第八話 「再会」
「久しぶりだな」
体の奥底から響いてくるような低い声。フードからのぞいた口元が大きく動く。
全てを吸い込んでしまいそうな闇色の瞳はしっかりとエルを見据えていた。それは、深い、深い、闇であった。エルはそれに気圧され、たじろいだ。
その隙を逃すことなく、シュルクはエルの目前まで距離を詰めた。
反射的にエルは剣をふるっていた。
驚くべき速さで、腰の柄に手を伸ばし、淀みなく抜刀する。
やってしまった、とエルは剣を出してから後悔する。
誰であろうと、剣も手に持っていないような、ほぼ丸腰の相手に向けて武器を向けるのは彼の人道に反する。
頭ではそう分かっていても、手は止まらなかった。
少し驚いた表情のシュルクの、その喉元に向けて。一筋の刃の軌跡が走る。
エルは目を瞑る。
いかに相手が因縁深い者であろうと、コモドは決して彼の行為を許さないであろう。唯一の支援者である老人から見限られてしまっては、学園に彼の居場所などなくなってしまう。
何かの飛沫が顔に当たる感覚がした。
――ああ、だめだ。
しかし、彼の予想に反して、剣先は空を斬ったのであった。
次の瞬間、エルは左手をひねりあげられて地面にうつ伏せになっていた。
状況を把握するべく目を開こうとするが、砂が入ってしまったらしい。痛みで目を開くことができない。目は見えないものの、何が起きたのかを想像するのは容易かった。
彼の剣技は見破られ、かわされ、そして、ねじ伏せられた。それだけのことであった。
「ほほう、少しはましな動きになったな」
シュルクはエルの体を左膝で押さえつつ、その左腕をさらにひねる。ぎりぎり、という悲鳴のような音が関節から聞こえた。
続けて、シュルクは右足でエルの右手を踏みつぶす。耐えきれずにその手から剣がこぼれた。それを手に取り、値踏みするように天にかかげる。
「もう新しい剣を買ったのか。良い剣だ。高かっただろう」
シュルクはまるで会話を楽しむかのように、くすくすと笑いながら言葉を続ける。
ようやく目を開けるようになったエルは首を回して背後に乗るシュルクを確認しようとした。しかし、彼が顔を動かそうとした瞬間、エルのすぐ目の前に黒色の刃が現れ地面に突き刺さった。彼は思わず目を丸くする。
その剣には見覚えがあった。
彼の記憶の中では錆びついていた刃が、今ではその輝きを取り戻している。
美しい。危機的状況に立たされながらも、エルはそう感じていた。
「この剣を返しに来た。それと、お前の借金の取り立てにもな」
エルの背中から人一人分の重さが消え、体の自由が利くようになる。体を起こして砂埃をはらう。
遠くでサンドワームの一際大きな叫び声が聞こえた。コモドたちが仕留めたのだろう。大きく地面が揺れた。
エルは地面に刺さった剣を抜く。育て親である先代の村長から受け継いだたった一振りの剣。
「感傷に浸るのはいいが、こちらも時間が無――」
「おやおや、何事かね」
シュルクの声に被せるように、低く荘厳な声が聞こえた。空気が震える。声の主は音もなくエルの背後まで近づいていた。
「貴様、シュルク・アルトじゃの。ようやく現れおったか」
「……余計なもんまで連れてきやがって」
「久しぶりじゃというのにつれないの」
老人は鉄甲を構えながらすり足でシュルクへと近づく。
「おい、エル。ついてこい。今回の厄介分も含めてきっちりツケは払ってもらうぞ」
シュルクは老人のことを相手にもしようとしない。マントを翻しコモドに背を向けると、そのまま早足に歩き出した。
エルは状況を呑み込めず、ただ立ち尽くしていた。シュルクの言葉が聞こえているのかすら分からない。
「おっと、そうはさせんぞ」
コモドはそう言い放つと。
エルの首を自らの腕で絞め上げ、固定した。
老人とは思えぬ力に、エルの口から絞り出されるように乾いた呻き声が漏れる。
エルの頭はめまぐるしいほど速く回転していた。なぜ、どうして、コモドは教え子である自分の首を絞めているのか、と。
「この子を追いかけて来たのじゃろう?」
