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南蛮犬

作者: 五作

   一 プロローグ


 どこを見ても海、海、海。

 見渡す限り目にするものは果てしなく広がる青い海原と、ジリジリト容赦なく照りつける灼熱の太陽。

 いまこの広大な海原を漂う一艘の船は、遠く民国(今の中国)から荷物を積んで、はるばる日本へ交易にやってきたのです。昨日までのしけが夜になってようやく止み、舵の壊れたこの船は揺りかごのようにゆらゆら黒潮に乗って、漂流しながら北上しています。夜になりようやく乗組員一同安心したのか、昼間の疲れも手伝ってぐっすり寝入っています。その隙をつき、月明かりをたよりに船底に通じる扉の前で一人の男がうずくまり、用心深く辺りを窺っています。やがて人の気配がないことを確かめると安心したのか、

「もう、おらぁ我慢なんねえだ、くる日もくる日も葡萄酒の匂いさ嗅がされ、そんでもっておらたちにゃあ一滴も飲ましてくれねえだ。よし、こうなりゃあ今夜はこっそりいただきでえ、ウッヒッヒ」

 酒癖の悪い男という者はどこの国にもいるもので、こ奴は明国船の雇われ人足です。素早く船底に潜り込むと中はムッとする蒸し暑さ。人足はしばらくじっとしていると、額から頬にかけて玉のような汗が吹き出してきます。手甲で汗を拭きながら、かねてから目星をつけておいた荷物を目指して、手探りしながら向かって行きます。奥の荷物には高価な葡萄酒がぎっしり積まれているのです。そのとき人足は天井の小窓からわずかに差し込む月明かりの下、金色に光り輝く二つの目がじっと睨んでいることに気づきませんでした。

「ここだここだ、ヘッヘッヘ、葡萄酒さま今夜はたっぷりと拝ましてもらいますぜ」

 にやけた口元からよだれを垂らしながら、一番大きい木枠の荷を夢中でこじ開けています。中には数個の壺が木で仕切られ、献上用の高級葡萄酒が入っているのです。人足は壺の栓を抜くと、腰にさしていた一尺ほどの細い竹筒を口にくわえ、チュウチュウと葡萄酒を吸い始めました。

「ヒャーこりゃあうめーや、またこの味がたまらねえぜ、ヒッヒッヒ。おまけに今年の葡萄酒の出来が最高とくりゃあ、ヒッヒッヒ、いうことねえぜ」

 あまりの嬉しさに肩をふるわし、我を忘れて葡萄酒を吸っています。その暗闇の奥で微かになにかが動きました。しかし夢中になって葡萄酒を吸っている人足には知るよしもありません。

 金色に光り輝く二つの目は、人足が船底の扉に手を掛けたときから分かっていたのです。音も立てずにそっと四本の足でち上がると、猛獣のような軽い身のこなしで、間合いをじわりじわりと詰めてゆきます。だんだんと唇はめくれ上がり、怒りに燃えた目はますます金色に光り輝き、鋭い牙が獲物を欲しがっています。

 ほろ酔い気分で飲んでいた人足は、ふと不安にかられ恐る恐る後ろを振り向くと、

「ウオー」

 いきなり飛びつかれ、咄嗟にかばった左腕が、

「バキッ」と砕けた鋭い音。

「ギャー」

 人間の声とは程遠い不気味な悲鳴が船内に響き渡りました。人足は痛む左腕をかばいながらも目を凝らして辺りを窺うと

金色に輝く目が睨みをきかし、唸りながらも再び襲いかかりそうな素振りです。とうてい人足の逃げる隙などありません。

「た、た、助けてくれー、人殺し―」

 あまりの恐ろしさに小便を漏らしたことさえ気づかず、頭を抱えて泣き叫びその場にへたり込んでしまいます。

 騒ぎを聞きつけ船長をはじめ大方の乗組員が眠い目を擦りながら、松明を照らして駆けつけてみると、みんなはすぐに状

況が呑みこめました。その獣はまだ人足を威嚇するように唸り声をあげ、いまにも噛みつきそうな気配で身構えています。

そこへポルトガル人が足早に松明を持って駆け付け、口笛をピッピッと二度吹くとその獣は急に大人しくなりました。そし

てポルトガル人の足元へゆっくりと寄り添い、頭を撫ぜてもらうと尻尾を振って嬉しそうにしています。

 よく見れば犬、いや西洋のオオカミといったほうがいいかもしれません。全身が金色の毛におおわれ、ポルトガル人の腰の高さまで肩高があり、体重はゆうに十六貫(約六十キロ)はこえています。


 さてその漂着船が種子島の南端、戸倉崎に着き二日後に十数艘の船に曳かれて、赤尾木の津(今の西之表港)に入港したときには、もうその犬は見えなくなっていたのです。


 一五四三年ポルトガル人によって鉄砲が伝来した年の暑い夏のことでした。


    二 旅立ち


 その後、時は流れて堺の港に北前船が入って来ました。

 この船は堺の大商人の一人、天王寺屋の持ち船で、下関、鹿児島、少し道草をして種子島、尾道、大阪、大島と航海をしてようやく堺に着いたところです。

 強い陽射しが船の真上から照りつけ、雲一つない晴れ渡った青空に、カモメが群れをなして舞っています。

 船は帆を畳みゆっくりゆっくり接岸して、気がつけば小舟が前に一艘、両脇に各一艘寄り添うように誘導しています。

 堺の港が見えてから男はずっと舳先に立ち陸地を見据えています。肩幅が広く四十路を超えたばかりで、頭としての風格が満ちています。背丈は五尺二寸くらい小柄だが胸板は人並み以上に厚く、美濃笠を被り顔は赤銅色に日焼けして、手には太い麻縄を握っています。その先には大型の犬が男の脇に寄り添うようにして立ち、同じように陸地をじっと見据えています。体毛は全身が銀色で両肩は筋肉で盛り上がり、瞳は珍しい金色で耳は立っています。おそらく南蛮あたりの犬なのでしょう。

 男の名前は助五郎。いま助五郎は犬の頭を撫ぜながら、地平線を見つめながら遠い昔を思い出し、さながら人にもの言うごとく語りかけています。

「そうさなあ、あれは儂がまだ鼻垂れ小僧だった頃よ。よく親父さまに連れられて、この港に来ては飽きもせず二人で海を眺めていたものよ」

ーーー助五郎、この海のずっと先にはのう、儂らが住んでいるよりも、もっともっと大きな陸地があるんぞう。

「すると儂は、いつも目を輝かせ傍らに置いてあった竹ざるを両手に抱え、いい返したものよ」

ーーーおら、このざるにいっぺえ宝さ入れてくるだ。おとう、いますぐ宝の山さ行くだよう、早よう行くだよう。

ーーーおうおう、分かった分かった助五郎。儂の留守の間は、かか様の言うことをよく聞いて読み書き算盤をせないかんぞう。それとな、おまんまたんと食って、おとうみてえに早ようおおきゅうなって、力さつけな宝の山までは連れていけんぞ。

「いつもそう言って片腕の袖をまくっては、小山のような力こぶを作ってくれたものよ。すると儂もまた同じことを尋ねるんじゃ」

ーーーおまんまたんと食うたら、おとう見てえになれるんか。

ーーーあーあーなれるぞなれるぞ、ただなあ魚が食えんことには力はつかんぞ。

ーーーおら、今日からかか様の言うこと聞いて、魚さたんと食って大きゅうなるだ。

ーーーよしよし聞き分けのよい子じゃ。たんと魚さ食えば力がついて、琉球だろうが天竺だろうがどこへでも行けるぞ。

「親父さまは儂を肩車にして、遥か彼方の水平線を指差し決まって言うんじゃ」

ーーーほーれ助五郎、異国の陸地が見えるかえ。

「儂も水平線を指差し同じことを言うんじゃ」

ーーー見えるぞ見えるぞ、おら大きゅうなって、おとう見てえにあの宝の山さ行くだ。

 勝手に宝の山を思い浮かべ、一人はしゃいでいた頃を思い出しながら、脇に寄り添う犬の頭にそっと手のひらを乗せ、

「この異国の地でお前自身を試してみるかえ」

 助五郎はゆっくりと麻縄を犬の首から外してやり、肩を軽く手のひらでトントンと二つ叩くと、

「さあ行くがええ、あの宝の山へ」

 人差し指を岸へ向けると、犬はゆっくりとした足取りで舳先まで歩いて行きます。いつの間にか船は岸に迫っています。距離にして二十間位(約三十六メートル)でしょうか、対岸では屈強な男衆が三十人程ふんどし一丁に天王寺屋の印袢纏を羽織り、威勢のいい掛け声を交し合いいまかいまかと待っています。その後ろには女、子供、年寄りが大勢で談笑しています。全員が家族や親戚、お店の者たちなのでしょう。

 犬は舳先の先端で立ち止まると、ゆっくりと首だけ振り向いて助五郎を見ます。助五郎は無言で頷きます。それがあたか

も互いの合図のように、犬は見事な跳躍で舳先を蹴り海に飛び込みました。ヒイ、フウ、ミイ、ヨー、イツ、ムウ、ようやく犬の頭が海面からひょっこり現れると、対岸で見ていた人たちから「おーっ」という驚きの喚声と、喜びの拍手がいっせいに沸き起こりました。

 犬は難なく岸に泳ぎ着き、陸に上がって体を大きくブルブルっと振るわすと、強い陽射しを受けて銀色の体毛からまとわ

りついた水滴を、宝石のような輝きで辺り一面に飛散させました。やがて濡れた足跡を残し、堺の街並みへ吸い込まれるように見えなくなってしまいました。舳先から犬が見えなくなっても堺の街をずっと見つめている助五郎。

 いやいまは天王寺屋二代目と名乗っています。

 世は戦乱の日々、なにを思うか二代目、津田宗及。


     三 出会い


 初夏とは言えど蒸し暑く、ときおり潮風が涼しさを運んでくる夕暮れ間近い堺の街。

 刀鍛冶の作造は大商人の一人、天王寺屋こと津田宗及さまのお屋敷からいくぶん顔を紅潮させて出てきました。ときどき考え込むように腕を組み、ゆっくりと家路に向かって歩いています。

 今し方、番頭才蔵の案内で茶室に通され、旦那さまじきじきに茶をたてていただき、

「作造さん、これがいま堺で評判のお品でございますよ」

 無造作に包まれた細長い油紙を膝元へ差し出されると、作造は両手を畳の上につき、深々と一礼してから慎重に油紙をはがしてゆきます。やがて幾重にも厳重に包まれた油紙の中から出てきたものを見て、

「おーっ」と驚きの声を漏らすと、初めて見る火縄式鉄砲をまるで刀の鑑定をするかのように見入っています。

 作造は目を輝かし、まるで幼い子供が珍しいおもちゃを与えられたように飽きもせず、かなりの時を掛け細部の仕組みまでも漏らさず見ていましたが、やがて一声、

「うーん、見事な造作でございますなあ」と言うなり、そっと油紙の上へ火縄式鉄砲を戻します。黙って見ていた天王寺屋の主人はさも満足そうな笑みを浮かべ、

「どうですかな作造さん、これと同じものが作れますかな」

「作れんこともないですがのう」

 もとより負けず嫌いの作造はこともなげに言ってのけます。

「な、な、なんとこれと同じ火縄式鉄砲が、つ、作れると」

 意外な返答に天王寺屋が顔色を変え、確かめるように体を乗り出し作造の顔を覗きこんでいます。

「作れんこともないですがのう、いまの仕事場ではちと無理がありましょう」

 手狭な仕事場を思い浮かべながら言い返します。

「しかしこうも同じ鉄から美しい芸術品が出来るとは……」

 もう作造の頭の中は火縄式鉄砲のことでいっぱいです。すぐに察した天王寺屋は話題を変えて、

「まあまあ、そう難しゅうに考えなさんな。おう、そうじゃそうじゃこのカステーラを食べてみなされ。これも鉄砲といっしょに種子島に入って来たそうな、南蛮人は随分と珍しいものを持って来たものじゃ。これなんぞはおなご達が大層喜びましてな、ハッハッハッハァ」

 火縄式鉄砲を作れんこともないと言った作造の言葉に、天王寺屋はすこぶる上機嫌で、わざわざ奥から桐の箱に入っている金平糖まで引っ張り出して勧めるありさまです。なんと言っても作造は、この広い堺の街で一番の刀鍛冶なのです。そのお墨付きを戴いたとあれば天王寺屋でなくても喜ぶのはあたりまえです。


 いま作造は家路に向かい、腕組みをして考えながら歩いています。

 すると道端に大きなものが……。

「はて、なにかな」

 よく見れば、そこに大きな銀色の毛におおわれた犬がお座りをして作造を見ています。

「なんじゃ犬かえ」

 近寄って背中を丸めながらゆっくりしゃがみこむと、

「ほう、こりゃあ珍しい犬じゃのう、この辺りじゃ見かけんさけえお前さまは迷子かえ」

 少しおどけて頭を撫ぜてやると、犬は尻尾を左右に振り、嬉しそうに金色の瞳で作造を見つめています。

「行く宛がなけりゃあ儂の所へ来るかえ、うん、どうじゃ」

 また犬の頭を撫ぜてやると、言葉を理解したのか前よりもいっそう尻尾を大きく左右に振り、とても嬉しそうにしています。

「おう、そうかそうか来てくれるのか儂の家はすぐそこじゃ、着いたら美味い猪肉をたんと食わしてやるぞ、さて行こうかの」

 作造はゆっくりと立ち上がり、おいでおいでと手招きすると犬も後ろからゆっくりとついて来ます。心持ち足がふらついているように見えますが、たぶん腹を空かしているせいかも知れません。作造は嬉しそうにときどき後ろを振り返りながら、

「お前は大人しそうやで、お菊の喜ぶ顔が目に浮かぶのう」

 お菊は作造の一人娘で、ちょうど八歳になったばかりです。

 先月二つ年上の兄、城太郎が流行り病で亡くなってからというもの、ずっと家に閉じこもり食事も取らず毎日泣いてばかりいるのです。近ごろではめっきり体もやせ衰え、夫婦で思案していた矢先ちょうど運よくお菊の大好きな犬に巡り合い、これもなにかの縁と思った作造は、我が家へ犬を連れて帰ろうと思ったのです。犬は二三歩遅れてついて来ます。なにか危険を察知したのか、しきりにうしろを気にしては立ち止まり、鼻を高く上げ匂いを嗅ぎ取ろうとしています。

