第十話 「少女」
「今日は私について来てもらって、仕事を覚えてもらうことにします」
リリスは仕事の支度をしていた。商会の受付の長机には所狭しと書類が並べられていた。エルは紙を一枚手に取り、内容を確認する。そこには人の名前とその個人情報が、小さな文字でこれでもかというほどに書き込まれていた。
エルの対面に座していたリリスは書類には目を通さず、小さな鎌のような得物の手入れをしている。純白の布で丁寧に鎌の刃をふき、朝日を反射して美しく輝くその刀身に満足げな表情を浮かべている。
エルはリリスを見て首をかしげた。
彼の疑問は、その武器の特異性にあった。わずかではあるものの青年は大学校に通っていたが、そのような得物は目にしたことがなかった。彼にとって、鎌とはアルペンの村人たちが収穫に使う道具に過ぎない。武器として使うには耐久性、便利性においてどうしても難があるのだ。
青年の熱い眼差しに気付いたリリスは手を止める。
「この鎌が気になるのか?」
「ああ、そんな武器見たことがなくてな」
「たしかに他の人が使っているのは見たことがないね。思い入れのある特注品なんだ」
リリスは立ち上がり、もう一度鎌を陽にかざす。
受付には大きなステンドグラスがあった。そこには茨の冠をかぶった男が悩ましげに、疲れきった顔で空を見上げる姿が映し出されている。その透明な部分から差し込む陽は直線的に広がり、明るすぎず暗すぎず、部屋を幻想的に照らしている。
その光に向かって立つリリスの横顔は微笑んでいるようにも見えた。
「ところで、武器は持っていった方が良いのか?」
「そうだな。もしかすると返済に困窮した客と戦闘になるかもしれない。そうだ、君の昔の剣はまだ社長が持っているはずだよ。結局君は砂漠の時に気を失ってしまって、返せなかったからね」
リリスは社長室の扉を軽く叩くと、その返答を聞かず勢いよく開いた。
上品で落ち着いた茶色の家具を見て、青年はこの部屋にはじめて来たときのことを思い出していた。
あれから一、二週間ほどしか経っていないが、彼の身には様々な出来事が起きていた。目まぐるしく、立て続けに彼の周りで起きることはどれもが刺激的で、新鮮であった。よもやあの時の青年はこの商会で仕事をするようになるとは思ってもいなかったであろう。
今まで生きてきた中での、最大の人生の分岐点。それがあの時だったのだ。
そして、これから先にも、もっと大きな出来事が彼を待ち受けているのだろう。そう考えるだけで、彼の体は自然と武者震いをはじめていた。
平凡な村で育った平凡な勇者が求めていたのは変化であった。
「社長、エルの剣なんですが」
「あれならそこにあるぞ」
シュルクは椅子に座ったまま、壁を指差す。
白い壁にかけられた黒い剣は圧倒的な存在感をはなっていた。青年はそれを手に取り、黒い鞘から剣を抜く。現れた刃も黒で、錆び付いていた頃とは全く異なる輝きを見せていた。本来の主の手に戻ることのできた喜びを、刀が意思をもって表現しているかのようである。
「回収に行くのか」
「エルに仕事を教えようと思いまして。あれこれ説明するよりも、実際にやらせてみたほうが早いと思いまして」
「それなら、この商会から回ってくれるか? ちょっと急ぎの用でな」
シュルクは一枚の紙をリリスに手渡す。
リリスはその目的地を確認すると、エルを引き連れて社長室を後にした。
そのまま受付の奥にある部屋へ入ったリリスは二着の薄い外套を手にして現れた。片方をエルに手渡すと、もう一つを羽織る。薄い土色の生地で出来ており、袖の長さも肘あたりまでになっている。動きやすさと季節を考えたつくりなのだろう。
「商人が多い街だから、あまり武器を見せびらかしてうろうろしていると良い印象を持たれないの。暑いかもしれないけど、着ておいて」
エルは外套を羽織り、リリスとともに目的の商会へと向かった。
目的の商会はハーゲンティ商会から近い場所にある。そこまでの道のりである大通りには、朝早くにも関わらず、数多くの露店が並んでいた。店先には商人が仕入れてきた、新鮮な魚や肉がつるされている。昼ほどではないがそこそこに人も歩いている。
何にでも興味津々なエルの首根っこをリリスが掴む形で進んでいると、目の前に大きな屋敷が見えてきた。
