接客
花子に、学校へは絶対に行くと約束をした紀夫は、次の日からも休む事なく学校へ通った。朝一番でありったけの勇気を振り絞って、もう一発ビンタを喰らう覚悟を胸に、桜へ心からの謝罪を送った。
「桜さん、この前は本当にごめんなさい!」
「分かったからちょっと落ち着いて。私も叩いてごめんなさい。気が動転しちゃって」
桜は紀夫の気持ちを少しは理解してくれたのか、ビンタどころか、逆に謝罪で返さてしまった。
「桜さんが謝る必要はないよ。俺が完全に悪かったから」
「いいえ謝るわ。元々自分でも気づいていたのよ。以前全員に平等に接するなんて事をしてたら、大事な友達に嫌われた事があるの。自分が成長してないって改めて分かったわ。教えてくれてありがとう」
二人して謝り合う姿はとても微笑ましいものがある。
その後、付き合う事にはならなかったが、桜の紀夫に対する評価は、良き友にまで昇格する事が出来た。今後も彼女と恋人になる事は無いだろう。
そんな二人の会話を見て、紀夫の事を変態扱いしていた生徒の目も日を追うごとに変わっていく。
それ以前に、いくら陰口を叩いてもケロっとした表情で登校してくる紀夫を見て、噂にしても楽しくないと感じたのだろう。人の噂も七十五日という言葉があるが、今回の噂は十日も持たなかった。
静かで平穏な日々が戻った。いや、変わった所もあるか。勘違いをして有頂天になったお陰で薫と話せるようになったし、桜とも友達になれた。他の生徒と会話をする事は自分から避けているが、それで良いと思えた。
自分はこれ以上目立ちたくない、変な目で見られたくない。そんな思いが交差して、当たり障りのない日常を送った。
そうこうしている内に、早いもので、紀夫がバイトを初めて一ヶ月が立とうとしていた。
つまり、5月の始めにして最高のイベント、ゴールデンウィークが目前に迫る。
週末と合わされば最大で5日間の連休となるこのイベントは、学生にとってこの上なく最高の日々である。
大文字相談事務所もゴールデンウィークは休みに……なんてうまい話はない。
まとまった休みを利用して、相談に来る者が増えるからだ。とは言っても相談を受ける人物は大文字しかいないため、忙しさは大して変わらない。いつもの祝日と変わらないのである。
週に3〜4回程度しか事務所にいないとはいえ、一ヶ月も経てば仕事に慣れてくる頃だ。紀夫の基本的な業務内容は、パソコンに顧客情報の打ち込みを行う事。
その他にも菊池に頼まれて、パソコンの操作方法を教えたり、仕事部屋と応接間の掃除などの雑務もこなす。
打ち込む内容は、大文字がなぐり書きした用紙から必要事項を抜き出しての入力となる。文章を考えなくていい分、簡単な仕事だ。
いや、簡単だと思えるのは紀夫のタイピング速度が恐ろしく早いからだ。
ブラインドタッチは勿論のこと、もしもタイピング検定を受ける機会があれば、確実に1級が取れるほど。その実力を持ち、慣れてきた今となっては手持ち無沙汰になる事が多い。まさに天職だと感じていた。
しかし、仕事とはそんなに甘いものではない。一つの仕事を完遂したかと思えば、またさらに次の仕事が回ってくるものだ。
そうとは知らず、能天気な面を引き下げて、早朝から4月最後のバイトに向かう。
出来ればゴールデンウィークの休みが欲しかった紀夫は、その前に自分の仕事を終わらせようと奮起し、今週は5連続目の出勤だ。
打ち込み前の書類に目を通し、どこから手を付けるべきか書類の順番を並び替えた。
(春だからか新卒の人の相談が多いな。うわ、この人仕事相談と恋愛相談同時の人だ。こういう人は仕分けが難しいんだよな)
同時に二つ以上の相談をする人は少なくない。
例えば仕事とお金、夫婦と子供、友達と恋人など。一箇所に綻びが生じると他の所にも悪影響となり、続いて他にも影響がーー。悪循環する事で悩みは増え続け、最終的にどれが本当の悩みか分からなくなる。だがそれは、高校生の紀夫にはまだ難しい話だ。それに、考えるのは大文字の仕事である。