 だいぶ後ろから見え隠れしながら手拭いで顔を隠し、右手に鎌を持ち左手には杖をつき、腰を曲げて竹籠を背負い、ゆっくりとついてくる者がいます。片足が不自由と見えて少し引きずるようにして歩いています。おおかた近くの年寄り百姓でしょう。いや、そうではないようです。ときより物陰に身をひそめ辺りを鋭い目つきで窺っています。

「ふん、どうやら気がついたようじゃな、儂の尾行を見破るとは幻覚さまも焼きが回ったものよのう。まあ犬が相手では致し方あるまいて、急いては事を仕損じるというから今日のところは引き上げるとしよう」

 幻覚は極悪非道な根来の忍者なのです。

 先程来より、天王寺屋の茶室床下に忍び込み堺の大商人、津田宗及と刀鍛冶、作造の会話を逐一盗み聞きしていたのです。しばらくしてまた一人の忍者が音もなく現れ、なにやら懐から筒のようなものを取り出して覗いています。どうやら南蛮渡来の遠メガネのようです。幻覚が消えた遥か先を覗いてうなずいています。

「あの身のこなしはただ者ではないな、はてこの先は根来衆の縄張り、となれば首領は幻覚、これは大きな鼠が忍び込んだものよのう、まずは旦那さまに報告せねばなるまいて」

 背格好からして幻覚よりも細身の体型ですが、よくよく見れば天王寺屋の番頭、才蔵です。別段あわてる様子もなく引き返して行きます。いまは忍び装束から普通の商人の身なりで歩いています。

 そんなことなど露とも知らず、お菊の喜ぶ顔を思い浮かべながら家路を急ぐ作造でした。


     四 お菊と城太


 作造は家へ着くなり、納屋にぶら下げてあった丈夫な縄を持ち出し、犬の首に結わくと急いで軒下につなぎ妻を呼びます。

「およね、およね、いま帰ったぞ」

「はーい」

 奥で夕食の支度をしていたおよねは、夫が帰って来たので慌てて手を拭きながら玄関口へ、そして静かに座ると三つ指をついて深々と頭を下げて夫を出迎えます。およねは武家の出で礼儀作法にはうるさいのです。

「お帰りなされませ」

「およね、またそんな堅苦しい挨拶はいいと申すに」

 いつもの作造の小言を軽く聞き流し、

「今日は随分とご機嫌なことで、いかがなされました」

「うん、じつはお菊を喜ばそうと思うての、いいものを連れて来たぞ。早うお菊を呼んでおくれ、おう、そうじゃそうじゃ猪肉があったろうが、それもいっしょに持って来ておくれ」

 気ばかりあせる作造はすぐに考え直すと、両手でおよねを制し、

「いやいや儂が猪肉を持ってくるさけえ、早うにお菊をここへ呼んでおくれ」

 よほど良いことがあったと察したおよねは、急いでお菊を呼びに奥の間に入って行きます。寝床にふせっているお菊は、顔色も悪く目にはまったく生気がありません。

「お菊、お菊、具合はどうじゃ。いまとと様がお菊の大好きなものを連れて来たと言うて玄関で待っていますよ」

「はい、かか様」

 かぼそい声が返ってきます。しばらくして寝間着姿のまま、母の手につかまりながらゆっくりゆっくり玄関まで歩いて来ます。時々よろけそうになり、母のおよねが慌てて両手で支えなければとても一人で歩くことなど叶いません。もう肩で息をして疲れがだいぶ出ている様子です。あのふっくらと元気で可愛かったお菊が、ひと月足らずで見るに忍びないほどに痩せてしまい、さながら老婆のごとくふらふら歩いているのです。

「かか様、お菊の大好きなものってなあに」

「さあ、自分の目でしっかりと確かめねば分かりませぬよ」

 子供特有の好奇心に揺り動かされ、お菊は一所懸命に父、作造の待っている玄関口まで母の手を借り歩いて来ました。

 夕暮れどきと見えて辺りは薄暗く、お菊が目を凝らして見ると、父の足元に全身銀色の大きな犬が行儀よくお座りをしてお菊とおよねを見ています。それを見たお菊は大喜びで、母といっしょに犬に近寄ります。

「とと様、どうしただこの大きな犬は」

「ああ、儂が天王寺屋産の帰りに偶然会うてのう、行く宛てがないなら家へ来るかと言ったらついてきたんじゃ」

「へ~え、とと様の言葉が分かるんじゃろうか。よしよしお前はよい子じゃよい子じゃ」

 お菊が犬の頭を撫ぜてあげると、犬もお菊が気に入ったのか擦り寄ってきて、尻尾を左右に大きく振って喜んでいます。ほんの少し前までは一人で歩くことさえままならない体だったお菊が、犬といっしょにいるだけで元気になったように見えます。後ろでお菊の喜んでいる様子をじっと見ていた作造は、

「おきくや、犬の名前を考えてやらねばなんねえぞ」

 およねも側に来て、

「そうじゃお菊、ひとついい名前をつけておくれ」

 お菊は少し考えると、

「そうじゃ城太がええ」

 その名前は先月、流行り病で亡くなった兄、城太郎の名前から二文字を取ったものです。そんな兄思いの一人娘お菊が不憫でならず、ついおよねは、

「よい名前じゃ、なあ、おまえ様」

 作造に同意を求める眼差しを向けると、

「あ、ああ、今日からお前は城太じゃ」

 作造が犬の頭を撫ぜてやると、また尻尾を大きく振ってたいそう喜んでいます。お菊も犬の頭を撫ぜながら、

「お前は今日から城太じゃよ、分かったかえ城太」

 犬も分かったと見えて、お菊に擦り寄り長い舌で顔をペロリと舐めます。

「フッフッフ、くすぐったいよ城太」

 笑いながら飽きもせず、いつまでもいつまでも城太を抱きしめています。久しぶりのお菊の笑い声に、気がつけば作造とおよねもいっしょになって目を潤ませ笑っています。ようやく作造一家にも以前の陽気な笑い声が戻ってきました。きっと城太は幸運を呼ぶ犬なのでしょう。

 翌朝からお菊は母の手を借りず、杖をつきつき城太の世話を始めました。昨日まで母の手を借り、やっと歩いていたあの半病人のお菊がよほど城太が気に入ったと見えて、生き生きとした顔をして気丈に一人で立ち振る舞っているのです。

 雨の日、風の日、晴れの日と、はやあれから幾日か時は流れ、ようやくお菊は杖なしでも歩けるようになりました。今日もいつものように城太と裏の畑で戦ごっこをして遊んでいます。犬の城太に二尺の棒を銜えさせ、お菊も二尺の棒を持って互いに打ち合うのです。たかが子供の遊びですが、それでもたまに棒がそれて城太の頭に当たるとお菊は顔色を変え、

「城太、大丈夫かえ、痛くなかったかえ、ごめんよ」

 いたわるように優しく頭を撫ぜながら、

「いつまでも側にいておくれ分かったかい、城太」

 お菊が頬擦りすると城太は嬉しくて嬉しくてたまりません。

「そうだこの百合の花に願いごとをしようね」

 そう言って小石を二つ拾うと、傍らに咲いている百合の根元に小石を重ねます。そして小さな手を合わせ、目をつぶって一心に祈っています。

「いつまでもいつまでも城太といっしょにいられますように」

 近くで母が流行り歌を口ずさみ、きゅうりをもぎっています。

「お菊や、お菊、向こうの山へは行ってはなりませぬよ」

 遥か先の山を指差し注意をします。お菊は不可解な顔をして、

「かか様、どうしてじゃ」

「あの山にはのう、人食い狼が出ると人の噂じゃけ、間違っても行ってはなりませぬよ」

 きつく母に念をおされます。

 およねは近ごろめっきりお菊の話し方が亡くなった兄に似てきたことで、いつも城太郎を思い出してしまいます。そして母のあたしがもう少し早く城太郎の異変に気づいていれば手遅れにならずに助かったものをと、自分を責めては涙を流してしまうのです。ここに病から立ち直れないか弱い女が一人いるのでした。心の痛手とはなんと深いものなのでしょう。

 およねはお菊に見つからないよう、そっと着物の袖口で涙をぬぐうと、その場を足早に走り去り家の中へ入ってしまいました。この様子をだいぶ前から遠くの木陰で見ていたものがいます。黒装束の身なりで木々と同化してまったくわかりません。その傍らには全身白と黒の二匹の犬が控えています。ちょうどお菊と城太からは風下にあたり、どんな優秀な犬であろうとも匂いを嗅ぎ取ることなど不可能です。ましてや気配を悟られる距離ではありません。そうとう犬に熟知している手練れなのでしょう。しかし城太は並みの犬とは違います。異変を察知したのか鼻を高く上げ、一所懸命に匂いを嗅ぎ取ろうとしていますが、不審な匂いは嗅ぎ取れません。何回もお菊の周りを注深く回っては、辺りを見渡しますがなにもありません。天性の鋭い感覚で誰かに監視されていると感じた城太は、お菊の袖口を銜えて、家の方へ引っ張って行こうとします。

「これ城太、どうしただ、もう家へ帰るのかえ」

 城太があまりにも袖口を強く引っ張るのでお菊はとうとう、

「分かった分かった、分かったからそんなに強く引っ張らないでおくれよ。袖口が切れてしまうえ」

 そう言われて城太は少し力をゆるめ、辺りを窺いながら家の方へと歩きだします。

 木陰でじっと見ていた黒装束は根来の忍者幻覚でした。幻覚は銭のためならなんでもやる極悪非道の忍者なのです。

 先日、天王寺屋の床下に忍び込み、作造が鉄砲を作れるという話を盗み聞きして、鉄砲と絵図面さえあればどこへ持って行っても高く売れる、いや仕官さえも出来ると踏んでいるのです。

「まだ時期早計じゃ、お宝は逃げて行かぬものよ、しばらく待つが得策じゃ」

 奥の手を使うは鉄砲が出来上がってからでも遅くはないと、その場をそっと二匹の犬と共に立ち去ります。


     五 報告


 ここは天王寺屋の屋敷内。

 いま天王寺屋の番頭才蔵が幻覚の探索から帰って来たところです。裏口から入り、母屋から少し離れた中庭の隅にある小さな茶室に向かいます。戸口まで来ると片膝をつき、

「旦那さま、才蔵にございます。ただいま帰りました」

「おう才蔵か、ご苦労じゃった、さあさあ中にお入り」と主人、津田宗及の声。

 静かに引き戸を開けると主人は釜に湯を沸かしています。才蔵が席に着くと、いっときの静寂が小さな四畳半に広がります。主人は無言で作法にしたがい茶をたててゆきます。張りつめた緊張と静寂の中、いま互いが一期一会の境地に入っています。才蔵は一礼してから一服の茶をいただきます。しばらくの間を置いて、主人がゆっくりと口を開きます。

「して、首尾は」

「はい」と答えて才蔵は見てきたことすべてを報告すると主人は、

「根来の幻覚は誰の差し金で動いているかのう」

「いまのところ手がかりがまったく御座いません」

「お前の手の者を使うて、しばらく作造さんと幻覚を見張っておくれ」

「はい、承知いたしました」

「それと屋敷内の警備を厳重にな」

「はい、さっそく主立った手の者を手配いたします」

 才蔵を信頼している主人は、

「よしなに頼みますよ」と言い静かに茶室を出て行きました。

 翌朝、お店の小僧が店先をほうきで掃いています。商人の朝はいつも早いのです。

 木戸が開くまではまだ半刻ほどあります。堺の街は商都として自立しており、街は外敵から身を守るため東、南、北と三方に堀をめぐらし水をたたえ、出入口には木戸を設け、浪人を雇って自警団を組織していました。始めは大商人十人が取り仕切っていたのですが、のちに会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる三十六人が、合議制で取り仕切るようになりました。その中の一人が天王寺屋こと津田宗及です。


     六 あと一歩


 いま作造は刀鍛冶の仕事を休んで、火縄式鉄砲の製作に明け暮れています。天王寺屋の力添えもあって、まもなく新しい仕事場も出来上がります。弟子たちも一段と仕事に精が入っています。

 数日して、またも火縄式鉄砲を試す日がやってきました。これで十三度目です。今日も天王寺屋の主人と番頭の才蔵が立ち会います。もちろん弟子たちも固唾をのんで師匠を見守っています。作造はみずから筒先に火薬と弾を入れ、さくじょう(長い棒)で突き固めます。火ぶたを開けて点火薬を入れ、火のついた火縄を火ばさみにはさみます。筒についている二つの身あて(狙いを定める印)を見て狙いを定め、息をゆっくり吐きながら丹田に力を入れ、薄紙をはがすがごとく慎重に引き金を絞ってゆきます。火縄が落ちて、「ズドーン」と耳をつんざく大きな音とともに鉄の弾が飛び出し、三十間(約五十五メートル)先の樫の厚板がこなごなに飛び散ると、

「おーっ」あちこちから弟子たちの驚きにもにた歓声が沸き上がり、

「とうとうやりましたな」

「よかった、よかった」

 互いに手と手を握り合い大喜びです。中にはあまりの嬉しさに目頭を押さえ涙ぐんでいる者さえいます。作造だけが冷静に火縄式鉄砲を改めていましたが、にわかに顔つきが険しくなり、

「また失敗じゃ」と吐き捨てるように言いました。

 よくよく見れば鉄砲の先が少し広がり、わずかに<ひび>まで入っています。これは銃身破裂といって非常に危険なことなのです。作造は無残な姿になった鉄砲を弟子に渡すと、またいつもの癖で腕組みを始めました。

