それが私の病
子供の頃、私はアレルギー性紫斑病という所謂小児病にかかりました。印象では身体中、特に腹部に痛みが出て、小さな赤い紫斑があわられます。にわか知識なので正しいのかはわかりませんが、白血球の第13因子とかいう血液の凝固に関わるものが正常に機能せず、体を動かすと毛細血管などがすぐに出血してしまうということのようです。
5歳から小学校2年生くらいまでの間はベッドの上にいる記憶ばかりが残っていて、他の小学生らしい記憶が残っているのか自分でもわからないといった感じでした。
アレルギー性紫斑病患者の中でも、特に腹痛などの症状がひどく、治療として有効とされていたステロイド投与は飲み薬も点滴からの投与も一定以上の効果を挙げられず、当時では試験的だった記憶がありますが、結晶交換という方法を試しました。期間をおいて症状が思わしくない時に2度、その結晶交換を行いました。幼い子供の記憶です。間違いがあるかもしれませんが、記憶では右腕に刺した管から血液を抽出し、なにやら試作品のようにみすぼらしい機械を通して左腕に刺した管に血液が戻ってきます。その機械の中で原因である白血球第13因子を同じ血液の方の第13因子と入れ替えているそうです。輸液と呼ばれるようですが、当時の私の認識では輸液という言葉は知らず、輸血という認識であったのを覚えています。感覚はとても気持ちがいいものとは言えません。増血剤を試した方はいるでしょうか。その感覚に似ていたように感じます。体や頭の中を冷たい何かが流れ込んでくるような感覚です。体に得体の知れない液体が注入されるのですから、不気味な体験です。私の感覚では約2時間、その感覚に魘されながら、吐き気を催してベッドの上で真っ青になりながら吐いていました。
体験した人にしかわからないと思います。その2時間がどれほど辛いものか。たった2時間です。けれど2時間です。足一本腕一本動かせず、視界に入る親の表情をみて、襲ってくる恐ろしい感覚と吐き気にただ耐えるのです。永遠とも言える時間でした。何かをとても恨めしく思いました。私にはなにもできません。泣きながら声を挙げる程度です。けれど、声を挙げたところで届かないのです。それはわかります。苦しいけれど私の体のために行われている必要な苦しみなのですから。誰も中断したりしません。
もちろん、優しい励ましの言葉を沢山もらったのだと思います。けれど、その声は私の中には残っていません。耐えることに必死だったからでしょう。虚しさが心から溢れていたからでしょう。
今でも思い返そうとすると怖いのです。病気は完治しましたが、わたしの心には確実に当時の恐怖が根づいているのです。けれど、誰にも通じません。いくら言葉でどれだけ辛かったかを訴えても、気持ちの悪さや体を動かせないもどかしさや、あの少し模様の入った白い天井を見上げて時間を潰す日々の虚しさなど、誰にも響かない。私自身、本心ではわかってもらえるとは思っていません。経験していない人に簡単に「わかる」などと言われたらむしろ腹が立つでしょう。けれど、心は矛盾にも誰かにわかってほしいと願ってしまいます。
この矛盾をどうしたら解消できるでしょうか。私はできないと思っています。
この歳になっても何か問題にぶち当たるたびに、あれこれ考えた後たどり着くのは小児病にかかっていた頃の不自由で空虚なばかりの思い出です。
病気が治ってから約20年です。そんなに経っても、私にはそれが拭えないまま心のど真ん中にあります。私を救うため私は人に何を求めればいいのでしょう。共感されないことも、共感されることも望めない私はどう救いを求めればいいのでしょう。
胃のあたりの深いところに赤いマグマの塊が小さく強く在るのです。それをどうすれば消すことができるのか本当にわかりません。今では、それが私という人格の柱になりつつあります。勝手な考えですが、結晶交換が私に与えたのは外的損傷だけではありません。むしろ精神に大きく影響を及ぼしていると確信しています。あの2時間という時間が、自分の存在の虚しさや、そこに居ることの辛さを私に痛烈に印象付けました。お門違いは承知の上ですが、経験から覚えた意識はそう簡単には正せません。私は人が怖いのです。自分のことをどうにかしてくれるのは誰かであって私ではない。小児病時代に例えるなら、私自身はただそこにいるだけで、診察や治療をしてくれるのは病院の方々ですし、心の支えになるのは親族でした。もうその頃から、私は自我という柱をなくしてしまったのだと思います。生かさせているという感覚。この人たちに見放されたら私は消えて泡になってします。私は無くなってします。端的に言うなら生きてはいけない、死んでしまう。今でも本気でそう思っています。
今生きているのは、届きそうもないのに捨てられない夢と、親が私を必要としていてくれている、数は少ないけれど友人も私を必要としていてくれているからです。それがなくなったとき、きっと私は消えることができるのでしょう。
夜、ベッドの中で無性に考え込んでしまうことがあります。
最初からなかったことにしたいと。私自身が生まれることなく、誰にも知られず、誰にも必要とされていなければ、この混ざった感情も抱きはせずにいられたのに。そう考えてしまいます。けれど、私はもうここにいるのです。小児病を患い、心身ともに影響を受け、人を信じられず、自分がどこにいるのかもわからないまま、それでも信じられない人に嫌われないよう、必要とされ続けるよう繕いすがりながら無様に毎日を過ごしているのです。私自身の命や死に関して考えることはあまりありません。ただ、絶大な親族の存在や友人の存在が私を生に縛り付けているのです。いや、繋いでくれているのでしょうが。親の顔が歪むところなど想像したくもありません。私がいなくなることでそうさせる原因をつくってしまうと思うと途方もなくもどかしく申し訳ないのです。
ですから、仮面をかぶるのです。平気なふりを、笑顔を、くだらない会話をするのです。けれど自分でも呆れるほどその隅々に滲み出してしまうのです。自分が哀れだと、寂しいと、辛いということを。どうにかしてくれと言葉や表情の端から出してしまうのです。そしてそれをまた後悔するのです。
あんなこと言わなければよかった。涙など流さなければよかった。
何かないでしょうか。誰にも知られずに私を消す方法は。苦しいのです。人の顔色ひとつひとつが、言動ひとつひとつが怖いのです。
私の本当の姿形、感情を誰にも見せらせないのです。カウンセリングの先生に対してすら顔色を伺い、正しい答えを出せているかと疑心暗鬼にかかってしまいます。途方にくれるとはまさにこのことだと思います。
たまに、本当に無責任に消えてしまおうかと思うこともあります。やろうと思えば生活の中にその方法はいくらだってあるのですから。枕元にはカミソリがあります。ニートになり予定のない日は一日中家にいます。家には階段だって2階のベランダだって、キッチンにはもちろん包丁だってあります。どうせやってしまったら取り返しなどつかないのだから、その一瞬を決意してしまえばいつだって…。なのにやらない、できない、そんな自分は何者なのか、何を求めているのかまた迷路にはまっていくのです。
時間は動いていてもじっとしていても過ぎていくものです。
私は多分変わることができないままこの混ざった感情を抱きながらギリギリのところでこれからも生きていくのだと思います。
それが、私の病です。