第3話 鋼鉄の騎士団長と、雨宿りのベリーガレット
その日、王都は朝から灰色の雨に沈んでいた。
客足は鈍い。カフェ『クロノス』の店内には、雨垂れの音と、古時計の秒針の音だけが静かに満ちていた。
「……平和だ」
私はカウンターの中で、愛用のコーヒーミルを磨きながら独りごちた。
昨日は災難だった。不眠症の王太子(無一文)に絡まれ、高級スフレパンケーキをタダ食いされたのだから。
やはり、王族や貴族などに関わるものではない。
今日はこの静寂を愛し、新メニューの試作でもしながら過ごそう。
そう思った、矢先だった。
ズゥン。ズゥン。
雨音の向こうから、地響きのような音が近づいてくる。
足音だ。それも、人間一人分とは思えない重量感。
店の前の水たまりが、その振動に合わせて波紋を広げる。
ガチャン、ジャラッ、ギイィィ……。
金属同士が擦れ合う不穏なノイズと共に、ドアが開かれた。
湿った風と共に店に入ってきたのは、人というよりは「鉄の壁」だった。
全身を黒鉄のフルプレートアーマーで覆った巨躯。
雨に濡れた甲冑は鈍い光を放ち、兜のスリットの奥からは、猛禽類のような鋭い眼光が店内を射抜いている。
腰には、大人が二人掛かりでも持ち上がらなさそうな大剣。
(……強盗?)
いや、あの紋章は近衛騎士団。それも、団長クラスのマントだ。
店内にいた数少ない客たちが、悲鳴を殺して縮み上がる。
当然だ。今の彼は「死神」そのものに見える。王太子暗殺未遂の犯人でも探しに来たのだろうか。
鉄の巨人は、軋むような音を立ててカウンターへ歩み寄ると、私の目の前で停止した。
身長差がありすぎて、見上げるだけで首が痛い。
「……店主」
兜の奥から、地底の岩盤が擦れるような低い声が響いた。
「はい。なんでしょう、お巡りさん」
「貴公か。この一帯の……『物資』を管理しているのは」
物資? 怪しい薬の取引でも疑われているのか?
私は愛想笑い(塩分濃度高め)を浮かべ、布巾を絞った。
「うちはただのカフェです。剣呑なものは置いてませんよ」
「報告と違うな」
「報告?」
「……『ベリーガレット』だ」
はい?
騎士団長は、ガントレットに包まれた巨大な指で、カウンターの隅にある黒板を指差した。
そこには、私が今朝書き込んだばかりの文字。
『季節限定:森の果実の焼きガレット』
「……我が部隊の情報網によれば、ここでは高純度の糖分と果実を圧縮した携行食が提供されていると聞いた。……雨天につき、視界不良。気温低下によるカロリー消費が増大している。よって」
彼はそこで言葉を切り、ゴクリと喉を鳴らした。
鉄仮面の下で。
「……緊急の燃料補給を要請する」
……あ、こいつも「面倒くさい客」だ。
私は瞬時に理解した。
この重装甲の騎士様は、職務質問に来たわけでも強盗に来たわけでもない。
ただの雨宿りついでのおやつタイムだ。
「……席へどうぞ。重そうなんで、床が抜けないか心配ですけど」
「感謝する」
彼は一番奥の、壁際の席へドカッと腰を下ろした。椅子が悲鳴を上げている。
私はため息を一つつき、オーブンへ向かった。
◇◇◇
10分後。
焼き上がったばかりのガレットを皿に乗せ、彼のテーブルへ運ぶ。
「お待たせしました。ベリーガレットです」
ドン、と皿を置く。
その瞬間、騎士団長の肩がピクリと跳ねたのがわかった。
私のガレットは、繊細さとは無縁だ。
全粒粉を使った無骨な生地を、手で適当に折り畳んで焼いただけ。