「鉄砲の筒をもっと厚くせねばなるまいか、いや火薬の調合を減らしたほうが、いやいやそうではない」

 あれやこれやと考え込んでいます。

「どうやらまた失敗したようじゃな」

 根来の忍者幻覚は一部始終を見ていました。

「完成まじかのようじゃな、ゆるしと仕事の段取りをつけておかねばなるまいて、フッフッフ」

 不気味な笑みを浮かべながらその場を静かに立ち去ります。

 作造は天王寺屋の主人に歩み寄ると深々と頭を下げ、

「申し訳ござりません、完成までもうしばらくお待ちくださりませ」

「いやいや作造さん頭をあげてくだされ。完成まであと一歩ではございませんか、頑張りましょう」

 気落ちしている作造の手を強く握りしめ励ましています。頑張る気持ちは側にいる弟子たちも同じです。


     七 不審な行動


 犬の城太もようやく作造一家にとけこみ、いまでは家族同様に扱われています。昼間はお菊と戦ごっこや花摘みなどして遊び相手となり、夜は家の番犬として楽しく過ごしています。しかしみんなが寝静まると、城太はこっそり玄関から裏の畑へ回り遥か先の山めがけて走ってゆきます。あの山はいつもお菊の母およねが、行ってはなりませぬよときつく言っていた恐ろしい山なのです。城太の足でゆっくり半刻も走ると、山のふもとへ辿り着きました。鼻を使って辺りの匂いを嗅ぐと、色々な獣の匂いや鳥の匂いなどがして懐かしくなり、生まれた故郷に帰ったような気分です。空腹も手伝ってか本来の狩猟本能が働き、思わず鼻を使って地面の匂いをクンクン嗅ぐと、猪の匂いを嗅ぎ取りました。しばらく追跡すると、林の先に三貫くらいの小ぶりの猪が鼻先で土を掘り返し山芋を食べています。風下から接近したので、城太にはまったく気づく気配がありません。忍び足で猪の後ろに回り込み、息を殺してじょじょに近づいてゆきます。距離が詰まると地を蹴り一気に飛びかかり、猪の首元に食らいつきました。

 食事中だった猪は油断していたのでしょう、城太の鋭いひと噛みで暴れる素振りも見せません。匂いを嗅ぎ取ってからまだ幾らもたっていません。月明かりを頼りに猪を銜えて、引きずりながら林から出てくると、光る眼が幾つも幾つも迫ってきます。城太は銜えた猪をそっと地べたに下ろすと、「ウー」と威嚇の唸り声をあげましたが、すぐに危険な相手手はないと感じ唸り声を止めてしまいます。

 すると城太より二回りほど小さい大和狼が、尻尾を振り振り寄ってくるではありませんか。おそらくこの群れのリーダーなのでしょう、目の前まで来るとなんということか、急にゴロリと横になりお腹を出して喜んでいる様子です。どうやら城太を格上の同類と思っているようです。

 城太も尻尾を振りながら、まるで兄弟のように大和狼の顔や体をペロペロ舐めています。じっと後ろで見ていた十二頭の狼も、安心したのかゆっくり城太の周りに集まってきて、顔や体を舐めあっています。これは狼特有の城太に従うという友好的な行為なのです。やはり城太の体内には、狼の血が色濃く入っていたのでしょう。城太は猪肉を一口だけ食べると、残り全部をこの群れに与えました。すると一頭一頭全員が城太に挨拶してから食べています。よほど腹を空かしているとみえ、きれいに食べてしまいました。城太は一頭一頭の匂いを覚えると山を下り、お菊の待っている家まで急いで帰ります。


 今夜は満月です。

 こんな日は必ず城太は山へ遊びに行きます。山の中を仲間と駆け回っていると体中に力がみなぎり、森の王者になったような気分になります。いま微かに人間の匂いがしてきました。いやな予感です。慎重に匂いを追跡してゆくと、やがて辺りは急に開けたかと思うと、目の前に小さな盆地が現れます。家が五、六軒見え近くまで行くと中の一軒がとりわけ大きく立派です。入口には松明を二本たき、すぐ側には白と黒の犬が伏せて眠っています。城太がそっと近づくと二匹の犬はほぼ同時に目覚め、「ウーワンワンワン」と猛烈に吠え始めました。騒ぎを聞きつけ出てきたのはなんと根来の忍者幻覚です。

「よしよしどうした、うん、猪の匂いでも嗅ぎつけたのか」

 手慣れた手つきで二匹の縄を解くと、

「それ行け」

 二匹の犬を解き放します。

「あすは久しぶりに猪肉が食えるといいがのう」

 暗闇の中を全力で駆けて行った犬たちを見送ると、家の中に入ってしまいました。

 しぶとく追いかけてくる二匹の犬を、城太は距離を保って山の反対側へと誘い込んでいます。しかしそのまま行けば断崖絶壁の行き止まりです。城太が絶壁の大きな岩の上で待っていると、二匹は勇んで駆けてきました。二対一ではいくら城太でも分が悪そうです。二匹はまるで申し合せたように、行き成り左右に分かれ挟み撃ちの戦法に出ました。息がぴったりと合って一分の隙もありません。さすが根来の忍者幻覚が仕込んだだけのことはあります。白犬が猛烈に「ワンワン」吠えますが、黒犬はまったく吠えません。

 城太は距離が詰まると、月に向かって「ウオーン、ウオーン」と狼のように遠吠えすると、二匹は先程までの威勢のいい態度とは裏腹に、ゆっくり後ずさりを始めています。二匹は異様な雰囲気に辺りを見回せば、不気味に光る眼が幾重にも取り囲んでいます。三十頭以上はいるでしょうか、まるで魚の網を手繰るかのように、じょじょに包囲を狭めています。

 黒犬は観念したらしく尻尾を尻の下に入れて、震えながら座り込んでいます。いっぽう白犬は低い姿勢でゆっくり後ずさりしながらも、「ウオーウオー」と唸り声をあげています。怒った鼻にはしわが寄り、上唇はめくりあがり鋭い牙がのぞいています。

 城太は軽々と岩の上から飛び下りると、白犬はそれを待ち構えていたように地を蹴って飛び掛かりました。そのとき一瞬早く城太も地を蹴り、空中で体をひねると相手の首元に食らいつきます。勢いあまって落下した白犬は城太の下敷きとなり

身動きすらできません。勝負は一瞬でつきましたが、それでも白犬が反撃してくるようならば、城太は首を嚙み切るつもりです。しかし城太のあまりにの強さに恐れをなしたのか、白犬は尻尾を尻の下に巻いて震えています。城太はゆっくり白犬から離れると、今度は噛んでいた首を舐め始めました。

 はじめは白犬も、震えながら城太の匂いを嗅いでいましたが、いまは城太と体を舐めあう仲になっています。城太は黒犬の方にも行くと顔や体を舐めてあげます。いままで震えていた黒犬も、ようやく安心したのか今は城太の体を舐め返しています。もうこの二匹は完全に城太の仲間です。あの極悪非道な幻覚の元へ帰らなくてもよいのです。城太はこの山にいるすべての狼と、幻覚が手塩にかけて訓練した二匹の犬をも味方につけたのです。


     八 吉法師


 天王寺屋の朝食は主人と家族、それにお店の者たち全員でいただくのが、昔ながらの習慣です。大店のわりには食事の内容はいたって質素です。みんなの食事も済み主人がお茶でくつろいでいる所へ、番頭である才蔵が大きな声で慌ただしく入ってきます。

「旦那さま、旦那さま、たいへんでございます」

「なんです、朝っぱらから騒々しい声を出して」

「は、はい、いま尾張に放っていた間者より火急の知らせが入りまして、これを」

 小さく折り畳んだ紙切れを差し出すと、主人はすばやく受け取り目を通します。

「うーん、これはまた急なこと、近いうちにと言ってはいたが、まさか今日になろうとは」

「旦那さま、いかが取り計らいましょう」

「取りあえず誰かを港に走らせて、尾張からの千石船が入っているかどうかを急いで見てきておくれ」

 すぐに才蔵は店で一番利発な小僧を使いに出すと、

「旦那さま、こんどは織田信秀さまの御家臣でございますか」

「ああ、これは内密じゃがの、吉法師さまも乗っておられるとのこと」

「えっ、あのうつけ者と言われている信秀さまの御曹司が」

「これ才蔵、口をつつしみなさい」

「は、はい、私としたことが申し訳ございません」

「そんなことよりお迎えの準備をいたさねばの」

 そう言うなり次から次へと才蔵に指示を出し、急に何を思ったのか、

「そうじゃ、たしか吉法師さまは九歳のはず、となれば同い年くらいで身の回りの世話をすることが出来る女子が必要、はて誰ぞ……」

 そう言ったきり考え込んでしまいます。

「あのーう旦那さま、作造さんとこのお菊ちゃんはいかがでしょう。私が見るかぎりでは、じつに気立てのよい子で年も八歳、それにお菊ちゃんのお母さんは武家の出で、礼儀作法にも大層きびしいと聞いております」

 主人は膝をパンと打ち、

「どうしてそこに気がつかなんだかのう、ではさっそく作造さんに頼んで来てもらっておくれ」

 急な知らせになんとか一通りの準備が出来たころ、先ほど出て行った小僧が荒い息づかいで帰ってきました。

「ふ、船が、千石船がまもなく港に入ります」と言うが早いか玄関に座り込んで、ゼイゼイハアハアしています。

 さっそく主人をはじめ主立った者たちが支度をして出迎えに行くと、ちょうど船は港口。みんなでいっせいに手を振ると、船上にいた十五、六人の武士たちも岸に向かって笑顔で大きく手を振り返してきます。

 その中にひときわ目を引く子供が一人、髪は茶せん結びで右肩に小猿を乗せ、湯かたびらの片袖をだらしなく脱ぎ、太刀と脇差の束を縄で腰に巻きつけ、火打ち袋と瓢箪をぶら下げ、虎と豹の皮を張り合わせた半袴をはき、黙って対岸を見つめています。家臣の一人が側により片膝ついて、

「吉法師さま、あれに見えまするは天王寺屋の主人でございます」

 吉法師は軽くうなずくとまた対岸を見つめます。船がまもなく岸に着こうかというときに、船尾で誰かがワアーワアーと叫んでいます。腕っ節の強い家臣の一人、甲斐弾正が薄汚れた子供の襟首を摘まみ上げ、吉法師のもとへ引き連れてきます。甲斐弾正は吉法師の父、織田信秀の命を受け剣術を専門に教えているのです。また船橋大吾は弓を、平泉影家は兵法を、そのほか馬術、水連はもちろんのこと、あらゆる専門の師について毎日すさまじい執念で、心身の鍛錬に励んでいるのです。天文十五年、吉法師が十三歳になったとき、元服して名を三郎信長と改めるのですが、これはあと四年先のこととなります。

「殿、素性の分からぬ小童がこの船にもぐり込んでいましたぞ。いかが取り計らいましょうや」

 ちょうど退屈していた吉法師はニヤリと笑い、

「海にでも放り込んでおけ」 

「はっ、では仰せのとおりに」

 小童の襟首を強く摘み上げると、こんどはその子供は必死に暴れ出しました。

「おらー、怪しい者でねえだ。おらのお父は織田信秀さまに仕える木下弥右衛門というだよー」

「なに木下だと、甲斐、たしかこの船に木下なる者おったな」

「はっ、そう言えばあの物静かな者が……間違いございません、木下弥右衛門にございます」

「ここへ呼んで来い」

「はっ」

 呼ばれてきた木下は、何事かと心中穏やかではありません。

「木下弥右衛門にござります」

 下げた頭をゆっくり上げると、なんということか吉法師の隣りに薄汚れた顔で、青っぱなを垂らしたせがれがあぐらをかいてこっちを見ています。

「お父、おらだ、藤吉郎だよー」

 信じられない光景を目の当たりにして、しばし呆然となった父は、

「お、お前どうしてここに……」

 ようやく事情がのみ込めると、

「殿、まことに申し訳ございません、これなるは手前の小せがれ、まだ分別もつかぬ子どもゆえ、なにとぞ無礼の数々お許し願いとうございます」

 藤吉郎は父を見て安心したのか、袖で青っぱなをぬぐうと吉法師の肩に乗っている小猿を珍しそうに眺めています。

「これ藤吉郎、お前もあやまらぬか、このおおたわけが」

 藤吉郎は神妙な顔であぐらから正座に座り直すと、

「おらぁ黙って船に乗って悪かっただ、このとおり謝るだ」

 勢いよく頭を下げたら床に「ゴッン」と大きな音がして、

「いて、て、て、て」

 あまりの痛さに額を押さえて転げまわっています。

「ワッハッハ、間抜けな奴よ」

 吉法師の肩に乗っている小猿もキイキイ笑っています。周りで見ていた家臣たちも、つられて大笑いをしています。藤吉郎は一息つくと、こぶのできた額を押さえながら吉法師に、

「あのーう、おらを、お前さまの家来にしてもらえねえだか」

「こら藤吉郎、そんたな馬鹿なこと言うでねえ」

「よいよい、かまうな、ところでお前はいくつだ」

「おらあ、六つだよ」

「ほう、お前はその歳でいったいなにが出来るのだ、ここにいる家来はみな腕の立つ者ばかりぞ」

「おらあ子供じゃけえ力はねえだよ、だどもお前さまを笑わせることぐれえは出来るだよ」

 ちょうど船旅で退屈していた吉法師は、鼻先で「ふん」と小馬鹿にしたように笑うと、

「よし儂を笑わしたら一日だけ家来にしてやる。だが出来なかったときは海へ放り込んで鱶の餌にしてやるわ、分かったか」

「へえ」

「いいか儂はちょっとやそっとのことでは笑わんぞ」

 言うが早いか口を真一文字に閉じ、仁王様のような怖い顔になりました。父の弥右衛門はなすすべもなく、ただ心配そうに息子を見守っています。藤吉郎は吉法師の肩に乗っている小猿をじっと見つめていましたが、やがて「これだ」とひらめきました。なんと小猿のものまねを始めたではありませんか。もともと顔は猿顔で、動きをまねると大猿そっくり、いや大猿そのものです。

「キッキッキー」

 そのしぐさといい鳴きまねといい、まるで親子で話し合ってるようです。

「ワッハハハ猿じゃ、猿じゃ、親猿じゃ、アッハッハハハ」

 吉法師が大笑いすると家臣たちもこらえきれずに手まで叩いて笑っています。

「親猿、約束どおり今日一日だけ家来にしてやる」

「へえ、おらを、け、家来に……」

「おう、猿、いまから下船じゃ、ついて来い」

「へえ、ちがった、はい、ありがとうごぜえます」

「お父、おらあ今から家来じゃ、家来じゃ、吉法師さまの家来になったんじゃ」

 藤吉郎は父の気苦労など少しも気にせず、小躍りしながらはしけ船に乗り移ります。いっぽう父は家来衆一人一人に頭を下げ、せがれの無礼を心から詫びています。

「藤吉郎めが、ここで儂がしくじったなら切腹ものじゃったわい」

 木下弥右衛門は手拭いを懐から出すと、じっとりかいた冷や汗を拭きながら呟くのでした。


     九 うつけ者


 ようやく織田家一行が陸に上がると、待ちかねた天王寺屋の主人は真っ先に吉法師のもとへ駆け寄ってきます。

「これはこれは吉法師さま、ながの船旅さぞお疲れでございましょう。申し遅れました私が天王寺屋の主、津田宗及でございます」

「うむ、一度父の茶席で会っておる。よう覚えているぞ」

「手前のような者を覚えていただき、ありがとうございます」

 天王寺屋は深々と頭を下げながら、

ーーーあれは半年前、織田信秀さまのお茶頭を務めたおり、みなが居並ぶ茶席にひょっこりと今のような出で立ちで現れ、わずかの顔合わせでよく覚えていたものよ。これはただのうつけ者ではないぞ、外見や世間の評判で判断しては大事に至る。せいぜい用心せねばなるまいて。

