第5話 カフェ『クロノス』の地獄のモーニング
その日の朝、私は厨房で「青い宝石」を精製していた。
透明なグラスの中で、ネオン・ブルーの液体が妖しく輝いている。
材料は、バタフライピーの花から抽出した深い藍色のシロップと、レモンの酸。そして、私の風魔法で無理やり二酸化炭素を封じ込めた「強炭酸水」だ。
シュワワワ……パチパチ……。
グラスの底から、絶え間なく小さな気泡が立ち上り、水面で弾ける。
仕上げに、真っ白なバニラアイスをディッシャーで丸くくり抜き、液面へ静かに浮かべる。そして、その頂点に真っ赤なチェリーを一つ。
「……よし。見た目は完璧に『毒』ね」
私は満足げに頷いた。
前世の記憶にある夏の味、「ブルー・クリームソーダ」。
この世界には存在しない、人工的で、毒々しくて、最高に可愛い飲み物だ。
今日は、この「劇薬」を使って、あの面倒くさい常連たちを黙らせてやるのだ。
◇◇◇
カラン、コロン。
開店と同時に、ドアベルが鳴った。
しかし、爽やかな朝の空気は一瞬で凍りついた。
狭い店内に、本来なら決して交わらないはずの三つの「巨大勢力」がひしめき合っているからだ。
カウンター右端。
眉間に深い皺を刻んだ「鉄壁の騎士団長」ジークハルト。今日は非番らしく、ラフなシャツ姿だが、その筋肉の厚みだけで威圧感がすごい。
カウンター左端。
目の下に濃い隈を作った「憂鬱な王太子」ヘリオス。お忍び用のフードを被っているが、隠しきれない高貴なオーラと疲労感が漂っている。
そして、窓際のソファ席。
私の作ったBLTサンドを野生動物のように貪り食う、元・狂犬の暗殺者レン。彼は今や、私の店の「警備員兼残飯処理係」として住み着いていた。
地獄絵図だ。
騎士団長と王太子と暗殺者が同じ空間でコーヒーを飲んでいるなんて、歴史書に載せたらページが燃えるレベルの異常事態である。
「……おい、店主。空気が重いぞ」
ジークハルトが低い声で文句を言った。
「貴公が王太子殿下を招き入れたのか? 警備上のリスク管理がなっていない」
「偶然ですよ。あと、殿下も騎士団長も、ただの『金払いのいい客』です。文句があるなら外でやってください」
私が塩対応で布巾を絞っていると、さらにもう一人、招かれざる客が現れた。
ガチャリ。
入ってきたのは、煌びやかな軍服を着た男。
王都の警備隊長であり、ジークハルトを一方的にライバル視しているフレデリック卿だ。
「おやおや、これはこれは! こんな可愛らしいお店に、騎士団長閣下がいらっしゃるとは!」
フレデリックの声は、甘ったるい香油のように店内に広がった。
彼は店内を見回し、大げさに感嘆の声を上げる。
「なんとまあ、家庭的で……初心者にふさわしいお店ですこと。貴族の令嬢が、ままごとの延長で始めるには、ちょうど良いサイズ感ですな」
出た。貴族特有の「褒め殺し」だ。
「小さい店だ」と直接言わずに、「初心者向け」と言うことで、私の経営手腕まで含めて馬鹿にしている。
ジークハルトのこめかみに青筋が浮かぶ。
レンが音もなくナイフに手を伸ばす。
ヘリオス殿下は「関わりたくない」という顔でメニュー表の裏に隠れた。
空気が一触即発になったその時、私はカウンターを出た。
「ようこそ、フレデリック様。ええ、私のような未熟者には、このくらいの広さが『身の丈』に合っておりますの。皆様の『お顔の色』がよく見えますから」
私は満面の営業スマイルで応戦し、彼らのテーブルの真ん中に、例の「青い液体」を載せたトレイを滑り込ませた。
「……なんだ、これは?」
フレデリックが眉をひそめる。
ジークハルトも、警戒心を露わにしてグラスを睨んだ。
「新作の『ブルー・クリームソーダ』です。毒見が必要でしたら、私が飲みますけど?」
「……いや、見た目は毒そのものだが……泡が出ているぞ? 発酵しているのか?」