だが、その中には赤ワインと蜂蜜で煮詰めた大量のベリーが、マグマのように溢れ出している。
焼きたてのパイ生地の香ばしさと、熱せられた果実の甘酸っぱい香り。
仕上げに乗せた冷たいクロテッドクリームが、熱でじわりと溶け出し、紫色のソースと混ざり合ってマーブル模様を描いていく。
「……ふむ」
騎士団長は、ガチャリと音を立てて兜を外した。
現れたのは、予想通りの強面だった。
左頬に走る古傷。短く刈り込んだ銀髪。眉間には、常に何かに怒っているような深い皺。
泣く子も黙る「氷狼」こと、ジークハルト騎士団長その人だ。
その彼が今、眉間の皺をさらに深くして、目の前の焼き菓子を睨みつけている。
まるで、解体すべき爆発物でも見るような目つきで。
「……敵の構造を確認する」
彼は呟くと、小指ほどの大きさしかないフォークを、巨大な手で器用に掴んだ。
そして、ザクッ。
ナイフを入れると、焼けた生地が軽快な音を立てて砕け散る。
湯気が立ち上る一切れを、彼は口へと運んだ。
バリッ、ザクザク。
店内に、小気味良い咀嚼音が響く。
昨日のパンケーキが「消える魔法」だとしたら、今日のガレットは「大地の恵み」だ。
噛み締めるたびに、香ばしい粉の風味と、煮詰まったベリーの濃厚な甘酸っぱさが弾ける。
ジークハルトの動きが止まった。
彼は目を閉じ、天を仰ぐようにして静止した。
眉間の皺は……消えていない。むしろ、何かに耐えるように深くなっている。
「……報告」
低い声。怒っているのか?
「外殻の強度は想定以上。だが、内部の流動体による侵食が……脳幹を直撃している」
「美味しかったんですか? 不味かったんですか?」
「……効率的だ」
彼は目を見開き、皿に残ったソースをパンの耳(ガレットの端)ですくい取った。
その目は、戦場で見せる「血に飢えた獣」の目ではない。
もっと根源的な、「糖分に飢えた子供」の目だ。
「迅速なエネルギー変換を感じる。……特に、この白い油脂。熱で融解した状態におけるベリーとの結合率が、戦術的に極めて有効だ」
「ただのクリームです」
「素晴らしい」
彼はそこから一言も発さず、猛烈な勢いでガレットを殲滅し始めた。
ザクザク、バリバリ。
時折、「んぐっ」という喉を鳴らす音が聞こえる。
その食べっぷりは見ていて気持ちが良いほどだった。
数分後。
皿の上には、一片のパン屑も残っていなかった。
彼は名残惜しそうにフォークを置き、ナプキンで口元を拭うと、再び兜を被った。
ガチャン。
ロックが掛かる音と共に、「スイーツ好きのオジサン」は消え、再び「冷徹な騎士団長」が戻ってきた。
「……補給完了。任務に戻る」
彼は立ち上がり、マントを翻した。
そして、カウンターにチャリンと硬貨を置く。
銀貨3枚。正規の値段の3倍だ。
「多いですよ」
「チップだ。……また、補給が必要になった時は寄らせてもらう。この拠点は、防衛する価値がある」
兜の奥で、微かに目が笑った気がした。
彼は再び重厚な足音を響かせ、雨の中へと消えていった。
「……はぁ」
私はカウンターに突っ伏した。
王太子に続き、騎士団長まで。
どうやら私の店は、「国を背負って疲れてる男たち」の避難所として認定されてしまったらしい。
スローライフとは、ほど遠い。
だが、手の中に残った銀貨の重みと、空っぽになった皿を見ていると、そこまで悪い気もしなかった。
「……次は、もう少し柔らかい椅子を用意しとくか」
私は誰に聞かせるでもなく呟き、次のコーヒーを淹れる準備を始めた。
雨はまだ、降り続いている。