エルの視界が徐々に、白黒へと。
「お前には関係ないだろう」
音も、途切れ途切れに。
「貴様――いが――」
そこで意識は途切れた。
###
窓から忍び込んでくる柔らかな風が、机に置かれた書物と、老人の白い顎髭を優しく揺らしていた。
村は静かであった。普段から閑散とはしているのだが、今日は特に、ひときわ静かであった。
老人は耳を澄ませる。遠くから村人たちが鋤で畑を耕す音がしていた。薪を斬る音もかすかに聞こえる。
老人は書物をめくる。代々、村長に受け継がれてきた古文書である。
村を管理していく上での必須事項などがしたためられている重要な資料だ。過去の村での出来事なども書かれており、その冊数は膨大であった。
老人が先代から村長を任せられてから早二十年になる。任命式がつい昨日のことのように思い出される。
ゆりかごの中ですやすやと寝息を立てていたはずの赤ん坊が泣き始めたため、老人は本を閉じてその子をあやそうと腕に抱く。しかし、一向に泣き止む気配がなかった。
老人に妻はおらぬ。天涯孤独の身であった。したがって、その赤ん坊は真の老人の子供ではなかった。
その子は迷い子であった。
どこから来たのかも分からぬ。誰が残したのかも分からぬ。ある日、いつものように村の集会を終えて帰宅した老人は、自分のベッドの上で安心したようにぐっすりと寝ている赤ん坊を見つけた。それが赤ん坊との出会いであった。
初めの頃は四苦八苦したものだ。子供を育てたことなど当然ない。加えて、赤ん坊の世話をしようにも、彼は村の巡回で昼は家を空けている。
仕方なく、彼は赤ん坊を背負って村を巡回するようになった。
だが、赤ん坊の瞳が青いことに気付いた村人たちはその子に近寄ろうとはしなかった。
彼らは農作物の売買以外は外部との関係をほとんど絶っている。アルペンは排他的な村であった。
内部の人間同士は非常に仲がいいが、外部となると一気に彼らの優しさはよそよそしさへと変化する。この赤ん坊が疎まれるのも同じ理由だ。
青い瞳は北方生まれのあかし。
それなら、この赤ん坊は北方から来たというのだろうか。もしそうだとすれば、誰が、なんのために、ここへつれて来たのか。
疑問は尽きなかった。
老人に出来ることはこの子が大きくなり自立できるようになるまで育ててあげることだけだ。
赤ん坊はすくすくと育っていった。人一倍力強く、優しく、勇敢に。
老人が心配する必要など一つもなかった。
魔獣が村の畑に現れた時も、一番に駆けつけたのは彼であった。
村人からは冷たくあしらわれていた彼であったが、それ以降、村人の彼に対する目が変わった。
もちろん、それまでとはうってかわって優しくなった。などという都合のいい話などではない。
村人たちは彼の活躍を見て、『使える』と思ったのだ。村人はこぞって少年にこびへつらうようになった。
村長以外には誰も彼に話しかけようとしなかった昔に比べれば大分状況は良くなったが、それでも村人たちの善意の裏に見え隠れする卑しさに気付かないほど鈍感な少年ではなかった。
村人たちは村長にこう嘆願した。
――彼を、勇者にしよう。
###
固い床から伝わってくる規則的な振動のなか、エルは目覚めた。
目の前がかすんで見える。ずきり、と側頭部が痛んだ。
その痛みとともに、ついさっき起きた出来事がなだれのように彼の脳内に入り込んで来た。はっとして、彼は立ち上がる。
ここはどこだ、と頭を必死に回転させる。彼は馬車の中にいた。車体がひときわ大きく揺れ、彼はよろめく。
「起きたか」
背後から声が聞こえた。まぎれもなく、その声はシュルクのものである。
警戒して、すぐさま声のする方に振り返る。馬車の客席には二人の人間が座していた。シュルクの隣にいる女の顔に見覚えはなかった。
女は立ち上がったエルを静かに睨みつけていた。どことなくサキに似た雰囲気を醸し出しているが、大きな違いはその長い黒髪だ。まるで彼女の気高さを体現しているようであった。
