第三話 「入学1」
机の上には書類が山積みになっていた。
シュルクはペンを手にひたすら文字を書き続けていた。かれこれ二時間程になるであろうか。しかし、彼の集中力が途切れることはない。
部屋の扉の取っ手が金属音とともに下がり、ドアが開く。入って来たのは女であった。紅茶の入ったカップと菓子をのせた盆を持っている。
「社長、少しお休みになられては」
書類を軽く片付けながら、空間を作るとそこにカップを置いた。
「ありがとう、リリスくん。だが午後から別用があってね、それまでに片付けておきたいんだ」
シュルクは右手で書類を作成しながら、左手を使って紅茶を飲む。リリスと呼ばれた女性は出来上がった書類をまとめると、一枚ずつ確認をしていく。彼女なりに少しでも手伝おうとしているのであろう。
部屋を静寂がつつむ。壁時計が刻むリズミカルな機械音がいつにも増して大きく聞こえる。はじめは立ったまま書類に目を通していたリリスも、いつの間にかソファーに腰を下ろしていた。
それから一時間が経った。最後の書類に判子を押し、シュルクは大きく伸びをする。それと同時に、リリスも気の抜けた声をあげた。彼女の机の上にはまだ大量の書類が残っているが。
「じゃあ、あとはリリスくんに頼んだ。俺は出かけてくるからな」
「えっ! 社長の方が先に終わっちゃうんですか!」
「うん、手伝って欲しいなんて一言も言ってないし」
シュルクはいつものように全身を覆うマントを羽織り、腰に剣をさす。マントとは長いつきあいなのだろうか。足元の裾の部分はぼろぼろになっている。肩のあたりも日に焼けてしまい、元々は黒色だった部分が色あせて埃をかぶったような色になっている。
シュルクが支度を始めたのを見て、リリスも慌てて武器を腰にかける。書類は机の上に放っておいたままだ。
リリスの得物は少々特殊であり、端的に言ってしまえば鎌である。ただし、通常の鎌よりはサイズが小さく、その柄尻には重りのついた鎖が取り付けられている。市場には出回っていない特注品だ。
「お前はその書類が終わるまでお留守番だろ」
「知りません」
目上のものにも物怖じしない。それどころか、そのつり目で相手を睨み逆に相手を怖じ気づかせる。それが彼女の性格であった。リリスと仕事をするようになってから何年にもなるシュルクにとって、その返答は予想通りであった。
ふふと鼻で笑うと、とがめることもなくリリスを連れて街に出た。
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しばらく歩いて二人が到着したのは大きな屋敷であった。
扉も壁もそのどれもが真新しく、純白で塗り固められている。どこを見ても白に塗られたその家は、逆に不気味な雰囲気を放っていた。
シュルクが呼び鈴を鳴らす。しばらくして正装に身を包んだ男が現れた。
彼はシュルクの姿を見るなり、わっと大声をあげて抱きつく。
「おお、シュルクさん! この度は本当にありがとうございました」
「いえいえ、そんなに抱きつかなくても」
シュルクはさりげなく男を身から引きはがす。もちろん、彼にも男にもそのような趣味などない。リリスはその様子を少し離れた場所から、ひどく苦々しい顔で見守っている。
男はその二人の様子に気付いたのか、咳払いを一度するとネクタイを結び直した。少し顔を赤らめながら、屋敷内へと案内するべく道を手で指し示すと、少しうわずった声で話し始める。
「おお、これは失礼。本日の会場はあちらの階段を降りた先となっております。既に参加者は集まっておりますので、私がご案内いたしましょう」
二人が案内されたのは地下室だった。光の届かない地下。
部屋の中には、無機質な土壁に不相応な豪華な椅子が並べられていた。会場は既に満席であった。部屋の照明がおとされており、少し薄暗い空間となっている。お互いの顔を分かりにくくするためなのだろう。