「吉法師さま、あれに見えまするは当家でございます。どうぞゆっくりと、おくつろぎ下さいませ」

 番頭である才蔵は低い物腰で家臣たちに、

「さあさあ皆様方、どうぞこちらへ」と屋敷の中を案内いたします。

 玄関をくぐり曲がりくねった廊下をしばらく歩くと、三十畳ほどの座敷に出ます。その先は中庭になっており、通路にはきれいな御影石が敷いてあります。そのまた奥へ行くと、瓢箪の形をした大きな池があり、色とりどりの鯉が優美に泳いでいます。池の周りには手入れの行き届いた松が七、八本植えられて、いっそう涼しさを呼んでいます。頃合いを見てお菊がお茶と菓子を運んできます。

「お菊と申します、ようおいで下さいました。お口に召しますかどうか、これは南蛮渡来のカステーラでございます」

「ほう、カステーラとな、これは珍しい馳走になる」

 隣で天王寺屋は目を細め笑顔で見ています。

 吉法師は大きく切ったカステーラを鷲掴み、口の中へ無理に押し込み、一呼吸おいて今度は一気に茶を飲み干します。

「うーん、えも言われぬ美味さじゃ」満面の笑みを浮かべています。

「ところで天王寺屋、今日は父の名代として鉄砲なる物を見に参ったが、夕刻までにはここを立たねばならぬゆえ、早々に見せてはくれまいか」

「はい、完成まであとわずかでございますが、それでおよろしければ……」

「かまわぬ」

「ではご案内いたしましょう。その前に吉法師さま、こちらは刀鍛冶で今は鉄砲鍛冶をしております作造さんの一人娘で、名はお菊でございます」

「そなたが鉄砲鍛冶の……あい分かった」

「父がお世話になります」

「いやいや、儂がこれから世話になるのじゃ、ハッハッハ」

「して才蔵、警護に手抜かりはあるまいの」

「はい、抜かりがございません」

「万が一ということもある、会合衆の中でもとくに腕の立つ者を十名ばかり連れて行きなさい」

「かしこまりました」

「私はまだやり残した仕事がありますから少し遅れて行きます。よしなに頼みましたよ」

 吉法師と才蔵を先頭に、一行がぞろぞろと連れ立って表の木戸を出ると、道端に全身が銀色の毛におおわれた大きな犬が、お座りをしてじっとこちらを見ています。

「城太、城太でねえか、お前ずっとここで待っていてくれたのかえ、ありがとうよ」

 お菊が頭を撫ぜていると後ろで吉法師がのぞき込み、

「ほう、これは珍しい犬じゃ、お菊、お前の犬か」

「はい」

「どこで買い求めた」

「じつは父が家に帰る途中、ばったり城太に出会いまして、行く宛がなければ儂の家へ来るかと言いましたら、ついてきたのでございます」

「ふーん、これはなかなか利口そうな犬じゃ」

 吉法師が手を出すと「ウー」と唸り声をあげます。

「これ城太、大丈夫じゃ怒らないでおくれ」

 お菊がやさしく頭を撫ぜるとすぐに大人しくなり、

「ほう、儂のことが分かったとみえるな、よしよし城太」

 吉法師もお菊と同じように頭を撫ぜてやると、城太は嬉しそうに尻尾を振っています。吉法師の肩に乗っている小猿も慣れたとみえて、「キッキッキッ」と喜んでいます。

「よしよし月影、怖くはないぞ大丈夫じゃ」

 小猿の頭をやさしく撫ぜています。吉法師は後ろで屁っ放り腰で覗き込んでいる藤吉郎を見つけると、

「おい親猿どうした、犬が怖いのか」

「は、はい、前に一度けつを噛まれてから犬はどうも……」

 城太が藤吉郎に近づくと、

「ヒェーッ、お助けを~」

 尻餅をつき両手を合わせて拝んでいます。

「ハッハッハ、臆病な親猿じゃのう、ほうれ、こうやって撫ぜてみよ」

「そ、そ、そればっかりはお許しを」

 半べそをかいて尻でずるずる後ろへ下がっています。そのとき着物の裾がはだけて前が丸見えになってしまいます。

「ワッハハハ、お前のふぐりは儂の月影と同じではないか」

 それを見た家臣たちは腹を抱えて笑っています。藤吉郎は慌てて前を隠しましたが手遅れでした。具合の悪いことに、側にいたお菊にもしっかり見られてしまいました。赤い猿顔がさらに赤くなり、子供ながらに恥ずかしいのでしょう、目を伏せていつまでも頭をかいています。そこへ藤吉郎の父が飛んで出て、

「これせがれ、しっかりせぬか」

 しっかと抱き起し、土だらけになった着物を手でパタパタ叩いて落としています。お菊が遠くに見える家を指差して、

「吉法師さま、あれに見えます左側が仕事場で、右が住まいになっております」

「そうか少し手間を取った先を急ぐぞ」


     十 危機


 作造と主立った弟子たち七、八名が、織田家の人たちを今か今かと待ち構えています。遠くで誰かがこちらに向かって手を振っています。

「はて、あれは誰じゃろう」

 作造が目を凝らして見ると、

「あっ、お菊、お菊じゃ」真っ先に駈け出して向かいに行きます。

「これはこれは織田家のみな様、遠路ご苦労様です。わざわざ手前どもの仕事場までおいで下さいまして恐悦至極に存じます。手前が主人の作造でございます」

 丁重に頭を下げると番頭の才蔵が側に寄り、

「こちらのお方は織田信秀さまの嫡子、吉法師さまでございます」

「余が吉法師じゃ、今日はゆっくりもしていられぬゆえ早々に中を見せてくれぬか」

「じつは作造さん、織田家のみな様方は夕刻には船で堺を立たねばならないのです」

「そうでしたか、そうとは知らずあいすみません。それでは吉法師さま、さあ中へどうぞお入り下さいませ」

 引き戸を開けて一歩中へ入ると、神棚の正面には真新しいしめ縄が張られ、左右には神酒に燈明がかかげられています。弟子たちは水干に烏帽子姿で額に汗して仕事に励み、きり火で起こした火がぼうぼうと燃え盛っています。そこへ真っ赤に焼けた、刀の形をした地金が金箸で取り出されると、すばやく金床に置かれ弟子が金槌でカンカン叩き、やがて刀の形になってゆきます。作造が堺で一番の刀鍛冶と言われているのは、京都の栗田吉光に弟子入りして五年、つらい修業のすえ師匠の技を会得したからです。しかしこれからは鉄砲の時代が来る、そう思った作造は日々鉄砲に心血を注いでいるのです。

 吉法師はつまらなそうに仕事場をながめています。その様子をじっと見ていた藤吉郎は、どうしてつまらなそうにしているのかその訳が知りたくて、ぴったり吉法師の後ろへついて観察を始めています。

 作造もつまらなそうにしている吉法師に気づくと歩み寄り、

「吉法師さま、別棟が鉄砲の仕事場になっておりますが……」

「そうか、すぐに見たいぞ」

 急に眼の色が変わり生き生きとしてきます。これを見た藤吉郎は、

「これだ、吉法師さまは鉄砲が目当てだ、なんとか役に立たねば」

 そう思いながら後ろからついてゆきます。

 別棟は刀の仕事場とは打って変わり、流れ分業方式になっています。各部品ごとに部屋割りがしてあり、鉄砲の筒だけを作る部屋があり、鉄砲の台座を作る部屋、鉄砲の弾を作る部屋、最後に部品を組み立てる部屋となっています。もちろん各部屋には見張りがぴったりついて、不審な行動をとる者は厳重に取り調べを受けます。

 吉法師は各部屋を注意深く見て歩き、興味を引くと立ち止まり、分からないところはすぐに作造を呼んで質問を浴びせます。

「この鉄の筒はどんな役目をするのじゃ」

「はい、この筒は長さによって弾の飛ぶ距離や命中率が違ってくるのです。また火薬の量によっても違ってきます」

「ほう、そうか、してこの筒の先についている豆のようなものはなんじゃ」

「これは身あてと申しまして、的を射るときこれを通して見まする目印の役をしております」

「うーん、なるほど、ではこの下にある棒はなにに使うのじゃ」

「これは筒の中に火薬を入れ、次に弾を入れてから棒、つまりこのさくじょうで突き固めるのです」

「この縄のようなものはなんじゃ」

「これは火縄と申しまして、この横に火ぶたがございます。これに火薬を入れ蓋をして引き金、ここ、ここでございます。この右人差し指に掛かっている引き金を、手前に引きますと火縄が火ぶたに落ち、バァーンと爆発してその力で鉄の弾がこの筒から飛び出すのでございます」

 次から次へと質問する吉法師に作造は分かりやすく説明します。

「するとこの鉄砲は雨の降っているときには使えんのか」

「はい、火縄が濡れると使いものになりません。なにしろ火は水に濡れますと消えていまいますので」

「では雨の日でも濡れなければ大丈夫なのか」

「はい大丈夫でございます。しかし湿気が多いときには、火薬がうまく燃えないことがございますが……」

「そうか、湿気か……」

ーーー戦はいつも晴れた日ばかりとは限らぬもの、さて雨の日が問題じゃ。この鉄砲さえあれば今までの戦ががらりと変わるぞ。今川も武田もいまに見ておれ、ああ早くこれを試してみたいものじゃ。

 作造は弟子から油紙に包まれた細長いものを受け取ると、

「吉法師さま、これをご覧下さいませ」

 黒光りする真新しい鉄砲を差し出します。

「ほう、これがそなたの作った鉄砲か」手にとってぎこちなく構えてみます。側で見ていたお菊が、

「吉法師さま、台座を頬につけるのでございます」

「うん、こうか」

「はい、次に二つの身あてを真っすぐ通して見ます」

「真っすぐ見たぞ」

「次は的を見ます」

「見た」

「身あてを的に重ねます」

「重ねたぞ」

「引き金を人差し指で軽く手前に引きなされませ」

「バシッ」火縄が勢いよく火ぶたに落ちると、

「成るほどよく分かった、ところでお菊、そちは鉄砲を試したことがあるのか」

「いえ、一度も試したことはありません」

「それにしてはよく知っているではないか」

「はい、それは毎日父が弟子の方々に言っている話を、諳んじてしまったのでございます」

「そうか、門前の小僧習わぬ経を読むとはまさにこのことよ、ハッハッハ」作造は腰を低くすると吉法師に歩み寄り、

「娘が出すぎた真似をいたしまして誠に申し訳ございません」

「よいよい、気にすることはない。この鉄砲はお菊にも扱えるのか」

「滅相もございません、お菊にはとてもとても重すぎて、扱いきれるものではございません。仮に撃ったとしても反動が強く、体が持ちこたえられません」

「そうか、儂でも無理か」

「いえいえ、吉法師さまでございましたら並みの大人よりも体力がおありと見受けられますゆえ、大丈夫でございます」

「あい分かった、では体力のない者が撃つとき、なにか台に固定してならばどうであろう」

「それならばお菊のような非力の者でも大丈夫でございましょう」

 作造はいままでに弟子たちから、一度もこんな質問を受けたことがなかったのです。

ーーーこの吉法師という人物ただ者ではないぞ、儂の考え及ばぬことを次から次へと思いつく。子供ながらにあなどれん。

「この鉄砲で試し打ちがしてみたいのう」

「申し訳ございません、これはまだ完成しておりません。あと二三、手を加えませんと撃つこと叶いません」

「そうか、おしいのう。完成したら儂のところへ一番に持って来てくれまいか」

「はい、かしこまりました」

「そのときはいい値で買うぞ」

「は、はあっ、ありがとうございます」作造は深々と頭を下げます。

「ワァー」

 とっぜん後ろで大きな悲鳴が……。吉法師が振り向くと藤吉郎が前のめりに倒れています。運の悪いことに消し炭の小山に顔を突っ込み、手足をバタバタさせて苦しそうにもがいています。ちょうど側にいた甲斐弾正が後ろから抱き起こし、

「ほんにお前ときたら世話のやける小童よのう」

「ゲェー、ゴホン、ゴホン」どうやらたっぷり消し炭を吸い込んだようです。

「おい親猿、大丈夫か」

「ゴホン、ゴホン、お、おらあ大丈夫だ」顔を擦りながら藤吉郎が振り向くと、

「ワッハッハハ、なんだお前のその顔は」消し炭が顔にべったりついて、目の淵だけがわずかに白くなっています。

「こんどは黒猿じゃのう、ワッハハハ」

 つられて家臣たちも大笑いです。作造もお菊も笑うのをじっと我慢していましたが、藤吉郎の奇妙な顔を見るととても我慢しきれず、口に手を押さえて笑っています。父の木下弥右衛門が慌てて後ろから飛んで出て、

「これ藤吉郎、いつまでも皆々様に迷惑をかけてはいかんぞ」

 きつく叱りながらも、懐から手拭いを出して顔を拭いてあげます。そのあいだ藤吉郎は両手をしっかり握ったまま、口を真一文字に結んで立っています。さいぜんから番頭の才蔵だけが藤吉郎の魂胆を見抜いていました。

「ふん、たわけた小童と思うていたが、こりゃあ並みの大人より目端がきくわい」

 呟きながら苦笑しています。才蔵はかねてから主人の指示で、みんなが鉄砲に気を取られている隙に、短い火縄と鉄砲の弾を消し炭の上へそっと置いたのです。

「これで吉法師さまは、いやがうえでも鉄砲に関心を示すであろう」

 一通り仕事場を見終わると、作造は家臣一同を隣りの部屋へ招き、茶を出しくつろいでもらっています。吉法師は壁に掛けてある鉄砲に目を止めると、急にいじってみたくなり作造に頼みます。

