第九話 「世界」
「――ところで、今日の砂漠でのことについて聞きたいんだが」
「おう、聞きたいことがあるなら聞いてくれ」
意外にも、シュルクは青年の問いを拒もうとしなかった。
すっかり断られると考えていたエルは面食らってしまう。が、すぐに持ち直して尋ねた。
「まず、お前とコモド教官との関係を教えてくれ。あのとき、教官はたしかに、こう言っていた――久しぶり――、と。どういう意味だ? お前は教官と知り合いなのか? 知り合いだとすればどこで出会った?」
「その前に、俺もまず一つだけ言っておこう」
矢継ぎ早に質問を投げかけるエルに、シュルクは至極落ち着いた様子であった。
「商会のメンバーになった以上、俺のことは社長と呼べ。いいな?」
体は大きいのに細かいことを気にする男だ、とエルは心の中で小さく思う。
青年のよこしまな思いを読み取ったのか、シュルクは眉間にしわを寄せ、怪訝そうにエルをじろじろと見つめる。
「それで、コモドとの関係だが、別に大したことはない。昔、あのじじいに剣術を習っていただけだ。ああ、今思い出すだけでも忌々しい野郎だな」
「コモド教官はお前、いや、社長を追いかけていたようだが、それはなぜだ?」
「知らん。あのじじいは何を考えているか分からんからな」
コモドの思考が読み取れない、という点についてはエルも同意していた。
あの老人は空を見上げながら何事か物思いに耽ることが多々あった。一週間ほど一緒に過ごした青年でさえも、その仕草に気付いていたのだ。剣術を習っていた、ということは少なくとも彼よりは長い期間、コモドとともに暮らしていたのだろう。気付かないはずがない。
「じゃあ、俺が意識を失った後はどうなった」
「どうなったもこうなったもないだろ。お前は俺に連れられてここに来たんだ。俺があの老いぼれを退けた、それだけだよ」
「え、それじゃあ」
「ああ、そういうことか。もちろん殺してなんかないぞ。というか、あんな化け物殺せるもんか。あの歳でまだあの身のこなしが出来るなんて、魔獣か何かだろ。というかあいつこそが噂の魔人なんじゃないか」
シュルクは冗談めかしてそう言い放った。
数百年ほど昔の話である。人間が今ほどの大きな勢力を持っていなかった時代。魔獣の全盛期とも呼べる時代。
語り継がれている物語の中では、今よりも、もっと多くの種類の魔獣が存在していたようであった。魔獣たちは群れとなって、コミュニティーを形成していた。そしていつしか、知性を持つ魔獣が現れるようになったそうだ。
いわゆる、『魔人』という存在である。
魔人は数が少ないながらも、着実に、急速に、世界を支配していくようになった。
その個体数が少なかった理由についても様々な説が唱えられている。
個々が強大な力を持っているために、数を増やす必要がなかったという説。
寿命が非常に長いため、他の種と比べると世代交代の回数が少なく、実はまだ繁栄半ばであったという説。
そもそも、子孫を残さないという説。
しかし、そのどれもが憶測に過ぎなかった。
それから数十年が経ち、大陸の端っこでおびえるしかなかった人間に、転機が訪れた。
文明発展。金属の加工技術の発明である。彼らはその技術をすぐさま武器に応用した。
そして、人間と魔人の全面戦争が始まった。
状況は圧倒的だったそうだ。軍配は人間にあがり、魔人はなすすべもなく人間に敗北してしまった。強大な力を持つと伝えられている魔人があっさりと負けてしまったことには今でも多くの疑問が残っている。が、その時代を直接目で見ていた世代はいなくなってしまった。果たして魔人が本当にいたのか、人間が彼らを滅ぼしたのか、については未だに調査が進められている。
ともあれ、魔人は今では伝説の存在となってしまっていた。
「まあ、冗談はこれくらいにしといて。一つ言いたいんだが、いいか?」
「ああ」
「社長に対しては、敬語を使え」
もっともな意見である。郷に入っては郷に従えという言葉もあるくらいだ。青年はその言葉に素直に従うことにした。
「分かりました……社長」
青年の従順さに、シュルクはごきげんな様子であった。ふふんと鼻をならしながら、角砂糖をほおばる。
「あ、社長! そんなことしてたら病気になっちゃうって私何回も言ってるじゃないですか」
