7日目 〜やっぱり気になる、あの景色〜
朝の陽射しが田んぼの水面を鋭く刺すように反射している。
眩しすぎて、おばちゃんの目には少し厳しい。
昨夜の豊作祈願の宴の残り香がまだ体にこびりついている。
獣の脂、松明の煙、酒の酸っぱい匂い。
皆が、泥だらけの指で掬って食べている姿がずっと頭に残ってる。
足音が土を踏む音、草を擦る音、時折遠くで鳴く山鳥声が響く。
今日はオクトさんに頼み込んで烏田川の上流、水源近くまで連れて行ってもらっている。
「神女の頼みなら」とだけ短く答えて、彼は黙って先に立って歩いている。
道中、ほとんど言葉はない。
木々の間を抜ける風が、汗ばんだ首筋を冷たく撫でる。
暫く歩くと、龍王山の山裾が迫ってきた。
古い杉と雑木が密集して、陽光が木漏れ日となってまだらに地面を染めている。
そこに、大きな溜め池が静かに横たわっていた。
周囲を苔むした岩と古木が囲み、水面は不自然なほど平らで、鏡のように山影を静かに映し出していた。
風一つなく、葉ずれの音すら聞こえない。
川は池の脇を細くすり抜け、すぐに深い山の奥へ消えていく。
ここに来た瞬間、なぜか息が詰まった。
まるで時間が止まっているような、異様な静けさだった。
私は勾玉を握りしめ、思わず池に向かって掲げた。
オクトさんも無言で同じ仕草をする。
その瞬間、池の底から何かがゆっくりと浮上してくるような感覚がした。
水面がわずかに波立ち――
突然、景色が変わった。
そこは数年後のこの村のはずだった。
田んぼは黄金色に実り、重く垂れた稲穂が風に揺れている。
子供たちが笑いながら駆け回り、大人たちは汗を拭きながら米を俵に詰めている。
広場では火が焚かれ、皆が輪になって歌い、手を叩き、干し魚と粥を分け合っている。
誰も飢えていない。
誰も泣いていない。
遠くの環濠の向こうに、敵の影はない。
ただただ、穏やかに続く日常が広がっていた。
空は青く、風は優しく、笑い声が絶えない。
でも、次の瞬間――
景色が歪んだ。
同じ村が、燃えていた。
家々が黒煙に包まれ、叫び声が響き渡る。
田んぼは踏み荒らされ、血と泥にまみれている。
逃げ惑う人々。
倒れる子供。
炎に照らされた顔に、絶望だけが浮かんでいる。
オクトさんの姿も、そこにあった。
彼は妻の亡骸を抱き、ただ立ち尽くしていた。
膝から崩れ落ち、声を殺して肩を震わせる。
そして、すべてが闇に落ちた。
・
・
・
目の前には、鏡のように山の姿を映す水面。
先ほどの光景は、跡形もなく消えていた。
小さく鳥の鳴き声が聞こえる。
緊張してぐっと勾玉を握りしめていた。
私は息を吐き、力を緩める。
額に冷たい汗が伝う。
オクトさんも顔を強張らせ、拳を握りしめていた。
どちらも言葉はいらない。
あれはこの村の未来の「可能性」だ。
二つに分かれた道。
どちらを選ぶかで、すべてが変わるの。
村に戻る道すがら、オクトさんは今まで私を近づけなかった場所へ足を向けた。
そこは年寄りたちが集う平床の建物。
薄暗い室内に、植物を編んだ古いゴザが敷かれ、数人の老婆たちが座っている。
皺だらけの顔、ほとんど動かない目。
灰色の髪は乱れ、着物は煤と汗で黒ずんでいる。
……正直、私の方が年上のはずなのに、完全に「上」からの視線ね。
ジロリと睨む目が、心の底まで抉ってくる。
まるで「外から来た女が、何を知ったつもりか」と問われているよう。
池で見た二つの景色を、ぎこちなく説明する。
言葉が足りない。
声が震える。
伝わっているか不安だった。
老婆たちは訝しげなまま互いに視線を交わし、オクトさんにだけ小さく頷いた。
つまり、私への信用はまだ底が浅い。
当然だ。
私はまだ「よそ者」だ。
外から来た得体の知れない女。
建物を出て広場へ戻る途中、オクトさんがぽつりと吐き捨てるように話してくれた。
「去年、不作で子を亡くした。
その後、妻も後を追うように死んだ。
あの悲しみは、もう二度と味わいたくない。
あの池で見た、皆が笑って米を分け合う景色が本物になるなら……
俺は神女の言う通りにする。
たとえそれがどんな道であれ。
たとえ、血を流すことになっても」
声に感情はほとんど乗っていない。
言葉は分からない筈が、全て分かった気がした。
ただ静かな、揺るぎない決意を感じた。
ようやく一人、本物の理解者を得られた。
それだけでも、今日の収穫は大きかったわ。
だけど、まだ始まったばかり。
二つの未来の間で、どちらを選ぶか。
いや、選ばせるか。
私の知識と、この時代の現実がどこまで噛み合うか。
それは、まだわからない。
ただ一つだけ確かなことがあるわ。
私は、もう引き返せない。
この道を、歩き続けるしかない。
水源の池で見た二つの未来、おばちゃんとオクトさんはどちらを選ぶのでしょう。
次回、おばちゃん龍の声を聞く?




