チャックかジッパーかファスナー。
ああ、これは夢だと穂香は思った。
気が付いたら走っていた。
全速力だ。
体は荒く酸素を求めているのに、穂香は全然苦しくなかった。
だから夢だと分かった。
赤い屋根、青い屋根、黒い屋根──近くにあるのはどれも知らない家ばっかりだった。
ただ、遠くにある山は見覚えがある。
あれはたぶん、昔通っていた小学校の運動場の向こうに見えていた山と同じだった。
体は穂香の気持ちに関係なく勝手に動いているようだった。
時々後ろを確認することから、何かから逃げているのであろうことが分かった。
必死だった。
必死すぎるくらいに必死だった。
いったい何から逃げているんだろう?
自分の脳が描きだす恐怖を見てやろうと思ったのだけれど、それは叶わないようだった。
曲がり角でざっと靴底が擦れる音がした。
その一瞬だけで、靴の底がかなり削れたに違いない。
もったいないと穂香は思った。
だが体は何度もその動作を繰り返す。
角をほぼ直角に曲がる、走る、曲がる、走る、曲がる。
もう体は限界近いだろうに、まだ走る。
けれど、その次に曲がった角の先は行き止まりだった。
逃げているなら行き止まりの道なんて進むもんじゃない。
引き返すべきだろうと思うのだけれど、足は止まらない。
目の前は壁なのにどうするんだろう?
漫画みたいに、映画みたいに、飛び越えるんだろうか?
──私の身体能力で?
穂香は嗤いたくなった。
無理だと思った。
壁に衝突する未来しか見えないと思った。
だけど穂香が止まろうと思っても足は止まらない。
「無理。止まって」
穂香がそう呟くと、
「しっ、黙って」
とでも言いたげに、左手の人差し指がそっと唇に触れた。
足は壁のほんの少しだけ手前で止まった。
振り返ると、世界には無数のチャックが生まれていた。
またはジッパー。
またはファスナー。
──まあ、呼び方なんてどうでもいい。
とにかく、空に、電柱に、掘に、それが複数発生していた。
緑、黄色、水色と白、桃色、黒と橙色と紫色……。
色とりどりのチャックがこの世の理を無視してそこに浮かんでいる。
空間に張り付いている。
──気持ちが悪い。
現実にはありえない光景に、脳が、胃が、違和感を訴えてくる。
やっぱりこれは夢なんだと穂香は確信した。
ふと、最後に曲がった曲がり角に、何かが近づいているのが分かる。
黒い。
昏い。
見えないけど、分かる。
ちりちりと焼けるように表皮が痛い。
知りもしないソレに対して、恐怖がせりあがってくる。
この世の恐怖が詰まったビックリ箱のような存在が、きっとあの角の向こうにいる。
この世の理から外れたかのような、ひどく出鱈目な存在がいる。
意味が分からない。
分からないけど逃げたい。
早く、どこでもいいから早く、早く逃げないと。
思い通りに動かない体が憎い。
動かせないならせめて動いて。
逃げられる方向に動いて。
早く!
そんな穂香の心の叫びに呼応するように、体は動いた。
近くにあった1メートルほどのジッパーに近づくと、体重をかけて一気に開いた。
たったそれだけの動作で……。
ぱっくりと、こことは異なる空間が口を開いた。
光のない空間が口を開いた。
いそいで中に入ると、すぐに中からジッパーを閉じた。
生臭い、生暖かい風が斜め後ろからふわりと吹いてきたが、我慢だ。
ここにどんな獰猛な肉食獣がいたとしても、外のアレよりはきっとマシだと思うから。
それにどうせ、自分の意思では体は動かない……こともない?
あれ?
いまチャックを閉めたのは私の意思だった?
臭いが、手触りが、脳にまっすぐに伝わってくる。
──あれ? これ、本当に夢?
そしてこれは、ゾウ? カバ? サイ?
いずれにせよ、あんまりいい予感がしなかった。
だって椅子に座っているっぽいその生物の身長が、息遣いからして2桁メートルありそうなのだ。
そして臭かった。
命が助かるなら少々臭いのくらい我慢しようと思ったんだけど、ここでじっとしているのも命が危ない気がする。
大概の人間が足元を歩いているアリンコを気にしないのと同じように、悪意も害意もない状態でぷちっとやられそうな気がする。
逃げようと穂香は思った。
草食動物なら、これだけ体格差があるなら、わざわざ追いかけては来ないだろう、たぶん。
できるだけ静かに、静かに、壁の方へと下がる。
いや、壁があるかどうかなんて見えないから、真っ直ぐそのまま後ろに下がる。
出口からは遠くなるけれど、仕方がない。
また別の出口もあるだろうと穂香は諦めることにした。
下がる、下がる、下がる……。
だけど壁はまだない。
どれだけ広いんだ、ここは。
もう20メートルはゆうに下がった気がする。
べつに壁が恋しいわけではないから無かったら無いでいいんだけど、と穂香は思う。
ふいに、あさっての方向からトントントントンとノックの音が聞こえて、
「失礼します、主様」
何語かもわからない言葉で、誰かがそう言った。
──なぜ意味が分かったかって?
