一人
「長谷川さんは、明日までずっとそこにいるんですか? 明日にならないとそこの扉は開かないはずですよ?」
その角のない滑らかな言い回しの問いかけに俺は、複雑な想い出が入り混じる回想への集中を解いた。無意識の中で定まらずにいた視点をコンクリートの地面から外した俺は、闇にうっすらと浮かび上がる柊の顔を見上げた。どうやらいつの間にか岩肌のように凹凸だらけの地面に座り込んでしまっていたらしい。
俺が立ち上がりつつ見上げた先の柊は、俺のすぐ横にある鉄製の錆び付いた扉を指差していた。それは、光源にほんのり照らされてあるビルのような建物に馴染めておらず、正に取って付けた様な異質な雰囲気を持っていた。
再び視線を目の前の小柄な女性に戻すと、彼女は静かに、そして僅かに首を傾げた。そのジェスチャーは「どうなんですか?」と訪ねているかのように俺には見えた。
「あ、ああ、いや、俺は明日の為に少し車で休んでくるよ。君……柊さんはどうするんだい?」
「…………そうですね……私も車で来ましたから、長谷川さんと同じくそこで少し休んできます」
そう言った彼女は俺に向けていた濁りのない瞳を、背後に広がる闇に向け、そのまま競歩で俺の前から去っていった。僅かに流れてきた風が淡く甘い香りを運んできた。しかしそれも、彼女が俺の瞳に映らなくなった時には消えていた。再びの強い孤独感の強襲によって俺は、心全体に虚無感を植え付けられた気がした。
俺が安物の車を停めた場所は、彼女が去っていった路地より少し外れたところにある小道を辿ったところだ。今俺のいる広場にはその二つの道しか繋がってはいない。どちらの道にも大小様々なゴミが転がっており、もはやここはスラム街といっても過言じゃない。
「車で来た……か」
車で来た。ということは、彼女はそれを運転できる年にはもうなっているんだろう。見た目はそれ相応になっていないとは思うが、喋り方は割としっかりしていたのだし。
明日本当に開始されるのだろうか。
そんな思いを置き去りにしたくて俺は速足で、俺を待つ車へと向かった。
その車に着くまでも俺の頭は勝手に後ろ向きな思考を働かせていた。もし、ダイスをクリアできなかったら。もし、ダイスの賞金が用意されてなかったら。もし、ダイスが行われなかったら……
どれも今確証を得ることのできない問題。しかし、予測してその後のことも考えておかなくてはいけない問題でもあった。
車の中で考えよう。そう思い俺は黙って脚を働かせることに集中した。
勢いのよい街灯の光と共に何の変化もなしにただ茫然と居てくれた車に俺は鍵を入れた。そしてそれを乱暴に回した俺はすぐさま運転席のドアを丁寧に開けた。ゆっくりとその中に入り、そして未だ新しさの垣間見れるシートを最大限まで倒した。
自分でも解る、今の俺は情緒不安定だ。
不意に右足の太ももに僅かな振動が走った。それが携帯電話によるものだと瞬時に理解できた俺は反射的にズボンのポケットに手を突っ込んだ。見ると友人、いや、親友の拓志からのメールが届いていたようだった。俺はそれを手早く開く。
【よく分かんねえけど恵璃華ちゃんのことで金が必要なんだろ? それなのになんでお前は金を受け取らない!? いい加減に親友の善意を受け取ってくれよ】
メールにはそう書かれていた。小学からの付き合いの拓志からならば素直にお金を受け取ることができたのは事実だ。だが俺は受け取らなかった。拓志からのそれだけでは、手術費の足しにもならないことが分かっていたからだ。ならば、俺は親友に俺達の問題に関わってほしくはないと思った。いざという時には黒く染めるつもりの手を拓志に止めさせられそうな気がしたからだ。
俺は友の心のこもったそのメールに、感情を抑えた返信をした。
【恵璃華のことなら心配ない】
俺は携帯の電源を切った。