文化祭
つい一週間前はアルバイトをしに、そして今はその客として事務所のビルの前に立つ。この長い階段は一歩一歩進む毎に引き返したいという気持ちを強くさせる。
他の相談者の人もこんな気持ちだったのか、自分が相談者の立場になって初めて分かるものである。
心に不安を抱えながらこの階段を上ることは本当に辛い。何故なら階段とは降りる方が断然楽だから。
自らの脚を上げ、一歩、また一歩と進んでいく。慣れてきた筈の階段だが、次第に呼吸が荒くなる。
しかし紀夫は逃げなかった。
一階にいる花子のせいで逃げられないから?違う。逃げようと思えば二階の窓からだって逃げられるのだ。
では何故逃げないのか。それは男の意地である。
紀夫は7階に上がる最後の階段を踏み締めて、覚悟を決めて事務所の扉を開く。
「やぁやぁ紀夫くん、花子ちゃんから連絡はもらってるよ。それで、話したい事ってなんだい?」
昨日仕事をサボったことを問い詰めるでもなく、ヘラヘラ顏は健在だ。一つ分かったことは、いつものラフな格好は客として見てもおかしなものだった。
「大文字さんの言葉が信じられないんです」
「ふむふむ。前も言ったけど俺の言葉は信じない方が良いぞ?」
「それはもう聞きました!ですが……いえ、分からないんです。どうして腹が立つのかが。多分これは大文字さんの所為じゃない。じゃあ何なのか、分からないんです」
紀夫は心の底から悲痛の叫びを上げた。
「なるほどね。取り敢えず座りなよ。俺で良ければ相談に乗ろう」
仮にも相談事務所で、毎日毎日仕事として相談を受けている人間が俺で良ければなどと言うのもおかしな話である。しかし、大文字が言うと何故か違和感を覚えない。
大文字は二人分のお茶を用意し、応接間の扉を閉めて誰も入ってこれないようにした。
「さて紀夫くん。君に二通りの選択肢を与えよう。いつも俺がやっている相談員としての言葉が欲しいのか、それとも男と男の会話がしたいのか。どっちだ?」
大文字の瞳には強い意思が込められていた。以前の紀夫であればその視線を浴びた瞬間身震いしそうなほど強い目である。
しかし、紀夫は耐えた。そして自分自身も決意を固めて後者を選んだ。
「分かった。ならはっきり言おう。君が怒っているのは自分自身にだよ」
「そんなはずないでしょう!自分自身に怒りを覚える何てことありえない」
「いいやありえる。そして君が怒っているのは、俺のようになれないと萎縮してしまったからだ」
「そんなはずは……」
紀夫は否定しようとして言葉に詰まる。その通りだと。流石は大文字というべきか、紀夫の心を見透かしたその瞳は確かなものだ。
先日大文字の話しを聞いたときに感じたのは強烈な劣等感である。自分には出来ないことを平然とやってのけ、そして自分には乗り越えられない壁を乗り越えた相手に対して。
紀夫は大文字の様になれないと答えに行き着き、そしてそれが出来ない自分に苛立った。
「紀夫くん、良いことを教えてあげよう。君は自分のコミュ症を欠点だと思っているだろう?」
「そりゃあ、まぁ……」
「それは違う。君は言葉に出さないだけで沢山の事を考えているだろう?他のものは何も考えずに会話をしているのに対して君にはそれが出来る。それは君の評価されるべき点だ」
短所を長所に変える。口では簡単に言えてしまうが、その実不可能に近い。それが出来たら誰も苦労しないのだ。
「そんなこと言われても、大文字さんみたいにはなれません!」
「そこから間違っているんだよ。何で俺になる必要があるんだい?」
「それは……」
紀夫は再び言葉に詰まった。
目標にしているから?憧れているから?