彼女が誰であるか、などということは今の彼にとって些細な疑問に過ぎなかった。なぜ自分はシュルクとともにここにいるのか、シュルクはコモドとどういう関係なのか、コモドはどうなったのか。湧いてくる疑問はとどまることを知らなかったが、逆にエルの喉で引っかかり、言葉として発することができない。
シュルクは口をぱくぱくとさせるエルをただ眺めていた。
彼の腕には包帯が巻かれていた。まだ傷が塞がっていないのか、包帯の紅色はじわりじわりと広がっていた。それを見た女が鞄の中から新しいものを取り出し巻き直す。
「それにしても、社長が怪我をするなんて」
「俺にも勝てないやつだっているし、怪我だってする」
「またまたご冗談を」
彼女は笑い飛ばし、包帯をきつく縛りあげた。シュルクが顔を歪める。
「おお、そういえばリリスと会うのは初めてだったな」
「どうも、リリス・ホルデインです。これからよろしく、エル・タナスさん」
シュルクから紹介され、リリスは律儀に頭を深々と下げる。
「……どうも」
彼は無愛想な挨拶を返す。問い質したいことは山ほどあっても、何から聞けばいいのか分からず、上手く言葉を紡ぐことができない。
「俺に質問したいことは沢山あるだろう。だが、そんなことは俺にとってはどうでもいいことだ。俺がお前に会いに来た理由は分かっているだろう? 金だよ、金。お前に貸したのは三千五百一金貨。あれから一週間経った。利息だけでも返してもらおうか」
まさか、そんなことのために自分を捜しに来たのだろうか。エルは疑り深くシュルクの顔を覗き込む。
青年がそのような大金を払えるはずがないことは、シュルクもよく分かっているはずだった。それゆえに、男の真意が分からない。
「お金を返したら教えてくれるのか?」
「返せたら、な」
強気のエルの返答も、男にとってはただの強がりにしか聞こえていないようであった。
「とりあえず、うちの商会まで来てもらおうか」
馬車の御者に何か耳打ちすると、御者は馬を強く鞭打った。馬が鳴き、馬車の揺れがますます一層大きくなった。
そしてかたことと馬車に揺られること数刻。
気付けば陽は落ち、辺りはすっかり暗くなっていた。もう夜も更けたというのに、ダンディンの門をくぐると、街の喧噪が彼らを包み込む。一日の最後の売り込みだからだろうか。商人たちの声も心なしか大きく聞こえる。それに応えるように道をゆく客たちも屋台を取り囲み、通りは大盛況だ。
「ここで止めてくれ。後は歩く」
シュルクは御者に命令すると、馬車をとめた。人ごみに顔をしかめながらも、かき分けながら道を空けていく。
逃亡を考えたエルであったが、前方をシュルクに、背後をリリスに囲まれてしまい、あっさりと諦めてしまった。リリスの腕はどれほどのものか分からないが、シュルクが連れているのだから、少なくとも自分よりは強いのだろう。
たとえ、彼がリリスを退けたとしても、シュルクが逃すはずなどない。
エルが考えている間にも、シュルクはどんどんと道を進んでいく。
大通りの十字路を曲がり、少し歩いたところで見覚えのある建物が目の前に現れた。白で美しく塗られた壁と、赤色のレンガでくみあげられた屋根。まだ建てられたばかりなのであろう、闇の中でもその赤色ははっきりとその存在感を保っている。
丸みを帯びた石造りのアーチが彼らを迎える。訪れる者を拒絶するかのような重厚な紅褐色の扉に怖じ気づきながらも、シュルクたちに続いて中に入る。背後でリリスが楽しそうに呼び鈴を鳴らして遊ぶ音が聞こえた。
入ってまず見えたのは、開放感ある受付であった。柔らかそうな毛皮で出来た長椅子も用意されており、ここが商会であることを再認識させられる。赤煉瓦の暖炉も設置されていたが、薪はくべられていない。
シュルクはマントを脱ぎ、長椅子の背もたれにかけると、深々と腰掛けた。
そして、彼の対面の長椅子を顎でしゃくった。
エルはばつが悪そうに指示されるがままにそこへ座る。
「さて、お金の返済方法だが。お前には二つ選択肢がある。ひとつは、うちで働いてお金を返すことだ。堅実な方法だな」
