シスターズ・ハイ
意識が戻ったあの日から、私は妹の肺に住んでいる。
もしこれから肺への引越しを考えている人がいるなら、ちょっと立ち止まって考えてみたほうがいい。7年肺に住んでるが、決して居心地が良い訳ではないのでお勧めできない。一日中暗くて、日当たりは悪いし、ジメッとしていて狭いから肺の中じゃ洗濯物も乾かない。
一体どうして肺の中に住むことになってしまったのか、どんなに頭を捻っても私には思い出せなかった。ただ何となく、厚いピンクの壁の向こうで聞こえてくる心臓の音や、大気を震わせて響く妹の声で、私が今いる此処は肺の中だと知ったのだった。
何故私は肺の中で生きていられるのか、そもそも私はまだ人間なのだろうか、猫の三四郎の餌やりは、私の代わりに誰かがやってくれているだろうか…悩みは尽きなかったが、考えても答えは出なかった。
幸いなことに肺の中では悩んでいる暇な時間「しか」無かったので、私はとりあえず悩むのを後回しにした。どっちにしろ、毎晩「雨」はやってくるし、そしたら服を洗濯しなくちゃならない。それまでは「肺胞」なんて替え歌を歌ったりして、ピンク色の内臓に寝そべってのんびり過ごしている。
大体夜0時を過ぎると、妹はベッドに入るようだ。そうすると、妹の身体は横に寝そべる訳だから、当然肺の中も縦と横がぐるっと変わる。それで私は、肺の外が夜になったことを知る。そろそろ雨が降る頃だ。私は雲行きの怪しくなった暗がりの「空」を見上げた。
「あーあ」
今夜もまた、妹の飲み込んだ言葉が肺の中に降ってくる。私はトゲトゲした言葉に当たって怪我をしないように、急いで隅っこのほうに退散した。
「あーあ」という言葉は、大体私の今の身長の半分くらいの大きさはある。こんな悲しみに満ちた言葉にぶつかっては敵わないので、私は傘を差した。この傘は、何故か肺の中に有ったのをたまたま見つけた。肺の中に傘を隠すだなんて、妹の趣味も良く分からないものだ。言葉の雨は、今夜も次第に強さを増していった。
「…」とか「○×△」といった言葉にならない言葉が、傘を叩いて地面へと落ちた。地面へと辿り着いた言葉が水になって、私の足元を濡らしながら跳ねた。降ってくる言葉は、妹が口から出すことの無かった「想い」の塊なのだろう。大概は無念さや、悲しみが言葉に滲み出ている。
「…嫌だ…」「…お姉ちゃんに…」「……あいた…」「…帰ってきて……」
妹の、声にならない心の声を聞きながら、私は寒さで身震いした。酷いときには、言葉の雨は夜通し続いて、肺の中に海が出来たりする。私はこの雨が嫌いだった。出来ることなら、今すぐにでも妹に私が此処にいることを教えてあげたい。貴方の飲み込んだ声はちゃんと私に届いているよ、って伝えてあげたい。だけどそれが出来なくて、私は今日も「二人」で涙を流した。
小さな傘で自分の身を守りながら、ごつごつした壁にもたれかかる。隣で響く妹の心臓の音色に身を委ねながら、私も朝まで眠ることにした。
目を覚ますと、雨は止んでいた。肺の中の縦と横もいつの間にか変わっていて、私は酷い寝相になっていた。身体を起こすと、私は足元のぼこぼこした肺の窪みを覗き込んだ。
言葉の雨が水になって、窪みのところに水溜りが出来ていた。ためしに指を入れてみると、妹の体温で随分いい感じに温まっている。大きさも十分だ。ずぶ濡れになった服を脱いで、そこでひとっ風呂浴びた。更に別の窪みで、手洗いで服を洗った。欲を言えば洗剤も欲しいところだが、そんなことをすれば妹が肺の病気に罹ってしまうかもしれない。
服を乾かしていると、隣から大きな音が聞こえてきた。心臓だ。あまりにも力強い心臓の音が、この肺の中にまで伝わってくる。どれだけ悲しみの言葉が降ってきても、音はずっと鳴り続けていた。私はこの音が大好きだ。出来ることなら、今すぐにでもこの音を妹に聞かせてやりたい。
「あーあ」
私は心の中でため息をついた。今夜こそ、いいお天気になってくれないかしら。そんな風に空にお願いしながら、私は今日も妹の肺の中で洗濯物を干して過ごしている。