「この鉄砲で撃つ練習がしてみたいが、よいか」

「どうぞどうぞお使い下さいませ。これは弟子たちが練習用に使う者でして、重さも形も本物と同じ作りでございます。ただ火ぶたと火縄がないだけでございます」

「では借りるぞ、ちとここでは狭いのう外へ出るとするか」

 お茶を飲んでいた甲斐弾正が、立ち上がろうとするところを吉法師が手で制し、小猿の月影を渡しながら、

「よいよい、みなはここで休んでおれ」

 家臣たちは心配そうに顔を見合わせます。案じた才蔵はすかさず、

「みな様、外には会合衆の者たちが警護しておりますので、心配ご無用でございます」

 吉法師が鉄砲を持って表に出ると、藤吉郎とお菊が追いかけますがどんどん先へ走って行きます。

「吉法師さま~、吉法師さま~」

 藤吉郎は荒い息をつきながらやっと追いつくと、先程くすねた鉄砲の弾と火縄を素早く差し出します。吉法師も素早く受け取り腰に下げた火打ち袋に入れます。

「親猿、ご苦労」

「はい」

「おう、お菊もいっしょか」

 こんどは裏の畑から先に見える小高い丘めがけ、吉法師は鉄砲を肩に担いで走り出します。息を弾ませ天辺に着くと、お菊の家や畑が一望に見渡せいい気分です。しかしこの丘の反対側は急な崖になっており、側に行くともろい岩だらけでとても危険です。吉法師は肩に担いだ鉄砲を持ちかえると、大きな木に向かって構える練習を始めます。ようやく二人が来ると、

「お菊、ちと教えてくれ、こう構えるのか」

「いえ、立ち位置がちごうております。足は肩幅ぐらいに開いて斜に構えまする」

「こうか」

「はい、そうでございます」

 練習にだいぶ熱が入っているところへ、手拭いで顔を隠し、右手に鎌を持ち、左手には杖をつき、腰を曲げ竹籠を背負いゆっくり丘を登ってくる者がいます。片足が不自由と見えて少し引きずるようにして歩いています。おおかた近くの年寄り百姓と思い、誰も気に止めません。その百姓が行き成り、

「小僧、お前の持っている鉄砲をこっちによこせ」年寄り百姓とは思えない迫力のある大声です。

「なに者だ」吉法師はお菊にそっと鉄砲を渡しながら、年寄り百姓の前に一歩出て身構えます。

「名前などどうでもよいわ、早くその鉄砲をこっちによこせ」

「やらぬと言ったらどうする」

「フッフッフ知れたこと、お前たち三つの雁首が胴から離れるまでよ」

 左手に持っていた大きな鎌の柄から、鎖がジャラジャラ出たかと思うと、ビュンビュン鎖を振り回しています。風を切る不気味な音を立て、少しずつ間合いを詰めてきます。

「フッフッフ大人しく鉄砲を渡していれば、命だけは助けてやったものを馬鹿な餓鬼どもめ」

 吉法師は刀を抜いたまま、じわりじわりと後ろへ下がって行きますが、もう後がありません。後ろは崖で落ちたら助かる見込みは万に一つもありません。

「親猿、お前は助けを呼びに行け」

「で、でも、おら一人では」

「うるさい、言うとおりにしろ」

「はい」

「よいか、隙を見て後ろを見ずに走るのだ、分かったな」

「は、はい」

「なにをごちゃごちゃ言っておる、さあお前から首をはねてやるわ」

「ヒュー」分銅のついた鎖は、隼のように狙った獲物を求めお菊めがけて襲いかかります。

「伏せろ」吉法師は思いっきりお菊を突き飛ばすと同時に刀で鎖を払います。しかし鎖は蛇のように刀にしっかりと巻きつき外すことなど出来ません。

「お菊、無事か、この卑怯者め」

「吉、法師、さ…ま……」かぼそい声が崖下から聞こえてきます。

「ヒッヒッヒ、どうやらお前の連れは崖下で虫の息じゃ、フッフッフ、一人殺す手間が省けたというものよ」

 鎖を慎重にたぐり寄せながら、

「餓鬼のくせに少しは腕が立つようじゃの、しかし儂の鎖鎌から逃れた者はいまだかつて一人もいないのじゃ、ヒッヒッヒ」ギラリと光る大鎌が吉法師の首を狙っています。

ーーー刀を持って此の方、こんな手練れに会ったは初めてじゃ。

 額に玉のような汗が吹き出ています。

「もう遊びは終わりじゃ、この鎌でお前の首を切り落としてくれるわ」

 力を込めて鎖をたぐり寄せたとき、「ウッ」幻覚のふくらはぎに激痛が走り、真っ赤な血が吹き出しみるみる草鞋を染めています。一瞬、幻覚自身になにが起こったのか訳が分かりません。いつの間に現れたのか、吉法師の脇に銀色の毛並みをした大きな犬が、血に染まった棒手裏剣を口に銜えて幻覚を睨んでいます。

「ま、まさか……」

 すべてを悟った幻覚は、張りつめた鎖を手首で軽く一振りくれてやると、吉法師の刀に絡みついていた先端の分銅が、まるで生き物のようにするりと抜け、手元に戻ってきます。すかさず懐から火薬玉を出し、「食らえ」と投げつけ爆裂音とともに煙のように消えてしまいました。しかし地べたには転々と血痕が山奥に向かって落ちています。

「城太、助けに来てくれたのか、よしよし」吉法師は城太の頭を撫ぜてやり、

「お菊、お菊、どこにおる」

「吉、法師…さま……」

 小さな声が崖下から聞こえてきます。声のする方へ駆け寄り下を見ると、四尺ほど下の小枝にお菊が必死にしがみついています。子供であったがためか運のよいことに、どうにか小枝が折れずに持ちこたえています。

「お菊、もっと手を伸ばせ、儂の手に掴まるんだ」腹ばいになり精一杯手を伸ばすと微かに指先が触れました。

「ほれもう少しじゃ頑張れ」吉法師が無理に手を伸ばしたとき、

「ザッザッザー」

 腹のあたりの土が崩れ、慌てて側に突き出ている岩を掴むと、なんとこれが粘土質の岩で、「ポロッ」と砕けてしまい体の均衡を失って、お菊もろとも真っ逆さまに崖下へ落ちるそのときに、誰かが吉法師の腰縄をしっかりと捕まえたのです。危ういところを免れた吉法師は、こんどは慎重に硬い岩を選びながら状態を腕の力だけで持ち上げ、もう片方の手はお菊の手首をしっかりと握っています。

「吉法師さま、このままでは二人とも落ちてしまいます。どうかあたしに構わず手を放してください」

「馬鹿を言うな、もう少しじゃ諦めるな」

「せ、せめて吉法師さまだけでも助かって下さい」

「お菊、諦めるな、生きることだけ考えろ、上で城太が待ってるぞ」

「城太が」

「そうだ城太だ、早くそっちの手を出せ」両手をしっかりと握り、渾身の力を込めてお菊を引き上げます。

「右足を木の根元に乗せろ、もう少し右、そうだそと五寸右じゃ」

 お菊の右足が木の根元に着くと、どうにか吉法師の腕も楽になり一呼吸入れます。

「よしお菊、一気に引き上げるぞ」足を大きく開いて踏ん張ると、

「城太、頼むぞ、それっ」

 掛け声とともに引き上げます。もちろん城太も吉法師の腰縄を銜え全力で引き上げます。あと一息というとき、「ヨーシ」と掛け声もろとも一気に引き上げ、勢いあまって二人は手と手を握り、抱き合う格好で後ろへ倒れてしまいます。その倒れた衝撃でお菊は気を失ってしまいます。しばらくの間をおいて、

「うーん」

「気がついたかお菊、無事でよかったな」

 お菊は朦朧とした意識のなか、吉法師が目の前にいることがなんとなく分かると、

「命を助けていただきありがとうございます。吉法師さま、この御恩は一生忘れません」

「いやいや儂も危ういところ城太に助けられたのじゃ、城太は儂の命の恩人じゃ、いや恩犬かの、ハッハッハ」

「フッフッフ」お菊もつられて笑っています。

「それれにしてもお菊、お前は重いな」

 いままで二人は地べたの上で抱き合ったまま話していたのです。ようやく正気に戻ったお菊は慌てて吉法師の体から離れます。

「これはこれはとんだ粗相をいたしました、あたしとしたことが誠に申し訳ございません」

 うつむいた頬には、ほのかな紅が浮かんでいます。

「よいよい、このことはみなには内緒じゃ、城太、お前もじゃぞ」

「お菊」

「はい」うつむいた顔を上げると、目の前に吉法師の真剣な眼差しが、

「儂は、儂はな、お菊」そのとき丘の下から手を振りながら、

「吉法師さま~、吉法師さま~」

「うん、あれは親猿の声だな、間の悪い奴じゃのう」

 藤吉郎は甲斐弾正ら家臣数人を引き連れ、死に物狂いで走ってきます。

「吉法師さま、怪我、怪我はありませんか。痛いところ、痛いところはありませんか」

「そんなに慌てなくともよい、大丈夫じゃ、どこにも怪我などしておらん」

 藤吉郎に鉄砲を渡すと、肩の痛みを隠して腕を回して見せます。甲斐弾正も駆けつけて、

「殿、お怪我はござりませぬか」

「大事ない、そんなに心配いたすな」

「しかし殿、こ奴が血相を変えて、鎌を持った怪しい百姓に襲われていると言いまして、馳せ参じた次第」

「なあに儂が刀を抜いたら、腰を抜かし血相を変えて逃げて行ったわ、ワッハッハハ」

「そうでしたか、それならば安堵。しかしこれからはなんと言われましても、殿のお側を離れませんぞ。もしものことがあれば、拙者一人の切腹では相済みませぬ」またいつもの説教がながなが始まると思った吉法師はすぐに、

「分かった、分かったからもうその位にしてくれ」全員家臣たちも駆けつけると、その中の一人で平泉影家が、

「殿、出立の用意が整ってございます、船にお戻りを」

「もうそんな刻限か、ではみなの者、帰るぞ」


      十一 別れ


おきくをみつけるといそいできちほうしのもと 港では白い帆をいっぱいに張った千石船が、いま船出しようとしています。藤吉郎は先程から落ち着きがなく、甲板を行ったり来たりしています。

「あっ、いたいた、お菊ちゃーん、お菊ちゃーん」お菊を見つけると急いで吉法師のもとへ駆け寄り、

「お菊ちゃん、お菊ちゃんが一番後ろで手を振ってますよ。あれえ、なんだろう、なにか手に持っていますよ」

 吉法師は甲板にいたときから、すでにお菊の存在に気づいていたのです。そして今し方の出来事を思い出していました。

ーーーお菊、儂といっしょに尾張へ来てはくれぬか、いや城太もいっしょじゃ。

ーーーはい、すぐにでも吉法師さまと行きとうございますが、兄が亡くなってまだ日もあそうございます。それにあたしと城太までいなくなっては、母がとても不憫でございます。

ーーーそうか母か……あい分かった。この火打ち袋を儂だと思って持っててくれ。

ーーー吉法師さま、お菊は、お菊は……。

ーーー分かっておる、もうなにも言うな。出航が迫ってきた、ではさらばじゃ達者で暮らせよ。


 藤吉郎は吉法師の胸の内など知るよしもなく、いつもの大きな声を張りあげて、

「お菊ちゃんもいっしょに尾張に来ればいいのになあ、ねえ、吉法師さま」

「……」吉法師は一番後ろにいるお菊をただ黙って見つめています。

「お菊ちーゃん、尾張に来たらおらの家さ寄ってくれーい、中村の在じゃけー、木下弥右衛門いうたらすぐ分かるだよー」

 身を乗り出して叫んでいます。あまりに一所懸命になりすぎて、

「ワッワッワー、た、助けて……」均衡を失って海に落ちそうになったとき、

「まったく世話の焼ける親猿じゃ」吉法師は軽く片手で襟首を鷲掴み、

「親猿、次は助けてやらんぞ」

 甲板に手荒く引き落とすと、藤吉郎は仰向けにひっくり返り、その弾みで着物の裾がはだけて前が丸見えに。

「お前のふぐりなど二度と見とうないぞ……うむ、なんじゃそのふんどしは」

「ヘッヘッヘ、じつはお菊ちゃんのおふくろ様に、無理に頼み込んで作ってもろうたわけでして、ヘッヘッヘ、似合いますかのう吉法師さま」

 着物の裾をめくって一回りすると、前は菊柄、後ろは牡丹、奇妙な取り合わせのふんどし柄に、吉法師は吹き出してしまいます。

「親猿、ようにおうておる、のう、みなの者」

「におうておる、におうておる」家臣一同、手を叩いて笑っています。後ろから誰かの掛け声が、

「よっ、日本一」また一同大笑いです。


     十二 策略


 突き抜けるような真っ青な空、上空には一羽の鳶が円を描いてのんびり浮かんでいます。さわやかな秋風が吹き渡り爽快な気分です。吉法師が帰ってから数日がたち、今日は待ちかねた火縄式鉄砲の試し撃ちです。作造はここまで来るのに、苦心に苦心を重ねる日々を過ごしてきました。

 一番の難問は、鉄砲の筒と台座を押さえるネジ釘でした。いまもこのネジ釘の作り方が分かりません。悩んだ末に二つの鉄の輪で筒を止め、台座にくさびを打って固定すると、二つの鉄の輪は見あての役をはたし、仕上げは一石二鳥となりました。この自信のほどを妻のおよねにだけはそっと打ち明けていたのです。およねも今度こそは成功しますようにと、毎日神棚に手を合わせて祈っていました。作造は試し撃ちの段取りが一通り済むとおよねを呼び、

「もう木戸も開いた頃じゃろうて、そろそろ天王寺屋さんに、試し撃ちの準備が出来たと伝えてきておくれ」

「はい、すぐに行って参ります」

「気をつけて行くのじゃぞ」

 朝から張り切っている作造を見ていると、およねもなんだか嬉しくなり、つい同じように張り切ってしまうのです。天王寺屋の帰りに夫の好きな祝い酒を買おうか、鯛をつけて喜んでもらおうか、浮き浮きしながら先を急ぎます。

 その頃、根来の忍者幻覚もおよねとお菊、二人同時にかどわかす計画を立てていたのです。二手に分かれていつでも行動できるよう、網を張って待っていました。

「ヒッヒッヒ、あとはじっくり獲物を待つだけよ」

 およねは天王寺屋に試し撃ちの知らせをすると、急いで買い物をすませ木戸まで来ました。ちょうど天王寺屋の主人と才蔵が、木戸番と話をしているところへ行き会います。いち早く天王寺屋の主人がおよねを認め、