「別のところで働くというのは?」
「一度逃げておいてその選択肢はないだろ」
シュルクのもっともな意見に、エルはぐうの音もでなかった。
まさか、でたらめな額の借金のためにここまで自分のことを追いかけてくることなど、彼には想定外のことだったのだ。
「そしてもう一つ。俺の奴隷になることだ」
「は?」
エルはすっとんきょうな声をあげる。
奴隷。たしかに目の前の屈強な男はそう言った。けして青年の聞き間違いなどではない。
この国には奴隷制度というものが存在していた。
隣国ではとうの昔に廃止された制度だと先代の村長から言い聞かされていた。アルペンの村にはそれを受け入れる余裕のある者などいなかったため、関わることなどなかった存在だ。
奴隷とはいっても、かつてに比べるとその拘束力は大分緩くなったと先代の村長は語っていた。奴隷の主がその所有権を放棄し、しかるべき手続きを踏めば、奴隷は晴れて解放される。かつての奴隷制度では、一度奴隷階級に身をおとした者は一生その烙印から逃れることはできなかったそうだ。奴隷の子も同様に、生まれながらにして奴隷として扱われてしまう。
ことん、と目の前に飲み物が置かれ、エルは我に返る。
紅茶の香りが青年の鼻をくすぐり、心を穏やかにさせようとする。
「まあ、うちで働くっていっても、給料を全部返済につぎ込んでも何十年かかるか分からないがな」
ははは、とシュルクは豪快に笑う。青年にとっては笑えない話であった。
「社長はこんなことばっかり言っていますが、本当はあなたに来てほしいだけなんですよ。あなたを探すのだってすごくお金かかってるんですから」
すこしむっとして、リリスはシュルクを睨みつける。彼女なりの抵抗なのであろうか、用意された飲み物は二つだけであり、それらはエルとリリスの前にしか置かれていない。
だが、シュルクはその行為を気にする様子もなく、立ち上がって自らの手で飲み物を用意しはじめた。何かを焦がしたような、それでいて香ばしい匂いが部屋に充満する。エルは嗅いだことのない香りに戸惑いながらも、気になってシュルクの方を向く。
男はそのたくましい腕を繊細に動かしながら、何かをせっせと回す動作をしている。ごりごりと何か固いものが粉砕される音が聞こえる。
「社長、聞いてます?」
「ところでさっきから社長、社長って言ってるけどその呼び方は何なんだ?」
彼らのやり取りを見ていて、心に余裕が生まれたのかエルは質問を投げかける。
『社長』という聞き慣れない単語に彼は違和感を覚えたのであった。街から来た商人たちは、商会の長を指す言葉として『頭』という単語を用いていたのを彼は知っていた。村人たちが商人と取引をする際に、一度として『社長』という単語を聞いたことなどなかった。
「ああ、気にしなくていいですよ。私が勝手にそう呼んでいるだけですから」
「で、どうするか決まったのか?」
シュルクは飲み物を手に再び椅子に座った。コップは、黒く濁った泥水のような液体で満たされていた。そこから立ちのぼる香りこそ良いものの、とても美味しそうには見えない。
そこに、机に置かれていた角砂糖を一つ、二つと加えていく。美しい白色が汚れた茶色に変わり、黒い液体へと沈んでいった。
「奴隷だけはお断りします」
「じゃあ、うちで働くってことでいいのか?」
シュルクは用意周到であった。ごそごそと机の引き出しから数枚の書類を取り出す。
それは契約書であった。長々と決まりごとが書かれており、それは何ページにもわたって続いていた。小難しい単語が並べられているが、端から端まで読む気は到底起きもしなかった。ぱらぱらとめくり、最後のページを開くとそこには署名欄があった。
にこにことシュルクはエルにペンを手渡す。
達筆な文字でエルは自らの名前を書いた。エル・タナス、と。
「はい、ありがとう。これで君もめでたくうちの商会の一員というわけだ」
シュルクは立ち上がると、エルに握手を求めた。エルもならって立ち上がり、二人は握手を交わす。
「ようこそ、商会ハーゲンティへ」