隅から隅まで白で統一された屋敷である。周りにはレンガ造りの建物が多いため、それは明らかな異彩を放っていた。何にも染まっていない白で塗り固められた屋敷は清楚、ではなく不気味さしか放っていない。
リリスは呼び鈴を鳴らす。少しして、屋敷の中から一人の穏やかそうな紳士が現れた。
「お久しぶりです。リリス様。お話はお手紙で伺っておりますので、用意が済むまで中でお待ちください」
金属音とともに、屋敷の敷地へと入るための門が開かれた。金属の門まで白に塗装するほどの徹底ぶりにエルは感嘆する。
二人は応接間に通され、座ってくつろぐ。彼らを案内すると、紳士はここで待つように言い残して応接間から出て行った。
「そういえば伝えていなかったけど、ここはウバル商会といって、うちの得意先なの。これからも何度か来ることがあるから覚えておいた方がいいと思う。さっきの方は商会の長のウバルさんね」
「何をしている商会なんですか?」
「えっとね、それは――」
そうリリスが言いかけたとき。
応接間の扉が勢いよく開く。
ずいぶんと早く帰ってきたことにエルは驚く。急いで来たのだろうか。息切れしながら、紳士ウバルが現れた。その表情に先ほどの穏やかさはない。
「まずいです! 国軍兵士がうちに……!」
その言葉を聞くやいなや、リリスは立ち上がる。状況を飲み込めていないエルも遅れて立ち上がった。
国軍兵士といえば、勇者の中でも一握りの人間だけが任命されることを許されている精鋭部隊である。エルも何度となく彼らには苦い思いを経験させられてきている。しかし、彼はなぜ国軍兵士がこの商会に来ているのか理解できていなかった。ただ、二人の様子から、不測の事態が起きたということだけは理解していた。
「こちらへどうぞ! 裏口はまだ兵士が来ておりません!」
ウバルとともに屋敷内を走る。遠くから大きな罵声が響いてきた。国軍兵士のものであろう。使用人ともめているのだろうか、何か陶器のようなものが割れる音もした。
ウバルは廊下の途中で立ち止まると、床に敷かれた赤い絨毯をめくった。地下室への入り口らしき床扉が姿を見せる。
リリスがそれを開き、エルも指示されるがままにそこへ入ると、二人だけを地下に残して扉が閉められた。ウバルは国軍兵士の足止めをするために上に残ったのだろう。彼らについてくることはなかった。
そこは薄暗い地下室であった。若干照明は灯っているものの、ほとんど何も見えない。土と埃の臭いとともに、うっすらと鼻につく鉄さびのような臭いがした。エルははぐれないように、リリスの後ろにぴったりとついて歩く。
じゃら、という金属音とともにエルは足を取られてしまい体勢を崩す。それは鎖であった。なぜここに鎖が、と一瞬エルは考えたが、まずは逃げ出すことが優先だと考え直して再び歩き出す。
リリスは裏口への道を知っているようであった。地下の部屋を次から次へと移ってゆき、見事に地上へと続く階段を見つけ出した。
天井扉は建物と建物の間に挟まれた裏路地につながっていた。リリスは少しだけ顔をのぞかせて周囲を確認する。それほど歩いてはいないため、屋敷のすぐ近くなのだろうが、兵士の姿は見られない。素早く裏路地から大通りへと入り、人ごみにまぎれる。
ようやく心を落ち着かせたエルはリリスに質問を投げかける。
「なんで国軍兵士が商会に来るんだ?」
「国軍兵士はね、あなたも勇者の端くれならよく知ってると思うけど、国の治安を守るのが仕事なの」
「国の治安と商会に乗り込むのと関係があるのか?」
「商会の中にも不正を働いてお金を稼ぐようなところがあってね……さっきの商会は、少し、そういう面があるの」
そこで、エルははっとした。
先ほどの地下室での、鉄さびのような臭い。あれは血の臭いなのだと。やましいことが何もなければ絨毯の下に地下室への道を隠すこともないだろう。
「ウバルさんのことは心配だけど、私たちがあそこに戻るのは得策じゃない。まずは社長に報告しましょう。大丈夫、ウバルさんなら何とか切り抜けるわよ」
ハーゲンティ商会に戻り、リリスはシュルクに先ほどの出来事の報告をする。
はじめは報告に驚いたシュルクであったが、すぐに冷静になって椅子に座り、頭を抱えるようにして髪を両手で撫でた。
「そうか。ウバルから手紙か何かが送られてくるまではこちらから行動しない方が良さそうだな。まずは、君たちが捕まらなくて本当によかった」
無事を喜んでのことか、シュルクは二人の手を握る。
