第六話 「学園」
コモドの家で居候生活を始めてから三日間が経とうとしていた。
老人の手助けもあってか、彼の怪我はほぼ完治していた。今朝は体の調子を確認するために街中を走っていたが、その間も痛みは感じなかったようだ。
エルは庭で、買ってもらった剣を嬉しそうに振り回している。緑茶をすすりながらその様子をコモドが眺めていた。
まだまだ彼の動きには無駄が多い。さらに、勇者にしては体が細すぎる。無駄な脂肪はついていないが、筋肉も最小限にしかついていない。長い手足から繰り出される攻撃の間合いは彼の武器になるであろうが、まだ活かしきれてはいない。
改善点を挙げるときりがないが、それはつまり伸びしろが沢山あるということに他ならない。
「エルくん」
「はい」
コモドは縁側に座ってエルに声をかける。横に来るようにコモドがすすめると、エルは剣をおろして同じように座った。あごから汗が垂れ落ち、庭の土に染みていく。
日は高くのぼっていた。どこからともなく聞こえてくる陽気な音楽。管楽器の音が甲高く響き渡るとともに、人々の賑わいも増してゆく。
エルがマテに来てから初めての休日であった。鍛錬をしていたときには気付かなかった、のどかな雰囲気に身をゆだねる。アルペンという辺境地で生きてきた彼にとって、本来人混みはあまり慣れないものであるはずなのだが、不思議と彼の心は落ち着いていた。むしろ、懐かしさすら覚えていた。
「今日は休日だが、実はこれから学校に行く用事があっての。少し君に紹介したいことがあるんじゃ」
「僕に紹介……?」
「わしの学内組合じゃよ」
国立第一大学校には多くの学内組合が存在している。
組合とはいっても一般的な商会のような存在とは違う。端的に言ってしまえばチームのようなものであった。
学内組合に所属する最大のメリットは、卒業要件となっている指定A級魔獣の討伐をチームで行うことができるという点にある。
つまり、組合に所属していない者は、指定A級魔獣を一人で討伐しなければならないということになってしまう。過去に例が無いわけではないが、たった一人で、となると討伐はほとんど不可能に近い。
ただし、学内組合に参加するには条件があった。勇者の職に就く、という条件である。そのため、大学校を卒業するには、まず勇者になることが必須条件であると言われていた。
コモドの組合は学内でも有数の実力者が集まるエリート集団であった。
コモドがただの一教官ではないということはエルもよく理解していた。それだけに、コモドの提案は魅力的であった。彼の組合に参加できれば多くのことを学べるであろう。
座学棟の三階。そこにコモドの組合の本部はあった。
広い部屋にはところ狭しと本棚が置かれており、窓まで本棚で覆われている。埃っぽく、薄暗い部屋であった。
エルは本を一つ手に取ってみる。魔獣の絵と、その特徴が小さい文字でびっしりと書かれている。
エルは小さく驚いたように声をあげる。本の文字が印刷されたものではなく、手書きだったからである。
他の本も開いて確認していくうちに、彼は本ごとに筆跡が異なっていることに気付いた。
「それはこの組合に代々伝えられている図鑑なのじゃ」
「かなり古いものまでありますが……これなんかは文字がかすれて読めません」
「うちの組合は大学校が設立された頃からあるからの。一番古いものが残っていれば二百年ほどになるじゃろうな」
「二百!?」
エルは素っ頓狂な声をあげる。
「とはいっても、そういう古いやつはわしらで書きなおしているのじゃ。それも内容を更新して作りなおさねばならんの」
「そのような雑務でしたら、私にご命令ください」
部屋の奥から声がした。エルは本に向けていた顔をあげ、声の主を探すように首を振って辺りを見回す。
本棚から漏れる光を背に立っている人の影が彼の目に映った。顔は逆光で見えないが、そのシルエットは確認できる。長い髪がふわりと舞い上がるのが見えた。
女性だ。
「おお、サキくんかね」
「お疲れ様です、フリーケン教官」
フリーケン、という名前を聞いて少しだけきょとんとした表情をしたエルであったが、すぐにコモドのことを指していると気付く。
サキと呼ばれた女性が二人の元へ近づいてくる。徐々にその姿が明らかになった。
ふわふわと揺れる長い金髪、ぱっちりとした茶色の目。端麗な容姿に加え、鍛えられているのか引き締まった体をしている。
無駄も隙もない立ち居振る舞いから、かなりの手練であると分かる。
「ところで、その男は誰ですか」
「おお、紹介が遅れたの。彼はエル・タナスくん。縁あって今はわしの家に泊まっている。それで――」
コモドはエルの方を向くと、サキのことを手で示した。
「彼女はサキ・セイラ。うちの組合員だ」
エルは手を差し出し、握手を求める。だが、サキがそれに応じる様子はない。
コモドから本を受け取ると、彼女はエルに全く関心を示さずに椅子に座って本を開いた。
エルのこめかみに青い静脈が浮かび上がる。彼の拳はわなわなと震えていた。