指を組んでピンと腕と背筋を伸ばし、本日の入力を始めた。この日は菊池も花子も休みだ。自分のペースで仕事が出来る。
「紀夫くん紀夫くん!ちょっといいかな?」
「なんでしよう?」
こっそりと忍び寄ってきた大文字が、耳元で囁くように声を掛けてきた。大文字は頻繁にこのようなイタズラを仕掛けてくる。
器用にタイピングを続けながら紀夫が答えた。
「紀夫くんが仕事を初めてもう直ぐ一ヶ月じゃん?そろそろお客さんの応対もやって貰おうかと」
忙しく動いていた紀夫の指がピタリと止まった。面接時にお茶くらい出して貰うとは聞いたが、実際働いてみたらそれだけではない。花子も菊池も、大文字の隣に座って相談者の応対をする事がある。
それは多角的に物事を見るため。男子高校生の意見も欲しいという事だ。
勿論大文字からのフォローありきの応対だし、するかしないかで給料がかなり違ってくる。何より紀夫がアルバイトを始めた理由は<コミュ症を治す事>だ。ならば断る必要もない。
「分かりました。次の方が来たらそっちに行きますね」
「もしも無理そうならこの部屋に逃げていいから、気楽にやってよ」
いつも笑顔を絶やさない大文字に励まされ、不思議と心が落ち着いた。相変わらず何を考えているのかよくわからない人だが、その接しやすさには何度か救われている。
そんな大文字だからこそ、失敗した時のフォローはしてくれると信頼し、相談者が訪れるまで打ち込みに専念する。
しかし、先程からドン、ドン、と一定のリズムで鳴り続ける何かが紀夫の集中を妨げた。音のリズムは次第に速くなり、それに伴って紀夫の呼吸も荒くなる。
紀夫の鼓動は告白した時と同じくらいに速くなっていた。もしも失敗したらどうしよう、もしも怒られたらどうしよう。そんな思いが頭の中を行ったり来たり。
しかし時間は残酷なもので、気持ちを整える時間を与えてはくれない。
耳を澄ませなくとも応接間にお客さんが来た事が分かった。扉を開いた時になる鈴の音、その後に響く挨拶の声、それに応じる大文字の声。
その全てが重なった後、紀夫は椅子から立ち上がり応接間へ向かった。
右手と右足が同時に前に出て、まるで機械仕掛けの人形のようなカクカクした動きになった。お茶の出る給水器の前に立ち、これでは駄目だと感じた紀夫は、手のひらに人の字を三度書いて飲み込む。
(これって迷信なんだっけ?他に出来る事は……相手をカボチャと思い込めだっけ?)
紀夫は、来訪者の方向に向き直った。
相談者の女性は紫色のドレスを妖艶に着こなした20代前半くらいの女性。そんな女性がカボチャになど到底思えなかった。
紀夫はとにかく息を整えようと深呼吸をひとつ。暖かいお茶を三人分注いで、二人の座る机まで持っていく。
パソコンの組み立てよりも、棚の整理よりも最難関ミッションな気がして来た。
お茶が三杯分入ったコップの乗るお盆はなかなかに重たい。その上、慣れてきたとはいえ、5連勤目となれば疲れのせいもあり少しの距離でも辛く感じた。
「ちょっと!そんなんじゃ溢れるわよ!この後仕事なんだから絶対に零さないでね!」
カチャカチャと震えるお盆を見た相談者の女性は、顰めっ面で紀夫を睨んだ。
「す、すいません!」
紀夫は取り乱し、お盆を持ったまま頭を深く下げた。その動作により、お盆の上に乗っていた暖かいお茶を、一滴残さず机の上に広げた何かの書類にぶちまけた。
「あんたねぇ!こっちは相談に来てるのよ!?客よ?何してんのよ!」
スイッチが入ったかのように相談者の女性は立ち上がって怒鳴り始めた。紀夫は何度も何度も頭を下げて必死に謝るも、女性の気は収まらない。
紀夫の上司である大文字が頭を下げていない事もその原因だろう。
