政治家
中間テスト。日本人なら誰もが避けて通れない壁である。梅雨の雨がザーザーと降り注ぎ、窓に当たる音がやけに大きく聞こえる。例年にも増して蒸し暑くなる中、この日、一宮高校では中間テストが行われた。
ここ数日降り続ける雨により、紀夫の気分はどんよりと曇る。まるで現在の天気に紀夫の気持ちが呼応しているようだ。
そんな中行われる中間テストは憂鬱以外の何物でも無い。
テスト前日になって母が言っていた、「これ以上成績を落としたらやめてもらいます」という言葉が頭の中を駆け回る。
バイトを始めて規則正しい生活になったおかげで授業中に眠る事は無くなったが、元々紀夫の頭は良く無い。自信を完全に喪失したままテストに臨んだ。
一宮高校の中間テストは一日で5教科全てを行う。
部活やアルバイトをしている生徒に合わせ、テストの期間を短くしてあるのだ。これは紀夫からすればはた迷惑な話である。
紀夫のテストの乗り切り方は、ズバリ一夜漬け。昨日は徹夜して得意教科である数学の勉強を行った。
その甲斐あってか、数学だけを見ればクラスでもそこそこの成績を取れた。
しかし、他の4教科は無残な結果に終わった。赤点はギリギリ免れたが、成績が落ちた事に変わりは無い。
紀夫は中間テストの結果をいつそのこと捨ててしまおうかと考えたが、問題の先延ばしになるだけと悟り、諦めて家に持ち帰った。
「紀夫、何か言う事はある?」
赤点ギリギリの答案用紙を見て、母は鬼の様な形相を作っていた。
「いえ……」
いつもなら「うるせぇばばあ!」位の事は言うのだが、今回ばかりは完全に自分に非があると認めている。紀夫は、借りてきた子猫のように身を縮めた。しかし点数がバイトを始めたからでは無い。単純に紀夫がサボったからにすぎない。
その事をなんとか母に理解して貰おうと、苦し紛れの言い訳を始めた。
「バイトは関係無いんだ。むしろ休みの日にも早起きする様になったし……」
顔色をチラチラと確認し、母の様子を伺った
「ーーわかりました。今回は見逃します。ただし!来月の期末テストもこんな結果に終わればすぐに辞めてもらうからそのつもりでいなさい!」
紀夫の説得のおかげかなんとか妥協案に持って行けた。来月の期末テストまでは一ヶ月以上勉強する時間がある。
次のテスト前だけは花子と同じ様に休みを貰おうと決めた。
しかし紀夫はこうも考える、バイトで稼いでいる方が学校生活よりも何倍もましでは無いか、と。
テストの結果がいくら良かろうと、部活で優秀な成績を残そうと、将来的に役に立つことなど殆どない。
例えば紀夫の得意な数学。社会に出て必要になるのは小学生レベルの算数だけで、ややこしい図形の計算などは一切必要ない。
それなのに何故必死になって勉強しているのか疑問である。
そんな疑問を解消すべく、バイト中、頭の良さそうな菊池にその事を尋ねてみた。
「紀夫くんの言う通り、私も勉強なんて必要ないと思うわよ。歴史だって年号がコロコロ変わって、今じゃいい国作ろう鎌倉幕府じゃないんでしょう?それに円周率も3.1415まで計算してたのに、今じゃ3なんて理不尽だわ」
自分より年上でしっかりした性格の菊池に賛成してもらい、紀夫は自分が間違っていないという確証が持てた。しかしそれは束の間に終わる。
「それでも勉強をしないとダメなのよ」
「え?さっきまで無駄って言ってたじゃないですか!」
「確かにそうね。なら私からもからも質問よ。あなたは将来何になりたいのかしら?」
「将来の夢ですか?まぁ、金持ちにはなりたいですけどーー」
紀夫は、いつか結婚し、いつか金持ちになれたらいいな程度に考えていた。
「それならなおのこと、勉強だけはしておきなさい」
「それとこれとどう繋がるんですか?僕が力仕事をするなら勉強なんて全く関係ないですよね?」
「あら?あなたは力仕事がしたいの?」
「いやそういうわけでは……」
菊池に迫られ思わず萎縮し俯いた。さらに追い打ちをかけて菊池は紀夫の顔を覗き込む。
「怒っている訳じゃないんだから顔を上げてよ。あのね、どの道に進むか分からないから勉強をするのよ。例えば明日、あなたが弁護士になりたいとするわ。弁護士になるには大学に行かないと行けないわよね?思い至ったのが明日なら何とかなるかもしれない。けど、それが来年だったらどうなる?」
「法律関係の大学は厳しいかと……」
「その通りよ。だからこそ今は勉強だけはしっかりとしておきなさい。分かった?」
まるで実の母のように真摯に向き合い、紀夫に有難い話を聞かせてくれた。
「ありがとう」と礼を告げた後、思わずお母さんと言いそうになったのは菊池には秘密である。
「紀夫くんちょっと出てきてもらえるかい?君の話が聞きたい」
そうこうしていると、応接間から呼び出しがかかった。二人で旅行に行ってからというもの、頻繁に応接間に呼ばれる様になったのだ。
紀夫が応接間に向かうと、いつもの様に相談者の方と大文字が対面で座っていた。
(あれ?この人どこかで見たことがある様な)
どこかで見た顔の相談者に、紀夫は記憶の引き出しを漁った。けれどもその答えは大文字の紹介によってすぐに判明する。
