名前
その後、大文字から紀夫に対してとやかく言うことはなかった。紀夫の罰は[一日大文字の手足となって働く]だけだ。それすらも特にお呼ばれする事もなく、当初の予定であったお茶出し後の同席の件は煙に巻かれてしまった。
このまま、呆れられたままではダメだと奮起し、事あるごとに大文字のサポートに入っていたのだが、大文字の指示によりいつもの仕事のみを徹底してさせられた。
これこそが罰なのか、それとも本当に許しているのか、いつもの笑顔の裏に隠れた彼の真意が読み取れず、一日中気が気でなかった。
そんな思いを知ってか知らずか、昼ご飯を食べた直後に大文字から呼び出しがあった。
応接間に行くと既に着席している二人組の相談者が居た。
「紀夫くん!君も座って話を聞いてよ。君の意見も聞きたいんだ」
「……はい?」
つい先程、強烈なミスを犯した自分に、あろう事かもう一度同じ事をしろというのだ。紀夫の脳細胞は理解する事を放棄し、フリーズした。
「同じ学生の意見が欲しいんだよ。早く座りなよ」
相変わらずヘラヘラと笑顔を見せる大文字がこの時ばかりは鬼の様に思えた。これこそが本当の罰なのだと諦めて、お茶を取りに向かうとまたも呼び止められる。
「君のも俺が注いでくるからさ、先に座っててよ」
言われるまま、流れのまま紀夫はソファーに腰掛けた。
「子供も同席させるとは噂以上に変わった所ですわね」
相談者の女性がキリッとした口調で言い放つ。
「うちのやり方でしてね。一つでも意見が多い方がいいでしょう?勿論お子さんの……皇帝君の為にもね」
(山田さんとか菊池さんがたまに呼ばれるのは、女性の意見が欲しかったって事かな?それよりカイザーってなんだ?ペットの名前かな?)
聞きなれない単語を耳にし、紀夫の頭は冷静さを取り戻す。
紀夫の緊張をほぐす為に冗談を言ってくれたのだろう。紀夫はそう解釈した。
見た所相談に来ているのは、中学生くらいの少年と、その母親といった感じだ。ペットはどこにも連れて来ていない。
「此方佐藤さん親子だ。今回の相談内容は簡単に言えばいじめだよ」
お茶を人数分抱えた大文字が各々の前にお茶を置いていく。
イジメと聞いてシビアな問題だと察知し、一言一句聞き間違えがない様に聞く耳を立てた。
「うちの皇帝ちゃんがちゃんと学校に通える様になればそれでいいわ。それで、あなた達は何をしてくれるのかしら」
佐藤夫人は半ば諦めたように二人に問いを投げかけた。
最近の世の中には動物の学校なんてものが存在するらしい。紀夫は真実から目を背けた。
「じゃあ皇帝君、いつからイジメられてたか分かるかな?」
大文字は皇帝という名前が、息子の名前だと言外に告げる。紀夫は吹き出しそうになるのを、お腹に力を入れることによって堪えた。
「…………分かりません」
「なら質問を変えようか。いつからきついと思い始めたのかな?」
「…………分かりません」
皇帝は何を聞いても微動だにせず、ただただ死んだ魚の様な瞳でコップの中のお茶を見ていた。いや見ていると言うのは正しくない。まるで正気の抜け落ちた人形の様だった。
これには大文字もため息を一つ。会話が出来なければ話にならない。
だが大文字もこれが仕事だ。何とか反応が返ってこないかと様々な質問を投げかけた。
「じゃあこれが最後の質問だ、君はイジメの原因を分かっているかい?」
「な!?あなたはいじめられた原因がこの子にあるっていうの!?」
わなわなと震えだした佐藤夫人は、怒りのあまり顔が真っ赤に膨れ上がった。
「お母さん、違いますよ。何かしらのキッカケがあったのか、それともキッカケが無くて唐突に始まったのか。それだけでも知りたいんですよ」
夫人は少なくとも納得していない様に見えたが、それ以上は怒鳴る事はしない。
「…………分かりません」
大文字の最後の質問まで分かりませんのみで終わってしまった。
紀夫は途中で口を挟もうかとも考えたが、先程の失敗もある。ここは無難に聞き手に回った。
「そうかい……。お母さん、今の状態では此方でできることは何もない。何も言わずそっとしてあげてください」