「あんたたち何様のつもりなの!?だいたい客に7階まで登せるはビルは汚いは最悪じゃない!あんたも謝ってよ!」
おっしゃる通りだと紀夫は感じた。この事務所は仮にも客商売だ。7階ではなく1階とか2階で事務所を構えるべきだと、紀夫自身も不思議に思っていたのだから。
しかし、それでも大文字は謝らない。
「紀夫くん、奥に引っ込んでてよ。お茶がかかった手を冷やすようにね」
その口調は緩やかなもので、怒りなどは一切感じない。それどころか火傷の心配までして紀夫を庇った。
「ちょっと!その子に土下座させなさいよ!それとも何?あんたが土下座してくれるわけ?」
「まぁまぁ、ちょっと外で話しましょうか」
大文字はそう言うと事務所の外へと女性を案内した。自分の失敗により怒らせてしまった以上、紀夫は仕事部屋にこもるわけにもいかず、扉越しに二人の会話を探った。
しかしかなり遠くに行ったのか、話し声は聞こえない。
どこまで行ってしまったのだろうか。
この事務所以外の部屋は全て空き部屋のはず。屋上につながる扉は勿論閉まっている。それならば、ビルから出たということか。
紀夫は冷え切った頭で考える。
そこで、ありえない妄想が閃いた。このビルはこの事務所以外テナントが入っていないのは知っているが、他のいくつかの部屋も実は大文字相談事務所の持ち部屋ではないのか、と。
7階の通路は綺麗に壁紙を張り替えているし、床の絨毯も高級なものが使用されている。今迄違和感なく通勤してきたが、それは異常な光景ではないのか、と。
つまり、この事務所を飾るのはお客様が来るからと分かるとしても、事務所の外まで飾る必要は有るのか、と考えたのだ。
こればかりは大文字本人に確認する他ないのだが、少なくとも7階にある全ての部屋が大文字の持ち部屋である可能性が高い。
だが、そんな事よりも今大事なのはあの相談者の女性にどう対応するかだ。
仕事部屋に篭っていろと言われた以上そうするのが一番良いのか、それとも追いかけてでも謝った方がいいのか。二つの思いに板挾みとなった紀夫は扉の前で動けずにいた。
すると、数分も経たないうちに大文字と相談者の女性は戻ってきた。女性は紀夫に対して一瞥してきたが、それだけで喚き散らす事もなく元いたソファーに黙って腰掛けた。
その行動を紀夫は漠然と見守った。
「紀夫くん、ちゃんと手を冷やしたかい?火傷しても労災は降りないよ」
そんな事が聞きたいわけじゃない。何故この人がおとなしくなったのか、どうやって説き伏せたのか。
しかし、いくら気になっても本人の前で聞くわけにもいかず、紀夫は言われるまま仕事部屋に戻った。
手を冷やしながら紀夫は考える。
どうして、何故、一人で解決するはずのない疑問は、浮かんでは消えを繰り返す。あの相談者の女性が帰った後に自分はクビになるのだろうか。それとも今月の給料が無しになるのか。
このまま永遠に女性が帰らないでほしい。だがさっさと帰ってほしい。相反する思いを胸にしまい込み、大文字の出す判決を呆然としながらひたすら待った。
それからさらに数分後、応接間から聞こえる笑い声に紀夫は驚愕した。つい数分前まで不機嫌だったのに、笑うはずがないと。
しかし、女性は笑顔で大文字に別れを告げて帰っていく。
応接間の扉が閉まる音を聞いた瞬間、紀夫は大文字に詰め寄って謝罪した。
「さっきは本当にごめんなさい!」
「いいよいいよ、誰でも失敗はあるからね。それにあの人は怒りやすい人だったから、紀夫くんが完全に悪い訳でもないさ」
大文字はいつものケロっとした表情のままだ。怒ることも責めることもしない。しかしそれでは紀夫の気が収まらないのだ。
「いえ、僕のミスですから……」
「あんまり思いつめなさんな。でもまぁ、お茶をこぼすのは頂けないね。罰として今日は俺の専属雑用係をやって貰おう」
紀夫の肩に手を置いてニヤリと笑う様は悪魔のそれであった。