表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/13

第6話 冷血公爵の襲来と、蜂蜜色の和解

 翌日の正午。

 私の店、カフェ『クロノス』は、開店以来最大の緊張感に包まれていた。


 店の前には、豪奢な黒塗りの馬車が停まっている。

 そして、店の入り口には、全身を黒の礼服で固めた初老の男が立っていた。


 鋭い眼光。銀色が混じり始めた髪をオールバックになでつけ、背筋を槍のように伸ばしている。

 ローゼンバーグ公爵、ヴィルヘルム。

 「冷血公爵」の異名を持つ、私の実父だ。


 私はごくりと唾を飲み込み、ドアを開けて彼を招き入れた。


 店内にいた常連客たち──王太子ヘリオス、騎士団長ジークハルト、暗殺者レン──が一斉に立ち上がる。


 彼らは全員、公爵とは顔見知り(あるいは敵対関係)だ。

 空気が張り詰める。


「……皆様、お気遣いなく」


 公爵は彼らに一瞥もくれず、カウンターの一番端、私の定位置の目の前に座った。

 そして、私を真っ直ぐに見据える。


「アリス」

「……はい、お父様」

「顔色が悪い」


 開口一番、それか。

 私はムッとして言い返そうとしたが、胃のあたりがキリキリと痛んで言葉が出ない。

 昨夜、手紙を読んでから一睡もできず、ストレスで胃炎を起こしているのだ。


「……昨夜から、何も食べていないな?」

「え?」

「お前は昔からそうだ。悩み事があると、すぐに胃を壊す。……愚かな」


 公爵はため息をつくと、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

 昨日の手紙ではない。それは──


「……これは?」

「店舗の権利書だ」


 彼は無造作にそれをカウンターに置いた。


「この建物は、私が買い取った」

「はあ!?」


 私は思わず大声を出してしまった。

 後ろで騎士団長が椅子をガタッと鳴らす。


「な、何を勝手なことを! ここは私が自分のお金で……」

「お前の名義では、貴族院の圧力に耐えられん。……王太子殿下が頻繁に出入りしているという噂が立てば、反対派がお前を潰しに来るぞ」


 公爵は、チラリとヘリオス殿下の方を見た。

 殿下がバツが悪そうに視線を逸らす。


「だから、私が買い取った。名義はローゼンバーグ家だが、管理権はお前にやる。……家賃はいらん」

「……え」


 予想外の展開に、頭が追いつかない。

 潰しに来たのではなかったのか?

 父は、私を守るために……?


「……勘違いするな」


 私の動揺を見透かしたように、父は冷たく言った。


「ローゼンバーグ家の恥を晒さぬための措置だ。……それに、こんな薄汚い路地裏で娘が野垂れ死んだら、私の寝覚めが悪い」


 ツンデレだ。

 いや、ツンの比率が高すぎてデレが見えない。超高度なツンデレだ。


 その時、私の胃が「ギュルル……」と情けない音を立てた。

 緊張が緩んだせいか、痛みがぶり返してきたのだ。私は思わずカウンターにうずくまる。


「おい! アリス!」


 父が椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。

 その顔には、先ほどまでの冷徹さはなく、ただの狼狽した父親の顔があった。


「胃か!? 薬は!?」

「……ないです。ただのストレスなんで……」

「馬鹿者! ……そこをどけ」


 父は私を押しのけ、カウンターの中へと入ってきた。

 そして、迷うことなく厨房へ向かう。


「え、お父様? 何を……」


 止める間もなく、父は小鍋ミルクパンをコンロにかけ、水を沸かし始めた。

 その手つきは、驚くほど手慣れていた。


 沸騰したお湯に、茶葉を投入する。

 選んだのは、私が一番大切にしているアッサムの茶葉だ。

 成分が抽出されるのを数十秒待ち、そこへたっぷりの牛乳を注ぎ込む。


 ──ロイヤルミルクティーだ。


 それも、水と牛乳を1対1で割る、一番手間のかかる作り方。

 父は真剣な眼差しで、鍋の中を見つめている。

 沸騰させないように。牛乳の膜が張らないように。スプーンで静かに、絶え間なくかき混ぜ続ける。


 その背中は、私が知っている「冷血公爵」ではなかった。

 幼い頃、熱を出した私の枕元で、一晩中手を握っていてくれた、あの不器用な父親の背中だった。


(……お父様、料理できたんだ)


 数分後。

 火を止め、茶こしで()した液体を、温めておいたマグカップに注ぐ。

 最後に、瓶から黄金色の蜂蜜をたっぷりと垂らし、ゆっくりと混ぜ合わせる。


「……飲め」


 父はマグカップを私の前に置いた。

 ぶっきらぼうな言い方だが、カップの持ち手は私の利き手側に向けられている。


 私は震える手でカップを持ち上げた。

 温かい。その熱が、冷え切った指先から心臓へと伝わってくる。


 一口、飲む。


 ──甘い。


 砂糖の鋭い甘さではない。蜂蜜の、喉を優しく撫でるようなまろやかな甘み。

 そして、濃厚なミルクのコクと、アッサムの芳醇な香り。

 胃の痛みが、温かい膜でコーティングされていくようだ。


「……カモミールを入れた」


 父がそっぽを向いたまま言った。


「胃痙攣にはカモミールがいいと……昔、母さんが言っていた」

「……お母様が?」

「……ああ。お前が小さい頃、よく腹を壊していたからな」


 父の声が、少しだけ震えている。


「……すまなかった」


 消え入りそうな声だった。


 不器用な人だ。


 言葉で伝えればいいのに。でも、言えないからこそ、こうして温かいミルクティーに全ての想いを込めたのだ。


 私の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。

 マグカップの中に涙が落ちて、波紋を作る。


「……美味しいです、お父様」

「……なら、いい」


 父は、私の頭に大きな手を置いた。

 撫でるわけでもなく、ただポンと置いただけ。

 でも、その掌の温かさは、どんな魔法よりも私を安心させてくれた。


 背後で、ジークハルト団長が「フン」と鼻を鳴らし、レンがナイフを仕舞う音がした。

 ヘリオス殿下は、優しく微笑んでいる。


 こうして、カフェ『クロノス』の最大の危機は、一杯のロイヤルミルクティーによって、蜂蜜色に溶けていったのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