「悪い子ではないのじゃ。許してやってくれ」
そうコモドが弁明する間も、彼女は黙々と作業を続けていた。
睨むようにサキを見ていた彼の目に、彼女の隣の椅子に立てかけられていた弓が映った。恐らく彼女の得物であろう。よくある弓とは異なり、木製ではなく金属か何かの素材で出来ているように見える。形も通常のしなった一本の棒ではなく、かくかくと途中で折れ曲がった奇妙な見た目をしていた。
恩人のコモドに許せと言われてしまっては、彼も言い返すことはできない。
罵倒したくなる気持ちを抑え、言葉を飲み込む。もしこの組合に入ることになったらこの先もずっとこの調子なのだろうか、それとも慣れれば心を開いてくれるのだろうか、そんな考えが彼の頭の中をぐるぐると回っていた。
しかし、この辞典の情報は彼にとって有益であった。というより勇者なら誰でも欲しがるに違いない。
魔獣の情報だけではない。武器の素材の場所、作成方法などについても詳細な記述がなされている。
他の組合にもこれほどの情報が眠っているとは考えにくい。ここまでの情報量はこの組合にしかない、あるわけがない。エルはそう確信していた。
コモドに断りを入れて、何冊か本を手に取るとサキと同じテーブルに座って読み耽る。
サキに対する怒りの気持ちはいつの間にか心の奥に隠れてしまっていた。それよりも、期待と興奮による高揚感のほうが大きかった。
田舎から出て散々な目にあったかと思えば、コモドに救われて今では立派な大学校の一生徒だ。
世界はバランスで構成されているとはよく言ったものである。プラスがあればマイナスがある。逆もまた然りだろうが。
別に彼が特別幸運というわけではなかった。神の気まぐれで傾いた天秤がそのバランスを取り戻しただけに過ぎなかった。
彼が本の世界にのめり込んでから数時間。彼は空腹を感じて我に返る。
いつのまにかコモドは部屋から居なくなっていた。前を向くと、サキが未だに作業を続けている姿が見えた。たいした集中力だ、とエルは感心する。
首を振り、視線を窓の方へと移す。本棚の隙間から外の様子が少しだけ見えたが、遠くの空は少し赤色に染まりかかっていた。
エルは背伸びをして本をまとめる。十冊ほど本棚から拝借したが、実際に読めたのは三冊程度であった。座学の時間は講義にいかずにここで本を読むことにしよう、と彼は心をきめる。
「……それ、全部読んだの」
彼が立ち上がろうとしたそのとき。
驚くべきことに、言葉を発したのはサキであった。先ほどとはうってかわって、一体どういう風の吹き回しだろうか。顔は下を向いたままだが、それは間違いなくエルに向けて発せられたものだ。
完全に面食らってしまった彼はどもりながら早口で言葉を返す。
「い、いや、まだ三冊しか読めてないけど」
「勉強熱心なんだね」
そこで会話は一旦途切れたが、これは彼女と仲良くなるための唯一の突破口であろう。この機会を逃せば次はないいかもしれない。
「サキ、さんだっけ? なんで休日に学校に?」
「私も本が好きだから。家にいてもやることないし」
淡々と、抑揚のない声でサキは喋る。コモドと喋っているときはハキハキとしていたのだが、こちらが彼女の本当の姿なのかもしれない。
サキは腕を天井にあげると気持ちよさそうに体を伸ばした。白い二の腕にエルは目を奪われる。
「もう終わり?」
「ほとんどね。ところで、今から時間ある?」
エルの胸が高鳴った。美少女とふたりきり。お誘い。もしやという気持ちから顔が緩みそうになるのをなんとか抑えるように、右手で左手の甲の皮をつねる。
「ずっと座ってたら体動かしたくなっちゃった。外に出ましょ」
そう言われ、心を躍らせながら外に出たのは十分ほど前の話である。
そして今、彼は地面にねじ伏せられていた。
二人がいるのは以前に模擬戦を行ったあの広場である。
体を動かすとは散歩のことではなく、組み手のことを指していたのだ。
絶望した表情浮かべる彼の体には数カ所すり傷が出来ており、そこからは少しだけ血もにじんでいる。
「フリーケン教官が連れてきたから、少しは出来る人なのかと思ったら全然じゃない」
サキはため息をつきながらエルを見下ろしていた。
彼女の得物は弓であると知っていた彼は、組み手であれば少しは健闘できるとふんでいた。が、この様である。相手にすらなっていない。
彼女は手練の弓使いであるが、同時に武器を使わない接近戦の練習もかなり積んでいた。弓をかわされ接近されたときに対処する必要があるからだ。短刀の訓練をするものもいるが、弓使いは別に接近戦で相手を殺す必要はない。一時しのぎになればよいため、すぐさま攻撃を繰り出せる体術を彼女は選択したのである。
「なんであんたなんかをうちの組合に連れてきたのかしら」
「俺だって知らない……」
よろよろと立ち上がるエル。一撃で満身創痍だ。彼は悔しそうに唇をかみしめている。
もう一度、と再戦を提案する気も起きない。それほどに圧倒的な実力差があったのだ。
