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アザラシの夜

作者: 月猫百歩
掲載日:2026/03/01

「豚よー!私は豚なのよー!」


  アラフォーの美奈子は雨が降り頻る中、ベランダで叫んでいた。

  カーテンがたなびく室内には様々な紙が舞い散る。 ジムの過程、食事指導の記録、痩身エステの領収書、医療痩身の医療結果。


「どうして痩せないのよーー!」


  稲光と共に泣き叫ぶ。 パンパンの頬に打ちつける雨。肉厚な肩や腹に垂れる雨粒。雫が太ももの内側をゆっくりと滑り落ちた。


「私は豚なんだわーー!」


  彼女の叫びに共鳴するような稲妻が走ると、棚の上に飾られた笑顔の子供の写真が浮かび上がる。


「豚とは暮らせない」と離婚した夫と、無邪気に手を振って引き取られた子供。 散乱した書類の下には乱雑に散らばる抗鬱剤と睡眠薬があった。


「豚よーーー!」


 彼女は雷鳴と共に泣き叫んだ。 耳に残る轟きは誰かのあざけりに聞こえた。



 翌日、彼女は通っている精神科に向かった。


「永山さん。おそらく長期的なストレス太りですね。体がずっと緊張状態だから何をしても守りに入って痩せないんです」


  その言葉に美奈子は衝撃を受けた。ストレスで痩せるなら分かるが、太るというのか。


「あとは抗うつ剤や睡眠薬の副作用の可能性もあります。長年使っているので基礎代謝が落ちて脂肪が蓄積し、食欲も増したせいかもしれませんね」


 美奈子は希望を見つけたように前屈みになって医師を見た。


「じゃあ薬をやめるか変えてください!」


  医師はゆっくりと顔を振ってじっと美奈子を見つめた。


「今の状態で薬の変更は望ましくないです。今は何よりもメンタル回復を最優先してください」


 世界がしんと静まり返った気がした。

 医師のセリフに美奈子はどこか、気持ちが置いて行かれた心持ちになり、手袋をはめたような手をぎゅっと握り合わせた。



 彼女は診察の帰り道、とぼとぼケーキ屋の前を通った。ガラス張りの店内に華やかなケーキが並んでいる。

『美味しそう』『甘いものが欲しい』『この憂鬱さを晴らしたい』

 脳が涎を垂らして呟く。


 その瞬間


「見てあの人、めちゃくちゃ食い付いてる〜」


 ハッとしてガラス越しに背後の通りを見る。


「あの体型だと納得。いかにも好きそう〜」

「ポチャどころじゃないよね」


 若い子がクスクス笑いながら通り過ぎる。


「あ、そう言えば新しいアフタヌーンティー出たの知ってる?今度行かない?」

「良いね〜行く行く!じゃあ今日はタピオカ飲んで帰ろう?」


 はしゃぐ彼女達の背中を見る。細くてスタイルのいい体。あの人達は甘いものは許されるけど、豚の私は許されない。

 美奈子は背中を丸めて彼女達とは反対の方向に歩いて行った。



 帰宅後、美奈子はコンビニで買った無糖寒天ゼリーを食べていた。


「美味しくない…」


 溜め息を吐いてキッチンに向かう。

 お湯を沸かしてティーバッグを入れると、牛乳と蜂蜜を足す。一口飲んで息を吐く。


「美味しい……」


 ホッとするが、後からじわりと罪悪感が背中を這い上がる。


「こんなだから私は豚なんだな……」




 その夜なかなか寝付けなかった。

 冷蔵庫の低い振動音、降り出した雨の音。布団の中で何度も寝返りを打つ。


「眠れない……」


 諦めてスマホの画面をつけて適当に動画を流す。

 すると水族館の映像が流れて丸いアザラシがコロンと水槽傍に横たわる。


『アザラシの脂肪は50%あるんです。これは外界の冷たい刺激から守るためなんですね』


 この言葉がなぜか美奈子の胸にストンと落ちた。


『守る』?


 画面の中のアザラシは気持ちよさそうに丸い体で泳いでいる。丸い目が閉じると微笑んでいるようだ。


「私の体も……守ってくれた? アザラシみたいに?」


 解説は穏やかに続く。


『誤解されがちですが、人間の脂肪は20%で、対して豚の脂肪は15%です。生き物それぞれの生き方があります』


 美奈子の瞳から不思議と涙が出た。自分の中にあったいくつかの鎖が緩んだ音がした。


 スマホの画面を閉じる。

 明日からは、昨日の私より自分を傷つけない私になろう。そしてきっと自分は明日もミルクティーを飲むのだろう。もしかしたら、また罪悪感も湧くかもしれない。


 それでも。


 昨日より少しだけ、自分を罰しない夜にしたい。

 美奈子は静かに決意した。


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