろ、お前が働かなくてぼさっとしてるから、それならほかに利用価値がないかなーって思ったんだ。そしたら、店に来てた女の子たちが雅貴のことかっこいいって言ってたから…!!」
「うわ…それじゃ、店員雇っててレジ大丈夫なはずなのに、冬樹さんがずっとレジに居たのって自分の顔を使って客を集めてからなのかっ!?有り得ねー…自分の顔も利用してただなんて」
「うっせー!!使えるもんは使う。利用できるもんがあれば、たとえそれが自分の顔だったとしても俺はする!それさえもいとわない!でないと真面目に働かない甥っ子のバイト代なんて払えないッ!」
「……」
地雷踏んだな、これ。
眼を血走らせる叔父を見つめて、雅貴はあーぁ…と嘆息とともに目を伏せた。
嘆息したいのは叔父のほうだろうに…俺って悪い奴。
とか何とか思いながら、それを思えるなら働かなくて悪いなとは思えないのか――雅貴は己自身に突っ込んだ。
店頭に並ぶ新刊のコーナーに立ち寄って、そこで水城は一ヶ月ぶりに額に青筋を立てたまま打ちひしがれていた。
残念な結果を目の当たりにし、水城は肩をがっくりと大きく落とす。
最悪だと、への字に曲げられた口から漏れるでるのはため息と愚痴だった。
「うはー…なんで毎回あの本は発売早々その日のうちに売り切れちゃってんのかなぁ…?学生の俺は明らかに不利じゃないか?午前中は授業で午後にならないと自由はないんだぞ?…早いもん勝ちだって言われても朝に買えに行けない俺は超不利じゃん!明らかに無理じゃん!希望もクソもないよ、またネット注文かっ?!あーもう面倒っ!!」
頭をかきむしってそう叫びたいのは山々だったが、今ここでそんなことをしては周りから冷えた目で見られること必至なので何とかこらえる。
だから実際に声に出して言ったのは、
「…最悪だ――」
の一言だった。
今の心境を表すにはこの一言が最も適当だった。
というか、その言葉に尽きる。
そのままの足で違う書店に行ってみようとも考えたが、面倒くさい。
ネット注文だと二日程度で確実に届くからそちらにしようか…そんなことを視線を床に向けて悶々と考え込んでいるとカウンターのほうから怒鳴りつけるような大きな声が聞こえ、ほぼ反射的に首をめぐらせばそこにいたのは…――。
「げっ!変態…じゃなくて葉山雅貴!」
あわてて口を塞いだが、己の目に映った人物を認識して驚きのあまり怒号を上回る声でその名を叫んでしまった。
呆気にとられて目を見開く水城に気づいた雅貴が説教をたれる叔父を遮ると、にこやかに微笑んで水城に手を振ってきた。
その瞬間、水城の口から「うがっ!」と、実にいやそうな声がもれ出たのを耳にしたがそんなことは気にしない。
雅貴は叔父を振り切って水城の元へやってきた。
「こんなところで会うなんて運命だな、水城」
「その台詞クサイ、古い。馴れ馴れしく名前で呼ぶな変態」
「じゃあ、なんて呼べばいい?」
「……水城でいいよ…」
「じゃあ俺は変態じゃなくて雅貴な。覚えとけ」
「…解ったよ」
不承不承頷くしかない。
水城は辛気臭いため息をどっぷりと肩で吐くと、店内を今一度改めて見渡した。
目的の本がないならもうここに用はない。
水城は身を翻して本屋を出て行こうとした。
これ以上下手にこの男に関わりたくはない。
なんか変な道へ引きずりこまれそうで怖いからだ。
ただでさえつい最近知ってしまった衝撃の弟達の関係に目眩がするのに、自分までそっちの世界に足を踏み入れて親を悲しませたくないではないか(母さんたちは双葉と梓のことを知らない)。
露人は根はしっかりしているくせに、どこか抜けていて空気読めない鈍感だし、将来ちゃんとした相手を見つけて結婚できるかどうかも怪しい感がある。
姉や妹にしても怪しい節がところどころある。
だから、ここはせめて自分がしっかりして親を安心させてやりたいのだ(自分がその道に入りたくないだけである。そのために言い訳に利用されてる両親だ)。
とにかく簡単に一言で言ってしまえば、単純にこいつが嫌いなだけであった。
顔は好きなのだが、中身がな…無性に気を逆撫でられてむかつく。
ああ…。
最悪だ。
本は売り切れてる上にこのお気に入りの本屋にコイツが店員としているなんて、本当最悪だ。
なんだ…。
今日は厄日か?