「だが、国軍兵士とは。少し面倒なことになったな。あいつらとの争いだけは出来る限り避けたい」
「国軍兵士に嫌な思い出でも?」
「嫌な思い出も何も、国の組織と争って商会がやっていけるわけがないだろ。もちろん、個人的に嫌な思い出もあるが。俺も勇者の端くれだからな」
エルはシュルクの言葉に納得する。
以前、コモドの元で学んでいたという話を聞いて、シュルクは勇者の肩書きを持っているだろうと薄々感付いていたのだが、ここでそれが確信へと変わった。
そしてシュルクも以前に国軍兵士にいびられた経験があるのだろう。ほとんどの勇者が当然のように経験していることだ。大学校の教官といえども、国軍兵士には頭が上がらないほどだと、エルはコモドから聞かされていた。
勇者を商会の構成員として加えることはよくあることだが、彼のように勇者と商会の長を兼業しているものはほとんどいない。
最低限の生活費は勇者業でまかなうことが出来るし、もしさらに金が欲しいのであれば一から商会を立ち上げるよりは魔獣を狩った方が安定しており失敗する危険も少ないからだ。勇者として格を上げれば、もしやするといつかは国軍兵士になることも出来るかもしれない。そうなれば、俸給は莫大なものとなる。その道を諦めて、わざわざ商会を立ち上げるのはよほどの物好きであった。
「とにかく報告ありがとう。残りの仕事を続けてくれ」
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リストの人物を回りきると、街はすっかり茜色に染まっていた。
彼の予想とは裏腹に、仕事を覚えるのはそれほど難しくはなかった。明日からは彼一人でも貸金の回収であれば出来るであろう、と思えたぐらいであったのだ。
エルは商会に戻って書類をまとめ、リリスと別れた。
どうやら、リリスと仕事をしている間にシュルクが住居の手配をしてくれたようであった。まとめた書類を手渡す際に、彼はシュルクから住居の鍵を受け取った。
そして今、彼は新居へと向かっていた。ハーゲンティ商会のそこそこ近くに位置しており、毎日の行き帰りもそれほど苦にはならなさそうである。
大通りの露店の店主たちは商品を買ってもらおうと必死に声を張り上げていた。値札には元の数字の上に割引された価格が大きく書き足されている。エルは嬉々として色々な露店にふらり、ふらりと立ち寄りながら、適当に食料を買い込んでいく。
ようやく彼が自宅を発見した頃には、彼の両手は品物で一杯になっていた。紙袋に両手を塞がれながらも、エルは鍵を開いて中に入る。
外観は周りの住居と同じようなレンガ造りで、これといった特徴はない家である。しかし、アルペンの家よりはずいぶんとましだ、と彼は感じていた。
台所に食料品をおき、椅子に腰をおろした。どっと疲れが押し寄せてくる。やはり、慣れない環境というのは疲れるものだ。
目をこすりながらぼんやりと部屋を眺めていると、一通の茶封筒が彼の視界の端に映った。
手に取って裏返すものの、差出人などは不明である。しかし、本来であれば誰も入れないはずの家の中に茶封筒を置ける人物を思い浮かべてみると、おのずと答えは導きだされた。
間違いなく、シュルクである。
嫌な予感とともに、封筒をやぶって中の手紙を取り出す。
びっしりと、几帳面に、揃えられた大きさで。そこには小さな文字が仲良く並んでいた。主な内容は、今後の給料についてであった。
住居代、借金を差し引いて、月に三金貨が給料となる。アルペンで暮らしていた頃と比べるとかなり少ない収入であったが、この数週間の遠出や諸々の出費のせいで、五百金貨あったはずの財産が五十金貨となってしまっていた彼にとっては、お金が入るだけでもありがたいことであった。
とはいえ、それだけでは生活費としては心もとない。
「仕方ない」
誰もいない部屋で彼はそう呟くと、紙袋から取り出したパンをくわえる。そしてそのまま、二つの武器を手に夜の街に繰り出した。
彼はまがりなりにも勇者であった。お金がなかろうと、今は商会で働いていようと、借金があろうと、彼は勇者である。その身分を剥奪できるのは国だけである。
勇者が何をして金を稼ぐか。それはもちろん、魔獣狩りである。
彼はダンデインの街を抜け出し、適当に散策をはじめた。
