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第4話 路地裏の狂犬と、震える泡の猫

 カフェ『クロノス』の朝は早い。

 まだ夜明け前、街が薄墨色の闇に包まれている時間帯。私は厨房で、その日使うベーコンの仕込みをしていた。


 ジューッ、パチパチパチ。


 厚切りのベーコンが鉄板の上で踊り、脂が爆ぜる音が静寂に響く。

 燻製肉の香ばしい匂いが換気扇を回って、路地裏へと流れていく。

 最高の目覚まし時計だ。


「……さて、と」


 私は焼き上がったベーコンをバットに移し、開店準備のためにフロアへ出た。

 そして、違和感に気づく。

 店の奥、客席の一番端にあるソファ席。そこに「影」があった。


 黒い塊。

 近づくと、それは少年だった。

 年齢は10代後半くらいか。ボロボロの黒衣を纏い、獣のような銀色の瞳が、暗闇の中でギラリと光っている。

 そして、脇腹を押さえた手からは、ドス黒い血がポタポタと床に垂れていた。


(……あーあ)


 私は心の中で、ため息をついた。

 不眠症の王太子、腹ペコ騎士団長ときて、次は手負いの暗殺者か。

 私の店はいつから、訳ありイケメンの保護施設になったんだ。


「……動くな」


 少年が低い声で唸った。

 懐からナイフを取り出し、私に向ける。その動きは速いが、切っ先は微かに震えていた。失血のせいだろう。


「声を上げれば殺す。金を出せば見逃してやる。……あと、治療薬ポーションを」

「床」

「あ?」

「床が汚れるでしょうが。アンティークの木材なんですよ」


 私はナイフを無視して、カウンターから雑巾を取り出し、血の跡を拭き始めた。

 少年が呆気に取られている。


「お前、怖くないのか……? 俺は『影狼シャドウウルフ』のレンだぞ……?」

「知りませんね。そんなことより、血まみれのまま座らないでください。そのソファ、張り替えたばかりなんです」


 私は雑巾をバケツに放り込むと、カウンターの中へ戻った。

 警察(騎士団)を呼ぶべきか?

 いや、ジークハルト団長を呼べば解決するだろうが、店が血なまぐさい捕物帳の舞台になるのは御免だ。それに、この少年、見たところ数日まともな物を食べていない。

 殺意よりも、生存本能(空腹)の方が勝っている顔だ。


「……座ってていいですよ。ただし、ナイフを仕舞うならね」


 私はエスプレッソマシンに火を入れた。


 シュゴォォッ!


