恋
大文字相談事務所1
今年も桜が満開に咲く季節がやって来た。桜の花びらと共に、新しい出会いを春風が運んでくる。気候や温度は心地よく、いつもより深い眠りをもたらす。
住民街の一軒家に住む高橋紀夫も例に漏れず、朝日が窓辺に差し込んでも寝息が変わることは無い。
この日は4月7日。修業式の日だ。高校二年生になってから初の登校日である。
本来であれば布団から出て着替えを済ましておくべき時間だが、一向に目覚める気配はない。
それも当然だろう。お気に入りのオンラインゲーム「ネバーランド」を深夜までプレイしていたのだから。
春休み中、余程の用事が無い限りはこのゲームに没頭していた紀夫は、完全に昼夜逆転の生活を送っていた。
加えてこの気候だ。時計のアラーム程度では彼の目を覚ます事は出来ない。
「紀夫!いつまで寝てるの?早く起きて学校行きなさい!」
階段の下から母の声が、紀夫の寝ている二階の自室へ届く。紀夫はやっとの事で布団の中で身体を動かし、むくりと起き上がる。
目を擦り時計を確認してみると、寝惚けた脳は一気に覚醒する。
慌てて学校の制服に着替え、スマートフォンと財布をポケットに入れ、階段を急いで降りた。
「なんで起こしてくれなかったんだよ!初日から遅刻したら皆の注目を集めるだろ!」
自分のミスを棚に上げ、紀夫は母に吠えた。母は「はいはい」と軽くあしらって朝食をダメ息子の前に並べる。
本日のメニューは豆腐の味噌汁と冷凍のハンバーグ。それと湯気が立ち、炊き立てだと分かる白米だ。
朝食としては十分すぎるメニューを目にしても紀夫の機嫌は直らない。自分の事を相手にしなかった母に、分かるように舌打ちをし、嫌な顔を作ってご飯を口に放り込む。
母の作った味噌汁が嫌いだからという理由で全て残し、食事を途中で止めた紀夫は片付けもせずに残りの身支度に移った。
とは言っても、ボサボサの髪の毛を整える事はせず、軽く髭を剃る位だ。
髭を剃り終わり、鏡に映った自らの顔に向かってキメ顔を一つ。
本人はカッコいいと思っている為、少しの時間満足そうに見惚れていた。
ここ何日間かの睡眠不足もたたり、目の下には深いクマを作り、適当に伸びた髪はボサボサ。体型は小太りなおっさんという言葉がよく似合う。ワイシャツのボタンは鎖骨がーー当然紀夫の体型では鎖骨は見えないがーー見える所まで開き、これがカッコいいと思っている。
紀夫のルックスは控えめに見ても、よく見ても、お人好しがみたとしてもいいとこ下の上。この光景をクラスメイトが見ようものなら吐き気を催すだろう。
「何してるの。早く学校に行きなさい!」
時間を忘れ、自らに惚れ惚れしていると、またもや母の怒鳴り声が聞こえる。
「うるせぇばばあ!分かってんよ!」
プライベートタイムを邪魔された紀夫は、母に目一杯の悪態を付くと、乱暴に扉を開いて学校へ向かった。
紀夫の家から学校までの距離は、時間にして40分程の所にある。徒歩で電車の駅まで行き、そこから電車の乗り継ぎを一度経て、下車後少し歩いて紀夫の通う一宮高校に到着する。
紀夫は家から駅までの距離を妄想を膨らませながら進む。例えば住宅街の角を曲がる時、遅刻する〜と叫びながらパンを咥えて走る女の子との衝突や、物陰を覗いた時に不良に絡まれる女の子との出会いなど。
ゲームや物語の中でしか見ないような出会いを常に期待していた。
現実はそんなに甘く無いと理解していないのだ。というよりも、そんな事は今の時代であり得ないのだ。
まず、パンを咥えて走る少女を見た事があるだろうか。本当にそんな子が現れたなら、確実に指をさして笑うはずだ。
不良に絡まれる女の子ならば見た事があるかもしれない。しかし、その中に飛び込んでいけるものなのか。答えは否だ。