どれも正解ではない。
「それは俺以外にまともに話せる人間がいなかったからだろ?」
紀夫には友達がいない。薫は友達か?いや相談できる様な相手ではない。桜も花子も同じこと。自分の心の内を話せはしない。
では実の両親は?家にいない父は論外で、女性である母も除外される。
紀夫は、父という存在を欲していたのだ。
その枠に丁度良く嵌ったのが大文字というだけで、その他から目を背け、これしかないと決めつけた結果だ。
だからこそ休みの日でもここに遊びに来ていた。
だからこそ旅行に行くと言われて簡単についていった。
だからこそ政治家と裏取引をしたと勘違いしたときに本気で怒った。
全ては父のような存在の大文字だったからだ。
そこまで考えついた時、紀夫の瞳から一雫の涙が零れ落ちた。
「俺は……どうすれば良いんですか!?悔しがった所で俺には何もない。どうすれば立派な人間になれるのかなんてわからない!あんたを目標にして何が悪い!?」
「悪くはない。だがそれだけに執着しすぎだ。だから俺は君に包み隠さず話したんだ」
父離れをさせるため、紀夫を成長させる為。それこそ実の父のような考えである。
大文字の真意を悟った瞬間、紀夫はその場で泣き崩れた。
頼れる相手が欲しかった。自分を見てくれる相手が一人でも欲しかった。一人は嫌だった。ただそれだけなのに。
恥も何もかも忘れ去り、紀夫は大声で泣き叫んだ。
ーー
時は経ち、紀夫の涙は枯れた果てた。呆然と空を見つめ、魂の入っていない抜け殻のような有様だ。
「紀夫くん。俺からアドバイスをしておこう。君にはリーダーの素質がある。人より多くのことを考える君は、人に指示を出す時もその人の事を第一に考えることが出来る人間だ。そこでだ。九月に文化祭があるんだろう?全力で取り組んでみると良いよ。きっと何かが見えるから」
紀夫はカクカクと機械的に頷き、そのまま立ち上がった。
「そうだ!君の席は残しておくからね!全部終わって答えを見つけたら戻っておいで」
その言葉を聞こえているのか、ただ耳を通っただけなのか、紀夫はもう一度頷き家路に着いた。
ーー
次に紀夫の頭が回転し始めたのは自室のベッドに入ってから。どうやって家に着いたのかは覚えていない。身体は家に帰る方法を覚えていたのだろう。
紀夫は大文字の言葉を反芻した。
文化祭。それは紀夫にとって体育祭の次に嫌いな行事である。
クラスメイトと協力し、何かを成し遂げるなどくだらないと思っているからだ。
いや、嘘を吐くのはやめよう。つい先程大文字に説教を受けたばかりではないか。
紀夫が文化祭や体育祭を嫌う理由。それは人と関わって失言や失敗をしてしまうのが怖いからだ。
しかし、大文字は言っていた。自分が思う様にやってみろと。自分が尊敬する大文字が褒めていたではないか。自分にはリーダーの才能があるのだと。
紀夫はどんな文化祭が良いのか考え始めた。
まず決めるべきは何を主として考えるか、だ。一宮高校の文化祭は、学校の関係者以外も入ってこれる非常にオープンなものだ。
その為、各クラスごとに売り上げを競い合い、その成績は提示される。
売り上げを伸ばしたいのならクラス全員の料理の腕を確認し、一番上手なものを調理担当にする。クラス全員で人気投票を行い、上位者のみを接客担当に据え置く。そうして全員の秀でた部分だけを採用していけば間違いなく一位は取れるだろう。
しかし本当にそれだけで良いのか?