「まあ別にいいわ。あんたなんかをフリーケン様が組合に入れるはずないから」
「くっ……好き放題言いやがって!」
拳を握りしめるもののすぐに冷静になって手を下ろす。感情に身を任せても、彼が強くなるわけでもないし、彼女が弱くなるわけでもない。
サキは興味を失ってしまったのか、エルをその場に残したままどこかへ去って行ってしまった。
情けなく、ぽつりと広場にたつエルの姿には哀愁が漂っていた。
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暗い部屋の中には二人の男がいた。部屋が薄暗いのは日当たりの悪い路地裏にある建物だからであろう。照明がついていないこともあってか、彼らの顔には影が差しておりよく見えない。
部屋のいたる所に置いてある武器だけが妖しく光っていた。
「よう。この前売った武器はどうだった」
「ははは、高く売れたさ」
「規格外のものばっかりで大変だったよ。報酬ははずんでくれ。うちは客が全然こないから『臨時収入』以外ではほとんど金が入ってこないんだ」
「こんな場所に店を構えるからだよ」
どさり、と机の上にかばんが置かれた。少し開いたその口からは尋常ではない厚さの札束がいくつも垣間見える。
報酬を受け取り、男はにやりと笑う。かばんから札束を取り出すと、ぱらぱらとめくって枚数を調べ始めた。
もう一人の男は暇を持て余すように、武器を物色し始める。
ガラスケースに収められている剣に興味を示すと、無言でその蓋を開いて手に取った。しかし、商人はその行為を咎める様子もない。
空気を切り裂く音が聞こえた。しばらく剣を振り、飽きると次の武器を手にとって時間をつぶす。
「たしかに金は頂いた……で、次はいつだ」
「次は恐らく二週間後だろうな。国軍が大規模な作戦を練り上げている。莫大な金が動くぞ」
戦争は金を動かす。雇用しかり、農業しかり、製造業しかり。その範囲はほとんど全ての産業に及ぶ。
特に、とてつもない利益が生まれるのは軍需産業である。普段はあまり儲けどころのない産業だ。それゆえ、稼ぎどころを見極め探しだす鋭い嗅覚は武器商人にとって大事な能力だった。
ただし、戦争はあくまで金を動かすだけだ。もちろん、金が動くことで生まれた新技術が別分野で活用され金を生み出すことはあるが、そんなことは稀である。戦争を続ければ続けるほど、全体としての金は減っていく。
引き際を見極める能力というのも同様に大切であり、それを持っていなければ自分で自分の首を絞めることになってしまう。
武器屋の男は窓からぼんやりと外を眺める。
身なりの貧しい少年が走って民家に入っていくのが見えた。肉を焼いたような香ばしい匂いがかすかに店内に流れ込み、男の鼻をくすぐる。
腹時計が夕暮れ時だと主張していた。先ほどの少年も夕食のために急いで家に帰ったのであろう。昔を思い出しながら彼は懐かしむ。
いつからだろうか、こんな大人になってしまったのは。
自分の店を開いた当時は目を輝かせ、胸躍らせながら、この店を世界一の武器屋にすると心に誓ったはずであった。
今でもその志を忘れた訳ではないが、簡単に稼ぐことを知ってしまった彼はもう後戻りすることはできなかった。
特需で得られた金の一部は、一般人とくに勇者への武器の仕入れにも使っている。しかし、現状そのほとんどは次の戦争のための仕入れ資金となってしまっている。
ふと、数日前に剣を売った青年のことを思い出す。
まっすぐとした汚れを知らない透き通ったような瞳。店であのような人間を見るのは久しぶりであった。青年の青い瞳に見つめられると、自分の心が見透かされているような気がした。
心を裸にされるとはこのことか、と彼は感じたものだ。心を覆っていた外壁がとりのぞかれ、今まで押し殺していたはずの声が彼を蝕んだ。
そして気付けば、彼は秘蔵の蒐集品を手に青年の前に立っていた。
すらりとした刃。刀匠いわく、特殊な素材を使っているために細身に見えてもその硬度は折り紙付きらしかった。
大事なコレクションであったにも関わらず、迷うことなく彼はその業物を青年に売った。
価値のつけられない非売品を手放してしまったことを彼は後悔していなかった。
自分の手元で共に朽ちていくぐらいなら、未来ある青年の手に渡ってしまった方が良い。その方が刀匠も剣も本望であろう。
「これで、俺は解放されたんだ」
自らを諭すように、手で頭を抱えながら男はその言葉を繰り返す。
一方、もう一人の男はいまだに色々な武器を振り回しながら、おもちゃを与えられた子供のようにはしゃぎ回っていた。
武器屋の男は覚悟をきめるように勢いよく息を吐き出した。吐き出した空気は広い空間に広がり、消えていった。
「今度は普通規格の武器も揃えておかねばいけないな。うちの系列の鍛冶屋を総動員させて作らねば」
今度は迷いのないはっきりとした声でそう言い放つと、彼は口をつむいで肩を揺らしながらくっくと笑った。
光を失った彼の目は手元にある金をただ静かに見据えていた。