運動神経など皆無な紀夫では、自分に火の粉が降りかからないように目線を逸らすだけだ。
そんな事は知ったことでは無い。紀夫はモテたいのだ。これは紀夫に限った話では無いだろう。この年齢の男子と言うのはこういうものだから。
勿論そんな奇跡的な出会いは一切なく駅に着く。母に買って来てもらった定期券を自慢げに使い、改札を抜けると、そこには同じ制服を着た学生やスーツを着こなす社会人達がごった返していた。
紀夫は見知った顔が無いかと辺りを見渡す。丁度良く、そこには1年生の時に同じクラスだった女の子、山吹桜さんが友達と歓談をしているのが目に入った。
ミス一宮高校に選ばれてもおかしく無い容姿。栗色の髪を後ろで纏め、時折見せる微笑みは女神を連想させる。
何より注目したいのは16歳とは思えない豊満な胸。制服に包まれていながらもその存在感は圧倒的だ。
当然紀夫の目は彼女の首から下に釘付けとなる。
(朝から桜さんに会えるなんてついてるな。もしかして桜さんと僕は運命の赤い糸で繋がっているのかも……)
次第に紀夫の思考は桜と付き合った場合の光景を思い浮かべる。
彼女のような清楚な雰囲気の女の子を自分ならどうエスコートするか。
決めた。最初に連れて行くなら遊園地のお化け屋敷だ。お淑やかな彼女の事だ。お化けが飛び出したタイミングで抱きついてくれるはず。そうすれば豊かな肉まんは自分の腕に押し付けられる。
そんな妄想を膨らませていると、此方に目をやった桜と目線が交差した。
慌てて目を下に向けたが恐らく彼女は気づいただろう。恐る恐るもう一度視線を向けると、今度はしっかりと見つめ合う。
すると桜は紀夫に向かって微笑みを向けた。
瞬く間に周りの友達との歓談に戻ったが、その微笑みは紀夫の脳裏に焼き付けられた。
(天使だ……)
高橋紀夫。男、16歳。彼女いない歴史16年。告白した回数0回。当然告白された回数も0回。しかし人に惚れた回数なら誰にも負けない自信がある。
初恋は小学校の頃、隣の席に座っていた女の子だったか、はたまた仲良く遊んでいた子だったか。最近になって惚れやすい性格はエスカレートしているようにも感じる。
例えば可愛い子に笑いかけられたとか。
桜の微笑みは見事紀夫の心を射抜いたのだ。
脳内は常に桃色で、万全の準備は整えてきた。異常にも思えるその妄想は思春期ならではのもの。モテたいと思うのは生物として当然だろう。
だが、紀夫の限界はそこまでだ。自分の事を好きなのではないか、という妄想は、世の男性なら一度は考えた事があるだろう。
紀夫もその一人というだけであって、後一歩が踏み出せずにいたのだ。<声をかける>という一歩を。
この日も電車の中では彼女の後を目で追って、気付かれない程度にチラ見を数度。
その笑顔を見る度に声をかけようという気を削がれていく。
もしも嫌われたらどうしよう、もしも二度と笑いかけてくれなかったらどうしよう、もしもーー。
要するに、高橋紀夫はビビリでコミュ症なのだ。
恋人を作る。それよりもまずはするべき事がある。
紀夫は電車を降りると、今日こそは、と意思を固めて同じクラスの子を探す。
出来ることなら同じ男子生徒。同じ学年で冴えない部類に属する者が良い。適当に当たりをつけるよりも、狙い打ちして行きたいと紀夫は考える。
だからこそ早起きをして、時間をゆるりと使いたかったのだが、いかんせん、睡魔には勝てなかった。
通学路を通り、校門を抜けて校舎へ入る生徒を一人一人観察して行く。順に女の先輩、女の同級生、女の先輩……。女性比率が高すぎる。
一昨年まで女子校だったこの学校は、紀夫が入学するときから共学に変わった。