(俺がなにしたって言うんだよッ!!)
頭をかきむしってそう叫びたい気持ちだった。
この男の目の前でわざとらしくそうしてやりたいのは山々だったが、ただここでやってしまうと傍目から見れば頭がイカレた奴に見えるだろう。
(俺は世間体を大事にしてるんだ…!)
決してそんなことをして人に変な目で見られるのが怖いわけじゃないぞ。
そんなことを外でする勇気がないわけじゃないぞ。
――別にそんなことで度胸が図れるわけではないのだが。
………水城はちょっと変なところで残念な子だった。
「おい。ちょっと待て。お前、もしかして――」
ふざけていた雅貴の声が帰ろうと背を向ける水城を認めて、急に真剣みを帯びて発せられた。
「…なんだよ」
水城は思いっきり顔を顰めて雅貴を肩越しに振り返った。
本屋を出ようとした水城を呼び止めた雅貴はだるそうに目を細めて、
「本屋に来て何も買ってかないつもりなのか?」
真剣な声で(見た目はだるそうだが)、真面目にそう告げた。
「な…ッ!」
足踏み入れたんならちゃんと売上に貢献して帰ってよ。
なんて図々しいこと極まりない言葉を言う男だろう…!
この本屋を頼りに学校から直行したって言うのにそっちの在庫切れで今、自分はこうして手ぶらで帰る破目になってるんだろうがっ!
その軽そうな頭引っ叩いてやろうか、くそ野郎が(身長が届かなくて叩けないのが口惜しい)。
後ろ頭をかかれてあからさまに上から目線の(実際自分より年上になのだが)どこまでも舐めた態度を取る男だ。
「ね、ね。なんか買ってってよ!」
傷心の水城に気付かずに図太い神経で本を薦めてくる。
水城の小さい堪忍袋の緒がブチッと派手な音を立てて張り裂けた。
「ふざけんなよッ…!このボケナス野郎が!!俺は本を買いに来たけど、目的のがなくて仕方なくしぶしぶと帰る所なんだよっ!俺の暗さを見て察しろよ」
そういわれて雅貴はまじまじと水城の上から下までをしばらく凝視して、その立っている場所に設けられているコーナーの新刊という文字に目を向ける。
ああ…。
そうか、それでか。
なるほど…――合点がいった。
ふむと、雅貴は深く頷いた。
「あー…その、何?もしかしてお前もあの…何とか小説目当てでウチ来たの?」
苦笑い気味な顔で納得されて、水城は更に肩を落とした。
この男の様子からして大分前に売り切れてしまったようだな。
それでも売れきれたとは知らずにこの本屋にその本を求めてきた奴が数人いたのだろうことが雅貴の笑いでこれとなく察せられた。
「…そうだよ。あの小説が好きで発売日の今日をずっと楽しみにしてたんだよ…」
水城は心底がっかりそうに床を見つめてボソッと呟いた。
「ふむ…」
雅貴がまた一つ頷いて、水城の手首を取った。
水城がのろのろと気力のない目を雅貴に向ける。
雅貴はそんな水城の顎を取って上を向かせると、両手で水城の顔をムニッと挟んだ。
「……ぶ?!」
「む…!!」
雅貴はその感触に目を瞠った。
うわ…。
ふにふにしててやわらかいんだろうなぁとは思ってはいたけど、本当に思ったとおりに滑らかでやわらかい。
これが十七の男の頬だなんて信じられないな…。
このくらいの歳なら頬でも、もうちょっと角ばってて筋肉質で硬くねーか(いや、男の頬なんてけったいなものちゃんと触ったことないけどな)?
