第9話 鉄板ナポリタンで、聖女を黙らせる
その日の午後、カフェ『クロノス』のドアが乱暴に開かれた。
「ごきげんよう、お姉様! 今日こそは決着をつけに来ましてよ!」
ピンク色のドレスを揺らして現れたのは、聖女リリアナだ。
背後には、彼女の取り巻きである貴族の令嬢たちを引き連れている。
「今日は『お食事』をいただきに来ましたの。まさか、またあんな黒くて苦いプリンなんて出しませんわよね?」
「……いらっしゃいませ。ランチタイムは終わってますけど」
「あら、王太子殿下たちにはいつでもお食事を出していると聞きましたけれど? まさか、妹の私には出せないとでも?」
リリアナが扇子で口元を隠して笑う。
カウンターの隅では、いつものようにジークハルト団長とレンがコーヒーを飲んでいるが、リリアナの甲高い声に露骨に顔をしかめている。
「……わかりました。何か作りますよ」
「ええ、お願いしますわ。ただし! わたくしたちの舌に合う、高貴で繊細な『トマトソースのパスタ』をご用意してくださる?」
トマトソース。
彼女たちの言うそれは、フレッシュなトマトとハーブを煮込んだ、酸味の効いた上品なイタリアンのことだろう。
だが、あいにく私の店にそんな洒落た材料はない。
あるのは、大量にストックされた「ケチャップ」と、昨日仕込んだ「太麺のスパゲッティ」だけだ。
(……高貴で繊細? ふん、そんな寝言は言えなくしてやる)
私は厨房に入り、重たい鋳鉄のステーキ皿をコンロに並べて火にかけた。
今日は「アレ」で行く。
名古屋が生んだ喫茶店文化の最高傑作にして、上品さを暴力的な旨味でねじ伏せる魔性の料理──「鉄板ナポリタン」だ。
◇◇◇
まず、フライパンに油を引く。
具材は玉ねぎ、ピーマン、そして赤いウインナー。
これらを軽く炒めたら、ここで「秘儀」を発動する。
──ケチャップの投入だ。
ただし、麺を入れる前に入れる。ここが重要だ。
ジュワァァッ!!
真っ赤なケチャップが熱い油に触れ、激しい蒸気を上げる。
鼻をつくような酢の匂い。リリアナたちが「くさっ」と顔を背けるのが見える。
(ふふ、今は笑っていなさい)
私はフライパンを煽り続ける。
ケチャップに含まれる余分な水分と酸味を飛ばし、糖分とアミノ酸を加熱することで「メイラード反応」を引き起こすのだ。
数分後。鼻をつく酸味は消え、代わりにキャラメルのような香ばしさと、トマトの濃厚なコクが厨房に満ちた。ソースの色も、鮮やかな赤から、熟成されたレンガ色へと変わる。
そこへ、あらかじめ茹でて一晩寝かせておいた、うどんのように太い2.2mmのスパゲッティを投入。
牛乳とバターを少々。
全体を激しく煽り、麺一本一本に濃厚なソースをコーティングしていく。
ねっとり、もっちり。
それは、洗練されたパスタにはない、背徳的な重量感だ。
「仕上げいくわよ!」
私はカンカンに熱した鉄板を木の台に乗せ、そこへパスタを山盛りにした。
そして、溶き卵のボウルを掴む。
鉄板の縁、パスタと鉄の隙間に、黄色い液体を流し込む。
ジュワアアアアアアアアアアアッ!!!!
店内のBGMを掻き消すような、凄まじい沸騰音。
卵液は鉄に触れた瞬間に泡立ち、レースのような焦げ目を作りながら膨れ上がる。
半熟の黄色い海に浮かぶ、赤いパスタの島。頂上には緑のピーマン。
色彩の暴力だ。
「お待たせしました。『鉄板ナポリタン』です」
私はまだバチバチと音を立てて暴れている鉄板を、リリアナたちのテーブルに置いた。
もうもうと立ち上る湯気。
焦げたケチャップの甘い香りと、焼けた卵の香ばしさが、彼女たちの顔面を直撃する。
「な、な……!?」
リリアナが絶句した。
当然だ。貴族の食卓で、これほど「うるさい」料理が出ることはない。
「な、なんですかこれは! 音がうるさいですわ! それに、こんな下品な色……!」
「冷めないうちにどうぞ。卵が固まっちゃうんで」
私は問答無用でフォークを突きつけた。
隣の席では、匂いに釣られたジークハルト団長とレンが、勝手に厨房から自分たちの分を運んできて(常連の特権だ)、猛烈な勢いで食べ始めている。
「熱っ! ハフッ、ハフッ……うまい!」
「……この、底の焦げた卵と麺が絡むところが……至高だ」
男たちの食いっぷりは、最高の実演販売だ。
リリアナの取り巻きの令嬢たちが、ゴクリと喉を鳴らす。
リリアナも、抗えない本能に負け、震える手でフォークを伸ばした。
くるくると麺を巻き取り、恐る恐る口へ運ぶ。
フーフー、と息を吹きかけ、パクり。
「んぐっ!?」
リリアナの目がカッと見開かれた。
──熱い。
火傷しそうなほどの熱気と共に、焼けたケチャップの濃厚な甘酸っぱさが口内で爆発する。
酸味は消え失せ、あるのは深いコクと旨味だけ。
そして、その濃い味を、半熟の卵が優しく包み込み、まろやかに中和していく。
モチモチの太麺は、噛むたびに脳に快感を送ってくる。
ピーマンの苦味がアクセントになり、安っぽい赤いウインナーの塩気が、なぜか涙が出るほど懐かしい。
「……っ!」
リリアナは言葉を失った。
「美味しい」と言うのはプライドが許さない。
だが、フォークが止まらない。
彼女は無言のまま、次々と赤い麺を口に吸い込んでいく。
唇の端にケチャップがついても気付かない。あの上品ぶっていた聖女が、今はただの「腹ペコの子供」だ。
カチャ。
数分後。
全員の鉄板が空になった。
残ったのは、わずかな卵の焦げ跡と、満足げなため息だけ。
「……負け、ましたわ」
リリアナがナプキンで口を拭い、ぽつりと呟いた。
「こんな……野蛮で、うるさくて、品のない料理……。わたくしの知る『高貴』とは真逆ですわ」
「ええ。これは庶民の味ですから」
「でも……悔しいけれど、熱くて……美味しかった」
彼女は少しだけ頬を染め、ふいっと顔を背けた。
「……勘違いしないでくださいね! もっと凄いお店を見つけて、お姉様をギャフンと言わせてやりますから!」
捨て台詞を残し、リリアナたちは嵐のように去っていった。
ただし、その足取りは来た時よりも少し重そうだった(満腹だからだ)。
「ふう……」
私はカウンターの片付けを始めた。
鉄板に残る焦げをこそげ落としながら、思う。
やはり、気取ったフルコースよりも、熱々の鉄板一枚の方が、人の心を動かすこともあるのだと。
「店主、おかわりだ。卵ダブルで頼む」
「俺も。……次は大盛りで」
……まあ、この色気のない男たちを黙らせるには、あと10キロくらいパスタが必要そうだけど。