「これはこれはおよねさん、また会いましたな。おやおやこれはまた随分と買い込みましたなあ」

「はい、今日はなんだかよい日になるような気がしまして」

「私も今日が良い日になるように願っているんですよ、さあさあいっしょに参りましょう」

「ありがとうございます。それではごいっしょさせていただきます」

「才蔵、およねさんの荷物を持っておあげ」

「いえいえ、これぐらいなんともありません、大丈夫でございます」

「およねさん、才蔵はこう見えても力持ちなんですよ」才蔵は遠慮しているおよねから無理に荷物を受け取ります。

「すみませぬ才蔵さま、お言葉に甘えさせていただきます」

 木戸番をしていた浪人五名もいっしょに行くこととなり、総勢八名で作造宅へ向かいます。

 一方、幻覚の指令で物見に行った手下が、薄汚れた百姓身形で帰ってきました。

「おかしら、奴ら会合衆を引き連れ八人でこっちへ来ますぜ」

「なんと運の悪い日じゃ、こうなっては一番組と合流するしかあるまいて、者ども引き揚げじゃ」

 およねかどわかしを諦めた幻覚は、先回りしてお菊かどわかし一行と合流することにしたのです。

 いまお菊は家の中の掃除や、かまどの飯を炊いたり味噌汁を作ったりと大忙しです。今日は大切なお客様が来ると言うので、驚かしてはいけないと大事をとって、犬の城太を納屋の中に入れ縄でしっかり繫いでいます。これは幻覚一味にとって好都合のことですが、あいにく弟子たちの出入りが激しく、なかなか良い機会が得られません。

「ここまで来たら、あとは試し撃ちを待つしかあるまいて、フッフッフ」

 やがて天王寺屋一行とともに、およねが世間話をしながら帰ってきました。すぐに作造と弟子たちが出迎え、挨拶もそこそこに裏の畑へと急ぎます。およねは心配で心配でたまりません。祈るように裏口からじっと見つめています。やがて「ズドーン」と耳をつんざく大音響とともに、

「今度はやりましたな」

「良かった良かった」

「とうとう完成しましたな」

「めでたいことじゃ、めでたいことじゃ」

 男衆の祭りのような騒ぎが聞こえてきます。およねはあまりの嬉しさに、矢も楯もいられず作造の元へ駆けつけます。

「お前さま、お前さま、とうとうやりましたね、ご苦労さまでございました」

「いやいや儂のほうこそお前に苦労を掛けた、済まなかったのう許しておくれ」

 二人は固く手と手を握り、見つめ合う互いの目にはうっすらと涙がこみ上げてきます。そしてみるみる頬を濡らすと、およねは耐え切れずに作造の胸に顔をうずめ、いままでの苦労を思い出してむせび泣くのでした。

 この絶好の機会を見逃す根来の忍者、幻覚ではありません。

「お菊、お菊や、ちょっとこっちへ来ておくれ」母およねの声が裏手の畑からではなく、表の玄関から聞こえてきます。

「あの声は……」

 お菊はどうしたんだろうと思い、手を拭きながら表玄関に出てきましたが、母の姿はどこにも見当たりません。

「お菊、お菊、こっちじゃ、こっちじゃよ」

 こんどは玄関先の道端から聞こえてきます。そこには大きな桶を三つ積んだ荷車が止めてあり、その陰からまたも、

「お菊、こっちじゃよ」顔は見えませんが白い手だけが、おいでおいでとお菊を手招きしています。

「はーい、かか様」お菊は喜んで走り出し荷車の後ろにいる母に、

「かか様、お菊になに用が……」

 振り向いた母、いや母とは似ても似つかない見ず知らずの女が、母の着物を頭から被り立っています。いきなり当て身を食らわされ、「ウーッ」と言ったきりお菊は気を失ってしまいました。

 この女は根来の忍者幻覚が呼び寄せた、「くの一」声うつしのあけみです。あけみは鳥や動物の鳴き声までも、まねることが出来るのです。荷車に積んである大きな桶は肥桶(こえたご)です。肥桶とは糞尿を運ぶ桶のことです。肥桶の一つにお菊を入れると、また小さな桶を乗せます。これは幻覚が考えた、追手の目をたぶらかすための二重の桶なのです。ふたを開けると鼻がひん曲がるほどの悪臭を、あたり一面にまき散らしています。将軍様でも乞食でも、食べて出てくるものはみな同じです。でもこれが百姓衆の大切な肥料になるのですが。いま幻覚はあけみに指示を出しています。

「お前はこの餓鬼の着物を地べたに擦りつけるようにして、儂らと反対の方向に行け、もしあの犬が来ても少しは時が稼げるじゃろうて」あけみはお菊の着物を引きずって駆け出しました。

「これでよし、儂らはゆるりと参ろうぞ」

 手下に声を掛け三人で糞尿のたっぷり入った桶を、掛け声をかけながらガラガラと押して行きます。みんな口と鼻にしっかり手拭いを巻いています。三人の身形は地元の百姓に化けているので服はボロボロです。側によると汗と糞尿の混ざった匂いで、息を止めていなければとても近寄れるものではありません。


     十三 あざむく


 試し撃ちが成功してみんなが喜んでいるところへ、一本の矢が飛んできて作造の足元に突き刺さりました。矢羽には書付がくくりつけられています。

「いったい誰が……」

 作造は火縄式鉄砲を側にいた弟子に渡すと、おもむろに読み始めます。しだいに書き付けを持つ手が小刻みに震えてきます。

「お前さま、どうかなされましたか」およねが不審に思いそっと書き付けを覗くと、

「お菊」と、叫んで泣きだしてしまいました。

 作造の隣りにいた天王寺屋の主人は、書き付けを受け取ると慎重に読み始めます。読み終えると後ろに控えている番頭、才蔵に渡します。さっと目を通した才蔵は、

「旦那さま、まだそう遠くへは行ってないと思われます。すぐに私の手の者と会合衆に声を掛けまする」いうが早いか駆け出して行きました。

 脅迫文には子供の命は預かった、返してほしくば鉄砲と絵図面を渡せ。追って知らせるからそれまでによく考えておけ、というようなことが書かれていました。

「お前さま、お菊、お菊をどうか助けてくだされ、お願いじゃ、お願いじゃ」

 およねは気が狂わんばかりの声で、作造にしがみつきただただ泣くばかりです。作造は慰める言葉さえ忘れて、その場に呆然と立ち尽くしています。天王寺屋の主人もほとほと困り果て、

「さあさあ、ここでずっとこうしていてもらちがあきません、まずは家の中に入ってこれからのことを考えましょう」

 祭りのような騒ぎも打って変わり、みんなは肩を落として足取りも重く、天王寺屋のあとからのろのろとついて行きます。作造はみんなの後ろからおよねの手を引いてゆっくり納屋の前まで来ると、わずかな物音でふと立ち止まり、

「おう、そうだ」納屋の中に城太がいることを思い出しました。さっそく引き戸を開けて中に入ると、

「城太、お菊を探しておくれ、お前だけが頼りじゃ、よいな」

 縄を解き放すと城太はいつものように、大好きなお菊の元へ行こうと探し始めます。裏の畑へ行っても家の中にもお菊の気配がありません。すぐに戻ってきて玄関へ回ると、地べたに鼻を擦りつけるようにして、クンクン匂いを嗅いでいます。すぐにお菊の匂いをとると、跡を追いかけ家の前の道に出ました。またクンクン匂いを嗅いで、どんどんと先へ走って行きます。なんということでしょう、幻覚の策にまんまとはまり、城太はお菊とは反対の方向へ走って行きました。それから半刻ほどたって城太はお菊の着物を銜えて家へ戻ってきました。それを見たおよねはまたも気が狂わんばかりに泣き出してしまいました。


 いま才蔵は手分けをして必死に探索をしています。会合衆の雇い浪人三十人までも総動員して、本道から間道まで虱潰しに調べています。不審な者たちは徹底的に調べ上げ、もちろんあの荷車を押していた三人組も呼び止め詮議をしました。

「まて、そこへ行く荷車」

 浪人たちは駆け寄ると、いっせいに荷車を取り囲みます。幻覚がのっそり一歩前に出ると百姓なまりで、

「お武家さま、そげん慌ててどげんしたとです」

「儂らはいま不審な者たちを探索しておるところじゃ。そのほうたち不審な者を見なかったか」

 あまりの臭さに言い終わるなり三、四歩後ろへ下がり、鼻と口を押えています。

「おらたちのほかは、だーれも見なんだよ」

「そうか、いちおう中を改める」

 幻覚一味は内心ひやひやしながら見ています。

「早くせんか」

「はっ」

 声を掛けられた年下の男はいやいやながらも肥桶の蓋を人差し指と親指で摘まみ、三枚の蓋を少しだけあけると終わりにしてしまいました。

「お役目ご苦労様でごぜえます」

 幻覚一味が深々と頭を下げると、浪人たちはすぐに走り去ってしまいました。

「フッフッフ、馬鹿な奴らよ」浪人たちの後ろ姿を見送りながら、幻覚は不敵な笑みを浮かべています。


 夜になると城太はお菊の着物の切れ端を銜えて、いつもの山へ駆けて行きます。そして仲間を全部集めると、着物の匂いを嗅がせ狼総動員の探索を始めました。


     十四 火炎地獄


「ゴトン」

 作造の家になにか投げ込まれ、およねが気づいて拾い上げてみると、それは紙に包まれた石でした。ていねいに紙を広げると墨でなにか書いてあります。

「キャー、お、お前さま、お前さま、お菊が、お菊が……」

 およねは取り乱しながらも、なにはさて置き作造の仕事場へと走ります。

「お前さま、こ、こ、これがたったいま……」

「とうとう来たか」 

 手にした紙は脅迫文でした。暮れ六つ、戦場ヶ原のほこらへ作造一人で鉄砲と絵図面を持って来い、そのときに子供は返す。もし約束を違えたときは子供の命はないと思え。

「お前さま、どういたしましょう」

「お菊の命がかかっておる、いまは相手の言うとおりにするしかあるまい」

 戦場ヶ原とはここからだいぶ先の、出島のように突き出た丘です。周囲は二町もの広さがあり、その先は川になっています。水かさがあり激流で川幅も五十間と広く、とても人が泳いで渡れるものではありません。丘の先端には小さなほこらがあり、人がめったに来ないとみえていまは朽ち果て、見る影もなくあたり一面かやがびっしり生い茂り、夜になるととても不気味なところです。

 幻覚はほこらの横に掘っ建て小屋を作り、かねてからの計画を実行していました。小屋の上には太い麻縄が遙か向こう岸まで伸びています。そのほか油の入った桶を密かに百個用意して、念の入ったことに桶の側には枯れ枝がうずたかく積まれています。

「そろそろ約束の刻限じゃ」

 作造は火縄式鉄砲を背負い絵図面を大事に懐にしまうと、戦場ヶ原のほこら目指して歩き始めます。後ろから、およねと天王寺屋の主人、それに番頭の才蔵もついて来ます。一人で行くと言い張る作造を、なんとかなだめ途中まで見送るということで三人はついて来たのです。もちろん才蔵の手の者も数人見つからないよう隠れて見張っています。ようやく戦場ヶ原の入り口に差し掛かると、顔色の悪い作造は重い口を開き、

「では行って来る、必ずお菊は儂が連れて帰るで心配するでないぞ」 

「はい、お前さま気をつけて……」

「達者でな、さらばじゃ」

 天王寺屋の主人と才蔵に深々頭を下げると、迷わず踵を返し目的のほこら目指して歩き出しました。あたりはだいぶ薄暗く気を配りながら進んでゆくと、闇の先になにやら怪しい影がだんだんこちらに近づいてきます。

「オッ城太、城太でねえか。お前いままで何処にいたんじゃ、随分と心配したぞ。うん、なんじゃ、そうかそうかお前もお菊を探していたのか、よしよしよい子じゃ、いまから儂がお菊を連れ戻してくるさけえ、ここで大人しゅう待ってておくれ」

 城太の頭をやさしく撫ぜると、作造は気を取り直して先を急ぎます。ようやくほこらに着くと、周囲は数十本の松明がともされ異様な雰囲気です。

「約束の物は持ってきたか」

 突然響き渡る幻覚の怒鳴り声に、作造は背負っている火縄式鉄砲を下ろし、懐から絵図面を取り出してよく見えるように掲げます。

「これじゃ、ここに持っておる」

「よし、そこえ置いて十歩後ろへ下がれ」

「いや、その前にお菊が先じゃ、お菊を先に渡さねば鉄砲と絵図面は断じて渡さん」

「仕方がない、おい、餓鬼をここえ連れて来い」

 横に控えていた手下はすぐにお菊を抱えてくるや、行き成り地べたに放り投げました。

「ウッ」手足を縛られ体の自由がきかないお菊は、したたか腰を打ちつけうめいています。

「お菊、お菊、大丈夫かえ、年端もいかぬ幼子になんと手荒なことを……」

 作造は放りなげた男を睨みながら、お菊に駆け寄りやさしく抱きしめてあげます。

「痛いよう、痛いよう」

「お菊、無事かえ、もう儂が来たからには大丈夫じゃ、うん、どこが、どこが痛いのじゃ」

 気遣う作造をしり目に幻覚はすぐに鉄砲と絵図面を改めるや、

「者ども、やれ」掛け声と同時に四人の手下が作造を取り押さえ、あっという間に荒縄で縛り上げてしまいました。

「こ、こ、これでは約束が違うではないか、せ、せめてお菊だけでも返してくれ、このとおり頼む」

「ワッハハハ、この幻覚様が約束を守ると思うてか、馬鹿奴」

 頭を地べたに擦りつけ悲痛な叫びで懇願する作造を、手荒く足蹴にして勝ち誇ったように笑っています。


 作造の帰りがあまりに遅いので天王寺屋の主人は心配して、

「どうでしょう、みんなで様子を見に行っては」才蔵はぼんやりしているおよねに優しく声を掛けます。

「さあおよねさん、いっしょに行ってみましょう」

 三人がほこらに向かって歩き始めると、急に前方から火の手が上がり、火はさらに激しく燃え広がりとても前に進むことなど出来ません。幻覚が計画通り火を放ったのです。手下を使い、かねてより置いてあった油桶に火をつけると、火は瞬く間に戦場ヶ原を取り囲み、蟻の這い出る隙間すらない火炎地獄と化したのです。油で勢いづいた火は、だんだんと作造親子に迫って行きます。このままでは二人とも焼け死んで骨と灰になってしまいます。いやそれよりも、火に囲まれ逃げ場のないのは幻覚一味とて同じこと。しかし万事仕事に抜かりのない幻覚は、手際よく手下に指図を出しています。

