330日目 〜穏やかな時、静かな水面〜
梅雨の気配はまだ遠く、日差しは日に日に強くなってゆく。
昨日までで、村の田植えが全て無事に終わったの。
今年は初めて苗を育てて田植えをやったから、稲ちゃんもとても元気に見える。
去年の、あの惨憺たる田んぼとはまるで別世界。
あの時は、私が龍の声を聞いた日から土砂降りになり、せっかく育った苗が流され残ったものは根腐れを起こして茶色く萎れていった。
畦を壊して水を抜いて土を混ぜて、皆んなで泥だらけになって暗い顔で黙々とやり直しをしていた夏だった。
だから今年、田植えが終わった翌日、私は今年も龍の祠へ向かったの。
竜王山に繋がる山裾の細い参道を抜けると、苔むした石段の先に小さな祠が佇んでいる。
屋根の端から滴る水音だけが、辺りの静けさを際立たせていた。
祠の前に立つと、いつもより空気が澄んでいる気がする。
風はなく、木々の葉もほとんど動かない。
まるで世界が息を潜め、私の次の言葉を待っているよう。
「龍様」
私はそっと声をかけ、胸に下げていた勾玉を両手で掲げた。
表面に彫られた渦巻き模様が、かすかに光を反射している。
ドクン。
心臓が跳ねるより先に、勾玉が震えた。
次の瞬間、私の胸の奥、肋骨の隙間あたりから柔らかな振動が広がってきた。
去年感じたあの荒々しい、喉の奥で唸るような響きではない。
もっと静かで温かく、まるで――胎児の心音のような、ちいさな確かな鼓動。
「……今年は、優しいですね」
思わず呟くと、勾玉がもう一度ゆっくりと脈打った。
ドクン。
まるで「そうだよ」と答えているみたい。
去年の龍様は、乾いていた。
喉が渇いて、胸が焼けるような乾き。
その前の凶作から、村人たちの心は荒み、隣村との関係もギクシャクしていた。
あの大雨は、私たちの関係をまるで試すように降り注いだ。
でも今、乾きは薄れている。
いや、ほとんど感じない。
代わりに、穏やかな満ち足りた波が、私の体を通り抜けていく。
「去年みたいな大雨には、しないでね」
私は少し拗ねたように言った。
すると、頭の奥で、くすりと笑うような気配がした。
「あれは、私のせいじゃないわよ」
声ではない。
言葉でもない。
ただ、はっきりとそう伝わってくる。
少し拗ねたような、でもどこか優しい響き。
龍様だって、ただの気まぐれで嵐を呼んだわけじゃないのかもしれない。
私たちの営みや、繋がりの薄さが、龍様の胸を乾かしていたのかもしれない。
ふと、視線を祠の奥に移した。
そこには小さな池がある。
去年、勾玉を強く握ったときだけ、水面が鏡のように澄み、恐ろしい映像が映った。
あの残酷な光景――業火に飲み込まれる田畑、泣き叫ぶ人々、踏み潰された稲の束が浮かぶ姿――を、もう一度見たくはない。
見たら、またあの乾きが戻ってくる気がして、慌てて目を逸らした。
そのとき、背後でオババ様が小さく息を吐いた。
振り返ると、オババ様は祠の横に立ったまま、池の方をじっと見つめていた。
鋭い視線が、水面を射抜くように。
まるで、何かを見透かしているようだった。私は何も言えなかった。
ただ、オババ様の横顔に、深い皺の奥で静かに燃えるものを感じた。
「……龍様は、平穏を望んでおられるようです」
私がそう言うと、オババ様はゆっくりと頷いた。
「去年は、試されたのじゃろう。けど今年は違う。私らが隣村の衆と手を組み、田を耕し、子を育て、縁を紡いでおる限り」
オババ様の声は低く、しかし確かだった。
「稲も、スクスクと育つはずじゃ」
私はもう一度、勾玉を胸に押し当てた。
ドクン。
優しい鼓動が、返事のように響く。
帰り道、夕陽が山の端を赤く染めていた。
田んぼには新しい緑が並び、風が吹くたびに苗が揃って揺れる。
隣村の人たちが、明日また水路の補修を手伝いに来ると言っていた。
子どもたちの笑い声が、遠くから聞こえてくる。
龍様は、もう乾いていない。
私たちの手が、土に触れ、互いに触れ合うたび、きっとその胸の渇きは癒されていくのだろう。
今年の稲は、きっと立派に実る。
そして来年も、私はこの祠へ来るだろう。
勾玉を掲げて、そっと囁く。
「今年も、よろしくね」
そのとき、龍様はまた、優しく脈打ってくれるはず。
おばちゃんの願いが、きっと龍様にも届いていますよね。
次回は、おばちゃん炭作りに挑戦です。