「何ですって?今までそっとしてきた結果がこれなのよーー」
「それでもです」
有無を言わさない怒気が大文字の声には込められていた。客に圧力をかけるなど接客業にあるまじき行為ではあるが、こういうおばさんにはこれが一番なのだろう。
佐藤夫人は口を真一文字に結んで大文字の様子を伺い始めた。
「それでも見守ってあげてください。何なら一人にしてあげてもいい。学校も休みたいと言えば休ませてあげてください。それが此方から言える最大の助言です」
納得のいかない様な表情を浮かべた佐藤夫人だが、相談料をその場に叩きつけ、息子を連れて立ち上がった。
「それともう一つ。皇帝君、一人で相談に来てもいいよ。そういう気分の時もあるだろうからね」
大文字はいつでも電話が出来るように、名刺の裏に携帯電話の番号を書き記し皇帝に渡した。
私には無いのかと佐藤夫人が歩み出たが、大文字の睨みによってそれは遮られた。
佐藤夫人は息子を引っ張って退出するなり、事務所の扉を勢いよく閉めた。
後には扉を強く閉めたことによる鈴の音だけが響き、その音が鳴り止むと事務所には沈黙が流れた。
「……あれで良かったんですか?」
「ん?何が?」
ソファーに座ったまま考え事をしていた大文字に自分の疑問をぶつけた。
「多分なんですけど、あの子自身イジメの原因は分かってるけど親には言えないって感じでしたので」
紀夫の話を聞き、大文字は目を見開いて驚愕と言わんばかりの表情を浮かべた。
「よく分かったね!その通りだよ。おそらくあの子がイジメられる理由は二つあるんだけど……こっちは分かるかな?」
大文字は子供の様な無邪気な笑みを見せた。
「普通に考えてあの名前と親のことですか?」
紀夫が答えると、大文字は両手でバッテン印を作った。
「多分本人もそう思っているんだろうが、実際のイジメられた原因とは違う。名前に対するコンプレックスから、自分に自信が持てず引っ込み思案な性格になった、というのが妥当だろうな」
紀夫はたった数分のやり取りの中でそれだけの推察が出来た事に感心し、思わず口を開けて惚けてしまった。
「つまり、コンプレックスの改善と友達を作ることが大事だな。だからこそしばらく休んで切り替えるのが大事だ」
「それだと名前を変えてしまえば万事解決では?」
「いや違う。紀夫君も言っていたことだが、親の方にも問題がある。思春期っていうのは難しいからな、家庭環境が悪いだけで心が揺れるもんだ」
「そこまで考えてあのおばさんに対して冷たい対応をしてたんですね!」
凄い凄いとは思っていたが、ここまで考えているとは思っていなかった。
「いや、あのおばさんが気に入らなかっただけだ」
そんなんで大丈夫か、という突っ込みは入れずに聞き流す。
「それに俺の考えでは、あの子が立ち直るには高校からしかないと思っている」
「え?それだと中学校を卒業するまで引き篭れってことですか?」
「そうなるな」
大文字が平気な顔をして殴り書いた書類には中学2年生の文字が平然と綴られる。という事は残り二年間も無駄にするということだ。
紀夫は昨年度の自分を思い出し、少年の姿が自分と重なって見えた。
「それだとあの子の為にならないと思いますけど……」
「ん?なんだい?紀夫君には他にいい案があるのかい?具体的な案があるなら言ってみなよ。色んな意見がほしいからね」
「それは……その……」
口ではどうとでも言えるが行動を伴うものは何も無い。紀夫自身、大文字の言う通り此方から何かをする事は出来ないと考えていた。
「無いならこれでおしまいだ。気に入らないっていうなら、同じ学生同士花子ちゃんと話し合ってみたらいいんじゃないかな」
大文字は話しは終わったと書類に書き記し、パソコンで入力後破棄する様に指示を出した。
紀夫は正義の味方などでは無い。テレビで殺人があったと報道されていても自分に害が及ばなければどうでも良い。地球の反対側では一日に何万人も殺されているが、それは紀夫の預かり知らぬところ。つまり紀夫も無関心な人間の一人でしかない。