紀夫は自分が思う最高の文化祭を思い浮かべた。
幸いなことに文化祭実行委員はまだ決まっていない。紀夫は自分が立候補しようと決めた。
ーー
そして実行委員を決める日。
男女1名づつで実行委員を決めるという話しになり、競争相手が薫しか居なかった紀夫は、立候補するまでもなく男子の枠は紀夫に決まった。女子の枠は皆の推薦により桜が枠に収まった。
「今日中に出し物だけでも決める様に!決まったら実行委員の二人が職員室に来るように」
今回も先生は生徒の自主性を尊重する体制だ。
実行委員になった二人は黒板の前に立ち、皆にアイデアを出すよう様促した。
「はい!なんでも良いんで適当に決めたら良いんじゃない?」
「私も思った。何やってもどうせ同じだしね。委員会の二人で適当に決めてよ」
クラスの殆どがこれに賛成だ。自分の成績に関わらないと知っているからか、やる気のなさは教室中に広がった。
ざわざわと賑わい出す生徒。あたふたとする桜は、紀夫の方をちらりと見つめ助けを求めていた。
紀夫は溜息をつき、そのまま大きく息を吸って皆が聞こえる程度の音量で声を発する。
「じゃあお前ら全員の裸エプロン喫茶でも良いってことだな?」
その言葉に教室中が静まり返った。当たり前である。そんなものを出し物に出来るはずは無いのだが、紀夫は元々変態のレッテルを貼られた身。そんな男から出た言葉なら、全身の毛が逆立つ思いだろう。
「いいか!文化祭に俺たちが参加できるのは残り二回だけだ。やる気が無いのはしょうがないが、悔いが残るのは嫌だろ?どうせやらないといけないんだ、それなら楽しくやった方がいい」
紀夫では笑顔を作れないが、この手の演説は大文字のものを参考に、一晩中考えて来た。
演説を受けた生徒達は、先程よりも小さい声で隣の生徒とヒソヒソ話しを始めていた。
「……あいつ分かって無いみたいよ。大掛かりなものなら夏休みが潰れるし、程度が低いものなら怒られるだけなのにね?」
「でも何も出さなかったら裸エプロンなのよ?絶対嫌よ。誰か案を出さないかな」
ヒソヒソ話しをするなら、もう少し小さい声でやれと紀夫は深く溜息を吐く。紀夫は以前噂話に聞き耳を立てていた癖で、小さい声の方が聞き取りやすくなっているだけだ。
「私からも皆に聞きたいな。何でもいいから案を出してくれないかな?」
今にも消え入りそうな声で桜が下手に出た。
そしてついに一人が手を挙げた。
「お、薫くん。なにかあるか?」
「一日ダイエット体験ってどうかな?身体の鍛え方なら分かるから、それの派生でダイエットのやり方を僕が教えるんだ」
「とりあえずは案として書いていく。確かに女子の比率が高い学校だからそれもアリかもな。他には誰か案を出してくれないか?」
下手に出た方が効果的と悟り、紀夫も止む終えず桜の作戦に乗っかった。
するとどうだろう。ポツポツとではあるがあちこちで手が上がり、定番のものから異様なものまで合計10個の意見が出た。
そして最後に紀夫からも案を出す。
「そろそろ案が無いみたいだから俺のを出すよ。俺の提案するのは性転換体験だ」
うぇーと皆がドン引きし、教室の気温は二度位低くなった気がした。
「いや、変な意味は無いぞ?ただ女装と男装をしてそれを体験してもらおうって事だ。今までになかっただろ?」
「それって誰が担当するの?まさかあんたとか言わないよね?」
「クラス全員でやる。メイク道具と仕切りになる何かさえあれば教室でもできる事だし、お前らも見てみたく無いか?薫の女装」
再び教室はざわめきを取り戻す。今度は薫に女装をさせたい派の女子と今のままでいてほしい派の女子の戦いだ。
いや、正確に言おう。スカートを履かせたい派とスラックスで男装のようにしたい派の戦いだと。
「紀夫くん!僕は嫌だよ。絶対似合わないし……」
「うるさい。イケメンはイケメンらしくおもちゃにされればいい」
そうして2-Dの教室では、紀夫の提案した性転換教室をする事で決まった。