 スチームノズルから蒸気が噴き出し、少年がビクリと肩を震わせる。


 ミルクジャグに牛乳を入れ、ノズルを差し込む。


 チリチリチリ……。


 空気を巻き込む音。今日はいつもより少し長めに、たっぷりと空気を含ませる。

 温度は65度。牛乳の甘みが最も引き出される温度帯で止め、ジャグを回転させてきめ細かい泡を作る。

 ただし、今日の泡は「飲むため」のものではない。「作るため」のものだ。


 私はカップにエスプレッソを注ぎ、その上にスプーンで硬めのミルクフォームを乗せていく。

 ぽってり、ぽってり。

 雪だるまのように泡を積み上げ、爪楊枝の先にチョコソースをつけて、チョン、チョンと目を描く。


「……ほら、飲みなさい」


 私は完成したカップを、少年の前に置いた。


「毒入りか……?」

「確認してみれば?」


 レンと呼ばれた少年は、警戒心丸出しでカップを覗き込み──そして、絶句した。


 カップの表面から、泡でできた「白い猫」が立体的に飛び出し、こちらをじっと見つめていたからだ。

 私がカップを置いた振動で、泡の猫は「プルプル」と頼りなげに揺れた。


「……なんだ、これは」

「カプチーノです。猫がお嫌いでしたか?」

「いや、そうじゃなくて……。……どうやって飲むんだ、これ」


 困惑。

 殺伐とした世界で生きてきたであろう彼にとって、この「無意味に可愛い物体」は未知の脅威らしい。

 ナイフを持った手が下がる。毒気を抜かれたようだ。


 その隙に、私はメインディッシュに取り掛かる。

 厚切りのイギリスパン(山型食パン)をトースターへ。

 同時に、先ほど焼いたベーコンを再度鉄板へ乗せ、カリカリになるまで火を通す。

 完熟のトマトは厚くスライス。レタスは冷水にさらしてパリッとさせる。


 チン!

 パンがこんがりとキツネ色に焼き上がった。

 表面にマヨネーズと粒マスタードを塗り(これがトマトの水分を弾く防水層になる)、レタス、トマト、ベーコンを積み上げる。

 最後に、もう一枚のパンで蓋をして、包丁でザクッと半分にカット。


 完成。究極のBLTサンドイッチだ。


 私はそれを皿に乗せ、少年の前に滑らせた。

 焼きたてのパンの香ばしさと、ベーコンの脂の暴力的な匂いが、少年の鼻腔を直撃する。


「……食って、いいのか」

「代金は働いて返してもらいますけどね」


 少年はナイフをテーブルに置いた。

 そして、震える手でサンドイッチを掴み、大口を開けてかぶりついた。


 ザクッ!!


 静かな店内に、素晴らしい破砕音が響いた。

 トーストの乾いた音と、レタスの瑞々しい音のハーモニー。


「んぐっ……!?」


 少年の目が、驚愕に見開かれた。

 口の中で、熱いベーコンの脂と、冷たいトマトの果汁が出会い、混ざり合い、乳化していく。

 カリカリ、ジュワッ、シャキシャキ。

 異なる食感の波状攻撃。


「……美味い」


 ポツリと漏れた言葉は、本音そのものだった。

 彼は夢中でサンドイッチを頬張った。野生動物が獲物を貪るような勢いだ。

 口の端にマヨネーズがついても気にしない。

 そして時折、カップの中の「泡の猫」をチラリと見て、崩さないように慎重に端からコーヒーをすする。


(……なんだ、ただの腹ペコな子供じゃない)


 私はカウンターに肘をつき、その光景を眺めた。

 先ほどまでの殺気は消え失せている。

 胃袋が満たされ、副交感神経が優位になったことで、彼の「狂犬モード」は強制解除されたようだ。


 数分後。

 皿は空になり、カップの中の猫も(名残惜しそうに)飲み干された。

 少年はソファに深く沈み込み、ほう、と長い息を吐いた。

 その顔は、憑き物が落ちたように幼く見えた。


「……助かった」


 彼はボソッと言った。


「金はない。……だが、俺の命はあんたが拾った」

「命なんていりませんよ。重いし」

「なら、この借りは体で返す」


 彼は立ち上がると、私の前に仁王立ちした。

 そして、真剣な眼差しで宣言する。


「今日から俺は、ここの番犬になる。あんたに近づく敵は、全員俺が噛み殺してやる」

「……いや、カフェに番犬はいらないんですけど」

「給料はいらない。飯と、その……猫の飲み物があればいい」


 少年──レンは、少し顔を赤らめてそっぽを向いた。

 どうやら、3Dラテアート(猫)がクリティカルヒットしたらしい。


 私は天井を仰いだ。

 不眠症の王太子、大食いの騎士団長、そして懐いた暗殺者。

 カフェ『クロノス』の常連客リストが、また一つ、カオスなことになってしまった。


「……ま、とりあえずその怪我を治してからね。裏に救急箱があるから」


 私が指差すと、レンは「御意」と短く答え、素直に裏へ回っていった。

 尻尾が見える。

 ブンブンと振られている、幻の尻尾が。


 こうして、私の店に「最強のアルバイト(警備担当)」が加わったのだった。

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