その事は紀夫の最大の悩み事であると同時に人生で一番後悔している点だ。
同年代の男子は指で数える程度しか居ない。先輩は全員女性。となれば誰に話しかければ良いのだ。
紀夫にとって、女の子に話しかけるという事は、大嫌いなジェットコースターに乗るよりも勇気がいる。
しかし、去年はカッコつけて少数しかいない男子の誘いを断ってきた。
つまり……紀夫には友達がいない。
(そりゃあ俺だってハーレムを望んで入学したさ!でも入ってみたらこの様だぞ!?ブスばっかだし、性格は男みたいなやつばっかだし、おっさんみたいだし!……はぁ……)
行き場のない苛立ちを、本当は思ってもいない言葉で周りに悪態を吐くことで緩和した。
紀夫の目尻に涙が浮かぶ頃、学校の予備鈴が残酷にも観察タイム終了を知らせる。
紀夫は、今年も一人という孤独を感じながら教室へ向かった。
ーー
始業式を半分寝た状態で過ごし、教室に戻ると紀夫にとって最高に嬉しいイベントが始まった。クラス替えだ。
「うちの学校のクラス替えはくじ引きで決める。出席番号順で前に来い」
クラス替えと聞いて他の生徒達は、嬉しそうにはしゃぐもの、離れたくないと半べそをかくものなど、様々だ。
対して紀夫の表情は能面。出来ることならば桜さんとはもう一度同じクラスになりたいが、それ以外は総入れ替えで問題ない。むしろどうでもいいとさえ思える。泣いている生徒の気持ちが毛ほども理解出来なかった。
それなのに、何故紀夫はクラス替えを待ち望んでいたか。クラス替えの後、友達が居ないであろう人を探し、声をかけてみる作戦があるからだ。
一通り感傷にしたった生徒達は、先生に言われるまま出席番号順に席を立つ。
黒板にはA〜D迄の区分けがされており、自分の引いたアルファベットの所に名前を書いていく仕組みだ。
紀夫のクラスは合計25人。つまり、6人の場所が3つ、7人の場所が一つだ。
確率は適当に見て四分の一。紀夫はせめて桜さんと一緒のクラスになれる事を祈りながらクジを引いた。
とは言っても彼女の方が後に引くことになるのだ。紀夫のアルファベットはどれでもよかった。
箱の中から出てきたのは「D」の文字。これから一年間、2-Dが紀夫の教室だ。
他の生徒も順々にクジを引いていき、残す所二人だけになった。
現在の状況ははA〜Cが6人、Dが五人だ。必ず一人はD組で決まる予定だ。
出席番号が低いのは山田花子という地味な女の子。前髪を下ろして顔が見えないようにしている。体型はかなり華奢な部類で、胸囲は聞かないであげた方が良い。
その花子がクジを引き、自分と同じDの文字を引き当てた。
(これで桜さんと同じクラスになれなかったらお前を呪ってやるからな)
花子がD組になったおかげで、残り物にどのアルファベットが入っているか分からなくなった。
桜のクラスはどこになるか。紀夫に限らず、同じクラスの3人の男子生徒達も、計らずとも注目する。
クジの箱にその細い手を入れて、残っていたクジを引き抜く。その足で向かった場所はDの文字が書かれている黒板だ。
(よっしゃぁ〜!お前らざまあみろ!)
紀夫は、誰に向けてのものか自分でも分からない自慢を心の中で呟き、顔を伏せて渾身のドヤ顔を作った。
横をチラリと覗いてみると、桜さんと一緒になれなくて悲痛の顔で凍りつくイケメン生徒がいる。それを見ただけで紀夫の気分は有頂天に達した。
幸運はそれだけで終わらない。
「高橋君だよね。これから同じクラスだし、よろしくね」
なんと我らが女神、桜さんが声を掛けてくれたのだ。
頬を僅かに強調させ、何処と無く恥ずかしそうな素振りすら見せていた。
(まさか……)
恋多き紀夫は、桜が自分の事を好きなのではと思い始めた。