人間が活動をやめた夜中には魔獣が現れやすい。彼もアルペンにいた頃はときどきこうして夜の森の中や草原を歩き回ったものだ。夜の魔獣がとりわけ危険というわけでもない。昼に人目に現れるのを避けるような弱い魔獣も姿を見せるため、単純に数が増えるだけなのだ。
大都市部の周辺は栄えているだけあって、夜中であっても彼と同じように魔獣狩りをしている勇者と思しき集団とよくすれ違った。その度に軽く会釈をしてそそくさとその場から退散する。彼らの縄張りを取る気はないという意思表示をする必要があったからだ。
しばらくして、彼は森にたどり着いた。
鬱蒼としげった木が風に吹かれてざわざわと揺れ、まるで彼が来るのを拒んでいるかのようであった。周りには人も見当たらない。
不気味というよりは神秘的であった。
月の光が葉に遮られ、線となって地面に降り注ぐ。地に倒れて朽ちた木の幹には、月に照らされた、赤々とした傘をもつキノコがいくつも乱立しているのが見える。
エルは耳をすませて森の音に集中する。木々を吹き抜ける風の音。虫の羽音。動物が草を踏みつける音。だが、特に大きな音はしない。静かであった。
人がいないということは、よほど危険な場所か狩る対象がいない場所か。そのどちらかであろう。
だが、今の彼の頭の中に、それらの考えは全くなかった。神秘的なこの森を探検したい、という好奇心だけが彼を突き動かしていたのだ。
彼は森の中をずんずんと進む。魔獣は見当たらない。
森の小動物は彼を見ると一目散に逃げて行く。彼にはそれが道案内のように見えていた。
木の枝を剣の鞘で振り払いながら、小動物が逃げる方へと、獣道を進んでいく。そして突然視界が開けた。
現れたのは小さな湖であった。
月の光を反射し、青色に光る水面。水は澄んでおり、水底はよほど深いところでなければ目で見ることができる。魚たちはまるで踊っているかのように、水中を泳いでいる。
そして、湖の向こう側に、人の姿があった。
それは少女であった。肌は透き通るような青白さで、髪は地に届きそうなほどの銀髪。ぱっちりとした赤い目、筋の通った鼻。空を見上げ、口をぽかんとあけていた。
なぜこんなところに少女がいるのか、エルは目を擦ってもう一度湖の向こう側へと目をやる。
だが、それは間違いなく少女であった。
少女は来訪者の気配に気付いていないのか、のんびりと少し大きな石に腰をおろす。小動物が寄ってきて、彼女の手を伝って肩へ器用に乗り移る。彼女は微笑み、寄ってきた小動物を優しくなでていた。
話を聞かねばなるまい。そう思い立ち、彼は草陰から身を出した。がさり、と大きな音が湖を越えて響き渡る。
少女はびくりとして、そこでようやく初めて青年の気配に気付いた。
エルはゆっくりと、彼女を警戒させないように手を差し出しながら湖を回るようにして近付いて行く。
「なんでこんなところに――」
彼は声をかけようとしたが、直後に背後から殺気を感じ、身を翻した。
彼の目に映ったのは、屈強な体に、牛の角と頭を持つ怪物。
ミノタウロスだ。B級魔獣に指定される魔獣である。
勢い良く鼻から、ぶるる、と息を吐き、斧を構えて青年を威嚇する。後ろの方で、少女が森の中に逃げて行く音がしたが、それに構っていられるほどの余裕はなかった。
彼は黒い剣を抜き、間合いを取る。あの斧をまともに受ければ剣はおろか、彼の体ごと真っ二つになってしまうだろう。
牛の怪物は彼の取った間合いを気にすることもなく、ゆっくりと歩いて、彼へと近付く。それに合わせ、青年もじりじりと足を後ろに引く。
逃げる彼に業を煮やしたのか、怪物は地を蹴ると一気に青年へと駆け寄った。
大振りの斧を、すんでのところでかわす。斧が大きいからといって、それはけっして緩慢な動きなどではない。彼の剣速とそれほど変わらないであろう。だが、ぎりぎりで躱したことによって、彼は最小限の動きで次に移ることが出来る。
かわした後の隙を見逃さず、エルも剣を振るう。横一文字の剣光は確実に怪物の腹部を捉えていた。
が、手に感じたのは想像以上の反発。彼は剣を振り切れなかった。
怪物は鎧など着ていない。その規格外の筋肉が、彼の剣をとめたのであった。ありえない。そう彼が思った瞬間には遅かった。
ミノタウロスはそのたくましい腕を切り返して、彼の首を狩ろうと斧を高く構える。
斧が月を反射してきらりと光った。
死を覚悟する。怪物の動きがゆっくりと、スローモーションのように見えた。
そのとき。