視界の端っこに、まるで映画のように字幕が表示されているからだよ。
開けられた扉からは光が漏れている。
さほど強い光ではないようでシルエットと輪郭しか見えないが、お盆に入れられた書類を持った男が、ここに入ってきたようだった。
「どうした、ジオン」
と、デカいゾウかカバかサイっぽい何かが言う。
空気がぶるぶると震える。
こちらも聞いたことがない言葉だった。
「こちらの空間に闖入者があったと……おや、そちらにいますね、かわいいネズミがちょろんと1匹。手慰みに捕まえましょうか」
◇
「う、わあああああ! ……って、なんだ、夢か」
どくどくと激しく鼓動をうつ心臓をなだめる。
闇の中でたくさんの白い手が迫ってくるように見えたんだけど、
「なんだ、夢だったのか」
気が付いたら、いつもの部屋だった。
◇
学校へきた。
制服を着て、カバンを持って学校へ来た。
今日は平日だ。
長期休みでも試験休みでもない。
だからそれは、学生なら当たり前の行動だと思う。
だけど、そのことにひどく違和感を感じる穂香がいる。
空間が黄砂でもかんでいるみたいに、何もかもがブレて見えるのだ。
チャイムが鳴って教師がやってきた。
けれど、その教師の名前が分からない。
男で、青い服を着ていて、髪の毛はもっさりで、眼鏡をかけていることは分かるのに……。
なのに、顔が分からない。
そういえば今日って、何日だっけ?
何曜日だっけ?
何月だっけ?
私は今、何年生だったっけ?
何1つ分からない。
何、この空間。
明らかにおかしい。
明らかに歪。
机を並べた生徒たちの存在も、そしてその机も椅子も教室の壁も、ひどく希薄だ。
まるで、透過率が20%から80%に薄められた存在が、そこに無秩序に陳列されている。
授業が終わった。
ざわざわと人が動くけれど、風が動かない。
黒板の上には時計があるはずなのに、針が見えない。
時間割も見えない。
日本語だと思われる文字が書いてあるのに、読めない。
昼休みになった。
ざわざわとこれまで以上に人が動くけれど、やっぱり風が動かない。
まるで立体的な映像に囲まれているみたいだ。
そこここで話している人がいる風なのに、声が拾えない。
音すら拾えない。
いつの間にか机の上に広げられていたサンドイッチにかじりついてみるけれど、味がしない。
そこにパンがあるという感覚がしない。
持っているという感覚がない。
まるで色のついた空気だ。
ここには人がいない。
人がたくさんいる教室で、人が自分しかいない。
他の人たちはなに?
人であって人ではないもの?
……意味が分からない。
ふと教室に影が差して、見上げると教室の天井の向こうに、巨大なミミズのようなやつが見えた。
真っ黒な口を大きく開けて、この四角い空間をのみ込もうとしている。
正義の味方か魔法少女はいないのかと思ったけれども、いなかったようで……。
残念ながら、ガブリと呑まれる。
空間が少しずつ割れる。
薄氷のようにパリパリと、儚く音を立てながら。
幸か不幸か、人影たちはぜんぶ教室の枠を無視した元の位置に在って、それを壊される光景は見なくて済んだ。
だけどこのままだと、枠の中にまだいる自分は破壊される。
穂香はそんな未来がこないように、必死に手を伸ばす。
手を伸ばした場所に遭ったのは、またジッパーだった。
赤、橙色、白と桃色と水色、黄色と緑、黒……。
気が付けば空間に、また無数のそれが浮かんでいた。
急いで引き下ろして、そして……。
「ああ、あなたですか」
潜り込んだ空間はやっぱり真っ暗で、そして前にも聞いた声が聞こえてきた。
彼の名前はなんだったか。
ジョー? ジョン?
憶えていないけれど、なんかそれっぽい名前だった気がする。
「無駄な抵抗ですよ」
何が?
「あなたはもう、捕まったのです」
意味が分からない。
穂香は何も見えない目で、それでも何か見ようと目をこらした。
けれど、やっぱり何も見ることは叶わなかった。
「これからは私のそばで、からからと夢をつむいでください」
本気で意味が分からない。
けれど、チャックもジッパーもファスナーも、それから二度と現れることはなかった。