「はいはい。ところで、エル。お前もしこの街に住むなら、家探ししないといけないだろ。あと、移住届けも」
「そうですね」
「ちょうど王都ベレスで頼みたい仕事があったんだ。仕事に慣れたら届け出のついでに向かってもらおうか」
「え? 私のことはまるっきり無視ですか!」
リリスのことなどまったく気にかけない二人に対し、頬をぷくっとふくらませて彼女は腕組みをする。
シュルクはリリスの機嫌を直そうと、角砂糖を一個手渡そうとしたが、あっさりと拒否されてしまった。
エルはその様子を見て笑う。それと同時に、安心感のようなものも感じていた。二人と出会ったのはここが初めてではなくもっと昔から付き合っていたのではないか、という気すらしていた。生まれてからずっとアルペンで暮らしていたエルである。そんなことはありえるはずなどないのだが。
「それじゃあまずはうちの商会の説明からはじめよう」
シュルクは角砂糖を机に置き、まるでそれが商会かと言わんばかりに指を指した。
「うちは基本的に他の商会とは違って品物を扱わない——扱うのは金だ。簡単に言うと、金貸しだな。つまり、仕事の基本は返済のための取り立てということになる。もちろん、新規の客を見つけるのも仕事には入るんだが、これに関しては慎重になってもらいたい。本当に信頼に足る相手かどうか、その客の情報をしっかりと手に入れてから契約を結んでくれ」
そこまで言うと、シュルクはさらにもう一つ角砂糖を手に取り、並べるようにして置いた。
「客の中には返済に苦しんで、逃げようとするものも出てくるだろう」
手で角砂糖を動かし、離れた場所へと逃がす。すると、息を合わせたかのようにリリスが角砂糖を捕まえ、口へと放り込んだ。
「それを捕まえるのが私たちの仕事、というわけです。社長は忙しいので今までは基本的に私一人で――って、私に角砂糖食べさせないでくださいよ! 太ったらどうするんですか!」
「……? だとすると、この商会の二人しかいないんですか?」
「その通りだ。規模の小さい商会でな。あまり人は増やさないようにしているんだ」
「私のこと無視しないでください!」
再度、リリスは頬をふくらませた。
初めて出会ったときは、大学校のリリスとどこかしら似通った雰囲気がある、と感じたものだが、それは大きな思い違いであった。リリスはつんとして人を寄せ付けない類の人間であったが、リリスはそうではない。柔らかな雰囲気があった。
「これからはリリスくんと一緒に行動してもらって、仕事を覚えてもらおうか。今日はもう遅いし、明日からということで。とりあえず――」
そこで、リリスのお腹がぐうとなった。その音はどう考えてもリリスから発せられたものなのだが、彼女はまるで自分は無関係かと言わんばかりに、凛として表情を変えない。シュルクがくすりと笑った。
「リリスくんに先を越されてしまったが、ご飯でも食べにいこうか」
「私じゃありません」
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日が落ちてすっかり時間が経ってしまったというのに、ダンディンの街はいまだに賑わいをみせていた。
出店はすっかり取り払われてしまったが、その代わりに、道にはたくさんの椅子や机が並べられていた。一日の仕事の疲れを癒すかのように酒を片手に乾杯する人で満席である。
アルペンではありえないであろう光景に、エルは興奮していた。
彼の村では日の入りとともに、村人たちは家に籠ってしまう。家から漏れる光もわずかであり、村はすっかり闇に包まれてしまうのだ。
しかし今、夜の街は活気に包まれ、酒の香りは風にのってエルの鼻をくすぐろうとしてくる。
エルはてっきりそこらの商人たちと同じように、露台に並んで食事をとるのかと思っていたのだが、彼の思惑とは裏腹に、シュルクは大通りにある店の中に入っていった。入り口は狭く、店の外に机や椅子は並んでいない。
肩を落とすエルを見て、リリスが笑った。彼の心が読めたのだろう。
「大丈夫ですよ。あっちよりもっと楽しい食べ方がありますから」
リリスは大通りの有象無象の商人たちを指さしながら、エルの耳元でささやく。そして、なぜかリリスが誇らしそうに胸を右手で叩いた。
