112日目 〜過去への想い、未来への〜
カチッ、カチッ――
「やっぱり、もう電源が入らない……」
現代から持ち込んだ荷物の中にあったスマホは三日でバッテリーが尽き、デジカメも三日前の最後の撮影を最後に完全に沈黙した。
40年近く奈良の遺跡現場で発掘を続けてきた私にとって、これらのデジタル機器は「記録の最終手段」だったはずなのに、今となってはただの無力な金属塊だ。
道具が失われる喪失感は、予想以上に心に重くのしかかる
。
台風避難で隣村の洞窟に集まった夜。
皆が広間で身を寄せ合っている中、隣村の長とオクトさんが私を静かに呼び、奥の隠し通路へと案内してくれた。
人が普段入らないように、石と木で厳重に塞がれた先の小広間。
そこで、私は息を呑んだ。
松明の揺らめく光に照らされた壁面。
細く彫られた溝に赤・黒・白系の天然染料を塗り込めた壁画が、横幅およそ5メートル、高さ2メートルにわたって広がっていた。
動物の群れ、舟を漕ぐ人々、手を繋ぐような人物像、そして抽象的な渦巻き文様や星のような点描。
色の発色が驚くほど鮮やかで、岩肌に深く定着している。
縄文後期から弥生前期、つまり紀元前1000年〜紀元前300年頃のものと推定されるこの壁画は、現代の日本考古学では「発見例ゼロ」の領域。
日本国内で確認されている洞窟内の岩面刻画は、北海道の手宮洞窟とフゴッペ洞窟の二例のみ。
それらは主に陰刻(溝を彫るだけ)で、彩色を伴うものは極めて稀。
古墳時代の石室壁画(高松塚・キトラ古墳など)が彩色壁画の最古例とされている現状を思えば、この洞窟の存在は学界の常識を根本から覆す可能性を秘めている。
発色剤はおそらく鉄分・マンガン系鉱物と植物由来の有機物によるものだろう。
保存状態の良さから見て、洞窟内の湿度・温度が安定し、光がほとんど届かない微環境が、3000年以上にわたり絵を護ってきたのだろう。
私は反射的にデジカメを構えた。
バッテリーランプが激しく点滅している。
最後の1枚を、せめて記録として残したい。
シャッター音が響いた瞬間、画面が暗転した。撮れたかどうかの確認すらできない。
リュックにしまいながら、胸に複雑な感情が渦巻く。
現代の技術がここまで脆いとは。
だけど同時に、この壁画を「記録」することだけが目的ではないと改めて思う。
見るということ、感じること、それ自体がすでに尊い行為だ。
長に尋ねると、この壁画は彼らの祖先がこの地に定住した頃から存在していたという。
親の親の代から「先祖の残したもの」として大切に守られ、儀式の時や今回のような非常時以外は立ち入りを禁じている。
現代の私たちのように公開・観光化せず、聖域として扱う姿勢に、深い敬意を感じた。
文化財保護の観点からも、実に理にかなった管理だ。
だが、同時に一抹の寂しさがこみ上げる。
この洞窟は、現代日本では存在しない可能性が高い。
日本書紀に記された古代の地震――推古天皇7年(599年)の大和地震、白鳳地震(684年)など、列島を揺るがした大規模地震の記録が複数ある。
こうした地殻変動により、山腹の洞窟が崩落・埋没したケースは少なくない。
縄文・弥生期の遺跡が土砂に埋もれ、発見されないまま今日に至る例は、奈良盆地周辺でも珍しくない。
この壁画も、いつかの地震で失われ、現代の私たちには永遠に知られざる秘密として消えてしまったのかもしれない。
興奮の余韻に浸りながらも、ミナの小さな声が聞こえて広間を後にした。
不安げに私を呼ぶ彼女の表情を見た瞬間、考古学者としての自分と、一人の大人としての自分が交錯する。
ここにいる意味は、過去の遺産を「発見」することだけではない。
ミナやオクトさんたち、この時代の人々と共に生きること、それこそが、私に与えられた新しい役割なのだろう。
洞窟を出て、雨音の響く広間に戻った。
台風はまだ過ぎ去っていないが、心の中には静かな確信が生まれていた。
壁画は失われるかもしれない。
記録も残せないかもしれない。
それでも、私は見た。
感じた。
そして、この想いを胸に、未来へ繋いでいける。
道具がなくても、知識と記憶は残る。
40年の発掘経験が、今ここで初めて、本当の意味で生きるのかもしれない。
おばちゃん、世紀の大発見?!
だけど、これは歴史に埋もれてしまうのでしょうか?
次回は、無事に残った稲の収穫が終えたので……えっ? おばちゃん踊るの?!