「この人は政治家の大泉洋一さんだ。君もテレビで見た事くらいあるだろう」
答えは勿論ある。以前ここの求人情報を探していた時に見つけた記事にこの人が載っていた。しかも、その内容は個人情報の横流しと脱税疑惑だ。
その後のニュースでは「ヒショガカッテニヤリマシタモウシワケアリマセン」という呪文を使った人物で間違いない。
何故そんな人間がこの場に来ているのか。いや、この事務所に来た以上、目的は一つしかない。相談である。
「初めまして紀夫くん、大文字さんには度々お世話になっていてね。今回来たのは新しい政策を始める予定なんだがどう思うか相談に来たんだ。是非とも若い世代の意見も聞きたい」
はぁ、と生返事で答え大文字の横に着席した。
「早速なんだが、今回私が提案しようと思っている政策は少子高齢化の高齢の部分だ。介護士不足をどうにか改善していきたいのだが、何か意見を貰えないか?」
高齢化についてはニュースでもよく取り上げられる内容だ。しかし、それを考えるのが政治家の役目であり、それを相談するというのは如何なものか。
どう言えばいいのか迷った紀夫は、大文字の言葉に耳を傾けた。
「それなら提案したいものが一つだけあるよ。簡単に終わらせたいなら介護士の給料アップだね」
ヘラヘラと、まるで友達に話している様な口振りで大文字が言った。
紀夫は政治の事に詳しくない。無知という訳ではないが、一般市民と同じという程度。そんな紀夫に何を期待しているのか、二人の視線は紀夫に注がれた。
「えっと……そうだ!いっその事介護士を公務員にしてしまえばいいんじゃないですか?」
「確かにそんな声もあるだろうね。だがそれはとても難しい事なんだ。どちらかといえば大文字さんの案の方が取り組みやすい。地域限定で給料を上げる様にする事は出来るかもしれない。だが……」
大泉は大文字にアイコンタクトを送った。
「金の問題と次の選挙の事でしょう?」
「流石は大文字さんだ。ズバリ次の選挙で私が当選しないとどうしようもないのだ」
頭を抱え、考え込むそぶりを見せてはいるが、紀夫から見ればこの男が発する副音声が耳にチラつく。
(ズバリも何も、ようは選挙の手伝いをしろって事だろ?あんな事をしでかした後だから選挙に勝つのは無理だろ)
猫の手も借りたい状態で、この男はこの事務所に尋ねてきたのだとすぐさま理解できた。
「なるほど。それで、俺にどうして欲しいと?」
「大文字さんも人が悪いですな。それを私に言わせるのですか?あなたが協力してくれたおかげで以前の選挙に勝つ事が出来た。それなら今回もあなたに協力を仰ぐのは必然でしょう?」
「いやね、以前はこの会社を立ち上げてすぐでしたので、宣伝の為にいいかと思ってお手伝いをしましたが、今回はデメリットしかないようなのでね」
汚職政治家に手を貸した、という称号はこの事務所にはいらないのだ。
応接間にピリピリとした空気が流れ、紀夫は思わず息を呑む。
「そう言うと思ってましたよ。しかしね、この話をするには準備が必要だ」
大泉はチラリと紀夫を見た。邪魔だから出て行けと言われている様で、非常に腹立たしい。
「ごめん紀夫くん、呼び出しといて悪いんだけどさ、倉庫の方に行っててくれる?」
「え?倉庫ですか?」
いつもなら退席するなら仕事部屋の方だ。倉庫には椅子もなければエアコンも付いていない上、その間パソコンの打ち込みも出来ない。
しかし、大文字は両手を合わせてお願いしてくる。訳もわからないまま紀夫は初日に自分で整理した倉庫の方へ向かう。
「違うよ。書類の方じゃなくて、絵画とかを直してる部屋の方だよ」
少し前に行なった模様替えの時に、隣の部屋も大文字の所有物件だという認識はある。だがその部屋に入った事はなかった。
余程聞かれたくない話なのだろうと解釈し、紀夫は無言で退室した。
(何なんだよ!政治家とつるんで何かを企んでるみたいじゃないか!そんなに聞かれたくないのか?)
心の中で思い付く限りの悪態をつきながら、ホコリまみれの倉庫に入る。
モワッとした熱気を肌で感じ、ここで待つ事の長時間待たされると思うと自然とため息が出る。倉庫には使われていない椅子や机が雑に積まれ、休める場所など無かった。
ここに呪いの藁人形でもあれば暇潰しに大文字に呪いをかけている所だ。
シンと静まり返った倉庫。その中で大文字に対する不満を呟いていると、どこからか話し声が聞こえてきた。
「ーーですからーーこれをーーます」
その音は、薄い壁により聞こえてくる応接間の会話の音だ。元々他に人が借りていないビルで、かなりの年季が入ったビルでもある。音を立てなければ隣の部屋の会話がダダ漏れ状態だった。
しめしめ、と紀夫は悪戯な笑みを浮かべて応接間と隣接する壁に耳を当てた。
「うちは基本的に賄賂なんて受けってないんだけど」
「いえいえこれは賄賂ではありませんよ。私からの相談料という事で」
「相談料って言われてもねぇ」
「ええその通りです。気分次第で相談料を決めていると以前仰っていたじゃないですか。それなら何も問題はないでしょう?」
「んーどうしたもんかねぇ」
「何卒お受け取りください」
信じられない事だが、その会話はまさに裏取引の模様だった。