シュルクは、おい、と二人に声をかけて早く店の中に入るようにあごで示した。店員も扉を右手で押さえながら、頭を下げて左手で二人を中へと誘導しようとしている。
中へ入ると、肉の焼ける香りが彼らの周りを包んだ。それに応じて、リリスの腹も再び大きな音で鳴った。
三人は店員の誘導に従い、階段をのぼる。二階を通り過ぎてさらにのぼると、そこは屋上になっていた。
視界一杯に広がる満点の星空。なるほどリリスの言っていたことは本当だ、とエルは納得する。
周りを建物で囲まれている大通りとは大違いである。夜空をさえぎる高い建物といえば、街の中枢機関ぐらいだ。とはいえ、中枢機関はこの店からは遠い場所にあるためにさえぎるというほど大きくは見えない。
「こっちこっち!」
声が聞こえた。間延びした語尾が耳にまとわりついてくるような感覚に、エルは身を震わせる。リリスにいたっては、その人物の顔を確認するやいなや、今のぼってきていた階段をおりようとしていた。
「ちょっと、ひどいなぁ」
声の主がゆったりとした動作で立ち上がりこちらへと近づいてきた。声は男であるが、そのシルエットは中性的であり、喋り方に至っては女性のそれである。
「よう、マドノルト」
「あら、もしかしてその男の子があなたの言ってた探し人ってわけ?」
マドノルト、と呼ばれた男の姿が、明かりに照らされてあらわになった。顔には趣味の悪い金属の輪っかをたくさん付けており、髪は男とは思えないほど長く、途中で結ばれている。普通の人物ではない、とエルは確信する。
ふうん、とマドノルトはエルの頭のてっぺんから足の爪先にいたるまで、粘りつくような視線で、値踏みをするかのように眺める。
「ふうん……僕はマドノルト・クーデル。シュルクとは長い付き合いでね」
「エル・タナス……です」
彼の最低限の挨拶は、相手に対する不信感を顕著に表していた。なんとか表情には出ていないが、その声から全てを察したマドノルトは笑いながらエルの肩をばしばしと叩いた。
「大丈夫、大丈夫。僕の恋愛対象は女の子だよ。ねえ、リリスちゃん?」
「気持ち悪いので話しかけないでください。社長、私突然体調が悪くなったので帰ってもいいですか?」
冗談めいた彼の言葉を一蹴。その言葉に相手への思いやりは全く感じられない。
「リリスちゃんはつれないなぁ。まあ、座って座って」
「リリス、お前一番腹減ってただろ。たまにはいいじゃないか」
しぶしぶといった表情でリリスは席につく。すぐに給仕が現れ、料理がふるまわれた。
次々と運ばれてくる肉料理に、皆舌鼓をうちながら、ひたすら食べ続ける。エルは村では見ることがなかった高級な料理を前に最初は戸惑ったものの、体は正直なもので、皆と同じように口を動かし続けていた。
「そういえば、なんでこの子を探していたんだい?」
「お、そうだ。その話をしようと思っていたんだ」
シュルクはそこで言葉を区切り、口を軽く拭いた。
「マドノルト、お前には聞かせるべきかどうか悩んでいたんだが、話そうと思う。聞いたからには他言無用だが、そこについては信頼している」
「口は堅いからね」
「エル。お前はこの世界で生きてきて、違和感を感じたことはないか?」
それは唐突な問いであった。脈絡も何もない。何か裏があるのかと勘繰るエルであったが、その意図を読み取ることはできない。
「違和感……? とくにありませんが」
「そうか。じゃあ夢はどうだ? 変な夢を小さな頃から、しかも同じものを見続けたりしていないか?」
夢。小さな頃から付き合い続けてきた悪夢。思い出すだけで、背筋が凍るような感覚がエルを襲った。
「図星だな。嫌なことを聞くかもしれないが、親の顔は見たことがあるか? 生まれはどこだ?」
「……知りません。親も僕が小さな時に死んだ、と聞かされています」
「俺と一緒だな。お前の青い目は、この世界では北方の生まれの証だ。だが、この国は大陸の中でも南の方に位置する。自分の子を頼むとしても、こんなところまでくるだろうか、いや、普通なら来ないね」
「何が言いたいんですか」
エルはしびれを切らして、結論を求めようとする。