「おい、急いで小屋の中から例の箱を出せ、二人ではとても無理じゃ四人でやれ」

 手下どもは掛け声をかけながら、木枠で作った頑丈な箱を掘っ立て小屋から出してきました。大人がゆうに五人は乗れる箱です。手下の一人が得意げに、

「この箱で逃げるとは、儂らには到底及ばぬことよのう」

「儂らの頭とおかしらの頭とでは、脳みその出来が違うのじゃ」

「そうよ、さすが儂らのおかしらよのう」

「儂らはどこまでも、おかしらに付いて行きますぜ」

「嬉しいことを言ってくれるのう、まあお主たちにも随分と苦労かけたが見ろ、この鉄砲と絵図面を。これさえあれば何処へ持って行っても仕官が出来るぞ、そうさなあ、大名くらいはなれるじゃろうて、ハッハッハハハ」

「おかしらは何処へ仕官するつもりじゃろうの」

「そりゃあ美濃の斉藤道山じゃろうて」

「いや、甲斐の武田じゃろう」

「いやいや尾張の……」

「待て待て、ここではゆっくり話も出来ん、帰ってから酒でも飲みながらじっくりと相談しようではないか」

「そうじゃのう」

「そうじゃ、そうじゃ」

「酒にありつけるは久方ぶりじゃ」

「さて、引き揚げるとしようぞ」

 幻覚は滑車を麻縄に取り付けると、手下の四人といっしょにはこの中に乗り込み、すばやく脇差を抜くや箱を支えている荒縄を切りました。箱はゆっくり向こう岸目指して動き出します。

「見よ、よう燃えているぞワッハハハハ、燃えろ燃えろ燃えてすべてを焼き尽くせ」

 幻覚は嬉しくてたまりません。手下もいっしょになって笑っています。一味を乗せた箱の下は大きな川で水かさもあり激流です。並の人間ではとても泳いで渡るなど出来るものではありません。


 その頃、戦場ヶ原の対岸では狼が十数頭かたまって、懸命に唸りながらなにかを食べています。いや、よく見れば太い麻縄をかじっているではありませんか。その麻縄の先は、大きな川を越えて戦場ヶ原へと伸びています。そうです、幻覚一味のあの大きな箱を支えている大事な麻縄です。ここにいる狼たちはみんな城太の仲間なのです。一番先頭で麻縄をかじっているのは、城太にお腹を出して体を舐めてもらったあのリーダー狼です。狼たちの鋭い牙で麻縄はもう半分以上もすり減ってボロボロです。


 幻覚一味を乗せた箱がゆっくり戦場ヶ原を離れると、みんな嬉しさと安堵から気をゆるし、

「おかしら、これは便利な乗り物ですのう」

「この箱は馬に乗るよりずっと楽じゃぞ、ハッハッハ」

「よう燃えておる、このぶんじゃとあの親子、骨まで燃えて跡形もなくなってしまうじゃろうて、のうみなの衆」

「ハッハッハ、なにも証拠が残らんでいいではないか、フッフッフ」

「こうして遠くの景色を見ると、じつによい眺めじゃ」

「おかしら、春はこの箱で花見なんてえのもおつですぜ」

「ハッハッハ、花見のう、花見とくれば酒と女がのうては話にならんぞ」

 幻覚一味を乗せた箱が川の三分の一まで差し掛かり、いちだんと雑談にふけっているとき、急にガクンと嫌な揺れ方をしました。下は激流、高さは二十間、落ちたらひとたまりもありません。子分たちは不安になり、互いに顔を見合わせますが怖くて声すら出せません。上に張ってある麻縄を見たり、下の激流を見たりで、ただただおろおろするばかりです。

「お、おかしら、大丈夫ですかのう」

「おう、なにも心配いらんぞ。この箱は特別頑丈に作っておいたからな」

「あのう、おかしら」

「なんじゃ」

「上に張ってある麻縄のほうで……」

「なにも心配いらんて、この麻縄は明国の船から黙って頂いたものよ。たとえ千人万人ぶら下がったとて、絶対に切れるようなことはない、儂が保証するから安心せい」

 幻覚の自信満々の声が飛び、一味を乗せた船がようやく川の中ほどまで差し掛かったとき、またもガクンと大きく揺れました。

「ギャー助けてくれー」

「おかしらー」

「おら泳げねえだよー」

「おっかさーん」

 さまざまな悲鳴とともに頑丈な箱は、激流に吸い込まれて行きました。これではいくら幻覚一味とて助かること叶いません。幻覚に奪われた鉄砲は鉄の塊り、川底深く沈んで永久に見つからないでしょう。絵図面もまた同じこと、水に浸かれば墨が流れ読み取ることは不可能です。それよりもお菊と作造の安否が気がかりです。幻覚の思い通り事が運べば、火は油の上を走り側に積んだ枯れ枝に移れば、いっそう火力を増すことでしょう。そして火は円を狭めるように、じょじょに戦場ヶ原にいるすべてのものを焼き尽くしてしまうでしょう。最後に残ったものは、骨と灰だけという計画でしたが……。


 城太は幻覚一味に見つからぬよう、密かに仲間の狼たちといっしょに行動していました。そして油桶の栓を幾つか口で引き抜いていました。もちろん賢い城太は、狼たちと枯れ枝を一本一本口に銜えて取り除いていたのは言うまでもありません。城太が炎の隙間をかいくぐり、ようやくほこらに辿り着くと、ちょうど幻覚一味を乗せた箱が川底に向かって、悲鳴もろとも真っ逆さまに落ちて行くところでした。

 ほこらの側ではお菊と作造が手足を縛られ、抱き合うように寄り添っています。

「とと様、怖いよう、怖いよう」

「お菊、大丈夫じゃ儂が側にいるで怖くはないぞ」

「熱いよう、熱いよう」

 作造は一所懸命にお菊をなだめますが、猛火はとうとう目の前まで迫ってきます。もはやこれまでと覚悟を決めます。そして少しでも猛火の熱からお菊を守ろうと、みずから楯となりじっと耐えています。幼心にも父の死を悟ったのか、お菊も黙って耐えています。作造はゆっくり目を閉じると祈り始めました。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

 一心不乱にお経を唱えていると、なにやら自分の顔に生温かさを感じ、

「儂はもう極楽浄土の入り口へ来てしもうたんじゃろうか」夢うつつの状態で、なおも一心不乱にお経を唱えています。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」またも生暖かいものが顔中を這い回っているように感じます。

「儂はとうとう極楽浄土へ来てしもうたんじゃな」恐る恐る目を開けると、なんと目の前に金色に光る二つの目が……。

「じょ、城太でねえか、お菊、お菊や、城太、城太じゃよ、城太が助けに来たんじゃ」

「城太……城太は家に……」

「これお菊、しっかりするんじゃ」

「城太、城太はここにいるぞ」

「えっ、城太がここに」作造の胸元から顔を上げると、

「あっ、城太、城太でねえか、よく来てくれた、よく来てくれた、ありがとうよ」

 城太はすぐに作造の縄に食らいつき、鋭い牙で嚙み切ると、夜空に青白く光る満月に向かって、「ウオーン、ウオーン」と吠えるのでした。作造は急いでお菊の縄を解き、立ち上がろうとしてよろけてしまいました。

「痛たたた、うむ、どうやら足に深手を負うてしもうた。なんとしてでも立って歩かねば」

 傷を負った足をかばいながらも、足元に落ちていた枯れ枝を拾うと、杖がわりにしてようやく立ち上がりました。

「よし、これでなんとか歩けそうじゃ、お菊、お菊、お前も立って歩けるかえ、うん、どうじゃ」

「痛いよう、痛いよう、とと様とても痛くて立てねえだよ」

 先ほど幻覚の手下に思いっきり放り出されたとき、したたか腰を打ったのです。

「儂一人ならなんとか歩けるが、お菊を背負うとなると……はてどうしたものか、このままでは……」

 作造が思案に暮れていると城太が側に来て、しきりに体をすり寄せてきます。

「どうしただ城太」またも城太に体をすり寄せてくると、

「えっ、お前の背中に乗れと言うのかえ」

 城太はお菊が背中に乗れるよう体を少し低くすると、作造はお菊を抱え馬にでも乗せるようにまたかせらせます。お菊が両の手でしっかり城太の首元にしがみつくと、ゆっくり歩き出しました。城太の前には白と黒の犬が先導しています。この白と黒の犬は以前、根来の忍者幻覚が手塩にかけて訓練した犬です。しかしいまでは城太の良き仲間となって、狼たちの面倒を見ています。二匹はところどころ火の弱くなっている場所を選びながら、城太たちを導いています。火の勢いが強いところへ来ると、十数頭の狼が城太の左右にぴったり張り付いて炎の熱を妨げています。作造はこの異様な光景を目の前にして、煙でしみる目を擦りながら、

「なんと狼がお菊と城太を守って道案内までしておる、儂は夢でも見ているんじゃろうか。いやいやこれは決して夢などではないぞ」杖をつきつき、よろける足取りでどうにかついて行きます。火もようやく弱まった頃には、もう狼たちはどこかへ立ち去り影も形もありませんでした。


      十五 生還


 作造とお菊の帰りを、いまかいまかと待っているおよねと天王寺屋の主人、それに番頭の才蔵。急に三人の目の前から激しい火の手が上がり、立ち往生してから一刻。いくらか火の手も弱まってきましたが、それでも時折大きな火柱が燃え上がり、先を行くにはまだまだ危険すぎます。みながやきもきしながら待っていると、火柱と火柱の隙間から……。

「旦那さま、いまなにか黒いものが動いたような……」

「はて、儂にはなにも見えなんだが……」

「どうもこちらに向かってくるようでございますが……」

 もしやとおよねは目を凝らして見ていると、だんだんと黒い影のようなものが近づいて来るようです。

「あっ、あれはお菊、お菊、母はここじゃ、お菊」

「えっ、あれがお菊ちゃん」

 才蔵が驚くのも無理はありません。なにしろ城太の背にお菊がまたがり、笑顔で手を振っているのですから。

「かか様、かか様」

「危ないおよねさん、いま出て行ってはあぶのうございます」

 才蔵の手を振りほどくと我が身をかえりみず、およねはくすぶり続ける火の中へと飛び込んで行きました。足元の熱さなど眼中になく駆け寄りざま娘を抱きしめ、

「お菊、怪我はないかえ、どこか痛いところはないのかえ、なに腰、腰が痛いのかえ、さあさあこっちへおいで」

 城太の背にまたがっているお菊を抱きかかえ降ろしてやると、後ろからおぼつかない足取りで、杖をつきつきやってくる作業を認め、

「はっ、お前さま、お前さまでは……」

「およね、儂は大丈夫じゃ」

「ようご無事で……」

 それっきれ三人は黙ったまましっかりと抱き合うのでした。嬉しさのあまり互いの顔は涙でくしゃくしゃになっています。天王寺屋の主人と番頭の才蔵もようやく駆けつけ、無事な親子を目のあたしにして、目頭を押さえずにはいられませんでした。ふと天王寺屋の主人が作造親子の傍らにいる犬に目を止めると、城太は尻尾を振って嬉しそうに近寄ってきます。

「おや、お前さんこんな所に居たのかい、奇遇じゃのう」

 頭を撫ぜてやると、さらにせわしく尻尾を左右に振って嬉しそうです。作造は不思議そうに眺めていましたが、たまりかねて聞きました。

「天王寺屋さんは城太を知っていなさるんで」

「いやいや、本の顔見知りでございますよ。そうかそうかお前は城太というのか、よい名前じゃ、のう城太」

 また頭を撫ぜると、こんどは体ごと擦り寄せてきてさらに喜んでいます。


     十六  たくらみ


 数日がたち、ようやく作造一家にも平穏な生活が戻ってきました。作造は朝早くから仕事場に顔を出し、弟子たちといっしょに改良した火縄式鉄砲の製作に余念がありません。およねも元気になったお菊と作造を見ているだけで幸せです。城太はなお一層お菊になついて毎日を楽しく過ごしています。しかしここに作造一家を怨む者が一人いたのです。根来の幻覚亡きあと、一門はばらばらになり残った者は「くの一」忍者あけみ、ただ一人だったのです。

 あけみは毎日むしゃくしゃして過ごし、どうにかして作造一家に一泡吹かしてやらなければ気持ちがおさまりません。そこで作造の大切にしている火縄式鉄砲の絵図面を奪うことにして、ここ数日仕事場を見張っているのです。薬売りに化けたり、漁師の娘になったりとしましたが、いまは百姓女になりすまし、竹かごを背負い鎌を持って辺りを窺っています。今日はめずらしく仕事場から男衆の声が聞こえてきません。あけみはいまこそ決行のときと決心し、竹かごを茂みに隠し鎌だけを持つと、裏口はさけ表口の玄関からそっと忍び込みます。長年の経験で意外と表口の方が、誰かに見とがめられても不審に思われないことを知っているのです。あいにくおよねも留守のようです。

「フン、ずいぶんと不用心な家だねえ。これじゃあどれでも好き勝手に持って帰って下さいじゃないか、フン、親の顔が見たいもんだねえ」

 誰もいないことをいいことに、だんだん図々しくなり奥へ奥へと入って行きます。作造の部屋はすぐに見つかりました。一歩中に入るとうずたかく積まれた書物の山です。あけみは適当に本や書き付けをパラパラとめくってみますが、さっぱり分かりません。なにせあけみは字が読めないのです。この時代、字を読んだり書いたりできる人はわずかでした。せいぜい武家の出か、僧侶または高貴なお方くらいしかおりませんでした。あけみは持ってきた鎌が邪魔になり、書物の上へそっと置くとまた熱心に探し始めます。あまりに夢中になりすぎて、城太が部屋に入ってきたことなど知るよしもありません。城太は書物の上に置いてある鎌の柄を口に銜えると、静かにあけみに近づき伏せをしてじっと見ています。そうとは知らず城太に背を向け、ぶつぶつ独り言を言いながら、夢中で小箱の中をかき回しています。