――ちりん、と。鈴のような音があたりに響いた。
それは小さな音であったが。虚が、空間を、時間を、包んで丸ごと静止させた。青年に向けて振り下ろされるはずのミノタウロスの斧も、はりつけにされたかのようにその場に止まっている。
その虚から誰よりも早く持ち直したのはエルであった。
右手は腹を捉えたままに、左手でもう一つの腰に差している剣の柄に手をかける。淀みなく、次はその切っ先を怪物の首に向けて振るった。
だが、怪物もいつまでも静止したままではない。
間違いなく首を切り落とせるほどの斬撃ではあったが、怪物はそれをかわす。かわりに、その薄い刃は鋭い切れ味で怪物の角を真っ二つに切り落としていた。
牛のような地を震わす鳴き声をあげ、ミノタウロスは二、三歩後ろへ下がる。
角は途中で切れ、そこからは赤い鮮血が吹き出ていた。そのまま大きく跳躍すると、怪物は森の中へ姿を消してしまった。
再び湖に静寂が訪れる。
「角切れると血が出るのか……」
緊張の糸が切れ、言葉を発するエル。何かを喋らなければ、再び緊張が自分を押しつぶしてしまうのではないかという恐怖から、彼は意味のない疑問を口から放っていた。その言葉に意味もなければ、彼が興味を持っているわけでもない。
そして彼は考える。
まず、ミノタウロスほどの巨体が周囲から現れて気付かないはずがない。それが、体三つ分離れているといった話ではなく、一つ分離れた場所に近付いてくるまで、彼はその存在に気付かなかった。突然そこに、文字通り、現れたとしか考えられない。しかし、そんな現象もありえない。
次に、あの鈴のような音である。あのような小さな音が彼や怪物の耳に届くはずがないし、その後の体が硬直するような感覚も不思議であった。
そして最後はあの少女である。あれからどこに行ってしまったのだろうか。すっかり周囲からは人の気配が消えてしまった。もし、あの怪物に襲われていたらどうしたものだろうか。森を無事に抜けられたのだろうか。
どの疑問に対しても、納得できる答えは出てこなかった。
青年はミノタウロスの角を拾い上げる。これだけでも、数金貨はする代物である。命があっただけでなく、角まで拾えたことは幸運中の幸運であった。
周囲に細心の注意を払いながら、森を出る。
安堵のため息をつき帰路につこうとする。そこで無事に家に帰れればよかったのだが、神はそれを許してはくれなかった。
前方から鎧に身を包んだ男が歩いてきたのだ。兜は外しているが、白い鎧と胸に刻まれた赤い龍の印で、それが国軍兵士だと分かる。
「おっ、勇者さんじゃないか」
男の視線はエルの手にある、ミノタウロスの角に向けられていた。片眉とともに口角がにやりと上がる。
「牛人の角? このあたりでの目撃情報はないはずなんだがな」
「そうですか。急いでいますのでこれで」
エルがその横を通り抜けようとすると、兵士の腕がそれを遮った。
「仕事終わりでな、すごく疲れてるんだよ。今日のお酒の代金が欲しいなって丁度思ってたところなんだ。いやなに、寄越せだなんて言うつもりはないさ。ただ、ちょっと一緒にお酒でも飲まないかなって思ってね。国軍兵士とお酒が飲めるなんて——」
「そこまでにしておけ」
聞き覚えのある低い声が聞こえた。
「お前……ハーゲンティの金貸しシュルクだな」
「国軍兵士様こそ、こんなところでそんな貧乏そうな勇者を取っ捕まえて何をしているんですかね」
シュルクは兵士の手をどけさせ、エルを解放する。
男はシュルクをじろじろと睨みつけた。シュルクもそれに応じるように眉を寄せる。
シュルクが引かないことに苛立ったのか、兵士は舌打ちして二人に背を向けた。
「次は絶対に現場で取っ捕まえてやるからな、覚悟してろよシュルク」
ひらひらと兵士は手を振る。それに対してシュルクは挑発するかのように、楽しみにしてるよ、と大きな声で返した。
「さあ、帰るか」
「あれ、なんで社長はここにいるんですか」
「夜の散歩、という名目の副業さ。お金はいくらあっても困らないからな。お前も獲物を狩るのはいいが、大物を狩ったのなら隠して帰れ。ここだとさっきみたいに国軍兵士に横取りされるのが常識だぞ」
エルはシュルクから渡された麻袋に角を入れると、今度こそ自宅へと帰る。
「ところで、助けたお礼にちょっと分け前くれないか?」
ちゃっかりとしているシュルクに苦笑いしながら。