雅貴はそのふにふに感に心を奪われた。
…なんて、気持ちいいんだろうか、このほっぺは。
恍惚とした実に幸せそうな表情で自分の頬を撫でまくる雅貴に水城は気持ち悪さと苛立ちを感じ始めた。
(なんだ、こいつ。俺が本かえなくて落ち込んでるのをよそに独り勝手に俺の頬で天国に逝きそうな顔しやがって。てゆーか、むしろそれで昇華してくれるんなら天国にでもどこにでも、とりあえず俺の視界にはいらない所へ行ってくれ!マジムカつくから!!)
こめかみに青筋が浮かびそうだ。
水城は雅貴に顔を挟まれたまま、上目にギロリと睨みつけて毒づいた。
「…なんなんだよ、変態さん?俺の顔を汚い手で触ってんじゃねーよ。気持ち悪い。用があるならさっさと言えや。ウザイ」
「うーん〜…そんな口利いちゃっていいのかなぁ?そんなこと言ってたらお兄さん、チューしちゃうぞぉ♪って、俺がしたいだけなんだけどね。せっかくその本貸してあげようと思ったんだけどなぁ…」
水城は「えっ!」と嬉しそうに目を輝かせた。
暗く沈んでいた表情が見る見るうちに明るくなっていき、しまいには雅貴を頬を上気させて覗き込む始末だ。
よほど貸してくれると…――すぐに読めると言うことが嬉しかったのだろう。
…現金な奴だ。
そう思ったのだが、水をさすようであえて水城本人には言わなかった。
ただ嬉しそうに笑う顔の水城がたまらなく可愛く感じた。
――本気でハマりそうだ…。
そう思うと、苦笑が漏れた。
「なっ、な!今すぐ読みたいからさ、今貸してくれない?」
パタパタとした尻尾と耳が見えそうだ。
(…俺、ヤバイな…)
相当きてるな、こりゃ。
わー、どんなだろうなぁ…と小説の中身を思い浮かべてどきどきと胸を躍らせる水城を横目に見やりながら、雅貴はにやりと口角を上げて言った。
「今、手元にないから家まで取りに来い」
「…いや。…最悪。お前みたいな変態の家に行きたくない。なんか怖い予感がするから」
……なかなかに勘がよろしいみたいで結構。
(あれ…?いやいや…、俺そんな疚しいこと考えてないよ?なかったんだよ?けど、そんなこと言われて警戒されたら期待に応えたくなっちゃうじゃないかっっ☆……いつの間にこんなに節操のない…男でも大丈夫とか思える奴になっちゃったんだろ…)
微妙な笑みが口元に張り付いたまま、雅貴は困ったなぁと、眉を下げる。
すると。
「…じゃあ、俺の家までお前が持って来いよ。それならきっと危なくない」
「危ないってひどっ!俺は無理やりなんて卑怯な真似、しねーよっ?」
「おい、こら。なにが無理やりだってんだよ。なに妄想してんだよ。まさか俺つかって妄想してんじゃねーだろうな」
「……水城が俺んちに取りに来ないと貸してあげません。いいんですか?他の本屋でもきっとないよ?」
「うッ…」
「今すぐ読みたいならば俺のところまで水城が直接ちゃんと足を運ぶこと。いいね?貸してもらうんだから条件は飲みなさい」
「………分かったよ。俺が、あとで取りにいくよ」
「いや。もう俺帰るから」
「は?仕事中なんだろ?まだあるんだろ?それなのに勝手に帰っていいのか?」
「せっかく水城がここに居るんだから俺も一緒に帰りたいんだよ。歳離れてるし、あんまり顔合わせないからこうして帰ることなんてまずないだろう?だから、こんないい好機は逃したくないんだ。じゃないと、水城は照れ屋さんだから、こんな機会ないと俺は水城と一生一緒に帰れないかもしれないじゃないかっ」
ただ、仕事がしたくないだけではないのか。
水城はそのいい理由にされた気がしてならなかった。
ふっふふー♪と胸を張って水城同様、だが別の意味でうきうきとした顔で店長である叔父に一方的に帰ることを告げ、有無を言わさぬ速さで雅貴は水城を連れて店内を後にした。
その際の叔父、冬樹の顔はトマトのように怒りで赤くなっていたという。
そして、水城はまんまと雅貴の部屋へ足を踏み入れることになってしまったのだった。
これがきっと水城が恐れていた新しい世界への明確な一歩だったのだろう。