「お前は俺よりもずっと分かりやすいと思う――俺は、物心ついたころからマテの街にいた。チンピラたちがうろうろしているスラム街で育って、盗みを働きながら必死で生きてきた。俺を育ててくれる親なんていなかった。そしてある時、縁があってある男に拾われたんだ。それがコモドだった」
真剣な眼差しで語るシュルクに口を挟む者はいなかった。
「それからはコモドに鍛えられながら、そこそこに良い暮らしを送ることが出来た。そして、気持ちに余裕ができた時に俺は気付いたんだ。俺はなぜ物心つくまで生き抜いてこれたんだ、と。その疑問が、俺の人生の本当の始まりだったんだと思う。スラム街で世話になってたやつらにも話を聞いたが、俺が赤ん坊だった頃を覚えているやつは一人もいなかった。おかしな話だろう?」
「育ててくれた親が死んだ、というのはないのか? スラム街なら――その――人が死んでしまうことなんて珍しくともなんともないだろう」
「その可能性も考えた。だが、おかしな点はそれだけじゃなかったのさ」
そう言うと、シュルクは胸の前で十字を切る動作をし、手を合わせた。エルはそれを見てはっとする。
同じ卓を囲む四人の中、マドノルトだけがきょとんとした顔でシュルクを見ていた。
「なんだ、それは」
「お前は知らないだろうな、マドノルト――だが、エル。これに見覚えはあるだろう?」
もちろん、青年にはその行動の意味がはっきりと伝わっていた。そして、以前、コモドにその行動の奇妙さを指摘されたこともよく覚えていた。
「どうやら、コモドいわく、俺には色々とおかしい行動が多かったようだ。話は少し戻るが、俺は小さい頃からずっと同じ夢を見続けて来た。見るのも、思い出すのも、人に話すのも、嫌なくらい、不快な夢だ。その夢はいつも、あまりはっきりとした形では頭に残らないんだが、何十年もの間見続けていると少しずつその内容が思い出せるようになってきた」
エルも小さな頃から同じ夢を見続けている。シュルク同様、不快な夢だ。だが、彼の言う通り、不快というイメージだけが強く残るだけで、その内容についてはあまりよく覚えていなかった。目を閉じ、細かい部分を思い出そうとすると、もやがかかったように視界が霞んでしまう。
ただ、爆発のような何かに巻き込まれたことだけは覚えていた。
「見る夢はいつも同じところから始まるし、終わるまでは数刻程度だから詳しいことは分からない。だが、その夢の『世界』はこの『世界』とはまるで様相が違う。俺も口では説明できないんだが、この世界では考えられない不思議なものがたくさんあった。夢の中で俺は遠く離れた場所にいる人と会話をしていた。不思議な物体を使ってな」
「とんでもないことを言うもんだね」
「俺からすればお前の魔術のほうがとんでもないよ。俺の知識の及ばないことが俺の夢の中に、それも、何度も現れる。どこかの物語に出てくるような世界なら、俺の妄想で片がつくんだが、その夢の世界に似たものを物語で見たことは一度もないんだ。どうも、ただの夢ではないように俺には思える」
「まさか、お前」
マドノルトは口を手で隠し、シュルクに目をやった。マドノルトの言葉に、男は口をつぐんだが、すぐに頭を振って何かを振り払うように話を続ける。
「そう――俺は、その世界から来たんじゃないか、と思ってる」
普通に聞けば、その唐突すぎる発想に、誰もが笑いをこらえきれずに吹き出してしまうような話であろう。だが、彼の雰囲気が、彼の言葉の端々が、彼の小さな動きの一つ一つが。それは嘘ではないと、物語っているようであった。
彼の後に、さらに言葉を続けようとするものはいなかった。
さきほどまでは心地よく吹いていた夜風も、まるでその雰囲気を読み取ったかのように、その姿を闇夜にすっぽりと隠してしまっていた。机の上のろうそくの火は揺れることなく、一本線を描いて空へと向いている。
「戯れ言だと思うだろうが、俺は真剣だ。そして、エル。お前をこの商会に誘った最大の理由だが」
「僕も同じ、だと言いたいんでしょう」
「それもある。だが、本当の理由はな」
シュルクは言葉を切った。ふうっと大きく息を吐くと、ろうそくの火がゆらゆらと揺れた。が、すぐに元のように一本の美しい炎へと戻った。
「――元の世界があるなら、帰りたくないか?」
夜風にかき消されるかどうかの、小さな声で彼はそう言い放った。