部屋の奥にあるステージ台が突然照らされる。そこには椅子に縛り付けられた一人の中年男性がいた。
顔は黒い布で隠されているが、脂ぎった肌とそのシルエットからそれが先日の商人であるとシュルクはすぐに気付く。憔悴しきった様子で、頭は項垂れ口からはよだれが垂れている。体にはいくつか裂傷の跡もあった。
野次が観客席から飛び交う。十人程度しかこの場にはいないはずなのだが、数十人が集まったかのような怒号が響き渡った。リリスは眉をひそめて耳を塞いでいる。シュルクは腕組みをし、静かにその様子を眺めている。
先ほどの男性がステージにあがる。穏やかな表情で、観客をなだめるかのように彼らに向かって手を伸ばして両手を広げる。しばらくしてようやく場が落ち着いた。
「本日はご来場いただき、誠にありがとうございます。ここに座っておりますアイウルは――」
その紳士的な表情が一変した。瞳孔が開き、口角があがる。その形相はおよそ人と呼べるものではない。怒りと憎しみと悦びが入り交じったそれはまさに悪魔である。人の道徳など持ち合わせていない。どうやって壇上のモノを痛めつけようか、それ以外のことは頭にないのだろう。
男が何やらごそごそと取り出したのは、棘付きの鞭であった。見せつけるように床を数度叩く。鋭く空気を裂く音が部屋をかけめぐる。それに背中を押されたかのように観客は立ち上がり、罵声を浴びせ始めた。
「皆さん、ご存知かと思われますが……」
シュルクは動かない。ただステージを見つめているだけであった。男の声などには耳を傾けてはいない。心を無にしてそこに立っていた。
アイウルは鞭の音を聞くと泣き叫び始めた。既にある程度痛めつけて、それを記憶に焼き付かせておいたのであろう。観客が愉しめるように、とそこまで計画済みであった。男の手際の良さと慣れがよく分かる。
「ほんと、上辺だけは人間の面をした奴らをよくもこんなに集めたものね……」
小さくリリスが呟く。幸いにも、隣にいるシュルクにしかその声は届いていない。
「趣味は人それぞれだよ」
肯定する彼だったが、その右足は小さな貧乏揺すりを繰り返している。
怒号と悲鳴と破裂音が混ざり合う。地下室は異様な熱気で満たされていた。リリスはいつの間にか部屋を出てしまったようだ。
シュルクはめまいを感じ、壁にもたれかかる。薄暗い光がゆらゆらと揺らめいているように見える。部屋のほこりが光に照らされ、渦巻いている。狂気がシュルクを飲み込もうとしていた。
シュルクは体が熱くなるのを感じた。体の中から、どす黒い感情がにじみ出てくるような感覚がする。
左手で顔を覆いながら、ずりずりと壁を伝ってしゃがみこむ。右手が剣の柄にかかろうとした、そのとき。
「社長、休憩室にすごく美味しいお菓子があるんですよ」
突然手をとられ、シュルクは我に返る。振り返った先に見えたのはリリスであった。彼女は微笑んでいた。口元に食べかすをつけたまま、無邪気な笑顔で。
「ああ……そうだな。甘党にとっては魅力的なお誘いだ」
シュルクもリリスを見て笑顔を返した。
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馬車がごとごとと揺れる。それに合わせてエルの体も痛む。エルの刈上げられたもみあげの辺りから汗が垂れていた。時折、彼は小さく押し殺した声で呻く。馬車の木枠がきしむ音である程度はかき消されているが、それでも周りの相席者にその声は届いていた。
「さっきから大丈夫ですかの」
同乗している年配の男がエルに声をかけた。
髪はすっかり白くなっているが、本数は非常に多い。外見も非常に若々しいのだが、目尻のしわは深く刻み込まれており、実際にはかなり歳を取っているのが分かる。
年配の男は腕まくりをする。現れた腕は筋肉で盛り上がっており、やはり老いなどを感じさせない。すぐに、服の上からエルの触診をはじめた。
「これでも、大学校で教官をやっていての。医学も少しばかりかじっておるのじゃ」