しかしどうしてだかこの日は違った。心の中の靄は次第に大きくなり、その日の夜は寝付くまでに時間がかかってしまった。
ーー
朝目覚めても心の靄は一向に晴れない。頭では放っておけと答えは出ているのだが、沈んでしまい、心を閉ざしていた少年の顔が頭にチラついて鬱陶しい。
学校に着いた紀夫は、真っ先に花子の元へ向かった。学校では相変わらず髪を下ろし、顔を隠している。一人で読書に励んでいる所割って入るのは忍びないが、紀夫の用事は急を要するものだ。
「おはよう山田さん、今日ってバイトの日だよね?」
「おはよう。そうだけど……どうかしたの?」
バイトの時以外で彼女に話しかける事はほとんど無い。にも関わらずこんな朝はやくから声をかけたのは、昨日の出来事が全然頭から離れないからだ。大文字の言う通り花子と話しをしてみて、このどうしようも無い気持ちが治ればと考えたのだ。
「えっと……話したい事があって」
「え!?放課後ってことだよね。うん……大丈夫だよ」
「よかった。じゃあ今日の入力は俺も手伝うからさ、早めに終わらせて時間を作ろうね」
「へ?あ、うん。わかった……」
これで花子の了承も得た。
相変わらず学校の中では花子の態度が何処かたどたどしいのだが、特に気にも留めずに過ごした。
学校では、ゴールデンウイーク中にハメを外すな、という忠告があり、本日の授業も終了。
一秒でも時間が欲しかった紀夫は、花子と共に電車に乗って事務所へ向かった。
二人して事務所に、しかも紀夫は元々休みだったのに入ってきて、大文字はキョトンとしていたが、にやにやしながら自分の書き物に集中し始めた。
いつも一人で入力する文を、二人で入力すれば早くて当たり前だ。やっとの事で花子と話し合いの時間が取れた。
「話したい事っていうのはね、昨日のお客さんについてなんだけど」
「あぁ、やっぱりそうなんだ……」
花子は目を伏せて明らかにガッカリしていた。
「やっぱりって大文字さんに聞いてたの?」
「いや、なんでも無いよ。続けて」
花子に分かりやすいよう、昨日の皇帝についての話しをした。
「んー。最近だと色んな名前があるからなんとも言えないけど、大文字さんがそう言うならそれで間違い無いと思う。それに、あんまり深く関わるのはダメだって大文字さんも言ってたよ?」
「そうなんだろうけど、なんか放っておけないっていうか……」
確かに花子の言う通り深く関わるべきでは無い。だが、このまま放っておけば、将来皇帝だけが中学の同窓会に誘ってもらえないなんて事になりかねないのだ。
立場も状況も違えど<孤独>という点において一年生の時の自分と重なる。そんな彼を見捨てる事が出来なかった。
紀夫が真剣に悩んでいると、それを察してくれたのか、花子は顎に手を置いて真摯に考えてくれた。そして、何かを思いついたようで「そうだ」と前置きを一つ。
「いっその事気になるならその子に会いに行ってみたら?」
「いやいや、それは常識的にダメでしょ」
「そんなこと無いぞ紀夫君!俺が許すから行ってきたまえ。はい、これがカイザー君の個人情報」
何処からともなく現れた大文字は、住所から血液型まで書いた書類を紀夫に手渡した。
「……これって情報漏洩になりませんか?」
「大丈夫!仕事で使っているから問題無いよ。それに、もしもばれて問題になったら紀夫君にはトカゲの尻尾になってもらうから」
「それって俺に社会的に死ねって言ってるもんですよ!?」
いつものヘラヘラ顏でとんでもないことを言ってのけた大文字に、心の底から怒りが込み上げて来る。
「それで、どうするのかな?逃げるのかな?」
低俗でとても分かりやすい挑発だった。けれども怒りを覚えた紀夫に逃げるという選択肢は無い。
「わっかりましたよ!明日からゴールデンウイークなんで俺がなんとかします!責任問題になったら押し付けますからね!」
「うんうん、その意気だ。君は萎縮してるよりもそっちの方が断然いい。勿論さっきのは冗談だ。責任とかは気にせずにやりたいようにやっといで」
大文字は、そう言ってプンスカと怒っていた紀夫を、本物の親のような目線で見送った。