第7話 琥珀色の断罪と、固めプリンの真実
その日の午後、私は「銀の匙」という名の純喫茶にいた。
王都の裏路地にひっそりと佇むこの店は、私の隠れ家だ。
店内は昼間でも薄暗く、琥珀色のランプがぼんやりとテーブルを照らしている。壁には古びた掛け時計、BGMは擦れたレコードから流れるジャズ・ピアノ。
ここでは、時間はゆっくりと、重厚に流れる。
カラン、コロン。
軽薄なドアベルの音が、静寂を破った。
入ってきたのは、ピンク色のフリルを過剰にあしらったドレスの少女──聖女リリアナだ。
「……ごきげんよう、お姉様」
リリアナは、私の向かいのビロード張りの椅子に座ると、わざとらしく眉をひそめた。
「こんな……薄暗い場所に呼び出すなんて。お姉様、また何か良からぬことを企んでいらっしゃるの? 怖い……」
出た。「白蓮華」の演技だ。
清廉潔白を装いながら、言葉の端々に毒を混ぜる。この薄暗い照明の下で見ると、その白々しさがいっそう際立って見える。
「座りなさい。今日は貴方に『本物』の味を教えるために呼んだのですから」
私は手元のメニューから視線を外さずに言った。
テーブルには既に、二つの皿が用意されている。
リリアナの前には、王宮パティシエ特製の「クレームブリュレ」。
薄い陶器の皿に盛られ、表面はバーナーで焼かれ黄金色に輝いている。
私の前には、銀色の脚付きの器に鎮座する「固めプリン」。
装飾は一切ない。ただ、黄色いカスタードの塔と、その頂上から滴り落ちる黒に近いカラメルソースのみ。
「まあ、美味しそう!」
リリアナはブリュレを見て目を輝かせた。
「表面がキラキラしていて、まるで宝石箱みたい。でもお姉様のそれは……なんだか黒くて、可愛げがありませんわね」
「可愛げなど不要です。必要なのは『自立』です」
「?」
リリアナは首を傾げ、スプーンをブリュレに突き立てた。
パリッ。
軽快な音が響き、薄い飴の層が砕ける。しかし、その下から現れたのは、形を保てずに崩れ落ちるクリームだった。
「ん〜! 甘くて、とろとろで、口に入れた瞬間に消えちゃいます! 何の抵抗もなく、ただただ優しい甘さ……これぞ『愛』の味ですわ!」
私は冷ややかな目でそれを見つめた。
「口に入れた瞬間に消える? それは存在感がないということです。器がなければ形も保てない。それが貴方の言う『愛』ですか?」
私は自らのスプーンを手に取った。
銀のスプーンが、プリンの表面に触れる。
押し込むと、確かな弾力が返ってくる。簡単には屈しない、しかし拒絶もしない、適度な抵抗感。
スプーンをさらに沈めると、プリンは潔くその身を分け、美しい断面を見せた。
気泡の一つもない、絹のような断面。
私はそれを口に運ぶ。
──濃厚だ。
生クリームの油脂に頼らない、卵黄の凝固力による力強いコク。
そして直後に、カラメルの波が押し寄せる。
それは甘くない。苦いのだ。
限界まで焦がした砂糖の、スモーキーな香りと鋭い苦味。しかし、この苦味があるからこそ、カスタードの甘みが立体的に引き立つ。
「……苦い」
私は呟く。
「だが、この苦味こそが現実。ただ甘いだけの砂糖菓子は、子供の戯言に過ぎません」
「苦いですって?」
リリアナは顔をしかめた。
「なぜわざわざ苦いものを? 人生は甘い方がいいに決まっています! お姉様のように、いつも難しく考えて、眉間に皺を寄せて……だから殿下にも疎まれるのです」
彼女はここぞとばかりに「被害者」の顔を作った。
「私はただ、皆に甘い夢を見て欲しいだけなのに……お姉様はいつも、そうやって現実という『毒』を盛るのですね」
その時、私はスプーンでプリンの皿を軽く叩いた。
プルン。
プリンは小気味よく揺れたが、決して崩れなかった。
「リリアナ、貴方のブリュレを見てご覧なさい」
リリアナが視線を落とすと、食べかけのブリュレは、スプーンを入れた箇所から決壊し、ドロドロの液状になりつつあった。時間の経過と共に水分が分離し、見るも無残な姿を晒している。
「外面の飴細工が割れれば、中身は支えを失って崩れ去る。それが貴方の本質です」
私は静かに告げた。
「貴方の『無垢』は、誰かに守られていなければ成立しない。対して、このプリンを見なさい」
私のプリンは、半分が失われてもなお、残りの半分が凛として立ち続けていた。黒いカラメルの海の中で、孤高の塔のように。
「自立する強さ。そして、苦難を全身に浴びてもなお、その甘さを失わない芯の強さ。これこそが、上に立つ者に必要な資質です」
「……ッ!」
リリアナの顔から笑顔が消えた。
「……白々しい屁理屈ですわ! 貴方はただ、愛されない寂しさを、そんな真っ黒なソースで誤魔化しているだけでしょう!?」
「騒がしいな」
低く、地を這うような声が響いた。
隣の席で新聞を広げていた男が、ゆっくりと立ち上がった。
漆黒の髪に、氷のような瞳。
北の国境を預かる「氷鉄の公爵」こと、ジークフリート公爵であった。
「こ、公爵様……!」
リリアナは瞬時に涙を溜めた。
「聞いてください、お姉様が私を虐めるのです。苦い泥のようなお菓子を無理やり……」
リリアナは公爵に縋り付こうとする。
しかし、公爵は彼女を一瞥もしなかった。
完全なる「塩対応」。
彼はリリアナの存在を、まるで道端の石であるかのように無視し、私のテーブルへと歩み寄った。
彼は私の皿に残されたプリンを見下ろした。
「……見事なエッジだ」
「え?」
私は目を丸くした。
「最近の茶会で出される菓子は、どれもこれも甘ったるいだけの軟弱なものばかりだ。口の中で溶ける? ふん、噛みごたえのない人生など退屈なだけだ」
公爵は私の瞳を覗き込んだ。
「そのプリンは、スプーンを入れても崩れず、カラメルの苦味を許容し、卵本来の力で立っている。……貴公に似ているな」
それは、社交界で最も冷徹とされる男からの、最大級の賛辞だった。
「甘いだけの『聖女』よりも、苦味を知る『悪役』の方が、私の舌には合うようだ」
公爵が去った後、リリアナは顔を真っ赤にして立ち尽くしていた。
彼女の最大の武器である「涙」も「可憐さ」も、本物の「塩対応」の前では無力化されたのだ。
「……リリアナ」
私は最後のひと口を口に運んだ。
「貴方のブリュレはもう、完全に溶けてしまっているわ」
リリアナは足を踏み鳴らし、逃げるように店を出て行った。
残された私は、口の中に残る余韻を楽しんだ。
濃厚なカスタードの甘み。そして鼻に抜ける焦げた砂糖の香り。
私は琥珀色の照明の下、静かに微笑んだ。
「……悪くないわね、固めプリンも」