指を立ててエルの胸に当てると、とんとんと叩く。エルが痛みに呻いたが、お構いなしに他の場所を次々叩いていく。
「ずいぶんと無理をしたようじゃの」
「一応、医者には診てもらったようなのですが……何にせよ記憶がない内に、ですので」
「そうか、そうか。ある程度の応急手当はされているようじゃが……」
指を唇にあて、老人は少し考える。左上の方を見上げながら少しうなると、ぽんと手を叩いた。
「もし早く治したいのであればお手伝いいたしますがな」
「本当ですか!?」
エルは大声を上げる。が、すぐに痛みに負けてうずくまってしまった。
早く体を治して、身を隠さなければならないエルにとってそれは願ってもない申し出であった。
ダンディンで謎の男に巨額の借金を背負わされた彼が今、一番にやるべきことはダンディンから離れたところに身をひそめることであった。アルペンの家の位置は恐らくシュルクにばれてしまっているであろう。そう考えると、家には戻れない。
しかし、長期間大都市で宿を借り続けていてはすぐにお金がなくなってしまう。その状態でシュルクに出会えば、間違いなくひっとらえられるだろう。
めまぐるしく何かを考える彼の様子を見て年配の男が陽気に笑う。
「元気はあるようじゃな。すぐに治る……わしはコモド・フリーケン。大学校のしがない一教官じゃ」
「エル・タナスです」
コモドが手を差し出す。エルは少し中腰になって握手を交わした。ごつごつとした手であった。
馬車が到着したのは、アルペンの南に位置する太陽の街マテであった。
ダンディンとは違い、ここは学術都市と呼ばれており周辺地域に比べて学校の数が多い。そのためか、街を歩く人たちの年齢層も少し低いように思われる。
この街でも特に有名なのは勇者のための大学校、国立第一大学校である。勇者になりたいものたち、もしくはすでに勇者ではあるが、さらなる高みを目指すものたちが集う大学校だ。他の都市にもこの手の大学校だけはない。国立第一大学校を卒業することはすなわち勇者としてのエリートコースを保証されたようなものなのだ。
入学するのは非常に簡単だが、卒業は非常に難しいと言われている。卒業試験としてA級の魔獣を何匹も狩るというミッションが課せられているからである。その卒業率は数百人に一人とも噂されている。
コモドはとある一軒家の前で立ち止まった。どうやら、そこが彼の家のようだ。
豪勢な見た目ではないが、古風な建築様式で古びた赤レンガが良い味を出している。エルがダンディンで見せられた一軒家にも少し似ているが、こちらは四階建てだ。
コモドは溜まっていた郵便物を確認すると、エルを中へと招き入れた。
外装に違わず、内装も古風な家具でまとめられていた。居間には暖炉まで備え付けられており、その徹底した統一ぶりは彼の几帳面さを伺わせる。
「どうぞ、気にせずお座りなさい」
ふかふかの椅子にエルは腰掛ける。その柔らかさに落ち着けないのか、そわそわと手のひらを開いたり閉じたりを繰り返している。
コモドは二人分のお茶を机におくと、エルの対面に座った。ずずず、とお茶をすすり、穏やかな顔で一息つく。そして、エルをじっと見つめる。
「――ところで」
老人が神妙な面持ちに変わる。カーテンが風を受けてゆらゆらと躍っていた。生暖かい空気がエルの頬をなで、汗が一筋になって落ちる。
「拝見いたしましたところ、ずいぶんと良い体つきをしてなさる。貴方……もしかして勇者ですかの?」
「はい……でも、いったいなぜ」
「さきほど大学校で教官をしている、と申し上げましたが、実はわしは国立第一大学校の教官でしてな」
そこで言葉を切ると、コモドは短くととのえられたあごひげをなでる。
老人は小さく微笑む。だが、目は笑っていない。真剣そのものである。彼の黒い目にはちっぽけなエルの姿が映っていた。
「大学校に――行ってみようとはおもわないかね?」