110日目 〜神の雷、畑の涙〜
稲がようやく黄金色に色づき、収穫を目前にしたある秋の午後。
空が急に暗くなった。
「風が……強くなってきた?」
オオミさんが空を見上げて呟いた。
雲が厚く重なり、遠くで雷鳴が響く。
そして、突然、雨粒が叩きつけてきた。
「みんな、家に入って!」
私は叫びながら、ミナちゃんとオオミさんを竪穴住居の中に引き込んだ。
屋根がミシミシと悲鳴を上げ、土壁が震える。
外では木々がうめき、竹が折れる音が絶え間なく響く。
「きゃぁあああ!!」
暴風が唸りを上げ、屋根の隙間から雨が吹き込んでくる。
三人で抱き合い、暗闇の中で震えていた。
「怖い……神女様……」
ミナちゃんが私の袖を強く握る。
「大丈夫よ。こんな時こそ、みんなでくっついてるのが一番」
私は二人を抱きしめながら、自分にも言い聞かせるように呟いた。
現代では台風といえば、天気予報で事前に知らされ、エアコンの効いた部屋で「怖いわねー」とテレビを見ながら他人事のように感じていた。
でも今は違う。
真っ暗な夜に、雨と風が命を削りに来る。
65歳になって、初めて本当の恐怖を知った。
どれだけ時間が経っただろう。
突然――フッと、音が消えた。
耳がキーンとするような静寂。
三人で顔を見合わせる。
「もしかして……?」
私が囁くと、オオミさんが頷いた。
「外、見てくるわ。二人ともここにいて」
私はそっと外へ顔を出した。
満月が明るく村を照らしている。
散乱した小枝や葉っぱが、さっきまでの風の猛威を物語っていた。
ミナちゃんが恐る恐る横から覗き込む。
「もう……終わった?」
「違うわ。これは台風の目よ。嵐の中心に入っただけ。すぐにまた風が吹き始めるから、気を抜いちゃダメ」
他の住居からも人々が出てきた。
怯えた顔で月を見上げる者、泣きじゃくる子を抱く母親、呆然とする老人。
「神女! 大丈夫か!?」
オクトさんが泥だらけで駆け寄ってきた。
「私たちは大丈夫! 他のみんなは?」
「怪我人は出ていない……が、この風は尋常じゃない。神が怒ってるのか……?」
オクトさんの声が低く震えていた。
「神の怒りかどうかはわからないけど、今は生き延びることが先よ。安全な場所はどこかある?」
「隣村の山に、昔使っていた洞穴がある。あそこなら風も雨も凌げるはずだ。俺が交渉に行って、皆を入れてもらう」
「お願い、オクトさん! 村の人たちを連れて行って!」
オクトさんが頷き、周囲に声を張り上げた。
「みんな、聞け! このままじゃ家ごと飛ばされるぞ! 隣村の洞穴へ避難する。急げ! 子供と年寄りを先に!」
「洞穴って……暗いんじゃないか?」
若い男のタケが不安げに言った。
「暗くても生きてりゃいいんだよ! ここにいたら死ぬぞ!」
トキオが一喝する。
「神女様は? 神女様も一緒に行ってください!」
サキが子を抱きながら訴えた。
「もちろんよ。私もみんなと一緒に行くわ」
村人たちは慌てて荷物をまとめ、子供を抱き、老人を支えながら山道を登り始めた。
月明かりが唯一の道しるべだった。
隣村の洞穴に着くと、すでに何人かの隣村人が火を焚いて待っていた。
「隣村のオクトだ! 俺たちも入れてくれ!」
オクトさんが大声で叫ぶ。
「おお、オクトか! 神女の村の皆か……大変だったな。皆、奥に詰めてくれ! 早く中へ!」
隣村の長老らしき男が手を振った。
「ありがとう……本当にありがとう」
私は深く頭を下げた。
洞窟の中はひんやりと湿っていたが、風の音は遠く、雨の叩きつける音もほとんど聞こえなかった。
皆がぎゅうぎゅうに寄り添い、火を囲む。
「神女様……これからどうなるんですか?」
ミナちゃんが小さな声で聞いた。
「嵐が過ぎるのを待つだけよ。明日の朝にはきっと……」
その言葉を遮るように、洞窟の外で再び風が唸り始めた。
ゴウゴウと、地響きのような音が響く。
「また来た……!」
誰かが呻いた。
「みんな、手を繋いで! 離れないで!」
私は叫び、隣のオオミさんとミナちゃんの手を強く握った。
夜通し、風は唸り続けた。
雷が落ちるたび、洞窟の奥まで光が差し込み、皆の青ざめた顔を照らす。
誰も眠れず、ただ祈るように息を潜めていた。
「神様……どうか村を、稲を、みんなを守ってください……」
サキが子を抱きながら、涙声で呟く。
「神女様の神様は、強いんだろ? 助けてくれるよな?」
タケが私を見て、すがるように言った。
「……うん。きっと」
私は頷きながら、心の中で繰り返した。
――お願い。どうか、この人たちを守って。
長い夜が、ようやく薄明かりに変わった頃。
風の音が、少しずつ弱まっていった。
朝だった。全員が無事だった。
疲れ果て、泥だらけで、けれど生きていた。
洞窟の外に出ると、荒れ果てた村が見えた。
倒れた木々、剥がれた屋根、散乱した稲。
でも、生きている。
それだけで、十分だった。
私は深く息を吐き、皆を見回した。
「さあ……帰ろう。家を直して、残った稲を拾って。冬を越すために」
村人たちは、疲れた顔で、でも力強く頷いた。
神の雷は過ぎ去り、畑は涙を流した。
けれど、私たちはまだ、ここにいる。
きゃぁああー、台風!!
おばちゃんたち大丈夫?!
次回、倒れて水に使った稲はすぐに芽が出るんです。