「よくこれだけの書物を集めたものだよ、これじゃあ灰の中から針を見つけるようなものさね。ふーん、無いねえ、いったい絵図面はどこなのさ」適当に書物をパラパラめくっていると、

「あった、これこれ、これだよ、ホッホッホ、これさえ手に入ればこんな所にはもう用はないよ、急いでとんずらだよ」

 鉄砲の絵が描いてある紙切れを引き抜き、丁寧に畳んで懐に入れると、勢いよく振り向きざま一歩を踏み出したとき、

「痛い」思わず大きな声を出してしまいました。

「不覚」足元を見れば犬が鎌を銜え、伏せをしてこちらを見ています。あけみのすねからは見る見る赤い血が吹き出し、慌てて腰の手拭いで止血をします。そして逃げるように部屋から出ると、城太も鎌を口から放してあけみの後を追い掛けます。あけみは表口の玄関から前の通りに出ると立ち止まってしまいました。

「ちくしょう、ついてないねえ」

 だいぶ先から作造と弟子たち七、八名がこちらに向かって歩いて来ます。しかし悪知恵の働くあけみは、辺りを見渡し誰もいないことを確かめると、みずから玄関の前に倒れ込み、

「ギャー、助けて、助けて下さーい」

 わざと作造たちに聞こえるよう大声で叫びました。

 ただならぬ女の悲鳴を聞きつけ作造らがいっせいに駆けつけると、そこには一人の百姓女が身を縮めて震えています。

「た、た、助けてください、助けてください、こ、こ、この大きな犬が、い、いま、あたしを噛んだのです」

 城太を指さす手は震え、足を縛った手ぬぐいは血で赤く染まり、痛々しい百姓女がそこに倒れています。

「これ城太、向こうへ行け」作造は強い口調で命令し、すぐに百姓女の手当てにあたります。

「これはこれはすまぬことをいたしました、どうか許して下さい」丁寧に頭を下げてから弟子の一人に声を掛け、

「すまぬが、およねを急いで呼んできておくれ」まもなく顔色を変えて駆け付けたおよねに作造が、

「城太がいまこのお方を噛んだのじゃ、早く手当を」

「まあ、それは大変なことを……誠に申し訳ござりません。すぐに家の中に入っていただいて手当をせねば」

 およねと作造があけみに手を貸し家の中へと急ぎます。

「ウッ、いたたたた、ウッ、痛い」途中あけみは足を引きずりさも痛そうです。

「大丈夫でござりますか、歩けますか、痛くはござりませんか」

 およねは何度も何度もあけみに声を掛け安否を気遣います。作造は傷の手当てをおよねに任せると、いつものように腕組みをして思案するのでした。

「あの一件で城太は野生に帰ってしもうたんじゃろうか、いやいやお菊にあれほどなついている城太が、まさか人を噛むなんてあろうはずが無い。いや、いま現実に人を噛んでおる。うーん、どうしたものか……」

 堂々巡りで結論が出ません。いやもう結論は出ているのですが、それを実行できないでいるもう一人の気弱な作造がいるのです。

「お菊になんと話したものか……困ったのう」

 作造はいろいろ考えたすえに、仕事場から改良したばかりの火縄式鉄砲を持ち出してきました。城太を連れて裏の畑へ行くと、お菊が楽しそうに花摘みをしています。

「お菊、お菊や、ちょっとこっちへ来ておくれ」

「はーい」

 野菊を両手いっぱいに摘んで、ニコニコと嬉しそうに走ってきます。

「とと様、城太を連れてどこ行くだ」

「お菊、いまから大事な話をするで、よーく聞くんじゃぞ、よいな」

「はい」

「いま城太が女の人を噛んだのじゃ」

「えっ、城太が……」

「そうじゃ」

「嘘じゃ嘘じゃ、城太は人など噛まぬ」

「最後まで儂の話しを聞くんじゃ、よいか、もう城太はな、家には置いておけんのじゃ」

「こんなに大人しい城太が、ぜったい人など噛むはずがねえだ」

 お菊は城太を目の前にして涙を浮かべて反論しています。作造も内心はお菊の言うとおりだと思っていますが、現実にいま血を流し怪我をしている女子を見ては、否定するわけにはゆきません。

「よいかお菊、この堺の山奥で猟師をやっている人たちのあいだにはのう、犬の掟ちゅうもんがあるんじゃ。それはのう、犬は人に吠えてもええが、人を噛んだりしちゃあなんねえと言う、簡単なようで厳しい掟なんじゃ。もし人を噛んだ犬は……」

「もし噛んだときはどうなるん……」

「うん、もし噛んだときは山奥のずーと奥へ連れて行って、ひと思いに殺すのじゃ」

「いやじゃいやじゃ、そんなことしたら城太が可哀想じゃ、城太はなんにも悪くねえだ」

 泣き声がだんだん小さくなり、最後は声にならず城太の首にしがみつきむせび泣いています。城太はお菊のなすがまま、じっと動かずに立っていますがときどき心配してか、お菊の顔を舐めてあげます。

「城太は生まれた山へ帰るんじゃ分かったな。さあ分かったら城太から離れるんじゃ、お菊」

 父の始めて見せる鬼のような形相に、お菊は思わず手を放してしまいます。

「城太、こっちじゃ、こっちに来るんじゃ、さあ行くぞ」

 作造は首にかけた縄を強く手繰り寄せると、城太とともに遥か先の山を目指して歩き始めます。

「城太~、行っちゃなんねえだ、城太、城太~」

 城太は呼ばれるたびに、いつも優しくしてくれるお菊が今日に限って、どうして悲しそうに呼ぶのか不思議でした。

「城太、城太~」

 二度三度と呼ばれるたびに振り返ると、お菊はなおいっそう悲しい顔をしているのです。作造は城太が立ち止るたび、無言で握っている縄を引き寄せるのでした。城太の後ろ姿が見えなくなっても、遥か先の山をじっと見つめているお菊。

「あと一刻も歩けば着くじゃろうて」

 作造はやるせない気持ちを断ち切ると、一度も振り返ることなくただひたすら歩き続けました。


      十七 殺生


 うっそうとした森の中を歩いていると、作造の気持ちはいっそう滅入ってきます。

「この辺りでいいじゃろう」誰いうことなく呟くと、城太を引いてきた縄を小枝に引っ掛け、

「城太、お前はここで大人しく待ってておくれ、分かったかい」

 城太と目を合わさないようにして優しく声を掛けると、歩幅を図るようにして離れてゆきます。城太は言われた通り静かに作造の後ろ姿を見つめながら待っています。作造は五十歩正確に数えると立ち止まり、担いでいた火縄式鉄砲を肩から下ろします。素早く火薬と弾をさくじょうで突き固めると、火のついた火縄を取り付けました。すべての準備が整うと大きく一回息を吐きだしてから振り返ります。城太は作造が火縄式鉄砲を持って、じっとこっちを見つめていることが不思議でなりません。作造はしばらく城太を見ていましたが、やがて決心したように火縄式鉄砲を構えます。そして息をゆっくりと吐きながら人差し指を引き金に触れさせます。作造はいつもの癖で、息を吐き終わったときに引き金を引くのです。わずか数秒ですが、このみじかい動作が気持ちを集中させてくれるのです。鉄砲の狙いは城太の頭にピッタリと付けられ、人差し指が引き金に吸い寄せられるように動き出し、軽く引き金に触れると一旦動きが止まります。たったこれだけの動作をする間に、作造は初めて城太に会ったときのことや、悪い幻覚一味からお菊を助けてくれたことを思い出していました。引き金に触れた人差し指がわずかに震えています。銃口の先にはなんにも知らない城太が作造をじっと見つめて立っています。三十間先の的を外したことのない作造ですから、よもや撃ち損じることは万に一つもありません。城太を見据えている作造の目頭がだんだんと熱くなり、込み上げてくる思いを自ら断ち切ろうとして、

「ゆるしてくれ城太」一言つぶやくと迷いがふっ切れ人差し指に力が入ります。

「ダーン」


     十八 露見


 作造が山へ向かってからはや一刻(二時間)以上がたちました。

 そのころ家では根来の忍者あけみが、およねの手当てを終えて友だちのように楽しく世間話をしています。そこへ天王寺屋の主人が番頭の才蔵を伴って来ました。

「作造さんはおられますかのう、今日は改良した火縄鉄砲を見せてくれると言うで、こうして勇んで参りました」

 およねが二人を丁重に出迎えます。

「これはこれは天王寺屋の旦那さま、ご足労をお掛けいたします。つい今し方までここにおりましたのですが、きっと裏の畑へでも行ったのでしょう、ちょっと見てまいりますのでお待ち下さいませ」

 そのとき才蔵が家の隅で泣いているお菊を見つけ、

「お菊ちゃん、こんな所で泣いていてどうしました。誰かにいじめられでもしましたかのう」

 お菊は両手で顔を覆い、黙って首を左右に振るばかりです。

「泣いてばかりでは分かりませんよ、この才蔵がお菊ちゃんの力になってあげますから、どうか訳を聞かせてくださいな」

 優しく話しかけるとお菊は泣きながらも話し始めました。

「じょ、城太がそこにいる人を噛んだそうじゃ」ちょうど玄関先に出てきたあけみを指さし、

「そ、そ、そんでもって、とと様が鉄砲で城太を殺すんじゃと言って山へ……」

 言うが早いかまた泣き出してしまいました。才蔵がなにげに玄関先を見ると、

「はて、どこかで一度見ている顔じゃが……どこじゃったろう……あっ、あのときの……」

 才蔵はゆっくりあけみに近づくと気さくに声を掛けます。

「これはこれは難儀なことでございましたなあ」

 あけみは如才ない会釈を返します。

「傷口は痛みましょ……」

 才蔵は最後まで言い終わらないうちに、あけみの右腕をねじり上げ地べたに押しつけました。

「な、なにをなされます」

「黙れ、声うつしのあけみ」

「ちくしょう、ばれていたのかい」

「儂をたぶらかそうなど十年早いわ」

 懐からわずかに覗いている絵図面を抜き取り、素早く足の包帯を解くと、

「この傷口が犬に噛まれたと、たわけ」

 丈夫なひもを懐から取り出すと、あけみを厳重に縛り上げました。

「旦那さま、この女どういたしましょうか」

「それよりも作造さんと城太のことが気がかりじゃ、いまから追い掛けて行っても間に合うかどうか」

 才蔵はまだ泣いているお菊に優しく尋ねます。

「作造さんはどれくらい前に山へ行ったかのう」

「い、一刻はたっておる」

「うーん、ここから山まで儂の足でも一刻はかかってしまうが……」 

 いまからではとても間に合うはずもなく、天王寺屋の主人と才蔵はがっかり肩を落としてしまいます。お菊は急に駈け出すと、あけみにしがみつき、

「馬鹿、馬鹿、お姉ちゃんの馬鹿、城太は悪くねえだ、城太が死んじゃうよ~」

「……」

 あけみは返す言葉がありません。お菊の一途な城太を思う姿に、誰一人として口を挟む者などおりません。辺りはだいぶ薄暗くなり、みんなの気持ちが沈んでいるところへ、遙か遠くの山から「ダーン」と銃声が響き渡り、それはやがて木霊となって返ってきます。

「かか様、かか様、城太が、城太が死んでしもうた」

 お菊は母の胸に飛び込むと、いつまでもいつまでも大きな声で泣き続けるのでした。

「世間からやれ堺の大商人だ、大旦那さまだともとはやされて、儂も商人の端くれと金の勢いに任せ、ずいぶん危ない仕事もやって来たしまた出来もした。それがいま、犬一匹救ってやれんとは……これが諸行無常と言うものか」

 天王寺はやるせない気持ちで山を見つめ呟くのでした。


 月明かりで足元が見える作造は、夜中になってようやく我が家へ帰ってきました。およねが出迎えても、固く結んだ口元は一言も語りません。


     十九 赤子


 翌朝、とうとう作造は蒲団の中で一睡も出来ませんでした。

「ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ」裏口の方からなにやら不審な物音が聞こえてきます。

「はて、こんな朝早くに誰じゃろう」

 作造は目を擦りながら、隣りで寝息を立てているおよねを尻目に、そっと寝床を抜け出します。物音をたてぬように静かに裏口まで来ると、今度は微かな音が引き戸の外から聞こえます。

「カサカサ、カサカサ」作造が引き戸の前で立ち止まると、ピタリと音は止んで静かになりました。

「儂の空耳じゃったかのう、やれやれ年はとりとうないのう」引き返そうと振り返ったとき、またも引き戸の外から、

「カサカサ、カサカサ」

「あれ、たしかに音がしておるわ」

 心張棒を外し引き戸を静かに開けると、黒い影が畑の先へ駆けて行ったような気配が……。黒い影は畑の傍らに咲いている百合の花の前に一旦止まると、また全力で駆けて行きました。その百合の根元には、いつかお菊が城太と約束したときに置いた小石が二つ重ねてあります。しかしこの薄暗い中でのわずかな出来事を、作造は知るよしもありません。

「おや、なんじゃろう」草履ばきの足元になにやら柔らかいものが触れました。

「なんじゃこれは、うん、子犬でねえか」抱き上げてみると丸々と太り、毛並みは銀色で目は金色に輝いています。

「じょ、城太」思わず大きな声で叫んでしまいました。

「およね、およね、お菊、お菊や~、早よう、早ようこっちに来ておくれ」

 早朝のただならぬ作造の大声に、およねとお菊はなにごとが起ったのかと心配しながら起きてきました。二人とも一晩中悲しくて眠れず、真っ赤に目を腫らしています。

「早よう、早よう、こっちじゃ、こっちじゃ」裏口で作造が得意げに二人を手招きして呼んでいます。

「ほれ、城太の赤子じゃ」子犬を見た途端、およねとお菊は自然と顔がほころび、

「どれ、あたしに抱かしておくれ」

「かか様ずるい、お菊が先じゃ、お菊が先じゃ」

 笑いながら親子で子犬を奪い合っています。作造はそっと表へ出ると白々としてきた遙か遠くの山を見つめ、

「ありがとうよ城太、この子は大切に育てるさかいお前も達者で暮らせよ」

 思わず山に向かって合掌しています。気がつけば作造の傍らで、およねとお菊も同じように手を合わせています。親子三人、濡らした頬を拭おうともせず、ただ黙って合掌しています。

 子犬がつぶらな瞳でお菊を見上げています。山あいからようようと輝く朝日が昇ろうとしています。

                                               おわり



 


 

 

  





  


 

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