ジークハルトは恐る恐る、その繊細なグラスを巨大な手で掴んだ。
青く発光する液体。その上に浮かぶ白い島。
未知との遭遇だ。
「飲み方は、まずストローで下の青い部分を一口。そのあと、アイスを溶かして混ぜてください」
私の指示に従い、男たちは戦場に向かうような悲壮な顔で、ストローを口に含んだ。
ズズッ。
最初の一口。
全員の体に、戦慄が走った。
「ッ!?」
ジークハルトが反射的にグラスを離そうとして、思いとどまる。
口の中で暴れまわる無数の針。舌を刺す痛み。
「痛……いや、なんだこれは? 雷魔法か? 口の中で何かが弾けて……」
フレデリックも目を見開いている。
彼らにとって、炭酸の刺激は「攻撃」として知覚される。
だが、その痛みは一瞬で消え、後には強烈な爽快感と、人工的な甘みが駆け抜けていく。
「……不思議な感覚だ。薬のようだが、不快ではない」
ヘリオス殿下が呟く。
その時、上のアイスクリームが溶け出し、青いソーダと混ざり合った。
鋭い炭酸の痛みが、乳脂肪のまろやかさによって包み込まれ、クリーミーな泡へと変貌する。
「……!!」
ジークハルトの表情が、驚愕から困惑、そして至福へと変化していく。
厳格な騎士団長が、子供のような瞳で、ストローの先から上がってくる青い液体を見つめている。
その隙を突いて、レンがスプーンでアイスクリームを掬い、パクと口に入れた。
「……ん。冷たい。……甘い」
狂犬レンが、フードの下で微かに相好を崩す。
彼は周囲を警戒するような鋭い視線のまま、器用にサクランボのヘタを指先で摘み上げ、口に放り込んだ。
店内には奇妙な沈黙――「強面の男たちが静かに、真剣に、ファンシーな飲み物と格闘する」というシュールな光景――が流れた。
フレデリックでさえ、毒気を抜かれたようにグラスを見つめていた。
嫌味を言うのも忘れ、ストローで氷をカランカランと回している。
「……ふん。まあ、見た目のインパクトだけは評価してやろう。……あくまで、見た目だけはな」
そう言いながらも、彼の手は止まらない。完敗である。
「店主! 至急の便だ!」
その平和(?)な空気は、店のドアを乱暴に開けた伝令兵によって破られた。
兵士は息を切らしながら、一通の封書を私に差し出した。
「アリス・フォン・ローゼンバーグ様宛です! 至急、開封を!」
封筒の裏を見て、私の心臓が止まりかけた。
深紅の蝋に押された紋章。
それは、私が捨ててきたはずの実家――ローゼンバーグ公爵家の紋章だった。
店内が一瞬で静まり返る。
ジークハルトが鋭い目つきに戻り、レンが音もなくソファから立ち上がる。ヘリオス殿下も、遊び人の仮面を捨てて王族の顔になった。
私は震える手で封を切る。
中に入っていたのは、一枚の羊皮紙だけ。
文字は短く、そして無機質だった。
『明日、正午。私が直接そちらへ向かう。逃げることは許さない。――父より』
脅迫状だ。
あの冷徹な父が、わざわざ王都の片隅まで来る? 私を連れ戻すために? あるいは、処刑し損ねた娘を始末するために?
恐怖で指先が冷たくなる。
しかし、私の目はその追伸部分に釘付けになった。
そこには、公爵である父の筆跡とは明らかに異なる、震えるような文字でこう書き足されていたのだ。
『……そして、お前の淹れる茶を、もう一度飲みたいと思っている』
「……え?」
私は手紙を取り落とした。
意味がわからない。父は紅茶など飲まない。彼はいつだって、苦いコーヒーしか口にしなかったはずだ。
それに、この震える文字は……?
カラン。
青いクリームソーダの氷が崩れた。
溶けたアイスクリームがソーダと完全に混ざり合い、美しい青色は、濁った空色へと変わっていた。
私のスローライフに、最大の嵐が近づいている。




